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第211話 龍神の子は、魔神戦王を遊びとは呼ばない

 ガルザヴェインが踏み込んだ。


 白い床が砕けた。


 重泥霧が、黒い魔神性に押し潰される。


 魔神戦王ゴブリンの巨体が、ただ前へ出ただけで、深部手前の通路が戦場へ変わった。


「魔神拳――黒牙砕!」


 黒い拳が、ルオ・ゼルファニアへ叩き込まれる。


 速い。


 重い。


 天蓋の猟犬のドランが命がけで受けた拳。


 アレク・ヴァイスの白銀剣と真正面からぶつかった拳。


 Sランク冒険者でも、まともに受ければ骨が砕ける一撃。


 それが、ルオの顔面へ迫った。


 ルオは、目を丸くした。


「おっ」


 そして、消えた。


 いや、消えたように見えた。


 ガルザヴェインの拳が空を砕く。


 拳圧だけで白い壁にひびが走り、霧が吹き飛ぶ。


 だが、ルオはいない。


 次の瞬間、彼はガルザヴェインの肩の上に立っていた。


「速いな、でっかいの!」


 楽しそうな声。


 ガルザヴェインの金色の目が動く。


「オリロ」


「やだ」


「オリロ」


「高くて見晴らしいいじゃん」


 ガルザヴェインの肩から黒い魔神性が噴き上がる。


 ルオは、ぴょんと跳んだ。


 軽く。


 子供が石を飛び越えるように。


 その直後、魔神性が肩の上を焼いた。


 ルオは空中でくるりと回り、白い床へ着地する。


「危なっ。怒った?」


「オコッタ」


「だよな!」


 なぜ少し嬉しそうなのだ。


 白い部屋で、余は叫んだ。


「遊ぶな! ガルザヴェイン、遊ばせるな!」


《契約線、伝達》


「ロード」


 ガルザヴェインが低く答える。


「ワカッタ」


 次の瞬間、ガルザヴェインの動きが変わった。


 ただ追うのではない。


 拳を振り回すのでもない。


 足元の重泥霧を踏み、通路の左右に魔神性を流し、逃げ道を狭める。


 以前なら、強い相手へ一直線に突っ込んでいただろう。


 だが、今のガルザヴェインは違う。


 アレクを覚えた。


 天蓋の猟犬を覚えた。


 負けを覚えた。


 だから、戦場を使う。


「重泥霧、上げろ!」


《重泥霧、深部手前へ展開》


 白い床の上に、見えない重さが広がる。


 空気そのものが泥を含んだように重くなる。


 ルオが一歩踏み出した瞬間、足元が沈む。


「ん?」


 彼は足を上げ、靴の裏を見る。


「なんか重い」


 そこへ、カゲヌイの影針が落ちる。


 ルオの影ではない。


 彼の着地予定地点の影。


 次にそこへ来るであろう足の影を、先に縫う。


 影軍縫帥えいぐんほうすいカゲヌイの新しい技。


 未来の影を読む針。


 ルオはそれを見て、にやっと笑った。


「へえ、先に刺すんだ」


 足を下ろす直前、彼は軌道を変えた。


 まるで空中に見えない足場があるかのように、横へ一歩。


 影針は空を刺す。


 しかし、そこへガルザヴェインがいた。


 逃げる先を読んでいた。


「魔神戦技――獣王崩し!」


 拳。


 肘。


 膝。


 爪。


 牙。


 ガルザヴェインの全身が武器になる。


 ルオは初めて、少し真面目な顔をした。


「お、これはちゃんと避けないと痛そう」


 彼の足が床へ触れる。


 次の瞬間、白い床が輪のようにへこんだ。


 ルオの体が爆発的に加速する。


 ガルザヴェインの拳をくぐり、肘をかわし、膝の上を滑り、爪の下を抜ける。


 速すぎる。


 速いというより、動き始めたと思った時には、もうそこにいない。


 だが、ガルザヴェインも止まらない。


 振り切った拳をそのまま壁へ叩きつけ、反動で体を回す。


 爪が白い弧を描く。


「魔神爪――王喰い!」


 黒い爪が、ルオの胸元を裂いた。


 いや。


 裂いたように見えた。


 ルオは後ろへ跳んでいた。


 だが、完全には避けきれなかった。


 首筋にある白銀の鱗、その一枚に黒い爪がかすった。


 小さな音がした。


 きん。


 硬いものを弾いた音。


 ルオが首筋に触れる。


 そこには、ほんの小さな傷があった。


 血は出ていない。


 だが、鱗に黒い筋がついている。


「おお」


 ルオの金色の目が輝いた。


「すげー! 鱗に傷ついた!」


 白い部屋で、余は叫んだ。


「喜ぶな!」


 しかし、ガルザヴェインは笑わなかった。


 今の一撃で分かったからだ。


 傷をつけた。


 だが、浅い。


 浅すぎる。


 魔神戦王の爪が、龍神系統と推定される少年の鱗を、わずかに削っただけ。


 それでも、ガルザヴェインは拳を握り直した。


「キズ、ツイタ」


「うん、ついた」


「ナラ、モット」


「いいぜ」


 ルオは笑った。


 今までより、少しだけ目が鋭くなった。


「オレも、ちょっとちゃんとやる」


    ◇


 その言葉の直後、迷宮内の空気が変わった。


 ルオの体から、淡い金色の魔力が漏れる。


 魔神性ではない。


 聖気でもない。


 魔力という言葉では薄すぎる何か。


 管理音声が、低く告げた。


《対象ルオ・ゼルファニア、龍脈反応上昇》


「龍脈?」


《龍神系統に由来する高位生命魔力と推定》


「推定をやめろとは言わん。だが、説明を聞いても分からん!」


《対象の内在魔力が迷宮環境へ干渉しています》


 白い霧が、ルオの周囲だけ薄くなる。


 重泥霧が、彼の足元で押し返される。


 カゲヌイの影針が、彼の影へ刺さる前に、影そのものが金色に薄まる。


 ハイハネの霧は近づこうとして、羽音を乱した。


 湿骨王列の骨が、かたかたと震える。


 そして、ガルザヴェインが、初めて両足を深く構えた。


「ツヨイ」


「お前も強いって」


 ルオは肩を回した。


「だから、ちゃんと一発だけ返すな」


「コイ」


 ガルザヴェインは、全身の魔神性を拳へ集める。


 胸の白銀傷。


 六牙帰星の傷。


 アレクの記録。


 天蓋の猟犬との敗北。


 それらが黒い魔力となって拳に宿る。


「魔神戦王拳――黒戦王牙こくせんおうが!」


 ガルザヴェインの拳が、黒い牙の王冠をまとった。


 ただの拳ではない。


 戦ってきた傷。


 敗北。


 守る役割。


 そのすべてを拳に変えた一撃。


 ルオも踏み込む。


 軽く。


 しかし、その軽さが恐ろしい。


 大地を蹴ったのではない。


 空間そのものを踏んだように、彼の体が前へ出る。


龍脈歩りゅうみゃくほ――ひと跳び」


 軽い技名だった。


 本人が今つけたような、雑な名前だった。


 だが、その一歩で通路が軋んだ。


 ガルザヴェインの黒戦王牙と、ルオの小さな拳がぶつかる。


 いや、小さな拳ではない。


 拳に白銀の鱗が浮かんでいた。


 手の甲から腕へ、薄い鱗が一瞬だけ広がる。


「白鱗打ち」


 ルオは、軽く言った。


 拳と拳がぶつかった。


 音は、遅れて来た。


 最初に、重泥霧が吹き飛んだ。


 次に、白い床が同心円状に割れた。


 それから、黒い魔神性と金色の龍脈が弾けた。


 深部手前の通路が、昼のように明るくなる。


 ガルザヴェインの拳が、ルオの拳を押す。


 押した。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ、魔神戦王が龍神の子を押した。


 ルオの靴裏が、白い床を削る。


「おっ」


 ルオが目を見開く。


「重い!」


 しかし、次の瞬間、金色の魔力が彼の腕から噴き上がった。


 押し返すのではない。


 上から落ちる。


 まるで、空そのものがガルザヴェインの拳へ降ってきたようだった。


 ガルザヴェインの腕が軋む。


 黒戦王牙が割れる。


「グ……!」


 ガルザヴェインが踏ん張る。


 床が沈む。


 湿骨王列の骨が砕ける。


 グズの泥が床下から支えようとする。


 カゲヌイの影が彼の足元を縫って支える。


 ハイハネの霧が衝撃を少しでも散らそうとする。


 迷宮全体が、ガルザヴェインを支えた。


 だが。


 足りなかった。


 ルオの拳が、ガルザヴェインの拳を砕いた。


 骨ではない。


 拳そのものが砕けたわけではない。


 黒戦王牙が砕けた。


 そのまま、衝撃が腕を通り、肩へ、胸へ入る。


 ガルザヴェインの巨体が後ろへ飛んだ。


 白い壁を突き破り、黒泥城の残骸へ叩きつけられる。


 轟音。


 深部手前の通路全体が揺れた。


《警告》


《ガルザヴェイン、重度損傷》


《右腕魔神性流、乱れ》


《胸部戦歴傷、再開裂》


「ガルザヴェイン!」


 余は叫んだ。


 ガルザヴェインは、瓦礫の中で動いた。


 立とうとする。


 まだ立とうとする。


 だが、膝が崩れた。


 片膝をつく。


 天蓋の猟犬に敗れた時と似ている。


 だが、今回は一撃だった。


 いや、正確には攻防の末の一撃だ。


 それでも、決定打は一つ。


 龍神の子の白鱗打ち。


 その一撃で、魔神戦王は膝をついた。


 ガルザヴェインは、血を吐きながら笑った。


「ツヨイ……」


 ルオは、自分の拳を振った。


「お前もな。ちょっと手がしびれた」


 白い部屋で、余は絶句した。


「ちょっと……?」


《対象ルオ、軽微な手部痺れのみ》


「ガルザヴェインが重傷で、あいつは手がしびれただけだと?」


《はい》


「そんな馬鹿なことがあってよいのか」


《現実に発生しています》


「現実が間違っている!」


    ◇


 ルオは、膝をついたガルザヴェインへ近づいた。


 ガルザヴェインは拳を握ろうとする。


 だが、右腕が動かない。


 左腕で床を掴む。


 立とうとする。


 ルオは、その前でしゃがんだ。


「まだやる?」


「ヤル」


 ガルザヴェインは即答した。


「エリラ、マモル」


「根性あるなあ」


 ルオは感心したように言った。


「でも、今やったらお前、腕なくなるぞ」


「カマワナイ」


「いや、オレが困る。怒られそうだし」


「ダレニ」


「んー。親父とか?」


 余は聞き逃さなかった。


「親父?」


《発言記録。親父と表現》


「龍神か?」


《可能性あり》


 やめてくれ。


 龍神系統の少年の親が龍神なら、それはさらに上の存在ではないか。


 考えたくない。


 ルオは立ち上がった。


「まあ、お前はここで休んでろよ。オレ、果物探してくるから」


「マテ」


 ガルザヴェインが立とうとする。


 だが、膝が震える。


 立てない。


 ルオは、少しだけ困った顔をした。


「そんな顔すんなって。全部は取らないからさ」


「トラセナイ」


「一個だけだって!」


「トラセナイ」


「けち!」


「ケチ、チガウ」


「じゃあ何?」


「マモル」


 ガルザヴェインの声は、低かった。


 ルオの表情が、ほんの少し変わった。


 お調子者の笑みが、少しだけ薄くなる。


「……そっか」


 彼は、エリラの香りがする奥を見た。


「守ってるんだな」


 ガルザヴェインは答えない。


 だが、金色の目はまだ燃えている。


 ルオは頭をかいた。


「うーん。そう言われると、勝手に食うのちょっと悪い気もするけど……」


 余は、白い部屋で希望を見た。


「そうだ。悪いぞ。帰れ」


 ルオは、次の瞬間に笑った。


「でも、めちゃくちゃいい匂いなんだよな!」


「駄目だこいつ!」


 希望は一瞬で消えた。


    ◇


 ルオは奥へ進み始めた。


 ガルザヴェインは追えない。


 グズの黒泥城は崩された。


 湿骨王列は砕かれた。


 カゲヌイの影針は踏まれない。


 ハイハネの霧は払われる。


 偽天猟庭を展開するには距離が近すぎる。


 余は、白い部屋で指示を飛ばし続けた。


「深部防衛線、全部起動!」


《起動》


「偽赤金反応、最大!」


《展開》


「甘香秘匿層、厚くしろ!」


《展開》


「エリラの木周辺、閉鎖!」


《閉鎖》


 だが、ルオはまっすぐ進む。


 偽の赤金を見ない。


 迷わない。


 鼻をひくひく動かしながら、楽しそうに歩く。


「こっちだな。うん、こっち。さっきより甘い」


「なぜ分かる!」


《対象は秘匿層を透過して生命反応を感知している可能性》


「秘匿の意味がない!」


《通常対象には有効です》


「通常ではない対象が来ているのだ!」


 フィルエの声が、少し近くなった。


「ロード」


「何だ」


「エリラの木まで来る」


「分かっている!」


「私、行く」


「駄目だ!」


 即答した。


「絶対に駄目だ! ガルザヴェインが膝をついた相手だぞ!」


「でも、実を全部取られたら木が枯れる」


「全部は取らせん!」


「ロードだけじゃ止められてない」


 痛いところを突くな。


「それでも駄目だ! 危険すぎる!」


「話せるかもしれない」


「話せなかったらどうする!」


「その時は、逃げる」


「逃げられる相手か!」


 返事はなかった。


 嫌な沈黙。


「フィルエ?」


「もう向かってる」


「戻れええええ!」


 余の叫びは、白い部屋に虚しく響いた。


    ◇


 ルオは、ついに魔神契約跡へ近づいた。


 エリラの木がある区画。


 赤金色の幹。


 赤い葉。


 金の裏葉。


 百個近い実。


 甘い香りが、深部に満ちている。


 その手前で、最後の白磁門が閉じる。


 ルオはそれを見た。


「お、また門」


 彼は手を伸ばす。


 押すつもりだ。


「やめろ!」


 余は叫ぶ。


 しかし、その時だった。


 白磁門の前に、フィルエが現れた。


 灰色の髪。


 白い肌。


 森灰の気配をまとい、命脈契約の紋様を薄く光らせた少女。


 彼女はルオの前に立ち、両手を広げた。


「止まって」


 ルオの手が、白磁門に触れる寸前で止まった。


「……」


 彼は、フィルエを見た。


 さっきまでの軽い笑みが消える。


 金色の目が、まっすぐ彼女を見つめる。


 フィルエは、静かに言った。


「その木の実、全部取ったら木が枯れる」


 ルオは答えない。


「食べたいなら、ちゃんと話して」


 ルオは、まだ答えない。


 フィルエが少し首を傾げる。


「聞いてる?」


 ルオは、ようやく口を開いた。


「……聞いてる」


「なら、手を下ろして」


「……名前」


「え?」


「君の名前、何?」


 白い部屋で、余は叫んだ。


「そこか!? 今そこなのか!?」


 フィルエも少し困った顔をした。


「フィルエ」


「フィルエ」


 ルオは、その名をゆっくり繰り返した。


 そして、ぱっと笑った。


「いい名前だな!」


「ありがとう」


「オレ、ルオ。ルオ・ゼルファニア!」


「うん」


「えっと……果物、一個食べてもいい?」


 切り替えが早い。


 いや、むしろ素直なのか。


 フィルエは少し考えてから言った。


「全部取らないなら」


「全部は取らない!」


「最後の一個も取らない」


「取らない!」


「木を傷つけない」


「傷つけない!」


「勝手に入ってきたことは?」


「……ごめん?」


「疑問形にしない」


「ごめん!」


 余は白い部屋で呆然としていた。


「……話が通じている?」


《はい》


「ガルザヴェインが倒され、グズが越えられ、湿骨王列が押し倒され、全防衛が突破された相手が、フィルエの言葉で止まっている?」


《はい》


「何なのだこれは」


 管理音声は答えなかった。


 不明と言われる気がしたので、聞かなかった。


    ◇


 余は、意を決して声を通した。


 外へ。


 ルオに届くように。


《ルオ・ゼルファニア》


 ルオが顔を上げる。


「お、今度ははっきり聞こえた」


《エリラの実は、全部取らなければ食べてもよい》


「ほんとか!」


《一個だけだ》


「二個は?」


《一個だけだ》


「けち」


《一個だけだ!》


「分かった分かった。一個な」


 ルオは笑う。


 余は、さらに言った。


《ただし、条件がある》


「条件?」


《この迷宮を壊すな》


「壊してないだろ?」


《かなり壊している》


「ちょっとだけだって」


《かなりだ!》


「ごめんって」


 軽い。


 謝罪が軽い。


 だが、聞く気はあるらしい。


 余は、ほんのわずかに可能性を見た。


《もう一つ》


「何?」


《契約を結ばないか》


 フィルエがこちらを見た。


 ガルザヴェインも、瓦礫の中から顔を上げた気配がした。


 ルオは、きょとんとした。


「契約?」


《そうだ。余の迷宮と契約し、配下に――》


「無理無理」


 即答だった。


 あっさり。


 あまりにもあっさり。


《まだ条件を言っていない》


「聞いても無理だって」


《なぜだ》


「オレ、誰かの配下になるの向いてないし」


《条件次第では――》


「あと、勝手に契約したら親父がうるさい」


《親父?》


「龍神」


 白い部屋が、静まり返った。


 聞きたくなかった。


 そうだろうとは思った。


 だが、本人の口から聞きたくなかった。


 ルオは悪びれずに笑う。


「でも、果物くれるなら、また遊びに来てもいいぞ!」


《来るな!》


「なんでだよ!」


《来るだけで壊れるからだ!》


「じゃあ、気をつけて来る」


《来るなと言っている!》


 フィルエが小さく笑った。


 笑うな。


 いや、笑っている場合ではない。


 だが、ルオはもうエリラの木を壊そうとはしていない。


 フィルエの前で、ちゃんと待っている。


 それだけは事実だった。


 フィルエは木へ近づき、実を一つ選んだ。


「これ」


 赤金色の実を一つ、枝から丁寧に取る。


 もちろん、木にはまだ大量の実が残っている。


 最後の一個どころではない。


 フィルエはそれをルオへ渡した。


「一個だけ」


「うん!」


 ルオは、両手で受け取った。


 意外なほど慎重だった。


 そして、一口かじった。


 赤金色の果汁が、彼の口元に少しつく。


 ルオの目が輝いた。


「うっま!」


 その声は、迷宮全体に響いた。


「なにこれ! すっげーうまい! 甘い! でもただ甘いんじゃなくて、なんかこう……空? 森? 命? うまい!」


 語彙は足りない。


 だが、感動しているのは分かった。


 エリラの実は、龍神の子にも美味いらしい。


 ルオは、あっという間に食べ終えた。


 そして、フィルエを見た。


「フィルエ」


「うん」


「また来てもいい?」


「……木を壊さないなら」


「壊さない!」


《待て! 許可するな!》


 フィルエは少し困った顔でこちらを見た。


「でも、敵じゃないかも」


《敵ではなくても災害だ!》


 ルオは首を傾げる。


「災害って、オレ?」


《そうだ!》


「ひどくない?」


《事実だ!》


 ルオは少し考えた。


 そして笑った。


「まあいいや。また来る!」


《来るな!》


「フィルエ、またな!」


 彼は明るく手を振った。


 そして、白い霧の中を歩いて戻っていく。


 罠はもう起動しない。


 いや、起動しても意味がない。


 余は、白い部屋で力なく言った。


「通せ」


《よろしいのですか》


「止められんだろう」


《はい》


「なら、これ以上壊される前に帰せ」


《承知しました》


 白い霧が、ルオの前で開いた。


 彼は楽しそうに外へ向かう。


 途中で、倒れていたゴブリンに手を振った。


「またな、ちっこいの!」


 ゴブリンは震えながら手を振り返した。


 なぜ振り返す。


    ◇


 ルオ・ゼルファニアは、迷宮から出ていった。


 エリラの実を一つ食べて。


 フィルエの名前を覚えて。


 契約を即座に断って。


 また来ると言い残して。


 白い部屋には、長い沈黙が落ちた。


 やがて、管理音声が告げる。


《侵入者、外部退去》


《エリラの実、一個消費》


《木本体、無事》


《配下損耗、多数》


《ガルザヴェイン、重傷》


《迷宮構造、浅層から深部手前まで複数損傷》


「……」


《総合結果》


「言うな」


《防衛失敗。ただし交渉により被害拡大を回避》


「言うなと言った」


 フィルエが、エリラの木の前から戻ってきた。


「ロード」


「何だ」


「悪い子じゃなかった」


「良い子でも困るのだ」


「うん」


「次に来たらどうする」


「実、一個あげる?」


「簡単に言うな!」


「でも、全部取らないなら大丈夫」


「そういう問題ではない!」


 ガルザヴェインが、瓦礫の中から低く言った。


「ルオ、ツヨイ」


「ああ」


「オレ、マケタ」


「ああ」


「デモ、タタカイ、オモシロイ」


「お前はそうだろうな!」


 余は、深く疲れた。


 天蓋の猟犬。


 黒冠軍。


 正体不明の単独攻略者。


 そして、龍神の子ルオ・ゼルファニア。


 世界は、余の迷宮に何を求めているのだ。


 ただ、エリラの木は今日も生きている。


 実はまだ残っている。


 フィルエも無事だ。


 それだけは確かだった。


 余は白骨書記を呼んだ。


「記録しろ」


 白骨書記が骨筆を構える。


「龍神系統高位個体、ルオ・ゼルファニア。目的は、エリラの実の味見」


 骨筆が止まりかけた。


「止まるな。事実だ」


 白骨書記は書いた。


「防衛戦力は突破された。ガルザヴェインは敗北。ただし、フィルエとの対話により、エリラの実一個の消費で退去」


 書く。


「契約提案は拒否」


 書く。


「再来可能性」


 余は、少し黙った。


 そして、苦々しく言った。


「極めて高い」


 白骨書記は、静かにそう刻んだ。


 その下に、余はもう一行加えさせた。



対策:


フィルエを交渉担当にするか、否か。



「……いや、待て。消せ」


 白骨書記は消さなかった。

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