第209話 号外は、一人の冒険者で迷宮が消えたと告げる
天蓋の猟犬が、エリラの実を二つ奪ってから、二カ月が経った。
その二カ月で、霧灰白庭迷宮は変わった。
敗北を忘れるためではない。
敗北を、形に変えるために。
余は、天蓋の猟犬を殺せなかった。
魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェインは、六牙帰星によって膝をついた。
偽天猟庭は突破された。
エリラの実は二つ奪われた。
しかも一つは、戦闘の衝撃で落ちた実を拾われた。
偶然だ。
偶然で、余の迷宮から神級素材を持っていかれた。
その事実は、今でも白骨書記の台帳に刻まれている。
消していない。
消すつもりもない。
敗北は、目を逸らせば腐る。
だが、見続ければ牙になる。
だから余は、二カ月かけて、迷宮の腹を作り替えた。
◇
「管理音声。二カ月分の改修結果を出せ」
《表示します》
白い部屋の壁面に、迷宮図が浮かんだ。
浅層。
中層。
深部。
偽天猟庭。
魔神契約跡。
エリラの木。
それぞれに、新しい線と印が増えている。
⸻
《二カ月改修記録》
一、偽天猟庭、第二改修完了。
連結焼きの火灰を再配置。
重泥霧の反応速度を向上。
偽星幕の価値反応に揺らぎを追加。
反響喰いの薄膜を歌以外の振動にも対応。
逆星骨を落下魔術全般に反応するよう調整。
二、深部防衛線、三重化。
エリラの木へ続く正規線を秘匿。
偽の赤金反応を六十七カ所へ増設。
本物周辺の価値反応を低減。
甘香秘匿層を再形成。
三、撤退阻止区画、強化。
帰路を奪うだけではなく、帰路生成行動そのものに反応する構造を追加。
空糸、歌、星、嗅覚、影歩き、転移札への可変罠を試験配置。
四、エリラの木周辺、衝撃逃がし膜を増設。
落果防止を強化。
枝への直接拘束は禁止。
フィルエ管理下で日次観測継続。
⸻
「よし」
余は頷いた。
まだ足りない。
天蓋の猟犬は強かった。
六人と眠る一人の名で、魔神戦王を膝づかせた。
なら、ただ罠を増やすだけでは足りない。
連携を焼く。
帰る力を折る。
価値を見る目を疲れさせる。
匂いを迷わせる。
空を重くし、歌をずらし、星を喰う。
そうして初めて、次の猟犬を噛める。
「魔物の進化状況は」
《表示します》
⸻
《配下進化・再編記録》
泥塞大門将グズは、泥塞黒城将グズへ進化。
大門形成能力が向上。
泥門を単なる壁ではなく、内部に通路、偽出口、圧壊層を持つ黒泥城として形成可能。
灰霧追導蛾ハイハネは、灰霧幻導蛾ハイハネへ進化。
霧による誘導に加え、視覚、嗅覚、距離感覚へ別々の偽層を重ねる能力を獲得。
影軍縫いカゲヌイは、影軍縫帥カゲヌイへ進化。
単体の影ではなく、複数対象の影連携を縫う能力を獲得。
パーティー連携阻害に高適性。
湿骨軍列は、湿骨王列へ再編。
骨槍、骨城、骨鎖に加え、骨路封鎖と骨橋偽装を獲得。
撤退路と進行路の両方へ干渉可能。
ゴブリン練兵群の一部が、霧喰い刃ゴブリンへ進化。
灰霧の中で短距離加速し、侵入者の補助具や採取具を狙う。
宝匣運びゴブリンの一部が、赤金果守ゴブリンへ変異。
エリラの実管理補助に特化。
実の数を数える、落果を知らせる、無断採取を叫ぶ、食べ過ぎを報告する能力を確認。
⸻
「最後だけ、妙に生活感があるな」
《エリラの実管理に有用です》
「有用ならよい」
赤金果守ゴブリンは、フィルエの下で働いている。
最初は不安だった。
ゴブリンに果実を守らせる?
しかもエリラの実を?
食うだろう。
絶対に食うだろう。
そう思った。
だが、ガルザヴェインの命令は強かった。
最後の一個は絶対に取るな。
フィルエの許可なく食うな。
落ちたら叫べ。
この三つは、ゴブリンどもにも徹底された。
特に三つ目はうるさいほど徹底された。
昨日など、風で葉が一枚落ちただけで三匹が同時に叫んだ。
うるさかった。
だが、役には立っている。
◇
エリラの実は、今では迷宮内で普通に使っている。
もちろん、無制限ではない。
最後の一個は絶対に残す。
それが掟だ。
だが、一本に百個前後も実る。
一個でも残っていれば翌日には元の数へ戻る。
だから、使える分は使う。
弱った魔物には、薄く切った実を与える。
訓練で成果を出したゴブリンには、小さな欠片を与える。
ガルザヴェインには、重い訓練後に一個。
フィルエには、命脈安定のために一個。
余も、管理上の確認として、何度か味を確認した。
白骨書記は、それを「試食」と書いた。
違う。
管理上の確認だ。
何度言っても、白骨書記は修正しなかった。
「フィルエ」
《うん》
「今日のエリラの木はどうだ」
「元気。実は百八個」
「多いな」
「朝に十個採ったから、今は九十八個」
「問題は」
「三個、今日中に採らないと落ちるかも」
「落ちるな」
「だから採る」
「許可する。用途は」
「保存用二個。ガルザヴェインの訓練後に一個」
「余の管理確認用は」
「今日はなし」
「なぜだ!」
「昨日食べたから」
「昨日は昨日だ」
「毎日はだめ」
「余の迷宮だぞ」
「私が管理してる」
正論だった。
強く出られない。
エリラの木は、フィルエが見ている時が一番安定している。
余が口を出しすぎると、木が葉を少し縮める。
なぜだ。
納得しがたい。
だが、木がそう反応するのだから仕方ない。
「分かった。今日は食わん」
「うん」
魔神契約跡で、ガルザヴェインが静かに言った。
「ロード、ガマン」
「お前に言われたくない!」
「オレ、イッコ」
「お前は訓練後だ」
「ワカッタ」
ガルザヴェインは、以前より落ち着いている。
強い気配が来れば拳を握る。
戦いたがる性質は変わっていない。
だが、待てる。
守れる。
食べすぎない。
それは大きな進歩だ。
◇
その日の昼。
ダンジョン新聞が落ちてきた。
ぱさり。
白い部屋の床に、黒い紙が一枚。
「またか」
《号外です》
「号外という言葉に良い記憶がない」
《読まれますか》
「読むしかないだろう」
余は黒い紙を拾った。
見出しを見た瞬間、白い部屋の空気が変わった。
⸻
《号外》
《Sランクダンジョン、単独攻略により消滅》
西方山脈のSランクダンジョンが、一人の冒険者によって攻略され、コア消滅を確認。
該当冒険者は、以前にSSランクダンジョンを単独攻略し、消滅させた者と同一人物と推定。
氏名、所属、種族、目的、いずれも不明。
確認事項:
・侵入者は一名。
・随伴者なし。
・外部軍勢なし。
・ダンジョン側防衛戦力、全滅。
・コア破壊後、当該Sランクダンジョンは完全消滅。
・攻略時間、推定一日未満。
編集部評:
「迷宮にとって、軍勢より恐ろしいものがある。
それは、たった一人で迷宮の存在を終わらせる者である」
⸻
余は、しばらく声を出せなかった。
「……一人?」
《はい》
「Sランクダンジョンを?」
《はい》
「消滅?」
《はい》
「しかも、以前にSSランクダンジョンを単独攻略して消滅させた者と同じ?」
《記事によれば、その推定です》
「何だそれは」
余の声は低かった。
怒りではない。
恐怖に近い。
Sランクダンジョンが、たった一人で消滅させられた。
それも、一日未満で。
しかも、そいつは過去にSSランクダンジョンすら一人で攻略し、消滅へ追い込んだ。
天蓋の猟犬は恐ろしかった。
あれはSランク冒険者パーティーだった。
六人と眠る一人の名を背負った群れだった。
だが、新聞の記事は違う。
一人。
たった一人。
軍勢でもない。
パーティーでもない。
単独で迷宮そのものを終わらせる者。
「そんなものが冒険者であってよいのか」
《分類上は冒険者と記載されています》
「分類の問題ではない!」
フィルエの声が森灰観測室から届く。
「ロード」
「何だ」
「その人、こっちに来る?」
「来るな」
「分からないよ」
「来るなと言っている」
来られては困る。
いや、困るどころではない。
余はSランク迷宮だ。
だが、記事のそいつはSランクダンジョンを消した。
しかも、以前にはSSランクダンジョンすら一人で消滅させた。
もし余の迷宮へ来たら。
偽天猟庭は通じるか。
重泥霧は通じるか。
ガルザヴェインは立てるか。
エリラの木は守れるか。
考えたくなかった。
「白骨書記」
白骨書記が、すでに骨筆を構えていた。
「この記事を最重要警戒台帳へ保存しろ」
骨筆が走る。
⸻
最重要外部脅威:
正体不明の単独攻略者。
実績:
SSランクダンジョン単独攻略、コア消滅。
Sランクダンジョン単独攻略、コア消滅。
詳細:
不明。
対策:
未定。
接近非推奨。
遭遇非推奨。
交戦非推奨。
⸻
「交戦非推奨は当然だ。遭遇非推奨も当然だ。接近非推奨も当然だ」
《では、追加しますか》
「存在非推奨」
《意味が不明瞭です》
「存在してほしくないという意味だ!」
白骨書記が迷った末に書いた。
⸻
存在してほしくない。
⸻
「……まあよい」
よくない。
何もよくない。
◇
新聞を読み終えた直後だった。
白い部屋に、警告が響いた。
《外縁に高位魔力反応》
「……何?」
《迷宮入口付近に、急速接近する個体あり》
余は壁面を切り替えた。
外縁。
迷宮入口。
白い霧の向こう。
そこに、何かがいた。
まだ姿ははっきり見えない。
だが、気配だけで分かった。
強い。
強すぎる。
人間の魔力ではない。
魔物の魔力とも違う。
魔族でもない。
神殿の聖気でもない。
魔神性でもない。
ただ、存在そのものが重い。
白い霧が、近づいてくるそれを前にして震えている。
ハイハネの霧が、勝手に薄くなる。
カゲヌイの影糸が縮む。
グズの泥門が、無意識に半分閉じる。
湿骨王列の骨が、かたかたと鳴る。
そして、魔神契約跡でガルザヴェインが立ち上がった。
「ロード」
「分かっている」
「ツヨイ」
「分かっている!」
ガルザヴェインの声には、わずかな緊張が混じっていた。
魔神戦王が、強いと言った。
それだけで、余は嫌な予感を覚えた。
「管理音声」
《解析中》
「新聞の単独攻略者か?」
《照合不能》
「つまり分からないのか」
《はい》
「人間か」
《通常人間種ではありません》
「魔族か」
《該当しません》
「魔物か」
《通常魔物分類にも該当しません》
「では何だ」
《照合中》
壁面の中で、白い霧が揺れた。
その向こうから、一人の少年が歩いてくる。
見た目は、人間の少年に近い。
年の頃は十二、十三ほど。
淡い銀に、わずかに青が混じった髪。
澄んだ金色の瞳。
白い肌。
しかし、よく見ると人間ではない。
首筋に、小さな鱗がある。
手首にも、薄い白銀の鱗。
耳の後ろにも、細い鱗が覗いている。
角はない。
翼もない。
だが、その内側にある魔力は、人間の器に収まっているものではなかった。
《照合結果、完全一致なし》
「完全一致なし?」
《推定分類:龍神系統高位個体》
「……龍神?」
余は、思わず聞き返した。
「龍神とは何だ」
《竜種上位、神性竜脈、またはその血統に属する存在と推定されます》
「推定ばかりだな」
《対象が規格外です》
「嫌な言葉だ」
少年は、白い霧の前で足を止めた。
鼻をひくひく動かす。
そして、ぱっと顔を明るくした。
「おっ、やっぱり!」
少年は言った。
「すっげー甘い匂いするじゃん!」
余は、白い部屋で硬直した。
「……何と言った」
フィルエの声が、森灰観測室から届く。
「ロード、エリラの匂いは漏れてない」
「分かっている」
「でも、あの子は感じてる」
「分かっている!」
災厄秘匿膜。
甘香秘匿層。
偽星幕。
全部、機能している。
普通の冒険者には届かない。
魔族にも届かない。
獣鼻のミトですら、近づかなければ拾えなかった。
だが、この少年は入口で感じている。
神級素材の命の甘さを。
秘匿の上から。
まるで散歩の途中で果物の匂いを嗅いだように。
少年は白い霧へ向かって、にかっと笑った。
「オレ、ルオ」
彼は、自分の胸を親指で叩いた。
「ルオ・ゼルファニア!」
管理音声が、遅れて告げる。
《個体名確認不能》
《自己申告名:ルオ・ゼルファニア》
《推定分類:龍神系統高位個体》
《危険度:測定不能》
ルオは、こちらに聞こえているわけでもないのに、白い霧へ向かって手を振った。
「なあ、ここ果物あるだろ? あるよな? オレの鼻、外れないし!」
余は即答した。
「ない」
もちろん、声は届いていない。
届いていないのに、ルオは首を傾げた。
「んー?」
霧の奥を覗き込む。
「なんか、ないって言われた気がする」
余は固まった。
「なぜ分かる」
《不明》
「不明が多い!」
ルオは少し考えた。
そして、また明るく笑った。
「まあ、いいや。ちょっとだけ入る! 果物、一個くらいならいいだろ?」
「駄目だ!」
余は叫んだ。
ルオは、なぜか楽しそうに肩をすくめる。
「駄目っぽいな。でも匂いしてるし、確認だけ確認だけ!」
「確認で入るな!」
ルオは白い霧へ足を踏み入れた。
その瞬間、迷宮入口の警戒結界が全て反応した。
《侵入者、確認》
《龍神系統高位個体、侵入》
《推奨対応:最大警戒》
ガルザヴェインが拳を握った。
「ロード」
フィルエの声も硬い。
「来た」
余は、白い部屋で命令を飛ばした。
「全防衛起動!」
白い霧が、一斉に牙を剥く。
だが、入口に立つ少年は、ただ楽しそうに笑っていた。
「おー、すげー。なんか歓迎されてる?」
「されていない!」
ルオ・ゼルファニア。
龍神系統と推定される、規格外の少年。
彼は、敵意ではなく、食欲で迷宮へ入ってきた。




