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第208話 黒冠軍は、白い封鎖迷宮に牙を求める

 夜明け前の荒野に、黒い角笛が鳴った。


 低く、長く、腹の底を震わせる音だった。


 黒い軍旗が風を裂く。


 旗に刻まれているのは、黒い冠。


 外の者たちは、彼らを魔王軍と呼ぶ。


 だが、彼ら自身はそう呼ばない。


 彼らは、黒冠軍こくかんぐん


 魔王の黒冠の下に集った軍勢。


 魔族、魔人、亜人、魔獣使い、呪具師、夜騎士、黒槍兵、牙獣兵。


 そして今、その黒冠軍は、勇者側の連合軍と真正面からぶつかろうとしていた。


 場所は、ルグナ平原東端。


 黒冠軍が三日前に奪った補給路の要所。


 そこには、古い石橋がある。


 幅は広くない。


 だが、そこを押さえれば、勇者側の北部補給線を一時的に断てる。


 逆に奪い返されれば、黒冠軍の前進はまた止まる。


 だから、両軍はそこへ兵を注いだ。


 黒冠軍第七牙隊長、ゼルヴァン・ギルロアは、前線の小高い丘から戦場を見下ろしていた。


 黒い鎧。


 左頬に斜めの古傷。


 腰には細身の黒剣。


 肩には第七牙の徽章。


 彼は将軍ではない。


 だが、前線の一角を任される実力者だった。


 彼の背後には、四人の部下がいる。


 重甲鬼人、バロウ・ガンド。


 大盾と戦槌を持つ、第七牙の壁。


 影翼斥候、リシェ・ナイトリィ。


 黒い翼を持ち、夜と影と敵の匂いを読む女。


 血晶術師、メルゼア・ルーン。


 血と鉱石で術式を組む、素材鑑定もできる魔術師。


 骨符師、オルグ・サイア。


 骨札と呪印で結界を割り、戦場の記録を封じる痩せた男。


 五人は、橋の向こうを見ていた。


 白い旗が並ぶ。


 勇者側の連合軍。


 聖騎士。


 神殿兵。


 王国槍兵。


 冒険者部隊。


 白衣の治癒術師。


 そして、銀の鎧を着た聖盾連隊。


 その中央には、勇者本人はいない。


 だが、勇者の名を掲げた軍は、勇者がいなくても強い。


 兵が怯えにくい。


 折れにくい。


 死ぬ直前まで祈る。


 祈ったまま槍を突く。


「来るぞ」


 ゼルヴァンが言った。


 次の瞬間、白い軍旗が前へ出た。


 勇者側の先陣が、石橋へ雪崩れ込む。


 聖盾連隊が盾を並べ、背後から槍兵が槍を伸ばす。


 さらにその後ろで、神殿術師が白い結界を重ねた。


 黒冠軍の矢が飛ぶ。


 黒い矢雨。


 だが、白い結界に弾かれる。


 矢は半分も届かない。


「白盾結界、三重」


 メルゼアが冷静に言った。


「昨日より厚いです」


「向こうも学ぶ」


 ゼルヴァンは答えた。


「バロウ」


「応」


「橋中央で受けろ。崩すな。押し返すな。止めろ」


「止めるだけで?」


「押し返せば、向こうの冒険者部隊が横へ抜ける」


 バロウは獰猛に笑った。


「了解。止めて潰します」


「潰すなと言った」


「では、少し潰します」


 巨大な鬼人が前へ出た。


 黒い大盾を構え、橋の中央へ走る。


 その背後から、黒冠軍の牙獣兵が低く唸りながら続いた。


 白盾と黒盾が衝突した。


 音が荒野に響く。


 がん、と石橋が揺れた。


 バロウの大盾が、聖盾連隊の先頭を受け止める。


 彼の足元で石が砕ける。


 それでも、下がらない。


「押せえええ!」


 勇者側の隊長が叫ぶ。


 聖盾連隊が一斉に押す。


 白い結界が盾の表面で光る。


 バロウの黒盾が軋む。


 だが、バロウは笑った。


「軽いぞ、白い犬ども!」


 戦槌を横に振る。


 だが、盾列へ直接当てない。


 橋の欄干を砕いた。


 砕けた石が、聖盾連隊の足元へ飛ぶ。


 足場が乱れる。


 その一瞬、黒冠軍の牙獣兵が横から噛みついた。


 だが、勇者側も遅くない。


 冒険者部隊が橋の下から飛び上がる。


 短剣使い。


 斧使い。


 風魔術師。


 彼らが牙獣兵の脇腹を裂く。


 黒い血が石橋に飛んだ。


「リシェ」


 ゼルヴァンが言う。


「橋下へ」


「了解」


 リシェの黒い翼が開いた。


 彼女の姿が影に溶ける。


 次の瞬間、橋下の影から悲鳴が上がった。


 勇者側の冒険者が一人、足首を裂かれて落ちる。


 別の一人が背後を取られる。


 だが、そこへ白い光が走った。


 神殿の照明術。


 影を薄める光。


 リシェの姿が一瞬、浮かび上がる。


「影翼がいる!」


 勇者側の斥候が叫ぶ。


 弓が向く。


 リシェは舌打ちし、橋脚を蹴って横へ逃げた。


 矢が黒い翼をかすめる。


 血が一筋落ちる。


「見つかったか」


 ゼルヴァンは顔をしかめた。


「勇者側の斥候、質が上がっている」


 メルゼアが言った。


「前線にAランク相当が混じっています」


「だから押せない」


 ゼルヴァンは、黒剣の柄へ手をかけた。


 橋中央は互角。


 黒冠軍が押す。


 勇者側が受ける。


 勇者側が結界を張る。


 黒冠軍が呪具で割る。


 割れた結界を、神殿術師がすぐに張り直す。


 その背後では、治癒術師が倒れた兵を引き戻している。


 死ぬ前に戻される。


 戻された兵が、また盾列へ入る。


 こちらも同じだ。


 黒冠軍の呪医が、牙獣兵の傷を縫う。


 魔獣使いが、瀕死の獣へ黒い薬を飲ませる。


 倒れた魔人兵が、再び立ち上がる。


 どちらも死んでいる。


 だが、どちらも崩れない。


「腐っている」


 ゼルヴァンが低く言った。


 前線が腐っている。


 死体は増える。


 血は流れる。


 それでも土地は動かない。


 勝ちきれない。


 負けきれない。


 その戦場に、白い光が落ちた。


 勇者側の魔術師団が、広域術式を完成させたのだ。


 白炎。


 聖なる火。


 黒冠軍の前列へ降り注ぐ。


 牙獣兵が焼かれる。


 黒槍兵が悲鳴を上げる。


 白炎は普通の火ではない。


 黒い魔力に食いつき、燃え広がる。


「メルゼア!」


「見えています」


 血晶術師メルゼアが、自分の手首を切った。


 血が赤い結晶へ変わる。


「血晶術――紅鏡陣こうきょうじん


 赤い結晶の鏡が、黒冠軍の前へ並ぶ。


 白炎がその鏡に映り、角度を変えられる。


 完全には防げない。


 だが、直撃を逸らす。


 逸れた白炎が、荒野の土を焼いた。


 メルゼアの顔色が一気に悪くなる。


「長くは無理です」


「一呼吸でいい」


 ゼルヴァンが黒剣を抜いた。


「オルグ、聖盾の右端を割れ」


「承知」


 骨符師オルグが、三枚の骨札を投げた。


 骨札が空中で燃え、白い結界の右端へ貼りつく。


「骨符術――聖縫い外し」


 白盾結界の一部が、布の縫い目をほどかれるように緩む。


 そこへゼルヴァンが走った。


 速い。


 黒い鎧が、白い火の残光を裂く。


 勇者側の槍兵が反応する。


 槍が三本伸びる。


 ゼルヴァンは黒剣を一度だけ振った。


「黒牙剣――斜断しゃだん


 三本の槍の穂先が同時に落ちる。


 彼は聖盾連隊の右端へ踏み込んだ。


 黒剣が盾の縁へ入る。


 力で割らない。


 結界が緩んだ部分を正確に裂く。


 聖盾が一枚、崩れた。


 黒冠軍の前列がそこへ押し込む。


 橋中央の白い盾列が揺れる。


「押せ!」


 バロウが吠える。


 黒盾が前へ出る。


 聖盾連隊が一歩下がった。


 だが、その一歩で終わらなかった。


 勇者側の後方から、一人の女騎士が出た。


 銀の大剣。


 白い外套。


 聖騎士隊長級。


 彼女は、崩れた盾列の隙間へ入ると、剣を地面へ突き立てた。


「聖剣技――白杭しらくい


 白い光の杭が、石橋へ打ち込まれる。


 後退していた聖盾連隊の足が止まる。


 結界が再び張り直される。


 ゼルヴァンの斬った隙間が、白い光で埋まった。


 バロウの黒盾が、それ以上押せなくなる。


「くそ、止まった!」


 バロウが吠える。


 ゼルヴァンはすぐに引いた。


 追撃はしない。


 無理に押せば、白い杭を中心に反撃される。


 橋の右端では、リシェが影から戻ってきた。


 翼に傷。


 だが、致命傷ではない。


 メルゼアの紅鏡陣は砕けかけている。


 オルグの骨札も残り少ない。


 勇者側も同じだ。


 聖盾連隊は前列の数を減らし、冒険者部隊も数人倒れている。


 白炎術師も魔力を使い切ったのか、膝をついていた。


 勝てる。


 押せば、まだ押せる。


 だが、押しきれない。


 こちらも砕ける。


 ゼルヴァンは戦場全体を見た。


 そして、決断した。


「角笛を鳴らせ。半歩下げる」


 バロウが振り向く。


「下げるのですか!」


「今押しても、橋は取れる。だが、夕方までに奪い返される」


「……」


「こちらの牙を無駄に折るな」


 黒い角笛が鳴った。


 黒冠軍が、整然と半歩下がる。


 勇者側も追わない。


 追えない。


 彼らも消耗している。


 橋の上に、黒と白の死体が残った。


 石橋は、どちらのものにもならなかった。


 朝日が昇る。


 その光の中で、両軍はまた向かい合った。


 何も決まっていない戦場を前に。


    ◇


 その日の夜。


 黒冠軍の前線幕舎には、血と薬と焦げた革の匂いが残っていた。


 ゼルヴァンは鎧を脱がずに地図を見ていた。


 橋は取れなかった。


 勇者側も取れなかった。


 明日も同じ場所で血が流れるだろう。


 そして、また何も決まらない。


「隊長」


 メルゼアが入ってきた。


 顔色は悪い。


 昼の紅鏡陣で血を使いすぎたのだ。


 だが、手には数枚の羊皮紙がある。


「候補の整理が終わりました」


「出せ」


 メルゼアは卓上に紙を並べた。


 これは、何日もかけて集めた情報だった。


 捕らえた商人からの聞き取り。


 闇市素材帳。


 人間側の噂。


 斥候が拾った通達の写し。


 魔族の旅商が買った古い迷宮地図。


 どれも不完全だ。


 どれも怪しい。


 だが、今はそれでも足がかりになる。


「北の火山迷宮」


 メルゼアが一枚目を示す。


「竜骨と灼熱鉱の噂。ただし遠い。勇者側の監視も濃い」


 二枚目。


「毒沼の黒晶迷宮。毒性魔晶があるらしいですが、採取班が帰れる可能性が低すぎます」


 三枚目。


「古戦場の地下墓。死霊武具の話があります。ただし、聖教会の巡礼路に近い」


 そして四枚目。


 王国南東部に白い印がある。


「最後が、人間どもの間で灰白庭、あるいは白箱迷宮と噂されている白い迷宮です」


 ゼルヴァンはその紙を見た。


「噂か」


「はい。正式な迷宮名は不明です。呼び名も安定していません」


「何が分かっている」


「元は旧迷靄洞と呼ばれていた低〜中位迷宮だったという古い噂があります。ただ、最近になって危険度が急上昇し、人間側がSランク相当として封鎖したようです」


 オルグが骨の指で紙を叩いた。


「なぜSランク相当へ?」


「正確には不明です」


 メルゼアは、あえてそう前置きした。


「ただし、王国南東部で大規模なスタンピードがあった後、その白い迷宮の周辺封鎖が強まりました。さらに、高位冒険者や調査隊が戻らなかったという噂があります」


 リシェが壁際から言う。


「どこまで本当?」


「半分も分かりません」


「なら、よく候補に残したね」


「人間側が封鎖しているからです」


 メルゼアは淡々と答えた。


「噂が嘘なら、封鎖まではしません。何かはある」


 バロウが戦槌を床に置いた。


「何か、とは?」


「高位素材。未回収の魔物残骸。白化した迷宮核片。異常な宝箱。あるいは、ただの死地」


「最後は嫌だな」


「Sランク相当迷宮ですので」


 ゼルヴァンは、灰白庭の紙を見た。


 情報は少ない。


 分からないことだらけだ。


 だが、だからこそ可能性がある。


 古いSランク迷宮は、情報がある。


 情報があるということは、監視もある。


 攻略体系もある。


 人間側も魔王側も、何が取れるかある程度知っている。


 だが、この白い迷宮は違う。


 急に危険度が上がった。


 人間側が封鎖した。


 まだ中身が分かっていない。


 なら、戦争を動かす何かが眠っている可能性がある。


 ゼルヴァンは昼の戦場を思い出した。


 白盾連隊。


 聖騎士の白杭。


 神殿術師の結界。


 冒険者の奇襲。


 こちらの黒盾。


 呪符。


 血晶術。


 全てがぶつかり、全てが止まった。


 あの均衡を崩す牙が要る。


 ただの強い剣では足りない。


 ただの魔石でも足りない。


 戦場の形を変える素材が要る。


「灰白庭を選ぶ」


 ゼルヴァンは言った。


 四人が彼を見る。


 バロウが笑う。


「白い迷宮ですか」


「そうだ」


 リシェが翼を畳む。


「正面の封鎖線は?」


「抜け道を探す。お前の役目だ」


「了解」


 メルゼアが問う。


「目的は?」


「戦争に使える素材の回収。攻略はしない。征服もしない。見て、拾い、持ち帰る」


 オルグが骨札を取り出す。


「記録はどこまで?」


「必要最低限。死んだ英雄より、生きて帰った斥候の記録の方が軍を動かす」


 バロウが不満そうに鼻を鳴らす。


「戦いたい敵が出たら?」


「避けろ」


「避けられなければ?」


「叩いて逃げる」


「殺せるなら?」


「殺して拾う」


 バロウは満足そうに笑った。


「それならよし」


 メルゼアは、黒い採取瓶を机に並べる。


「白化迷宮の素材なら、通常瓶では保ちません。封晶瓶を三つ、血晶封じを二つ持ちます」


「重いか」


「バロウが持てます」


「俺か」


「あなた以外に誰が持つのですか」


 バロウは少し考えて、頷いた。


「まあ、持てる」


 リシェが地図を覗き込む。


「王国南東部まで、前線を迂回して三日。急げば二日。でも、痕跡が残る」


「三日で行く」


 ゼルヴァンが言った。


「目立つな。人間どもの封鎖線に、黒冠軍の部隊が来たと悟らせるな」


「隊長」


 オルグが低く言う。


「この任務は、魔王陛下へ?」


「報告は上げる。だが、許可を待っていては遅い」


「独断ですか」


「前線隊長には、戦局を動かす裁量がある」


 ゼルヴァンは、灰白庭の紙を丸めた。


「今日の橋を見ただろう」


 誰も答えない。


「あのままでは、明日も同じだ。明後日も同じだ。兵は死に、土地は動かず、勇者側はまた聖歌を歌う」


 彼の声は低かった。


「なら、別の牙がいる」


 黒い外套を手に取る。


「我々が取りに行く」


    ◇


 出発は、その夜のうちに決まった。


 大軍は動かさない。


 旗も持たない。


 黒冠の徽章も隠す。


 五人だけ。


 黒冠軍第七牙隊長ゼルヴァン・ギルロア。


 重甲鬼人バロウ・ガンド。


 影翼斥候リシェ・ナイトリィ。


 血晶術師メルゼア・ルーン。


 骨符師オルグ・サイア。


 彼らは戦争のために、迷宮へ向かう。


 宝を売るためではない。


 名を上げるためでもない。


 誰かを救うためでもない。


 勇者側との膠着を崩す牙を探すために。


 ゼルヴァンは、幕舎を出る前にもう一度戦場を見た。


 石橋の向こうには、白い旗が見える。


 勇者側の軍も、こちらを見ているだろう。


 明日もまた、あそこで戦う。


 だが、彼はそこにはいない。


 黒い牙は、別の場所へ向かう。


 人間どもが灰白庭と噂する、白いSランク相当迷宮へ。


「出るぞ」


 ゼルヴァンが言った。


「白い迷宮から、戦争を変えるものを持ち帰る」


 黒冠軍第七牙の五人は、夜の陣地を静かに出た。


 勇者側と黒冠軍の戦線が動かない夜。


 誰にも知られず、黒い小隊が白い迷宮へ向かい始めた。

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