第206話 ロードは、奪われた実の数を忘れない
翌朝、エリラの木には実が戻っていた。
赤金色の枝に、百二個。
昨日、二つ奪われたはずの実。
血と星と風と歌と空糸がぶつかり、魔神戦王が膝をつき、天蓋の猟犬が命がけで持ち去った二つ。
その欠けは、木の上には残っていなかった。
赤い葉が揺れ、金色の裏葉が光を返し、甘い香りが深部に満ちている。
まるで何もなかったように。
まるで、奪われたことなど些細なことだと言うように。
《エリラの木、再結実を確認》
《現在結実数:百二個》
《木本体に枯死反応なし》
《枝部、衝撃逃がし膜の一部損耗》
《回復傾向》
管理音声の報告を聞いても、余の気分は晴れなかった。
「戻ったか」
《はい》
「二つ奪われても、戻ったか」
《はい》
「なら、資源としての損失は小さい」
《はい》
「小さい、か」
白い部屋には、沈黙が落ちた。
資源としての損失は小さい。
それは事実だ。
エリラの木は枯れていない。
一個どころか、百二個もの実を生らせている。
昨日奪われた二つなど、数だけを見れば大したものではない。
だが、そういう話ではない。
「二つだ」
余は言った。
「二つ奪われた」
《はい》
「一つは、狙って採られた」
《はい》
「もう一つは、落ちた」
《はい》
「落ちたものを、拾われた」
《はい》
「……拾われた」
その言葉が、一番腹立たしかった。
狙われて奪われた一つ目は、まだ理解できる。
天蓋の猟犬は、そのために来た。
リーネという眠る仲間のために。
準備をし、傷を治し、命摘みの小匙まで作り、ガルザヴェインを膝づかせて、ようやく一つを採った。
腹立たしいが、そこには理由があった。
だが、二つ目。
偶然落ちた実を、ミトが反射で拾った。
その事実が、余の中でいつまでも引っかかっていた。
天蓋の猟犬は、余の迷宮から宝を奪うつもりで来た。
そして、余の迷宮はそれを防げなかった。
それだけでも敗北だ。
その上、偶然まで味方につけられた。
「白骨書記」
余が呼ぶと、白骨書記がすでに骨板を抱えていた。
「昨日の結果を、もう一度出せ」
骨板が並ぶ。
⸻
天蓋の猟犬、第二次侵入結果。
侵入者:全員生還。
奪取物:
エリラの実、二個。
一個目:
ロウエン・グレイヴが命摘みの小匙により採取。
目的:リーネ救済用素材。
二個目:
戦闘衝撃による落果。
ミトが反射的に回収。
迷宮側戦果:
ドラン、再負傷。
ロウエン、指および肩負傷。
セラ、値星眼に重度負荷。
ミト、足および腕負傷。
ノア、喉および魔力に大負荷。
アゼル、星図損耗。
迷宮側損耗:
偽天猟庭、大破。
湿骨軍列、骨鎖陣損耗。
逆星骨、複数破損。
連結焼きの火灰、広範囲消耗。
ガルザヴェイン、六牙帰星により敗北。
評価:
エリラの木本体、防衛成功。
エリラの実、防衛失敗。
侵入者討伐、失敗。
撤退阻止、失敗。
⸻
「防衛成功と防衛失敗が並ぶな」
《はい》
「矛盾しているようで、矛盾していない」
《はい》
木は守った。
実は取られた。
ガルザヴェインは生きている。
だが、敗けた。
迷宮は残っている。
だが、目的を果たされた。
勝ちではない。
完全敗北でもない。
だが、敗北だ。
そこを誤魔化せば、次も負ける。
「記録を残せ」
余は言った。
「これは恥ではない」
白骨書記が骨筆を止めた。
「いや、恥ではある」
書記の骨筆が少し震えた。
「だが、隠す恥ではない。見る恥だ。次に勝つための恥だ」
白骨書記は、ゆっくりと骨板に刻んだ。
⸻
敗北記録。
霧灰白庭迷宮は、天蓋の猟犬の目的達成を阻止できなかった。
この記録は秘匿せず、内部最重要台帳として保存する。
目的:
同一敗北の再発防止。
⸻
「よし」
余は頷いた。
よし、ではない。
何一つよくない。
だが、よしと言わなければ次に進めない。
◇
ガルザヴェインは、偽天猟庭の中央に座っていた。
魔神戦王ゴブリン。
昨日、天蓋の猟犬の奥義、六牙帰星を真正面から受けて膝をついた魔神。
今も傷は深い。
両腕には裂傷。
胸には六牙帰星が刻んだ新しい傷。
腹には星と風と空糸の魔力がまだ残っている。
だが、彼は倒れてはいない。
座っている。
拳を膝の上に置き、じっと傷を見ている。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「痛むか」
「イタイ」
「そうか」
「デモ、キエナイ」
「傷がか」
「ウン」
ガルザヴェインは、自分の胸に爪を立てた。
そこには、アレクの白銀傷とは別の、新しい痕があった。
六牙帰星の傷。
六人で一つになり、眠る一人の名まで背負った猟犬の牙。
それは単なる攻撃ではなかった。
魔神戦王の守りを砕き、膝をつかせた一撃。
「アレク、ヒトリ、ツヨカッタ」
ガルザヴェインは言った。
「イヌ、ロク、ツヨカッタ」
彼は少し考え、訂正するように続けた。
「ナナ、ツヨカッタ」
「リーネを含めてか」
「ウン」
ガルザヴェインは、あの戦いの中で理解したのだろう。
天蓋の猟犬は六人だった。
だが、六牙帰星の中心には七つ目の名があった。
眠る仲間、リーネ。
肉体はそこにない。
魔力線もない。
だが、あの一撃には確かにいた。
だから、連結焼きの火灰も完全には焼けなかった。
反響喰いの薄膜も喰いきれなかった。
天蓋の猟犬は、六人で一匹ではなかった。
六人と、眠る一人で、一つだった。
「ロード」
「何だ」
「オレ、マケタ」
「ああ」
「オレ、ヨワイ?」
余は、すぐに答えなかった。
ガルザヴェインは弱くない。
断じて弱くない。
アレクを倒した。
ドランを重傷にした。
天蓋の猟犬を何度も押し返した。
昨日も、奴がいなければ、エリラの実はもっと奪われていたかもしれない。
だが、負けた。
強くても負ける。
それを、ガルザヴェインは初めて深く知った。
「弱くはない」
余は答えた。
「だが、足りなかった」
「タリナイ」
「そうだ。お前も、余も、この迷宮も、足りなかった」
ガルザヴェインは、ゆっくり頷いた。
「ツギ、タス」
「足す?」
「オレ、タス。ロード、タス。メイキュウ、タス」
言い方は拙い。
だが、意味は分かる。
足りないなら足す。
強さを。
技を。
場を。
仲間を。
役割を。
「そうだな」
余は言った。
「次は、足りないものを足す」
「ウン」
「だが、まずは治れ」
「ナオル」
「エリラを一つ食うか」
ガルザヴェインの目が少しだけ動いた。
「イイ?」
「報酬ではない。治療だ」
「チリョウ」
「そうだ。士気管理でもない。治療だ」
フィルエが遠くで小さく笑った。
聞こえたが無視した。
エリラの実を一つ、白磁根が運ぶ。
ガルザヴェインは、慎重に受け取った。
前よりさらに慎重だった。
昨日、二つ奪われたからだろうか。
彼は、赤金の実を見つめた後、静かに食べた。
黒い傷口の周囲に、赤金の光が少しだけ滲む。
完全に治るわけではない。
エリラの実を生食しただけでは、エリクサーにはならない。
だが、魔力の濁りが少し澄む。
傷の治りが早まる。
ガルザヴェインの荒れた魔神性が、ほんのわずか整った。
「ウマイ」
「それは聞いていない」
「ウマイ」
「そうか」
「ツギ、マケナイ」
ガルザヴェインは、実の余韻を噛みしめながら言った。
「イヌ、ツヨイ。オレ、オボエタ。ツギ、マケナイ」
「その意気だ」
余は、少しだけ安心した。
ガルザヴェインは折れていない。
敗北を受け入れた。
だが、折れてはいない。
それは良い。
とても良い。
◇
昼前、ダンジョン新聞が落ちてきた。
ぱさり。
白い部屋の中央に、黒い紙が一枚。
できれば見たくなかった。
だが、見ないわけにはいかない。
余は、それを拾った。
⸻
《号外》
《霧灰白庭迷宮、エリラの実を二つ奪われる》
Sランク迷宮、霧灰白庭迷宮に再侵入したSランク冒険者パーティー《天蓋の猟犬》。
前回の撤退から約一カ月後、同パーティーは再び無許可侵入。
霧灰白庭迷宮は新設迎撃区画《偽天猟庭》を展開し、魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェインを投入。
しかし、天蓋の猟犬は偽天猟庭を突破。
ガルザヴェインを《六牙帰星》により一時戦闘不能へ追い込み、エリラの実を一個採取。
さらに戦闘衝撃により落果した二個目を回収し、全員生還。
結果:
・エリラの木本体、無事
・エリラの実、二個流出
・天蓋の猟犬、全員生還
・ガルザヴェイン、敗北
・霧灰白庭迷宮、撤退阻止に失敗
編集部評:
「守った木と、奪われた実。
Sランク迷宮は、Sランク冒険者パーティーの執念をまだ測りきれていない」
⸻
余は、新聞を握り潰した。
つもりだった。
実際には黒い紙は破れなかった。
「嫌なほど正確だな」
《はい》
「編集部評が腹立たしい」
《はい》
「ガルザヴェイン、敗北と書かれている」
《事実です》
「分かっている!」
新聞の裏面には、ロード反応欄があった。
さらに嫌な予感がした。
だが、読む。
⸻
《井守》
奪われたか。
木が残ったなら、致命傷ではない。
だが、実を奪われた事実は消えない。
怒れ。
ただし、怒りで入口を閉じるな。
閉じれば、猟犬は別の穴を掘る。
迷宮は入口を持つから迷宮だ。
次に考えるべきは、守ることではなく、奪われた後だ。
奪われた物が外で何になるかを考えろ。
エリラの実は、外で次の物語を育てる。
⸻
「奪われた後……」
余は、その言葉を反芻した。
そうだ。
エリラの実は、もう外にある。
天蓋の猟犬が持っている。
奴らはギルドにも王国にも言わないだろう。
無許可侵入だからだ。
それは分かっている。
だが、外で使う。
リーネに。
いや、エリクサー完成には五つの神級素材が必要だ。
エリラの実だけでは目覚めないかもしれない。
だが、道は開く。
天蓋の猟犬は、残りの素材を探し始める。
エリラの実を得たことで、彼らはさらに危険な冒険へ向かうだろう。
それは、余の迷宮の外で起こる。
外の物語が動き出す。
余が奪われた実によって。
腹立たしい。
だが、少しだけ、ぞくりとした。
迷宮で奪われた宝が、外で誰かの運命を動かす。
それは、まさに冒険者と迷宮の関係だった。
もちろん、腹立たしいことに変わりはない。
⸻
《鏡霧劇場》
よかったな。
エリラの木は残った。
猟犬は秘密を外へ持ち出したが、公には言えない。
つまり、舞台は閉じている。
だが、閉じた舞台ほど熱を持つ。
リーネが目覚めるか。
目覚めないか。
猟犬が残り四素材を探すか。
再び来るか。
お前の迷宮から出た実が、外の夢を見始めた。
鏡は笑っている。
⸻
「笑うな」
思わず呟いた。
腹立たしい。
他のロードどもは、他人事だと思って楽しんでいる。
いや、楽しんでいるだけではない。
見ている。
霧灰白庭迷宮が、Sランク冒険者パーティーとどう戦い、どう負け、どう変わるか。
それを見ている。
余は見られている。
ロードとして。
Sランク迷宮として。
敗北した迷宮として。
「白骨書記」
余は言った。
「新聞も保存しろ」
白骨書記が少し驚いたように顎を鳴らした。
「不名誉な記事だ」
骨筆が止まる。
「だから保存する」
白骨書記は、ゆっくり頷いた。
⸻
保存対象:
ダンジョン新聞号外
《霧灰白庭迷宮、エリラの実を二つ奪われる》
分類:
敗北外部記録。
保存理由:
次回改善およびロード自戒用。
⸻
「自戒用と書くな」
白骨書記は消さなかった。
◇
午後、フィルエがエリラの木のそばにいた。
彼女は、手を幹に触れない距離でかざしている。
木は静かだった。
昨日、枝が揺れ、実が落ちた。
そのことを木が覚えているのかは分からない。
だが、フィルエには、少しだけ分かるらしい。
「痛がってはいない」
彼女は言った。
「でも、驚いてる」
「木がか」
「うん」
「実を取られたことに?」
「たぶん。それと、外へ行ったことに」
外へ行ったこと。
エリラの実は、迷宮の中に生まれた。
魔神契約跡に生まれた木の実。
十万の死と、契約の魔神性と、迷宮のSランク化と、帰りたかった者たちの残滓。
その全てが混ざった命の実。
それが、外へ出た。
王都のどこかへ。
天蓋の猟犬の手で。
「戻したいか」
余は聞いた。
フィルエは首を横に振った。
「もう外に行ったものは、外の匂いになると思う」
「奪われたのだぞ」
「うん」
「腹立たしいだろう」
「腹立たしい。でも……」
「でも?」
フィルエは、少し考えた。
「リーネって人のところへ行くなら、木は嫌がらないかも」
余は黙った。
フィルエは続ける。
「エリラの実は、治す実だから」
「敵に使われてもか」
「敵だけど、あの人たち、仲間を起こしたいんでしょ」
「そうだ」
「なら、実は役目をするのかも」
余は、しばらく答えなかった。
それは、ロードとしては認めたくない考えだった。
奪われた実が、外で役目を果たす。
敵の仲間を救う。
それは、こちらから見れば損失だ。
だが、エリラの実という存在から見れば、正しい用途なのかもしれない。
治すための実。
命を繋ぐための素材。
迷宮の中で実っても、その本質は変わらない。
「……それでも」
余は言った。
「次に取りに来たら殺す」
「うん」
フィルエは頷いた。
「それはそう」
そこは迷わないらしい。
少し安心した。
◇
夜。
ガルザヴェインは、偽天猟庭の壊れた中央で立ち上がる訓練をしていた。
膝をつく。
立つ。
膝をつく。
立つ。
それを何度も繰り返している。
「何をしている」
「タツ、レンシュウ」
「立つ練習?」
「ウン」
ガルザヴェインは、もう一度膝をつく。
六牙帰星を受けた時と同じ姿勢。
両膝を床につき、拳をつく。
そこから、ゆっくり立ち上がる。
「マケタ。ヒザ、ツイタ」
「ああ」
「ツギ、ヒザ、ツイテモ、タツ」
彼は、また膝をつく。
立つ。
傷口が開きかける。
だが、エリラの実の治療効果で、すぐには崩れない。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「無理をするな」
「ムリ、イル」
「なぜ」
「マケタカラ」
短い答えだった。
だが、強い答えだった。
余は、それ以上止めなかった。
代わりに、偽天猟庭の残骸に重泥霧を少し流す。
立つ時の足元が重くなる。
ガルザヴェインは、それを踏み砕いて立つ。
「オモイ」
「次は、もっと重いものを受けるかもしれん」
「ウン」
「六人と一人分の牙を、もう一度受けるかもしれん」
「ウン」
「なら、立て」
「ウン」
ガルザヴェインは、何度でも立った。
魔神戦王は、敗北を傷として残す。
そして、傷を経験に変える。
それが彼の強さだ。
余も、同じことをしなければならない。
迷宮も、敗北を構造に変えなければならない。
◇
白い部屋に戻ると、白骨書記が新しい台帳を開いていた。
表題は、余が命じる前に書かれていた。
⸻
敗北後改修台帳。
⸻
「気が早いな」
白骨書記が顎を鳴らす。
「だが、正しい」
余は、台帳の一枚目に言葉を刻ませた。
⸻
第一方針:
守るだけでは足りない。
第二方針:
逃げる者を殺すだけでは足りない。
第三方針:
奪われた物が外で何になるかを読む。
第四方針:
Sランクパーティーは、個々ではなく目的を持った群れとして扱う。
第五方針:
ガルザヴェインは敗北したが、折れていない。
迷宮も同じである。
⸻
書き終えると、白い部屋の中が少しだけ静かになった。
余は、エリラの木を見た。
赤金の実は、また揺れている。
二つ奪われた。
だが、まだある。
天蓋の猟犬は逃げた。
だが、いずれまたどこかで交わるだろう。
リーネが目覚めるかどうか。
残り四つの神級素材を探すのか。
再び余の迷宮へ来るのか。
それはまだ分からない。
だが、余は忘れない。
二つ。
奪われた実の数を。
ガルザヴェインが膝をついた姿を。
天蓋の猟犬が全員で帰った事実を。
「白骨書記」
余は言った。
「今日の最後に、もう一行書け」
白骨書記が骨筆を構える。
「霧灰白庭迷宮は、敗北を覚えた」
骨筆が、静かに刻む。
「そして、覚えた敗北を、次の牙に変える」
白い部屋の奥で、管理音声が静かに応じた。
《記録しました》
エリラの実が、赤金色に光った。
その光は、もう余だけのものではない。
外へ二つ、持ち出された。
だからこそ、余はその光を忘れない。
次に守る時は、もっと強く守る。
次に戦う時は、もっと深く噛む。
霧灰白庭迷宮は、敗北の夜を越え、また変わり始めた。




