第200話 天蓋の猟犬は、眠る仲間の名を背負う
天蓋の猟犬が灰白庭から逃げ帰って、もうすぐ一カ月が経つ。
その間、彼らは誰にも話さなかった。
ギルドにも。
王国にも。
神殿にも。
仲の良い冒険者にも。
酒場の噂好きにも。
灰白庭の奥で何を見たのか。
赤金色の実が生る木があったこと。
それが、エリクサー素材の一つであるエリラの実かもしれないこと。
そして、その木の前に、魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェインが立っていたこと。
何一つ、外には漏らさなかった。
漏らせるはずがない。
彼らは許可証を持たず、封鎖されたSランク相当迷宮へ侵入した。
それが知られれば、処分は避けられない。
資格停止。
取得物没収。
罰金。
王国依頼停止。
神殿からの追及。
最悪の場合、Sランク冒険者であっても犯罪者扱いになる。
だから沈黙した。
沈黙して、準備した。
エリラの実を奪うために。
眠り続ける仲間、リーネを目覚めさせるために。
◇
王都外れの薬草小屋。
その地下で、ドランは立っていた。
上半身は裸。
胸には、まだ生々しい傷跡が残っている。
ガルザヴェインの魔神爪が刻んだ、斜めに走る深い傷。
骨はつながった。
肺も塞がった。
だが、完全ではない。
息を深く吸うと、胸の奥でまだ黒い痛みが鳴る。
「まだ寝てろと言ったはずだが」
老錬金術師オルバ・レントが、椅子に座って言った。
その手には薬草煙管。
火はついていない。
彼は医者ではないと言い張るが、天蓋の猟犬の誰もその言葉を信じていない。
ドランは肩を回した。
ごき、と嫌な音がする。
「立てる」
「立てるのと戦えるのは違う」
「壁は張れる」
「一枚だけならな」
「三枚はいける」
「馬鹿が」
「褒め言葉として受け取る」
「罵倒だ」
オルバは鼻を鳴らした。
ドランは掌を前へ出す。
空気が震え、透明な壁が生まれた。
薄い。
しかし硬い。
以前ほど厚くはないが、形は安定している。
「風壁術――小盾」
透明な風壁が、地下室の空気を押した。
壁は二呼吸ほど保ち、それから消える。
ドランは少し息を吐いた。
額に汗が浮く。
ノアがすぐに近づいた。
「今ので息が乱れてる」
「乱れてない」
「乱れてる」
「少しだけだ」
「少しが命取りになる」
ノアの声は、以前より少しかすれていた。
命継ぎを一晩中歌った代償だ。
喉は治った。
だが、まだ無理はできない。
それでも彼女は、毎日声を整え、歌を取り戻している。
ドランは苦笑した。
「お前も人のこと言えねえだろ」
「私は歌える」
「俺も張れる」
「じゃあ、お互い無理しない」
「冒険者に難しい注文だな」
ノアは、少しだけ笑った。
「今回は、無理しないと帰れない」
「違うな」
ドランは胸の傷に手を当てた。
「無理しても帰るんだ」
◇
隠れ家の作業部屋では、セラが眼鏡を調整していた。
銀縁だった薄眼鏡は、今は片側だけ黒い金属で補強されている。
値星眼を守るための補助具。
名は、オルバが勝手につけた。
偽星避けの片眼鏡。
「名前が気に入らない」
セラが言う。
オルバは薬棚を整理しながら答えた。
「性能に文句がないなら黙れ」
「名前も性能の一部」
「なら自分でつけろ」
「……星濾し」
「弱そうだな」
「うるさい」
セラは片眼鏡をかけ、右目だけで机の上を見る。
そこには、灰白庭から持ち帰った偽果樹園の罠果実がある。
封瓶の中で、赤金色に似せた殻が淡く光っている。
本物ではない。
でも、迷宮がエリラの実を真似ようとして作ったものだ。
だから、構造のヒントになる。
セラの右目に星が浮かぶ。
偽の星。
本物に似せた価値の光。
以前なら、目が引っ張られた。
今は、片眼鏡がその光を少し濾す。
本物の価値と、偽の価値。
その揺れが、少しだけ分かれる。
「見える?」
アゼルが横から聞く。
「見えすぎないようにしてる」
「それは良いこと?」
「今回はね」
セラは右目を閉じた。
まだ少し痛む。
灰白庭の奥でエリラの実を見た時の、焼けるような痛み。
あれは価値が高すぎたからだ。
次に見れば、もっと痛むかもしれない。
それでも、見なければならない。
彼女が見なければ、誰も本物を選べない。
「一つでいい」
セラは言った。
誰に向けた言葉でもなかった。
しかし、部屋にいた全員が聞いた。
「エリラの実は、一つでいい。リーネに繋がる一つ。それだけを取る」
アゼルが頷く。
「欲張らない」
「うん。欲張ったら死ぬ」
「冒険者らしくないね」
「冒険者だから、帰れる分だけ拾う」
セラは、そう言って小さく笑った。
◇
アゼルは星図を作り直していた。
前回、灰白庭の霧と白磁粉に乱された小天蓋。
今回は、天井に星を作るだけでは足りない。
迷宮側は必ず、星落術に対策してくる。
落下点をずらされるかもしれない。
星そのものを吸われるかもしれない。
なら、星を落とす場所を変える。
空からではなく、足元へ。
「星落術じゃなくて、星置術になるね」
ノアが言うと、アゼルは苦い顔をした。
「その名前は嫌だ」
「じゃあ?」
「伏星」
「いいと思う」
「本当?」
「うん。ちょっと格好つけすぎだけど」
「余計な一言」
アゼルは床に小さな星を置いた。
星は落ちない。
床に沈む。
白い点として残る。
「星落術変式――伏星標」
踏めば、一瞬だけ足場になる。
蹴れば、跳躍点になる。
壊されれば、光って帰路を示す。
迷宮が上を潰してくるなら、下に星を埋める。
アゼルはそれを何十個も用意していた。
全部を使うつもりはない。
だが、帰る道は多い方がいい。
灰白庭は帰路を喰う。
なら、帰路を一つにしない。
ロウエンが作業を見て言った。
「何個持つ」
「小さいのを百二十」
「多いな」
「足りないかも」
「持てるか」
「星だから軽い」
「そう言って倒れるなよ」
「倒れたら吊って」
「分かった」
「即答しないで」
◇
ミトは、匂いの地図を作っていた。
紙ではない。
布だ。
灰白庭で拾った空気の残りを染み込ませた布片。
戻り水の匂い。
白磁根の匂い。
赤錆核の匂い。
魔神爪の匂い。
ガルザヴェインの黒い匂い。
偽果実の甘い匂い。
そして、ほんのわずかに残ったエリラの実の匂い。
ミトはそれを、一枚ずつ嗅ぎ分けていた。
「本物は、これ」
彼女は、一番小さな布片を指差す。
ほとんど何も染みていないように見える。
だが、ミトには分かる。
命の甘さ。
果物でも薬でもない匂い。
リーネの保存棺の中の、止まった命に少しだけ似ている匂い。
「次は偽物が増える」
ロウエンが言う。
「たぶん」
「嗅ぎ分けられるか」
「近ければ」
「遠ければ」
「迷う」
ミトは正直だった。
「でも、偽物は疲れる匂い。本物は、起きる匂い」
「起きる匂い?」
「うん。寝てる体が、目を開ける前の匂い」
ロウエンは黙った。
ミトの言葉は、他人には分かりにくい。
だが、外れたことは少ない。
彼女がそう言うなら、エリラの実はやはりリーネに繋がる。
ミトは、足首の包帯を見た。
前回、影針を引き受けた足だ。
もう走れる。
痛みは少し残る。
だが、それも匂いの一つとして覚えた。
「次は、足を止めない」
「無理はするな」
「する」
「するな」
「必要ならする」
ロウエンはため息をついた。
「全員そう言う」
「猟犬だから」
◇
ロウエンは、新しい空糸を編んでいた。
普通の糸ではない。
魔獣の腱。
星銀の粉。
白骨水晶片を削った粉。
偽果実の殻から取った薄皮。
そして、ほんの少しだけ赤錆核を封じた粉。
危険な素材だ。
扱いを間違えれば、糸そのものが自分の指を喰う。
だが、灰白庭の重い空間を抜けるには、前回の糸では足りない。
ロウエンは指先を切り、血を一滴だけ糸へ落とした。
空糸が、かすかに震える。
名をつける。
「空糸技用新糸――帰猟線」
帰るための猟の糸。
拾うためだけではない。
逃げるためだけでもない。
仲間全員を、宝ごと外へ戻すための糸。
セラがそれを見て言った。
「切れそう?」
「切れる」
「即答」
「切れない糸はない。だから、切れても繋がるようにする」
ロウエンは、糸の束を六つに分けた。
六人分。
さらに、小さな七つ目を作る。
それを見たノアが、静かに言った。
「リーネの分?」
「ああ」
実際にリーネを連れていくわけではない。
だが、彼女の名を帰る理由に含める。
前回、軍帰路喰らいの刃は帰還線を斬った。
だが、七つの理由があったから、完全には切れなかった。
今回も同じだ。
いや、もっと強くする。
自分たちは六人ではない。
眠っている一人も含めて、七人で帰る。
ロウエンは、その七つ目の糸を丁寧に巻いた。
◇
出発前夜。
天蓋の猟犬は、リーネの保存棺へ集まった。
透明な棺の中で、リーネは眠っている。
顔色は変わらない。
息もほとんど分からない。
でも、生きている。
そのことを、全員が知っている。
オルバが、棺の横に立っていた。
手には、小さな採取具。
銀白色の柄。
先端に、花弁のような小さな器。
白骨水晶片、偽果実の殻、星銀粉、命を鎮める薬糸。
それらを組み合わせた、エリラの実を傷つけずに摘むための道具。
名は、オルバが勝手につけた。
命摘みの小匙。
「名前が嫌だ」
セラが言う。
オルバは怒鳴った。
「道具を作ったのはわしだ。名もわしがつける」
「もう少し格好よく」
「馬鹿が。神級素材は格好つけて採るものではない。丁寧にすくうものだ」
ロウエンが小匙を受け取る。
「使い方は」
「実の枝を切るな。実を握るな。引っ張るな。下から受けろ。実が落ちたいと思う瞬間を待て」
「木の気分待ちか」
「神級素材とはそういうものだ」
「失敗したら」
「実が傷む。迷宮に気づかれる。お前らが死ぬ」
「分かりやすい」
「分かっているなら死ぬな」
オルバは、珍しく真面目な声で言った。
「一つでいい。一つ持って帰れ。それで、エリクサーへの道が開く」
ノアが、リーネの棺へ手を置いた。
「リーネ」
声は、ほとんど歌だった。
「行ってくる」
ドランが胸の傷を押さえながら笑う。
「今度は、ちゃんと土産持って帰る」
ミトが棺の硝子へ額をつける。
「起きたら、走ろう」
アゼルが天井に小さな星を一つ置く。
「戻るまで消えないようにする。今度は、前より強いやつ」
セラは、片眼鏡越しにリーネを見た。
「待ってて。今度は本物を取る」
ロウエンは、最後に言った。
「俺たちは冒険者だ」
リーネは答えない。
「誰も行かない場所へ行って、誰も拾えないものを拾って帰る」
答えない。
「お前がそう言ったんだ」
ロウエンは、命摘みの小匙を懐にしまった。
「だから、拾って帰る」
◇
翌未明。
天蓋の猟犬は、再び王都を出た。
許可証はない。
正面から行く気もない。
王国にも、ギルドにも、神殿にも知らせない。
灰白庭で見たものは、彼らだけの秘密。
そして今から取りに行くものも、彼らだけの秘密にする。
古い水路跡へ向かう途中、誰も軽口を叩かなかった。
怖いわけではない。
いや、怖い。
怖くないはずがない。
前回、彼らは死にかけた。
ドランは本当に死の淵まで行った。
ノアは喉を潰しかけた。
ミトも、セラも、ロウエンも、アゼルも傷を負った。
そして、迷宮はきっと変わっている。
罠も、霧も、骨も、泥も、歌への対策も、星への対策も、すべて変わっている。
それでも、行く。
行かない理由はたくさんある。
だが、行く理由は一つで足りる。
リーネを、もう一度起こす。
もう一度、七人で冒険する。
ロウエンは、森の闇の向こうに見える白い霧を見た。
「確認する」
六人が止まる。
「目的はエリラの実、一つ」
セラが頷く。
「一つでいい」
「リーネに繋がる一つだ」
ノアが言う。
「誰かが死ぬなら撤退」
ドランが言う。
「実より仲間」
ミトが続ける。
「でも、取れるなら取る」
アゼルが小さく笑う。
「取って帰る」
ロウエンは頷いた。
「行くぞ」
天蓋の猟犬は、白い霧へ向かった。
前回とは違う。
今回は、迷宮に宝があるかどうかを確かめに行くのではない。
あると知っている。
そこにエリラの実があると知っている。
だから、奪いに行く。
六人は、霧の手前で一度だけ足を止めた。
そして、同時に踏み込んだ。
灰白庭が、静かに口を開けた。




