第204話 六牙帰星は、魔神戦王を膝づかせる
白い霧の奥で、本物の赤金の香りが濃くなった。
それは、偽天猟庭の赤金とは違う。
赤錆の甘さでもない。
白磁花で塗った匂いでもない。
命そのものが熟したような、深く、静かな甘さ。
天蓋の猟犬は、その匂いを嗅いだ。
ミトが、最初に震えた。
「近い」
彼女の声は低かった。
獣の唸りではない。
飢えでもない。
まるで、長い眠りの中で誰かが息をした音を聞いたような声だった。
「すごく、近い」
セラは右目を閉じたまま、頬の血を袖で拭った。
もう値星眼は限界に近い。
偽星幕に何度も焼かれ、偽りの赤金を切り捨て、本物の方向だけを覚えた。
今、もう一度全開にすれば、しばらく右目は使えなくなるかもしれない。
それでも、彼女は言った。
「次に見る時が、最後でいい」
ロウエンは頷いた。
「最後にする」
ドランは胸を押さえ、浅く息をした。
風壁師としては、もう万全ではない。
偽天猟庭で何度も壁を張り、重泥霧に沈められ、胸の傷も開きかけている。
だが、彼は笑っていた。
「じゃあ、最後の壁だな」
ノアは鈴を握りしめる。
喉は温存してきた。
反響喰いを警戒し、骨拍と鈴だけでここまで支えてきた。
だが、最後は歌う必要がある。
彼女自身、それを分かっていた。
アゼルは伏星の残りを確認する。
少ない。
小天蓋も乱れている。
逆星骨に何度もずらされ、星図に傷が入っている。
それでも、最後の一撃を支えるだけの星は残していた。
ロウエンは、帰猟線を六本、それぞれの仲間へ伸ばした。
そして、七本目を自分の胸に巻いた。
眠る仲間、リーネの名を背負う糸。
ここにいない七人目。
だが、彼らが帰る理由そのもの。
「行くぞ」
ロウエンが言った。
「一つ取る」
セラが頷く。
「一つでいい」
ノアが静かに続ける。
「リーネに繋がる、一つ」
その瞬間、背後から黒い圧が来た。
魔神進軍鐘が鳴る。
ごん。
振り返るまでもない。
ガルザヴェインが追いついた。
◇
魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェインは、傷だらけだった。
偽天猟庭で受けた傷。
焼猟線で開いた腕。
伏星で乱された足。
ドランの風壁に押し返された肩。
ミトの爪が触れた脇腹。
アゼルの星に焼かれた胸。
それでも、彼は立っていた。
金色の目は、まだ強い。
黒い魔神性は、まだ燃えている。
「イカセナイ」
ガルザヴェインは言った。
「エリラ、マモル」
ロウエンは空糸を構えた。
「そこを越える」
「トラセナイ」
「取らなきゃいけない」
「ナゼ」
この状況で、ガルザヴェインが問うた。
拳を握りながら。
傷口から血を流しながら。
それでも、問うた。
ロウエンは答えた。
「仲間を起こすためだ」
ガルザヴェインの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「ナカマ」
「ああ」
「リーネ」
その名を、魔神戦王が口にした。
白い部屋で、ロードが息を呑んだ。
「名前を覚えたのか」
フィルエが静かに言う。
「聞いてたから」
ガルザヴェインは、天蓋の猟犬を見た。
「アレク、キロク、マモッタ」
誰も知らない名が出た。
天蓋の猟犬には、それが誰か分からない。
だが、その声に込められた重さだけは分かった。
「オマエタチ、リーネ、マモル」
ロウエンは答えない。
答える必要がなかった。
ガルザヴェインが、拳を上げる。
「デモ」
黒い魔神性が拳に集まる。
「エリラ、ワタサナイ」
その一言で、戦いが再開した。
◇
ガルザヴェインが踏み込む。
今度は、一直線ではない。
右へ揺れ、左へ沈み、足元の重泥霧を踏み砕きながら前へ出る。
ロウエンの帰猟線が先に動く。
だが、ガルザヴェインは糸を見ている。
糸の先を見る。
糸が何を動かすかを見る。
訓練の成果だ。
「ソコ」
ガルザヴェインの拳が、ロウエン本人ではなく、ロウエンが次に支えようとしたドランの風壁予定点へ落ちた。
風壁が張られる前に、空間ごと砕かれる。
ドランが舌打ちする。
「読みやがった!」
「魔神拳――黒牙砕!」
拳が来る。
ドランは正面で受けない。
斜めに風を流す。
「風壁術――斜犬盾!」
黒い拳が逸れる。
だが、逸れた先にガルザヴェインの膝があった。
ドランの胸へ向かう。
前回潰された場所。
そこを狙う。
ノアの鈴が鳴る。
ちりん。
風壁の裏に薄い治癒振動が走る。
ドランの胸の傷が、一瞬だけ締まる。
彼は膝を受けた。
風壁越しに。
胸が軋む。
血が口元に上がる。
だが、倒れない。
「その程度じゃ、二度目は倒れねえ!」
ドランが吠えた。
その足元で、アゼルの伏星が光る。
「伏星術――反牙星!」
ガルザヴェインの踏み込みが、反発する。
巨体がわずかに浮く。
その一瞬へ、ミトが入った。
「爪牙技――息噛み!」
狙いは肉ではない。
ガルザヴェインの呼吸の隙。
咆哮の前に魔神性が集まる喉元。
ミトの爪がそこへ触れる。
深くは入らない。
だが、息を乱した。
ガルザヴェインの魔神咆哮が、半拍遅れる。
その半拍で、セラが右目を開いた。
全開。
片眼鏡が悲鳴を上げる。
赤金の偽星が視界の端で弾ける。
だが、彼女はもう迷わない。
見ているのは、ガルザヴェインではない。
その背後。
本物のエリラの木へ繋がる道。
そして、魔神戦王が守るために残す最後の線。
「見えた!」
セラが叫ぶ。
「木は正面奥! でも、道は右下から回り込める!」
ロードが白い部屋で叫んだ。
「見るなと言っただろうがああ!」
《外部には聞こえていません》
「聞こえなくても言う!」
しかし、もう遅い。
天蓋の猟犬は、本物の道を掴んだ。
◇
ロウエンが指を裂くほど糸を引いた。
「散犬糸、右下!」
無数の短い空糸が、重泥霧の中を走る。
強く張らない。
重くなる前に切り替える。
糸が道を示す。
アゼルが伏星を置く。
ドランが低い風壁で戻り水を押す。
ミトが匂いを辿る。
ノアの骨拍が、三拍だけ強まる。
連結焼きの火灰が赤く熱を持つ。
だが、ノアは歌わない。
鈴も鳴らさない。
ただ、息を止めた。
繋がる瞬間を、ほんの一拍だけ無音にした。
連結焼きの火灰が、空を焼いた。
発火はした。
だが、焼くべき接続がない。
その一拍の空白で、天蓋の猟犬は右下の道へ滑り込む。
ガルザヴェインが反応する。
「トラセナイ!」
彼は飛んだ。
巨体が、低い道へ向かう。
だが、そこへドランが立った。
胸の傷が開く。
血が流れる。
だが、彼は風壁を張った。
前回、自分を潰した相手へ。
もう一度。
真正面から。
「風壁術奥義――天蓋城壁!」
透明な城壁が、ガルザヴェインの前に立つ。
ガルザヴェインは拳を握る。
「カベ!」
黒牙砕が城壁に叩き込まれる。
風壁が砕ける。
一枚。
二枚。
三枚。
だが、今回の天蓋城壁は、砕けるために作られていた。
砕けた風壁の破片が、逆に風の鎖になってガルザヴェインの腕へ絡む。
「風壁術変式――割鎖!」
ドランが血を吐きながら笑った。
「前と同じだと思うなよ!」
ガルザヴェインの腕が、一瞬だけ止まる。
アゼルの伏星が、その足元で光る。
ミトの匂い印が、ガルザヴェインの踏み込みを縛る。
ロウエンの帰猟線が、全員を一つへ束ねようとする。
連結焼きの火灰が、赤く燃え上がる。
だが、今回はノアが声を解放した。
「狩猟歌奥義――七名帰声」
六人の名ではない。
ロウエン。
セラ。
ドラン。
ミト。
ノア。
アゼル。
そして、リーネ。
七つの名が歌になる。
反響喰いの薄膜が、それを歪めようとする。
だが、七つ目の名はこの場にいない。
反響ではなく、記憶の中にある。
薄膜は、眠るリーネの名を喰いきれない。
連結焼きの火灰が、七つの繋がりを焼こうとする。
だが、七つ目の名は肉体の魔力線ではない。
願いだ。
焦げない。
焦げても、消えない。
その瞬間、天蓋の猟犬は本当に一つになった。
六人で一匹。
そして、眠る一人を背負った七つ目の牙。
ロードが白い部屋で、声を失った。
「……まずい」
フィルエが小さく言う。
「すごい」
ガルザヴェインも、それを感じた。
「ロク、ヒトツ」
彼は金色の目を見開いた。
「チガウ」
七つ。
六人なのに、七つ。
「ナナ、ヒトツ」
ロウエンの空糸が、全員の力を束ねる。
セラの視線が、ガルザヴェインの守護線の結び目を見抜く。
ミトの嗅覚が、踏み込みの匂いを読む。
アゼルの伏星が、足場を一点に集める。
ドランの割鎖が、ガルザヴェインの腕を一瞬止める。
ノアの七名帰声が、全員の息を重ねる。
そして、ロウエンが一歩踏み込んだ。
「天蓋猟奥義――」
空糸が、星を通り、風をまとい、爪の道をなぞり、歌の拍に乗る。
「六牙帰星!」
六つの牙が、一つの星になった。
それは刃ではない。
拳でもない。
槍でもない。
六人の連携そのものを、一本の帰るための牙にした一撃。
ガルザヴェインは逃げなかった。
避けることもできたかもしれない。
だが、避ければ、背後の道が開く。
エリラへ近づかれる。
だから、受けた。
「エリラ、マモル!」
魔神戦王が、両腕を交差する。
黒い魔神性が噴き上がる。
魔神進軍鐘が鳴る。
ごん。
六牙帰星が、魔神戦王へ届いた。
◇
音が消えた。
白い庭の花弁が、空中で止まった。
重泥霧が裂ける。
偽星幕が瞬き、赤金の偽星がいくつも砕ける。
逆星骨が悲鳴を上げるように鳴った。
反響喰いの薄膜が、ノアの歌を喰おうとして破れた。
連結焼きの火灰が、逆に白く燃え尽きた。
ガルザヴェインの両腕が、六牙帰星を受け止める。
黒い魔神性が牙を砕こうとする。
だが、牙は一つではない。
ロウエンの糸を砕けば、ドランの風が押す。
風を砕けば、アゼルの星が刺さる。
星を砕けば、ミトの爪が流れを裂く。
爪を砕けば、セラの視線が次の隙を示す。
隙を潰せば、ノアの歌が全てを繋ぎ直す。
そして、その中心にはリーネの名がある。
ガルザヴェインは、初めて理解した。
これは、一人の強さではない。
アレクは一人で強かった。
記録を守り、仲間の死を背負い、帰るために剣を握った。
天蓋の猟犬は、違う。
六人で強い。
眠る一人のために、六人が一つになる。
その強さは、拳で殴る場所がない。
「ツヨイ」
ガルザヴェインが呟いた。
次の瞬間、六牙帰星が魔神戦王の守りを砕いた。
両腕の魔神性が裂ける。
胸の白銀傷が開く。
ドランの風が押し込み、アゼルの星が内側で弾け、ミトの爪が踏み込みを奪い、ロウエンの空糸が背を引き、セラの視線が最後の隙へ導き、ノアの歌が全てを一拍に合わせる。
ガルザヴェインの巨体が、後ろへ吹き飛んだ。
白い庭石を砕き、偽天猟庭の中央に膝をつく。
片膝。
いや、両膝。
魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェインが、膝をついた。
《警告》
《ガルザヴェイン、戦闘姿勢崩壊》
《魔神性流、乱れ》
《一時戦闘不能》
白い部屋で、ロードの声が掠れた。
「……ガルザヴェイン?」
ガルザヴェインは立とうとした。
立てなかった。
拳を床につく。
黒い血が落ちる。
金色の目は、まだ燃えている。
だが、体が動かない。
「オレ……」
彼は、悔しそうに歯を剥いた。
「マケタ?」
誰も答えない。
だが、事実はそこにあった。
魔神戦王は、天蓋の猟犬の一撃で膝をついた。
◇
天蓋の猟犬も無傷ではなかった。
ロウエンの指は、何本も裂けている。
セラの右目は血で濡れ、もう開けない。
ドランは胸を押さえ、立っているのがやっとだ。
ミトの腕と足から血が流れる。
アゼルの伏星はほとんど尽きた。
ノアの声は震え、七名帰声の反動で唇が切れている。
だが、ガルザヴェインは膝をついた。
道が開いた。
ほんのわずか。
エリラの木へ続く、本物の深部線が見えた。
「今!」
ロウエンが叫んだ。
セラは右目を使えない。
だが、もう見なくても分かる。
さっき見た。
覚えた。
ミトが匂いを掴む。
「こっち!」
アゼルが最後の伏星を置く。
ドランが残った力で低い風を張る。
ノアが短く、リーネの名だけを歌う。
ロウエンは懐から、命摘みの小匙を取り出した。
ついに、その時が来た。
◇
ロードは叫んだ。
「立て! ガルザヴェイン、立て! いや、無理をするな! でも立て! いや、エリラが! あああああ!」
《ガルザヴェイン、一時戦闘不能》
「他の配下を出せ!」
《偽天猟庭損傷大。湿骨軍列、再展開に遅延》
「カゲヌイ!」
《影針展開》
「ハイハネ!」
《灰霧展開》
「グズ!」
《遠隔泥門展開》
「全部だ! 全部出せ!」
しかし、天蓋の猟犬は止まらない。
カゲヌイの影針は、アゼルの最後の星が弾く。
ハイハネの霧は、ミトの鼻とノアの短い歌が抜く。
グズの泥門は、ドランの低い風とロウエンの空糸が隙間を作る。
傷だらけでも、彼らは進む。
赤金の本物へ。
エリラの木へ。
ロウエンが木の前へ辿り着いた。
そこで、彼は乱暴に手を伸ばさなかった。
引きちぎらなかった。
握らなかった。
オルバの言葉を思い出す。
実が落ちたいと思う瞬間を待て。
ロウエンは、小匙を下から差し出した。
セラが、目を閉じたまま言う。
「左の枝。三番目」
ミトが頷く。
「その実、起きる匂い」
ノアが、かすれた声でリーネの名を歌う。
エリラの実が、枝の上で静かに揺れた。
赤金の皮が、淡く光る。
まるで、その名を聞いたように。
そして、ぽとりと落ちた。
命摘みの小匙が、それを受け止めた。
エリラの実、一つ。
天蓋の猟犬の手に渡った。
「取った」
ロウエンが言った。
声が震えていた。
「取ったぞ」
ノアの目に涙が浮かぶ。
ドランが、血を吐きながら笑った。
「リーネに、土産だな」
その瞬間、ロードの絶叫が白い部屋を揺らした。
「取られたああああああ!」
◇
だが、それで終わらなかった。
ガルザヴェインが、膝をついたまま拳を床へ叩きつけた。
最後の抵抗。
木を狙ったのではない。
天蓋の猟犬を逃がさないために、地面を揺らしたのだ。
同時に、アゼルが撤退用の伏星を起動する。
ノアの歌が帰路へ向かう。
ロウエンの帰猟線が全員を引く。
複数の衝撃が、エリラの木の周囲で重なった。
衝撃逃がし膜が、ほとんどを吸収する。
だが、全てではない。
枝の一本が、大きく揺れた。
そこに生っていた実が一つ、枝から外れる。
誰も狙っていなかった。
誰も採ろうとしていなかった。
赤金の実が、くるりと回りながら落ちる。
ロードが白い部屋で叫んだ。
「落ちるな! 落ちるな落ちるな落ちるな!」
ミトが、それを見た。
足元へ転がってくる。
ほとんど反射だった。
彼女は、手を伸ばした。
掴んだ。
エリラの実、二つ目。
ミトは一瞬、目を丸くした。
「……拾っちゃった」
ロウエンが叫ぶ。
「持って走れ!」
「うん!」
ロードの声は、もう悲鳴だった。
「拾うなあああああ! 返せ! それは違う! それは予定外だろうが! 返せえええ!」
だが、天蓋の猟犬は返さない。
一つはリーネのために取った。
もう一つは、偶然落ちた。
だが、手に入ったなら持って帰る。
冒険者だからだ。
◇
ガルザヴェインが、震える拳で床を掴む。
「エリラ……」
立とうとする。
立てない。
魔神戦王は、六牙帰星の衝撃でまだ動けない。
金色の目が、天蓋の猟犬を追う。
「ニコ……トラレタ」
彼は初めて、数字をはっきり言った。
二個。
二つ。
守るはずだった実を。
ロードは、白い部屋で言葉を失った。
《エリラの実、二個外部保持状態》
「……」
《木本体、枯死なし》
「……」
《残存実、多数。翌日再結実可能性、維持》
「……」
そんなことは分かっている。
木は枯れない。
一個でも残れば戻る。
二つ取られても、資源的には致命傷ではない。
だが、そういう話ではない。
守ると決めた。
一個たりとも取らせないと言った。
ガルザヴェインも、エリラを守ると言った。
偽天猟庭も作った。
ソウルも使った。
訓練もした。
それでも、取られた。
二つも。
片方は、偶然に。
「……追え」
ロードの声は、低かった。
《追撃可能戦力、再編中》
「追え」
《ガルザヴェイン、一時戦闘不能》
「ガルザヴェイン以外で追え!」
《湿骨軍列、カゲヌイ、ハイハネ、グズ遠隔門、展開可能》
「全部だ」
ロードの声が、白い部屋に沈む。
「全部使え」
天蓋の猟犬は、エリラの実を二つ抱えて走り出した。
傷だらけで。
息も絶え絶えで。
それでも、帰るために。
リーネを目覚めさせるために。
白い霧が、彼らの背後で閉じ始める。
そして、ロードの怒りが、迷宮全体を震わせた。
「逃がすな」
今度の声は、叫びではなかった。
静かで、重い命令だった。
「その実を持って、外へ出すな」




