第210話 甘い匂いは、龍神の子を迷宮へ招く
ルオ・ゼルファニアは、白い霧の中へ足を踏み入れた。
軽い足取りだった。
警戒しているようには見えない。
戦いに来た者の歩き方ではない。
宝を奪いに来た冒険者の歩き方でもない。
迷宮を攻略しようとする者の歩き方でもなかった。
ただ、散歩の途中で気になる店を見つけた少年のように。
白い霧を見上げ、鼻をひくひく動かしながら、楽しそうに進んでくる。
「おー、白いな。すげー白い」
ルオは、霧を手で払った。
「で、甘いのはこっちか?」
白い部屋で、余は叫んだ。
「全然緊張していないぞ!」
《はい》
「なぜだ!」
《対象の危機感が薄いものと思われます》
「薄いで済ませるな! ここはSランク迷宮だぞ!」
《はい》
「Sランク迷宮に散歩気分で入るな!」
当然、声は届かない。
届いていないはずだ。
だが、ルオはふと足を止め、首を傾げた。
「なんか怒ってる?」
余は固まった。
「管理音声」
《はい》
「今のは聞こえたのか」
《外部音声伝達は行っていません》
「なら、なぜ反応する」
《不明》
「また不明か!」
ルオは肩をすくめる。
「まあいいや。怒られるのは慣れてるし」
そう言って、彼はさらに奥へ歩き出した。
慣れるな。
怒られることに慣れるな。
◇
浅層の霧が動いた。
灰霧幻導蛾ハイハネが、最初の防衛を展開する。
視覚をずらす霧。
嗅覚を狂わせる霧。
距離を伸ばす霧。
近いはずの壁を遠く見せ、遠いはずの道を近く感じさせる。
普通の侵入者なら、それだけで足を止める。
方向を間違える。
同じ場所を回る。
甘い匂いを追う者なら、なおさら迷う。
だが、ルオは迷わなかった。
鼻を鳴らす。
「んー。こっちじゃないな」
左へ曲がる。
そこは、ハイハネが作った偽の甘香層とは逆方向だった。
「おい」
余は壁面に詰め寄る。
「なぜそっちへ行く」
《対象、嗅覚ではなく別種の感覚でエリラの実の生命反応を追跡している可能性があります》
「別種の感覚とは何だ」
《不明》
「不明を多用するな!」
ハイハネが羽を震わせ、霧を厚くする。
白い世界がさらに白くなる。
ルオの姿が見えにくくなる。
それでも、彼の声だけが軽く響いた。
「わ、すげー。雲の中みたいだな」
次の瞬間。
霧が割れた。
ルオが走ったわけではない。
手を振っただけだ。
ぱたぱたと、面倒そうに。
それだけで、灰霧の層が裂けた。
ハイハネの羽音が乱れる。
《灰霧幻導蛾ハイハネ、霧制御破断》
「手で払っただけだぞ!?」
《はい》
「手で払って破る霧ではないだろう!」
《対象の存在圧が霧制御を上回っています》
「存在圧で霧を破るな!」
ルオはまったく気にしていない。
「ん。こっちだな」
彼は白い霧の奥へ、まっすぐ進んでくる。
◇
次に動いたのは、浅層のゴブリン隊だった。
霧喰い刃ゴブリン。
白灰匣運びから進化した個体を含む、浅層防衛の新型部隊。
灰霧の中で短距離加速し、侵入者の足や採取具を狙う。
相手が人間なら、装備の留め具を切り、鞄を裂き、足首を切る。
真正面から殺すのではなく、動きを鈍らせるための部隊だ。
霧の中から、十数体のゴブリンが一斉に飛び出した。
「ギギッ!」
「キル!」
「ハコ、マモル!」
最後の号令は少し違う。
だが、士気は高い。
ルオは目を丸くした。
「お、ちっこいの来た」
ゴブリンたちは、彼の足元へ殺到する。
刃が走る。
霧の中で、短い銀光がいくつも光った。
だが、ルオは消えた。
いや、消えたように見えただけだ。
次の瞬間には、ゴブリンたちの背後に立っていた。
「速いな、お前ら」
ルオは笑っている。
「でも、オレの方が速い」
彼は指先で、ぽん、と一体のゴブリンの額を弾いた。
弾いただけだった。
そのゴブリンが、白い床を転がり、壁にめり込む。
《霧喰い刃ゴブリン一体、戦闘不能》
「弾くな! いや、弾いただけで戦闘不能にするな!」
ルオは次々と動いた。
拳ではない。
蹴りでもない。
殺意もない。
額を弾く。
肩をつつく。
軽く足を払う。
背中をぽんと押す。
それだけで、ゴブリンたちが次々と吹き飛んでいく。
刃は当たらない。
霧加速は追いつかない。
影から出ても、すでにルオはいない。
十数体のゴブリン部隊は、あっという間に床に転がった。
死んではいない。
だが、全員が目を回している。
「お前、殺していないのか」
《はい。大半は戦闘不能状態です》
「余の配下に情けをかけるな!」
言いながら、少し安心している自分がいた。
腹立たしい。
非常に腹立たしい。
ルオは倒れたゴブリンたちを見て、満足そうに頷いた。
「うん、元気いいな。ちょっと遊べた」
「遊ぶな!」
◇
カゲヌイが動いた。
影軍縫帥カゲヌイ。
複数対象の影連携を縫う能力を得た影の将。
相手が一人でも、影は一つではない。
足の影。
腕の影。
髪の影。
霧に映る薄影。
白磁片に反射した影。
それらを縫えば、動きは止まる。
影針が、床に落ちた。
一本。
二本。
十本。
百本。
ルオの足元へ、影の雨が降る。
ルオは下を見た。
「お、黒い針」
影針が足を縫う寸前。
彼は、ふっと浮いた。
「……浮いた?」
《はい》
「今、何で浮いた?」
《不明》
「またか!」
ルオは、影を踏まない。
床からほんの少しだけ浮いている。
翼はない。
魔術陣もない。
ただ、立っている場所が空中に変わったように見えた。
影針が床を刺す。
だが、縫う影がない。
ルオはにこにこしながら、そのまま空中を歩いた。
「これ、面白いな。踏んだら止まるやつ?」
彼は一度、わざと足を下ろしかけた。
「踏むな!」
余は叫んだ。
なぜ止めたのか分からない。
踏めばよい。
踏めば罠が発動する。
だが、あの規格外が罠を踏んだ時、罠の方が壊れそうで怖かった。
ルオは足を引っ込めた。
「やめとこ。靴に刺さったら嫌だし」
靴の心配か。
影針の心配ではなく、靴の心配なのか。
カゲヌイの影糸が震えた。
怒っているのか、怯えているのか分からない。
◇
グズが出た。
泥塞黒城将グズ。
かつての泥塞大門将から進化し、大門ではなく黒泥城を作れるようになった守護魔物。
浅層と中層の間に、黒泥の城壁が立ち上がる。
門。
塔。
圧壊層。
偽出口。
内側に泥の通路を持つ、巨大な防衛構造。
普通の侵入者なら、これを前にして足を止める。
止めない者は、飲まれる。
飲まれた者は、迷う。
迷った者は、圧壊層で潰される。
ルオは黒泥城を見上げた。
「おー、城だ」
彼は素直に感心した。
「すげー。泥で作ってんのか?」
グズが低く唸る。
「グ……ズ……」
「お前が作ったのか? 器用だな!」
褒めた。
侵入者が、グズを褒めた。
白い部屋で、余は一瞬だけ固まる。
グズも固まった。
黒泥城の門が、わずかに開きかける。
「開けるな! 褒められて揺れるな!」
「グズ!」
グズが慌てて門を閉じる。
危ない。
今、褒められて通しそうになったぞ。
ルオは黒泥城の門に近づき、拳でこんこん叩いた。
「硬いな」
次に、彼は少し考えた。
「でも、こっちの方が早いか」
何をする気だ。
そう思った次の瞬間、ルオは黒泥城の壁を駆け上がった。
垂直の壁を。
普通の地面のように。
泥に足を取られない。
重さを受けない。
滑らない。
ただ、走る。
「なっ……!」
《対象、黒泥城外壁を踏破中》
「見れば分かる!」
グズが慌てて壁面を崩す。
足場を泥へ戻し、ルオを飲み込もうとする。
だが、ルオは崩れる壁を蹴り、さらに上へ飛ぶ。
塔の先端を指でつかみ、くるりと回って向こう側へ着地した。
「よし、越えた!」
楽しそうに言うな。
黒泥城が、ほとんど遊具扱いされた。
グズが低く沈むような声を出す。
「グ……ズ……」
傷ついている。
精神的に傷ついている。
「グズ、気にするな。相手が悪い」
そう言うしかなかった。
◇
湿骨王列が、次に立ち上がった。
白骨の槍。
骨城。
骨鎖。
骨橋偽装。
進行路と撤退路の両方へ干渉する、湿骨軍列の再編体。
今回は、正面突破を止めるため、骨王門を作る。
白い骨が積み上がり、巨大な門となる。
門の上には、王冠のような骨飾り。
左右には、湿った骨槍が並ぶ。
骨橋は偽物の足場を作り、正しい道を隠す。
ルオはそれを見て、目を輝かせた。
「お、今度は骨の門!」
喜ぶな。
防衛だ。
観光名所ではない。
湿骨王列が骨槍を一斉に放つ。
白い槍雨が、ルオへ向かう。
ルオは、今度は避けなかった。
腕を振った。
軽く。
まるで、羽虫を払うように。
その一振りで、骨槍が砕けた。
全部。
粉々に。
《湿骨王列、骨槍群損壊》
「……」
《骨王門、防御姿勢へ移行》
「管理音声」
《はい》
「今のは、何だ」
《腕の一振りです》
「それは見た!」
ルオは砕けた骨粉を見て、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「あ、壊しちゃった。ごめん」
「謝るな! いや、謝るくらいなら壊すな!」
湿骨王列が骨鎖を伸ばす。
ルオの腕、足、胴へ絡もうとする。
だが、ルオの体に触れた瞬間、骨鎖がぱきんと割れた。
何かに弾かれたわけではない。
骨の方が、触れることに耐えられなかったように砕けた。
《骨鎖、接触破断》
「接触で破断するな!」
ルオは骨王門の前に立つ。
「これも越えるの面倒だな」
彼は少し考えてから、骨王門へ手を当てた。
「えい」
押した。
それだけだった。
骨王門が、後ろへ倒れた。
ゆっくりと。
どおん、と音を立てて。
湿骨王列の防衛門が、一押しで崩れた。
白い部屋に、沈黙が落ちた。
ルオは倒れた骨門を見て、満足そうに頷く。
「よし、道できた!」
「道を作るな!」
◇
ルオは、さらに奥へ進む。
浅層を越え、中層を抜け、深部手前へ向かってくる。
速い。
あまりにも速い。
天蓋の猟犬は、罠を読み、解き、時に戦い、傷つきながら進んだ。
ルオは違う。
罠を罠として扱っていない。
霧は払う。
影は踏まない。
泥城は登る。
骨門は押す。
ゴブリンは弾く。
すべてが、遊び半分に処理されていく。
だが、その処理一つ一つが、迷宮の防衛を破壊している。
余は白い部屋で、頭を抱えたくなった。
頭はない。
だが、今は五つくらい欲しかった。
「止まらない」
《はい》
「なぜ止まらない」
《対象の能力が現防衛を大きく上回っています》
「率直に言うな!」
フィルエの声が硬い。
「ロード」
「何だ」
「エリラの方向へ来てる」
「分かっている!」
「匂い、完全に追ってる」
「分かっている!」
「どうする?」
「どうするも何も……」
余は、魔神契約跡へ意識を向けた。
そこには、ガルザヴェインが立っている。
魔神戦王。
天蓋の猟犬に敗北した後も、折れずに訓練を続けた配下。
今の迷宮で、単体戦闘なら最強の存在。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「出るか」
「デル」
即答だった。
「相手は、今までのどれとも違う」
「ワカル」
「お前でも勝てるか分からん」
「タタカウ」
ガルザヴェインは、拳を握った。
「エリラ、マモル」
「……そうだ」
余は息を吐いた。
いや、吐いた気がした。
「ただし、木の前までは行かせるな。深部手前で止める」
「ワカッタ」
「フィルエ」
「うん」
「エリラの木から離れていろ」
「……分かった」
「絶対にだ」
返事が少し遅れた。
「分かった」
嫌な間だ。
だが、今は追及している余裕がない。
ルオは深部へ近づいている。
ガルザヴェインが、偽天猟庭の残骸を越え、深部手前へ進む。
黒い魔神性が、白い霧を押し分ける。
魔神進軍鐘が鳴った。
ごん。
その音を聞いて、ルオが足を止めた。
「お?」
彼は目を輝かせた。
「なんか強そうなの来た!」
楽しそうに言うな。
楽しそうに。
ガルザヴェインが霧の奥から現れる。
黒い巨体。
金色の目。
戦歴の傷を刻んだ魔神戦王。
ルオはそれを見上げた。
「でっか」
ガルザヴェインは、低く言った。
「トマレ」
「やだ」
即答だった。
ガルザヴェインの目が細くなる。
「エリラ、トラセナイ」
「エリラ?」
ルオは首を傾げる。
そして、ぱっと笑った。
「あ、その果物の名前? いい名前だな!」
「トラセナイ」
「全部はいらないって。一個! 一個でいいから!」
「トラセナイ」
「けち!」
ルオは頬を膨らませた。
その態度に、白い部屋で余は震えた。
「こいつ、今ガルザヴェインにけちと言ったぞ」
《はい》
「魔神戦王に」
《はい》
「けち、と」
《はい》
ガルザヴェインは怒った。
いや、怒ったというより、戦う理由が固まった。
「トラセナイ」
黒い魔神性が膨れ上がる。
「オレ、マモル」
ルオは、にっと笑った。
「じゃあ、ちょっと遊ぼうぜ」
次の瞬間、ガルザヴェインが踏み込んだ。
魔神戦王と、龍神系統の少年。
深部手前の白い霧が、二つの規格外の衝突に震えた。




