第207話 赤金の実は、眠る仲間のそばで香る
天蓋の猟犬は、王都へ正面から戻らなかった。
ギルドの門は叩かない。
封鎖線の監視所へも行かない。
神殿の治療院にも駆け込まない。
彼らは、白い霧を抜けた後、古い水路跡を通り、森の影を縫い、誰にも見つからないように王都外れの薬草小屋へ戻った。
夜明け前だった。
空は、まだ青黒い。
鳥も鳴いていない。
王都の鐘も、朝を告げていない。
そんな時間に、六人は隠れ家の裏口へ転がり込んだ。
最初に倒れたのは、ドランだった。
「……着いた、か?」
大柄な体が、床に膝をつく。
胸の傷が開きかけていた。
前回よりはましだ。
だが、ましというだけで、軽傷ではない。
魔神戦王ゴブリンの拳。
偽りの庭の重い霧。
連携を焼く赤い灰。
それらを受け続けた体は、限界に近かった。
ノアが、声にならない声で言う。
「寝て」
彼女の喉は潰れかけていた。
七名帰声。
七帰りの遠吠え。
その二つの反動で、声が裂けている。
それでも、ノアはドランの胸に手を置き、小さな鈴を鳴らした。
ちりん。
細い音が、傷の奥へ染み込む。
ドランは苦しそうに笑った。
「怒るなよ」
ノアは声を出さず、唇だけで言った。
怒る。
ドランはまた笑おうとして、咳き込んだ。
床に血が落ちる。
ロウエンが即座に空糸を伸ばし、彼の体を支えた。
「奥へ運ぶ」
ミトが扉を閉める。
足を引きずっていた。
骨鎖に裂かれた足首から、まだ血が滲んでいる。
それでも彼女は、両腕で赤金色の実を抱えていた。
絶対に落とさないように。
絶対に傷つけないように。
「落としてない」
ミトは言った。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
セラは壁にもたれた。
右目に巻いた布は、血で濡れている。
値星眼は、ほとんど焼けていた。
今は開けない。
開けば、光ではなく痛みだけが走る。
それでも彼女の左手は、胸元の革袋を押さえている。
そこには、もう一つのエリラの実が入っていた。
ロウエンが命摘みの小匙で受け止めた実。
リーネへ繋げるために、狙って採った実。
ミトが抱えているのは、偶然落ちた実。
戦闘の衝撃で枝から外れ、彼女の足元へ転がってきた実。
狙ったわけではない。
計画にもなかった。
けれど、拾った。
冒険者だからだ。
アゼルは床に座り込んだまま、息を吐いた。
小天蓋を畳む余力すらない。
星図は焼け、伏星は尽き、指先には魔力の焦げた跡が残っている。
それでも彼は、赤金の実を見て、かすかに笑った。
「……二つある」
セラが、布越しに目を閉じた。
「一つでよかったのにね」
ミトが小さく言った。
「拾っちゃった」
ドランが処置台へ運ばれながら、かすれた声で言った。
「冒険者としては……正しい……」
ロウエンは、裂けた指を見下ろした。
帰猟線を張り続けた指。
火灰に焼かれ、刃に裂かれ、それでも糸を離さなかった指。
痛みはある。
だが、それよりも胸の奥が熱かった。
「実は無事か」
セラが答える。
「こっちは無事」
ミトも頷く。
「こっちも。傷なし」
ロウエンは短く息を吐いた。
「なら、勝った」
誰もすぐには答えなかった。
勝った。
その言葉は重かった。
彼らは逃げ帰った。
全員、傷だらけだ。
ドランはまた死にかけている。
ノアは声を失いかけている。
セラは右目を開けない。
ミトはまともに歩けない。
ロウエンの指は使い物にならない。
アゼルの星図も、しばらくは乱れたままだろう。
それでも、エリラの実は二つある。
誰一人、欠けていない。
ロウエンは、もう一度言った。
「勝ったんだ」
◇
老錬金術師オルバ・レントは、彼らを見るなり怒鳴った。
「馬鹿どもが!」
予想通りだった。
むしろ、その怒鳴り声を聞いて、全員が少し安心した。
オルバは処置台に横たえられたドランを見ると、顔を歪めた。
「また胸か! お前は胸を開かれに行ったのか!」
ドランが、かすれた声で答える。
「壁だからな」
「壁でも壊れたら終わりだ!」
「まだ壊れてない」
「壊れかけを壊れてないと言うな!」
オルバは薬箱を蹴るように開けた。
黒薬。
銀糸。
骨針。
青い軟膏。
呪血止めの粉。
見慣れた道具と、見慣れない道具が並んでいく。
「ノア!」
ノアが顔を上げる。
声は出ない。
「歌うな。喉が死ぬ。鈴だけ鳴らせ」
ノアは頷いた。
ちりん。
鈴が鳴る。
細い音がドランの胸へ染み込む。
オルバは傷口へ黒薬を叩き込んだ。
じゅう、と煙が立つ。
ドランの体が跳ねた。
ミトとアゼルが押さえる。
ロウエンは空糸で処置台ごと固定した。
「魔神性が残っとる。前より薄いが、奥へ噛んでおる」
オルバが銀糸を傷口の中へ滑り込ませる。
ドランが歯を食いしばった。
意識は朦朧としているはずなのに、痛みで体が反応する。
「動くな」
「……動かしてるのは、そっちだろ」
「口だけは元気だな」
「壁だからな」
「その返しはもう聞いた!」
処置は長かった。
ノアは鈴を鳴らし続ける。
声は出さない。
出せば、もう歌えなくなるかもしれない。
それでも、彼女の手は震えなかった。
ミトは足の痛みを無視してドランを押さえる。
アゼルは魔力を絞り、小さな星で処置台の揺れを抑える。
セラは右目を押さえたまま、左目で薬の残量を確認する。
ロウエンは指の血を垂らしながら、空糸を離さない。
ようやく、ドランの呼吸が少し深くなった。
オルバが舌打ちする。
「死にはせん。たぶんな」
全員が、ほっと息を吐いた。
「ただし、今度こそ本当に寝かせろ。起きて壁を張ろうとしたら、わしが殴る」
ドランは薄く笑った。
「爺の拳なら、受けられる」
「薬で眠らせるぞ」
「それは……無理だな」
その一言を最後に、ドランは眠りに落ちた。
◇
処置が終わった後、オルバは赤金の実を見た。
一つは、命摘みの小匙で受け止められたもの。
一つは、偶然落ちたもの。
二つのエリラの実が、薬台の上で淡く光っていた。
地下室に、甘い香りが満ちる。
ただの果物ではない。
薬でもない。
命の匂い。
ミトが言っていた言葉が、全員の頭に浮かぶ。
オルバは、しばらく何も言わなかった。
怒鳴らない。
罵らない。
ただ、見ていた。
「本物か」
ロウエンが聞いた。
オルバは、ゆっくり息を吐いた。
「……おそらくな」
「おそらく?」
「神級素材を前にして、断言する錬金術師は詐欺師だ」
彼は、震えそうになる指を自分で押さえた。
「だが、記録にあるエリラの実と一致する。香り、色、光、命の濃さ。偽物ではない」
ノアが小板に文字を書いた。
⸻
リーネは?
⸻
オルバは、その字を見てから、保存棺のある地下室の方を見た。
「完全なエリクサーには、五つの神級素材がいる。これはその一つだ。これだけで深層呪睡を完全に解けるとは言わん」
空気がわずかに沈む。
しかし、オルバは続けた。
「だが、道は開く」
全員が顔を上げる。
「エリラの実は、命脈を起こす素材だ。死者を蘇らせるものではない。だが、生きて眠っている者の命を、深いところから揺らす力がある」
ミトが小さく言った。
「起きる匂い」
「ああ。お前の鼻は、おそらく正しい」
その言葉だけで、ノアの目に涙が浮かんだ。
彼女は声を出せない。
だから、ただ小板を胸に抱えた。
ロウエンは、命摘みの小匙で受けた方の実を見た。
「これを使う」
「全部ではない」
オルバがすぐに言った。
「一滴だ。命滴を一滴だけ抽出する。深層呪睡の患者に、神級素材を雑に使う馬鹿はいない」
「一滴で足りるのか」
「足りるかどうかではない。まず反応を見る。体が耐えられるかを見る。呪いがどう返すかを見る」
オルバは、もう一つの実へ目を向けた。
「そして、こっちはわしが受け取る」
部屋の空気が変わった。
ロウエンが静かに問う。
「受け取る?」
「預かる、ではない。わしに渡せ」
ミトが眉をひそめる。
「食べるの?」
「馬鹿を言うな。食ったら殴るぞ」
「食べるの私じゃない」
「誰であれ殴る」
セラが、左目だけでオルバを見る。
「何に使うの」
「調べる」
オルバは、二つ目のエリラの実から目を離さなかった。
「エリラの実は、ただ持っていればいいものではない。神級素材は、保管方法を間違えるだけで性質が変わる。リーネに使うなら、保存法、抽出法、他素材との相性、命脈への流し方、全部を調べる必要がある」
ロウエンは黙って聞いていた。
「一つしかなければ、使うしかなかった。だが、二つある」
オルバは、ミトをちらりと見た。
「偶然拾ったらしいが、その偶然に感謝しろ」
ミトは少しだけ胸を張った。
「拾ってよかった」
「調子に乗るな」
オルバは、二つ目の実へ白い布をかけた。
「これは、わしが研究用に受け取る。報酬でもある。お前らが次の神級素材を探すなら、わしも命を張る必要があるからな」
ノアが小板に文字を書いた。
⸻
漏れない?
⸻
オルバは、その字を見て鼻を鳴らした。
「漏らすわけがなかろう」
だが、ロウエンは、その言葉の奥にある重さを聞き逃さなかった。
オルバは嘘をついていない。
自分から言いふらす気などない。
だが、神級素材を一個丸ごと扱うということは、完全な沈黙では済まない。
保存瓶が要る。
封印材が要る。
古い文献が要る。
時には、外部の薬材商や錬金術師の名を借りる必要もある。
「慎重に頼む」
ロウエンが言った。
「わしにそれを言うか」
「言う」
オルバは、不機嫌そうに黙った。
そして、低く言う。
「分かっておる。これは、下手をすれば国も神殿も闇市も動く代物だ」
セラが呟いた。
「だから、誰にも言えない」
「ああ」
オルバは、白い布に包んだ二つ目のエリラの実を、銀の箱へ収めた。
蓋を閉じる。
封印をかける。
甘い香りが消える。
少なくとも、その場からは。
オルバは、箱に手を置いたまま言った。
「だが、覚えておけ」
全員が彼を見る。
「秘密というものは、持っているだけで匂いを出す」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
エリラの実は、銀の箱の中に消えた。
けれど、その存在まで消えたわけではない。
◇
リーネの保存棺がある部屋へ、全員が降りた。
ドランは処置台で眠っている。
ノアも本当なら寝ているべきだったが、どうしても来ると言って譲らなかった。
声は出ない。
彼女は筆談用の小板を持っている。
そこには、一言だけ書かれていた。
⸻
見たい。
⸻
オルバは文句を言ったが、最後には許した。
「立っているだけだ。歌うな。泣くな。倒れるな」
ノアは頷いた。
リーネは、透明な保存棺の中で眠っていた。
三年前と同じ顔。
小柄な体。
片方の頬にだけ残る、薄いえくぼ。
笑っているわけではない。
それでも、そのえくぼを見ると、誰もが彼女の笑顔を思い出す。
オルバは、一つ目のエリラの実を銀皿へ置いた。
ロウエンが命摘みの小匙で受けた実。
このために取りに行った実。
リーネへ繋げるための一つ。
「始めるぞ」
オルバが言った。
全員が息を止めた。
彼は、小さな銀の刃でエリラの実の皮をほんの少しだけ開いた。
赤金の果汁が、露のように滲む。
地下室に甘い香りが満ちた。
その香りを嗅いだ瞬間、ノアの目から涙が落ちた。
声は出さない。
歌わない。
ただ、涙だけが落ちる。
オルバは、果汁を一滴、銀の管へ落とした。
赤金の雫。
それが、管の中で淡く光る。
次に、保存棺の側面を開く。
リーネの手首。
細い腕。
青白い皮膚。
オルバは、その手首へ銀管を繋げた。
「命脈へ直接入れる。ほんの一滴だ」
ロウエンが問う。
「一滴だけか」
「一滴で十分すぎる。神級素材を舐めるな」
オルバは、慎重に雫を流した。
赤金の光が、リーネの手首からゆっくり入っていく。
最初は何も起きなかった。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
誰も喋らない。
ノアは息を止めている。
セラは左目だけで見ている。
ミトは匂いを嗅ごうとして、怖くなってやめた。
アゼルは無意識に小さな星を一つ浮かべかけ、すぐ消した。
ロウエンは、保存棺の縁を握っていた。
指の傷が開き、血が滲む。
それでも気づかない。
やがて。
リーネの指が動いた。
ほんの少し。
小指が、ぴくりと。
それだけだった。
だが、地下室の空気が止まった。
ノアが口を押さえる。
ミトが目を見開く。
アゼルの星が勝手にひとつ浮かび、天井で震えた。
セラの左目に涙が溜まる。
ロウエンは、何も言えなかった。
リーネの小指が、もう一度動いた。
そして、保存棺の中で、彼女のまぶたが微かに震えた。
開かない。
目覚めない。
けれど、確かに動いた。
オルバが、かすれた声で言った。
「……反応した」
誰も返事をしない。
「深層呪睡に、反応した」
その言葉で、ノアが崩れ落ちた。
ミトが支える。
ノアは声を出せないまま泣いていた。
アゼルは天井を向いた。
セラは口元を押さえた。
ロウエンは、保存棺に額をつけた。
「リーネ」
彼は、ようやく声を出した。
「聞こえたか」
答えはない。
だが、小指が動いた。
それだけで十分だった。
◇
処置が終わると、オルバはすぐに銀管を外した。
「これ以上は駄目だ」
ロウエンが顔を上げる。
「なぜ」
「エリラの実だけで命脈を起こしすぎれば、体が耐えられん。深層呪睡の呪いは残っている。目覚めかけた命が、呪いに引き戻されれば、今度こそ壊れる」
「つまり」
「やはり完全なエリクサーが必要だ」
沈黙。
だが、さっきまでの沈黙とは違った。
絶望ではない。
前へ向かう沈黙だった。
「残り四つ」
セラが言った。
声は震えていた。
「神級素材が、あと四つ」
オルバは頷く。
「そうだ」
「探せる?」
「記録は少ない。詐欺も多い。だが、エリラの実が本物だった以上、他の素材も存在する可能性はある」
アゼルが小さく笑った。
「つまり、また誰も行かない場所へ行くことになる」
ミトが言う。
「危ない匂いがしそう」
ノアは小板に文字を書いた。
⸻
行く。
⸻
ドランが起きていれば、きっと同じことを言っただろう。
ロウエンは、保存棺の中のリーネを見た。
小指はもう動かない。
まぶたも静かになっている。
だが、さっき動いた。
確かに動いた。
それは幻ではない。
希望は、もうただの想像ではなくなった。
「残り四つを探す」
ロウエンが言った。
「でも、灰白庭には戻らない」
ミトが首を傾げる。
「もう行かない?」
「少なくとも、今すぐは行かない。エリラの実は手に入れた。あの迷宮に戻れば、次は本当に殺しに来る」
セラが頷く。
「あの迷宮も、あの魔神ゴブリンも、次はもっと変わる」
「だから、次の素材だ」
アゼルが星図を思い浮かべる。
「神級素材。残り四つ」
オルバが古い本を閉じた。
「まずは記録を洗う。噂を集める。詐欺師を殴る。古文書を読む。金も要る」
セラが、銀の箱へ目を向ける。
「もう一つのエリラの実は売らないよ」
「当たり前だ」
「解析用?」
「保存と解析だ。全部使わん。外へは出さん。神殿にも王国にも見せん」
ロウエンが頷く。
「誰にも言わない」
全員が頷いた。
エリラの実は秘密だ。
灰白庭へ無許可で入ったことも秘密だ。
リーネが反応したことも、まだ秘密にする。
知られれば、奪われる。
奪われれば、リーネには届かなくなる。
だから、沈黙する。
そして、進む。
◇
夜になって、ロウエンは一人で外へ出た。
薬草小屋の裏手。
まだ夜風は冷たい。
遠くに王都の灯りがある。
さらに遠く、南東の方角には、白い霧があるはずだ。
灰白庭。
エリラの実を生らせる木を持つ、Sランク相当迷宮。
魔神戦王が守る迷宮。
そして、彼らが二つの実を奪った迷宮。
ロウエンは、自分の裂けた指を見た。
まだ痛む。
だが、それよりも胸の奥が熱かった。
リーネの小指が動いた。
ただ、それだけで。
世界が変わった。
「ありがとう、とは言わない」
彼は、南東の闇へ向かって呟いた。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
灰白庭そのものか。
あの迷宮の意志か。
それとも、エリラの実を守っていた魔神ゴブリンか。
「奪ったものだからな」
彼は、小さく笑った。
「だが、無駄にはしない」
背後で、扉が開いた。
セラが立っていた。
右目にはまだ布。
「何してるの」
「風に当たってる」
「嘘」
「考えてる」
「灰白庭のこと?」
「ああ」
セラは隣に立った。
「また行くと思う?」
「いつかは」
「あの迷宮、怒ってるかな」
「怒ってるだろうな」
「二つ取ったし」
「一つは偶然だけどな」
「冒険者にとって、偶然拾った宝は正当な戦利品」
「そうだな」
二人は、しばらく黙って南東の闇を見た。
やがて、セラが言った。
「リーネ、動いたね」
「ああ」
「次は、起こす」
「ああ」
「残り四つ、見つけよう」
「見つける」
ロウエンは、南東の闇から目を離した。
灰白庭との戦いは、終わっていない。
だが、今は別の道が開いた。
エリラの実が示した道。
神級素材を探す道。
眠る仲間を目覚めさせる道。
天蓋の猟犬は、また冒険へ向かう。
誰も行かない場所へ。
誰も拾えないものを拾うために。
今度は、リーネを連れて行く未来のために。
ロウエンは静かに言った。
「次の獲物を探すぞ」
セラは笑った。
「猟犬らしくなってきたね」
夜風が、赤金の甘い香りを運んでくることはなかった。
それでも、二人の胸には確かに残っていた。
リーネの小指が動いた、その瞬間の光が。




