第205話 猟犬は、赤金の実を抱えて帰る
エリラの実が、二つ。
天蓋の猟犬の手に渡った。
一つは、ロウエンが命摘みの小匙で受け止めたもの。
リーネを目覚めさせるために、狙って採った一つ。
もう一つは、戦闘の衝撃で枝から外れ、ミトの足元へ転がってきたもの。
誰も狙っていなかった。
誰も計画していなかった。
ただ、落ちた。
そして、冒険者は落ちた宝を見逃さない。
ミトは反射で掴んだ。
「拾っちゃった!」
「持って走れ!」
ロウエンが叫ぶ。
その声に、迷いはなかった。
一つでいいと言っていた。
本当に、一つでよかった。
だが、二つ目が手に入ったなら、捨てる理由はない。
返す理由など、もっとない。
天蓋の猟犬は冒険者だ。
誰も拾えないものを拾い、誰も持ち帰れないものを持ち帰る。
それが彼らの仕事だった。
◇
白い部屋で、余はしばらく言葉を失っていた。
二つ。
二つだ。
一つではない。
二つ。
エリラの実が、二つも天蓋の猟犬の手にある。
木は枯れていない。
残った実はまだ多い。
明日には、また百個前後まで戻るだろう。
そんなことは分かっている。
分かっているが、そういう問題ではない。
「……二つ」
《はい》
「二つと言ったか」
《はい。エリラの実、二個外部保持状態》
「外部ではない。まだ迷宮内だ」
《はい。訂正。エリラの実、二個侵入者保持状態》
「それでいい」
よくない。
何もよくない。
だが、まだ迷宮内だ。
まだ取り返せる。
まだ殺せる。
まだ、奪い返せる。
「追え」
《追撃防衛、展開中》
「足りん。全部だ」
《湿骨軍列、展開》
「もっとだ」
《カゲヌイ、影針網を展開》
「もっと」
《ハイハネ、灰霧追導を展開》
「もっとだ!」
《グズ、遠隔泥門を展開》
「全部使え!」
《軍帰路喰らい、起動》
そこで、フィルエが声を上げた。
「ロード、ガルザヴェインは動けない」
「分かっている!」
「エリラの木は守れてる。木の前は空けないで」
「分かっている!」
「追撃に全部寄せすぎると、木の守りが薄くなる」
「分かっていると言っている!」
本当に分かっていた。
だからこそ、苦しい。
ガルザヴェインは膝をついたまま動けない。
魔神戦王として敗北した。
エリラの木の前で倒れたのではない。
偽天猟庭で膝をついた。
それは、こちらの計画通りの戦場だった。
その上で、負けた。
天蓋の猟犬は、六牙帰星で魔神戦王を膝づかせた。
そして、エリラの実を取った。
一つは狙って。
一つは偶然。
余は、奥歯を噛むような感覚を覚えた。
「偶然で持っていくな……!」
《対象ミト、第二果実を保持》
「分かっている! ミトを狙え!」
《ミトは負傷していますが、機動継続中》
「ならば、そこから崩せ!」
◇
天蓋の猟犬は、走っていた。
いや、普通に走っている者は一人もいない。
全員が、限界に近い。
ロウエンの指は裂け、帰猟線は血で赤く染まっている。
セラは右目を閉じたまま、左目だけで足元を追っている。
ドランは胸を押さえ、風壁を張るたびに顔を歪める。
ミトは片手にエリラの実を抱え、もう片方の手で壁を掴みながら走る。
ノアの喉は七名帰声の反動で震え、もう大きな歌は危険だった。
アゼルの伏星は残りわずか。
それでも、天蓋の猟犬は進む。
帰るために。
エリラの実を持って帰るために。
リーネの眠る場所へ帰るために。
「ロウエン!」
セラが叫んだ。
「偽天猟庭の帰路は死んだ!」
「分かってる!」
ロウエンは帰猟線を引く。
前回使った帰路。
今回置いた伏星標。
ノアの内歌が覚えた呼吸。
ミトの嗅いだ外の土。
アゼルの星が刻んだ足場。
そのすべてを繋ぎ直す。
だが、迷宮がそれを許さない。
床が沈む。
重泥霧が空間を重くする。
戻り水が、足元ではなく壁から流れ出す。
横から沈めに来る。
「右壁!」
ミトが叫ぶ。
ドランが即座に風壁を張る。
「風壁術――横犬門!」
横から押し寄せる戻り水を、薄い風壁が受ける。
だが、重泥霧が風壁へ絡む。
壁が重くなる。
ドランの胸が軋む。
「ぐっ……!」
ノアが鈴を鳴らす。
ちりん。
治癒補助の響きが、ドランの胸を一瞬だけ締める。
「無理しないで!」
「無理しなきゃ、流されるだろ!」
ドランが叫び、風壁を横へ流した。
戻り水がそれ、白磁壁へ叩きつけられる。
その水の中から、骨鎖が伸びた。
湿骨軍列・骨鎖陣。
狙いはミト。
二つ目のエリラの実を持つ彼女だ。
骨鎖がミトの足首へ絡む。
「っ!」
ミトが転びかける。
ロウエンの帰猟線が彼女の腰を引く。
しかし、その瞬間に連結焼きの火灰が熱を持った。
ミトを引く糸。
ノアの鈴。
ドランの風壁。
そこに接続が生まれたからだ。
赤い熱が走る。
ロウエンの指が焼ける。
「切る!」
彼は自分で糸を一本切った。
ミトの腰を引いていた糸が消える。
だが、ミトは倒れなかった。
彼女は自分から骨鎖へ噛みつくように爪を立てた。
「爪牙技――鎖喉抜き!」
骨鎖の中核を引き抜く。
骨が崩れる。
だが、その代わりにミトの足首が深く裂けた。
血が飛ぶ。
エリラの実を持つ手が揺れる。
「落とすな!」
セラが叫ぶ。
「落とさない!」
ミトは歯を食いしばり、二つ目の実を胸へ抱えた。
赤金の実は傷ついていない。
だが、ミトの足はもうまともではない。
ロウエンは判断した。
「ミトを吊る!」
「走れる!」
「吊る!」
反論を許さない声だった。
帰猟線がミトの体を支える。
今度は強く結ばない。
短く、何度も繋ぎ直す。
連結焼きが熱を持つ前に切り替える。
ロウエンの指がさらに裂ける。
だが、ミトは落ちない。
◇
白い部屋で、余は叫んだ。
「あと少しだっただろうが!」
《ミト捕縛、失敗》
「失敗と言うな!」
《では、未達成》
「同じだ!」
白骨書記が静かに書いていた。
⸻
対象ミト:
第二エリラ保持。
足首負傷。
機動力低下。
ただし帰猟線による補助で移動継続。
⸻
「記録は後だ!」
記録は重要だ。
分かっている。
だが今は後だ。
「帰路喰らい!」
《軍帰路喰らい、前方へ展開》
「帰路を斬れ! 糸も歌も星も匂いも、全部斬れ!」
《実行》
◇
白い霧の前方に、灰白の落武者が現れた。
軍帰路喰らい。
刃を抜き、通路の中央に立つ。
その刃は、人を斬るためだけのものではない。
帰るという意味を斬る。
進んできた道を斬る。
記憶の中の外を斬る。
前回、天蓋の猟犬はこれを抜けた。
だが今回は違う。
彼らはエリラの実を持っている。
赤金の神級素材。
それを持った者は、帰る理由が重くなる。
帰る理由が重くなるほど、帰路喰らいの刃は深く食い込む。
落武者が刃を振るった。
ノアの帰犬歌を斬る。
ロウエンの帰猟線を斬る。
アゼルの伏星標へ向かう意識を斬る。
ミトの外の土の匂いを斬る。
セラの記憶の中の赤金を斬る。
六つの帰る力を、同時に喰おうとする。
ノアが、喉を押さえた。
歌えば危険。
だが、歌わなければ帰路が斬られる。
彼女は、鈴を捨てた。
小さな鈴が白い床に落ちる。
ちりん、と最後に鳴った。
ノアは、喉を開いた。
「帰犬歌奥義――」
ロウエンが叫ぶ。
「ノア、喉が!」
「黙って走って!」
ノアの声が、白い霧を裂いた。
「七帰りの遠吠え(ななかえりのとおぼえ)!」
歌ではなく、遠吠えだった。
人間の声なのに、猟犬の遠吠えのようだった。
六人の名。
リーネの名。
さらに、今回拾ったエリラの実の命の響き。
すべてを一つの帰る理由として吠える。
反響喰いの薄膜が、それを食おうとする。
軍帰路喰らいの刃が、それを斬ろうとする。
連結焼きの火灰が、その繋がりを焼こうとする。
だが、ノアは歌を外へ返さなかった。
遠吠えは、霧に向かってではない。
仲間の背中へ向けて放たれていた。
帰れ。
走れ。
持って帰れ。
リーネのところへ。
その意思が、全員の背を押す。
ロウエンの帰猟線が白く光った。
アゼルの伏星標が一斉に反応する。
ミトの嗅覚が外の土を取り戻す。
セラの閉じた右目の奥に、エリラの実の光ではなく、リーネの顔が浮かぶ。
ドランが胸を押さえながら笑った。
「いい遠吠えだ」
軍帰路喰らいの刃が振り下ろされる。
ロウエンが前へ出た。
空糸ではない。
自分の体を前へ出した。
「空糸技――刃肩!」
帰猟線を肩へ巻き、落武者の刃を自分の体越しに受け流す技。
刃がロウエンの肩を裂く。
血が飛ぶ。
だが、帰路の線は完全には斬れない。
アゼルの伏星が、ロウエンの足元で光る。
「伏星標――戻り星!」
ロウエンの体が刃の軌道から外れる。
ミトが、負傷した足で床を蹴る。
セラが、左目だけで落武者の刃の隙間を見つける。
ドランが最後の風壁を前へ張る。
「風壁術――犬門返し!」
落武者の刃が風壁を斬る。
だが、斬った瞬間に風が逆流し、灰白の鎧を押した。
落武者が一歩下がる。
たった一歩。
だが、その一歩で道が開いた。
「抜けろ!」
ロウエンが叫んだ。
天蓋の猟犬は、軍帰路喰らいの横を抜けた。
◇
「抜けるなああ!」
余は白い部屋で叫んだ。
《軍帰路喰らい、突破されました》
「知っている! 今見た!」
《侵入者、外縁方向へ急速移動》
「まだだ、まだ浅層外縁がある! ハイハネ!」
《灰霧追導、最大出力》
「カゲヌイ!」
《影針網、最大展開》
「グズ!」
《遠隔泥門、多重展開》
「湿骨軍列!」
《骨槍群、前方展開》
「全部塞げ!」
◇
浅層外縁が閉じた。
白い霧が壁になる。
泥門が通路を塞ぐ。
骨槍が床から出る。
影針が影を縫う。
ハイハネの霧が、外の匂いを塗り潰す。
ここが最後の壁。
外は近い。
水路跡も近い。
あと少し。
あと少しで、天蓋の猟犬は出る。
ロウエンは全員を見た。
ドランは限界。
ノアは喉から血を流している。
ミトは吊られながら実を抱えている。
セラは右目を使えない。
アゼルの伏星は残り三つ。
自分の指も肩も限界。
それでも、出る。
「アゼル」
「分かってる」
アゼルは、最後の三つの伏星を床へ置いた。
いや、置くというより、投げた。
ひとつは前方。
ひとつは左壁。
ひとつは天井。
「伏星術奥義――三帰星」
三つの星が、三方向で光る。
それぞれが別の出口を作る。
迷宮は一つを潰そうとする。
泥門が前方の星を飲む。
影針が左壁の星を縫う。
霧が天井の星を隠す。
だが、三つ同時には完全に潰せない。
ロウエンが帰猟線を三つに分ける。
「どれが本物だ!」
ドランが叫ぶ。
ミトが鼻を鳴らす。
だが、匂いが薄い。
ハイハネの霧に消されている。
セラは右目を使えない。
ノアの歌ももう危険。
その時、ミトが胸に抱えた二つ目のエリラの実が、淡く光った。
赤金の香りが、ほんの少しだけ広がる。
外の空気ではない。
だが、命の匂いが、霧の塗り潰しを少しだけ押し返した。
ミトの鼻が反応する。
「天井!」
ロウエンは即座に決めた。
「上だ!」
ドランが最後の風壁を下へ張る。
足場ではなく、全員を押し上げる風。
「風壁術――跳犬門!」
六人の体が上へ飛ぶ。
重泥霧が空間を重くする。
だが、ここは浅層外縁。
偽天猟庭ほど濃くない。
アゼルの天井の伏星が光る。
ノアが声にならない息で七つの名を吐く。
ロウエンの帰猟線が全員を引く。
泥門が下から伸びる。
骨槍が追う。
影針が天井の影を縫おうとする。
だが、ミトが抱えたエリラの実が、また淡く光った。
影が一瞬薄れる。
赤金の命の光。
ほんのわずか。
だが、足りた。
ロウエンが叫ぶ。
「帰るぞ!」
空糸奥義。
前回も使った、帰還の技。
だが、今回は違う。
二つのエリラの実を抱えている。
リーネを起こす希望を抱えている。
それが、帰る理由をさらに重くする。
「空糸奥義――天蓋帰巣!」
見えない糸が、六人を包んだ。
霧が裂ける。
天井の伏星が砕ける。
外の土の匂いが、薄く差し込む。
白い霧の出口が、一瞬だけ開いた。
天蓋の猟犬は、そこへ飛び込んだ。
◇
白い霧の外。
古い水路跡。
夜明け前の冷たい空気。
天蓋の猟犬は、そこへ転がり出た。
ロウエンは肩から血を流しながら膝をつく。
ドランは地面へ倒れ、胸を押さえて笑おうとして咳き込む。
ノアは声を出せず、ただ涙を流しながらドランの胸へ手を当てる。
セラは右目を押さえたまま、左目でミトを見る。
ミトは両腕でエリラの実を抱えていた。
一つは、ロウエンが採った実。
一つは、偶然落ちた実。
どちらも傷ついていない。
赤金色の光が、夜明け前の水路跡で静かに揺れる。
アゼルが、かすれた声で言った。
「出た……?」
ミトが、土を嗅ぐ。
「外」
ノアが声にならない息で笑う。
ロウエンは、二つの実を見た。
しばらく、何も言えなかった。
やがて、彼は震える手で一つを受け取る。
「取った」
セラが、目を閉じたまま言った。
「二つある」
ミトが少し申し訳なさそうに言う。
「拾っちゃった」
ドランが咳き込みながら笑った。
「冒険者としては、正しい」
ロウエンは頷いた。
「ああ」
そして、彼は言った。
「帰るぞ。リーネのところへ」
天蓋の猟犬は、互いを支えながら森の闇へ消えた。
誰にも見つからないように。
誰にも知られないように。
エリラの実を二つ抱えて。
◇
白い部屋では、沈黙が落ちていた。
《侵入者、外部脱出》
「……」
《エリラの実、二個外部流出》
「……」
《天蓋の猟犬、全員生存》
「……」
《ガルザヴェイン、一時戦闘不能から回復中》
「……」
《エリラの木本体、無事》
「……」
《残存実、多数。枯死なし》
「……」
白骨書記が、恐る恐る骨板を出した。
⸻
結果:
天蓋の猟犬、全員生還。
エリラの実、二個奪取される。
一個目:命摘みの小匙により採取。
二個目:戦闘衝撃による落果をミトが回収。
ガルザヴェイン、六牙帰星により敗北。
偽天猟庭、突破。
撤退阻止、失敗。
⸻
「……二つ」
余は呟いた。
「二つだ」
《はい》
「一つは、まだ分かる」
《はい》
「狙ってきたのだからな。いや、分かりたくないが、分かる」
《はい》
「だが、二つ目」
《戦闘衝撃による落果をミトが回収》
「偶然だぞ」
《はい》
「偶然で、余のエリラが取られたのだぞ」
《はい》
「偶然に負けたのか、余は」
《表現としては一部正確です》
「慰めろ!」
《木本体は無事です》
「そういう慰めではない!」
フィルエが静かに言った。
「ロード」
「何だ」
「エリラの木は生きてる。明日には戻る」
「分かっている」
「ガルザヴェインも生きてる」
「分かっている」
「でも、負けた」
余は黙った。
その通りだった。
木は枯れていない。
実は戻る。
ガルザヴェインも死んでいない。
迷宮も壊れていない。
だが、負けた。
天蓋の猟犬を一人も殺せなかった。
エリラの実を二つ奪われた。
しかも全員に脱出された。
完敗ではない。
だが、勝利では絶対にない。
これは、敗北だ。
余は、初めてその言葉を飲み込んだ。
「……敗けた」
白い部屋に、その言葉が落ちる。
ガルザヴェインが、偽天猟庭の中央で膝をついたまま顔を上げた。
彼の金色の目は、まだ消えていない。
「ロード」
「何だ」
「オレ、マケタ」
「ああ」
「イヌ、ツヨカッタ」
「ああ」
「ロク、ヒトツ。ナナ、ヒトツ。ツヨカッタ」
「……そうだな」
ガルザヴェインは、自分の胸に手を当てた。
六牙帰星の傷が、深く刻まれている。
それは新しい戦歴になるだろう。
だが、今はただ痛い。
「オレ、ツギ、カツ」
余は、しばらく黙った。
それから答えた。
「ああ」
声は静かだった。
「次は勝つ」
だが、その前に。
この敗北を記録しなければならない。
見なかったことにはできない。
天蓋の猟犬は、リーネのために勝った。
余は、エリラを守りきれなかった。
ならば、ここから変わるしかない。
「白骨書記」
白骨書記が骨筆を構えた。
「書け」
余は、ゆっくり言った。
「霧灰白庭迷宮は、天蓋の猟犬を殺せなかった」
白骨書記が書く。
「ガルザヴェインは敗北した」
書く。
「エリラの実は二つ奪われた」
書く。
「しかし、木は残った」
書く。
「迷宮は残った」
書く。
「なら、次だ」
白骨書記の骨筆が止まる。
「次に、負けないための記録を始める」
白い部屋に、静かな音が響いた。
骨筆が、新しい台帳の一枚目を刻む音だった。




