第199話 偽天猟庭は、猟犬の再来を待つ
天蓋の猟犬が逃げた。
その事実は、白い部屋の中央に、まだ残っていた。
エリラの実は奪われなかった。
赤金色の実は、今日も魔神契約跡の木に生っている。
一つでも残しておけば、翌日には百個前後まで戻る。
今朝の結実数は、百五個。
通常採取分として十個だけ回収し、残りは九十五個。
木は枯れていない。
傷ついてもいない。
その意味では、守れた。
だが、それで勝ったと言えるほど、余は楽観できなかった。
見られた。
値星眼のセラに、赤金の実を見られた。
獣嗅ぎのミトに、命の甘い匂いを拾われた。
ノアに、リーネという眠る仲間へ繋がる希望として認識された。
そして、ロウエンは言った。
次は取る、と。
あの猟犬どもは戻ってくる。
必ず戻ってくる。
「白骨書記」
余が呼ぶと、白骨書記が骨筆を三本持って現れた。
「天蓋の猟犬、初回侵入記録を出せ」
白骨書記は、骨板を並べた。
⸻
天蓋の猟犬、初回侵入記録。
侵入経路:封鎖線外、古い水路跡。
目的:高位素材探索。途中よりエリラの実奪取へ変化。
到達地点:エリラの木防衛圏手前。
結果:エリラの実、未採取。
天蓋の猟犬、全員生還。
ドラン、重傷。
ミト、負傷。
ロウエン、指裂傷。
セラ、値星眼に負荷。
ノア、魔力および喉に大負荷。
アゼル、小天蓋術式に乱れ。
ガルザヴェイン、重傷。
評価:
侵入阻止、失敗。
深部秘匿、部分失敗。
エリラの実防衛、成功。
撤退阻止、失敗。
⸻
「……失敗の文字が多い」
《事実です》
「管理音声、今は黙れ」
《はい》
白骨書記は、さらに骨板を出した。
⸻
迷宮側課題。
一、Sランクパーティーへの撤退阻止能力不足。
二、価値感知対策不足。
三、空糸、風壁、歌、星落術、嗅覚への個別対策不足。
四、ガルザヴェイン単独防衛への依存過多。
五、エリラの木周辺で戦闘が発生した場合、木および果実への損傷危険。
六、帰路喰らい単独では、天蓋の猟犬の帰還連携を断ち切れない。
⸻
「十分だ」
余は、白い部屋の壁面を切り替えた。
深部。
魔神契約跡。
赤金色の幹を持つエリラの木。
木は静かだった。
葉は赤く、裏側は金色。
枝に生る実は、見ているだけで甘い香りを思い出す。
神級素材。
エリクサー素材の一つ。
あれを一個たりとも取らせてはならない。
全部採れば木は枯れる。
一つでも残れば、翌日には戻る。
だから、資源としての運用はできる。
だが、外へ出すわけにはいかない。
特に、天蓋の猟犬には。
奴らは無許可侵入者だ。
王国にも、ギルドにも、神殿にも、エリラの実を見たとは言えない。
言えば、自分たちの罪を晒すことになる。
だから、すぐに国が動くわけではない。
そこはまだよい。
問題は、あいつらだけが秘密を知ったことだ。
秘密を知ったSランクパーティー。
しかも、眠る仲間を目覚めさせるために、それを必要としている者たち。
金だけなら諦める者もいる。
名誉だけなら引く者もいる。
だが、仲間の命と希望が絡んだ冒険者は、しつこい。
とても、しつこい。
「方針を変える」
余は言った。
「次は、エリラの木の前で戦わせない」
《専用迎撃区画の形成ですね》
「そうだ。あの木の前で戦うから危ない。ならば、木へ到達する前に、あの猟犬どもを誘い込む場所を作る」
フィルエの声が森灰観測室から届いた。
「ロード、落ち着いてる」
「十分取り乱したからな」
「うん。すごかった」
「忘れろ」
「無理」
「忘れろ」
白骨書記が骨板に書く。
⸻
ロード、天蓋の猟犬初回侵入時、深部防衛にて顕著な混乱。
⸻
「記録するな!」
◇
ダンジョン新聞の取引欄で買ったものは、高かった。
偽星幕の種。
重泥霧の胞子。
逆星骨。
反響喰いの薄膜。
連結焼きの火灰。
合計、6,800,000ソウル。
さらに、それを迷宮へ定着させるために、追加でソウルが要る。
余の保有ソウルは、ごっそり減った。
だが、必要経費だ。
エリラの実は、ソウルに換算していいものではない。
あれは、迷宮の未来そのものだ。
「管理音声、偽天猟庭の形成状況を出せ」
《表示します》
⸻
新規迎撃区画:偽天猟庭。
目的:
天蓋の猟犬をエリラの木から離れた場所へ誘導。
価値感知を撹乱。
パーティー連携を焼く。
帰還連携を歪める。
ガルザヴェインが暴れても、エリラの木に影響を出さない戦場を確保。
導入済み要素:
偽星幕:価値反応の散乱、偽の赤金反応を生成。
重泥霧:空糸、風壁、浮遊足場、空中退避に重さを付与。
逆星骨:星落術の落下点を歪め、衝撃を骨で受ける。
反響喰いの薄膜:歌、音、帰路記録、治癒補助の反響を歪める。
連結焼きの火灰:複数人の連携魔力が強まる瞬間、接続部を焼く。
⸻
「よし」
偽天猟庭は、美しい区画になった。
腹立たしいほどに美しい。
白い庭園。
赤金に見える薄い光。
奥に見える一本の木影。
散る白磁花。
細く流れる戻り水。
天井には、星のない淡い黒幕。
その内側に、偽星幕が張られている。
値星眼で見れば、いくつもの赤金の星が浮かぶはずだ。
だが、本物は一つもない。
完全な偽物でもない。
エリラの木そのものではなく、エリラの木が迷宮に与えた生命反応の残響を、ごく薄く写したもの。
だから、セラの目には価値があるように見える。
ただし、本物ではない。
彼女は見抜くだろう。
見抜いてもいい。
見抜くまでに時間を使う。
目を使う。
血を流す。
それでいい。
偽天猟庭の床下には、重泥霧が循環している。
普段は軽い。
普通に歩くだけなら、気づきにくい。
だが、ロウエンが空糸を強く張った瞬間。
ドランが風壁を広げた瞬間。
アゼルが空中足場を作った瞬間。
その空間に、泥の重さが乗る。
空を使うなら、空を重くする。
風を使うなら、風に泥を混ぜる。
糸を使うなら、糸に湿りを絡める。
壁には、反響喰いの薄膜を張った。
ノアの歌は、ただの音ではない。
命を繋ぐ。
帰路を覚える。
影針を眠らせる。
仲間の呼吸を揃える。
ならば、歌が通ったと思わせたまま、少しだけ違う意味で返す。
完全に消せば警戒される。
少しだけずらす。
歌い手が気づく頃には、仲間の足が半歩遅れているように。
骨には、逆星骨を混ぜた。
アゼルの星が落ちれば、その落下点をずらす。
衝撃を骨へ逃がす。
星の力を、別の罠の起動へ回す。
そして、連結焼きの火灰。
これが、偽天猟庭の牙だ。
天蓋の猟犬は、一人一人でも強い。
だが、本当に恐ろしいのは、六人が繋がった瞬間。
空糸が全員を結ぶ。
歌が呼吸を揃える。
星が足場を作る。
風壁が守る。
鼻が道を嗅ぎ、目が価値を選ぶ。
その瞬間、六人は一匹の猟犬になる。
ならば、その繋がった瞬間を焼く。
支え合うほど、焦げる。
守り合うほど、痛む。
帰ろうとするほど、連結が熱を持つ。
それが、連結焼きの火灰だ。
◇
「ロード」
魔神練兵窟から、ガルザヴェインの声が届いた。
「何だ」
「ウゴキ、ミタイ」
「訓練か」
「ウン」
余は壁面を切り替えた。
魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェインは、すでにかなり回復していた。
前回の戦闘で受けた傷は残っている。
だが、それは弱点というより戦歴だ。
ドランの風壁を砕いた反動。
アゼルの星で開いた肩。
ミトの爪が入った足首。
ロウエンの空糸に結ばれた傷。
ノアの歌で乱された咆哮。
それらは闘傷成長によって、少しずつ彼の経験になっている。
次は、同じようには受けない。
だが、それでも十分ではない。
「偽天猟庭へ来い」
「ワカッタ」
ガルザヴェインが、偽天猟庭へ入る。
赤金の偽反応が揺れる。
本物のエリラの木は、その奥のさらに奥で守られている。
ガルザヴェインは、それを理解していた。
「ココ、ニセ?」
「そうだ」
「エリラ、アッチ」
「ああ」
「イヌ、ココ、クル」
「来させる」
「ソコ、タタカウ」
「そうだ」
ガルザヴェインは頷いた。
「ワカッタ」
「次は、お前一人で受けるな」
「オレ、マモル」
「守るのはよい。だが、守り方を変える」
「カエル?」
「違う。戦場を使え」
余は、偽天猟庭に天蓋の猟犬の動きを再現した。
ロウエンの空糸もどき。
ドランの風壁もどき。
セラの視線誘導。
ミトの回り込み。
ノアの歌の擬似反響。
アゼルの星落。
白骨書記の記録術と迷宮の簡易再現だ。
本物には遠く及ばない。
だが、動きを覚えるには使える。
「見ろ」
ガルザヴェインは、黙って見た。
「こいつらは、一人ずつではない。六人で一匹の獣だ」
「ロク、ヒトツ」
「そうだ。お前が拳を振るうと、ドランが受ける。ドランを押すと、ノアが支える。ノアを狙うと、ロウエンが糸でずらす。糸を切ると、アゼルが星を落とす。星を避けると、ミトが足を噛む。セラが弱い場所を見る」
「メンドウ」
「非常に面倒だ」
「ドウスル」
「一人を倒そうとするな。繋がる瞬間を壊せ」
ガルザヴェインは、少し考えた。
「ツナガル、トキ、ナグル」
「そうだ」
「ロク、ヒトツ。ヒトツ、ワル」
「そうだ」
理解が早い。
アレクと戦った後、そして天蓋の猟犬と戦った後、ガルザヴェインは明らかに変わった。
ただ強いものに突っ込むのではない。
敵の強さがどこから来るのかを、少しずつ考えるようになっている。
「始めるぞ」
「ウン」
訓練が始まった。
最初に、ロウエンの空糸もどきがガルザヴェインの足へ絡む。
ガルザヴェインは足を上げて引きちぎろうとした。
だが、それでは次の風壁もどきに押される。
「足元だけを見るな」
「ム」
「糸の先を見ろ。糸は、お前の足を取るだけではない。次に仲間を動かすためにある」
「ツギ」
「そうだ。次を殴れ」
もう一度。
今度は、ガルザヴェインが糸そのものではなく、糸が引く方向を見た。
そこへ拳を置く。
空糸もどきが切れる。
「よし」
次は、ドランの風壁もどき。
前回なら、真正面から黒牙砕で叩いた。
今回は違う。
「砕くだけでは駄目だ。反動を利用される」
「ドウスル」
「重泥霧を使え。風壁を沈めろ」
「シズメル」
ガルザヴェインは、足元の重泥霧を踏んだ。
魔神性で押し潰す。
それを拳へまとわせる。
風壁もどきへ、殴るのではなく押しつけた。
透明な壁が、泥の重さを帯びて下へ沈む。
「オモイ、ツカウ」
「そうだ」
次は、ノアの歌もどき。
ガルザヴェインは咆哮で消そうとした。
「それも前回やった。効くが、相手は対策する」
「ジャア?」
「歌を消すな。返る音をずらせ」
反響喰いの薄膜へ向けて、ガルザヴェインが咆哮を当てる。
歌もどきが壁で反射し、少しだけ意味を変えて戻る。
擬似ノアの旋律が乱れた。
ガルザヴェインが笑う。
「ズレタ」
「そうだ。それを覚えろ」
少しずつ。
ガルザヴェインは、六人相手の戦い方を覚えていった。
拳だけではない。
場を使う。
罠を使う。
重さを使う。
反響を使う。
傷を使う。
それは、魔神戦王として必要な学習だった。
◇
それからの日々、迷宮は休まなかった。
無許可侵入者は相変わらず来る。
低ランクは浅層で死ぬ。
Bランク素材狩りは戻り水に沈む。
闇市系は中層で骨になる。
Aランク相当の者も、たまに来た。
そういう者は、偽天猟庭の試験材料にした。
もちろん、天蓋の猟犬には遠く及ばない。
だが、風系魔術師。
弓使い。
回復術師。
罠師。
連携型傭兵隊。
そういう個体を入れて、偽天猟庭の挙動を確認した。
結果は上々だった。
価値反応に迷う。
空中移動が重くなる。
歌や呪文の反響がずれる。
連携魔力が焼ける。
星術に似た落下魔術は、逆星骨で散らせる。
Aランク相当では、耐えられない。
問題は、Sランクが耐えることだ。
それでも、前よりはましだ。
何もしないよりは、はるかにましだ。
白骨書記は、毎日記録した。
⸻
偽天猟庭、試験結果:
Aランク相当侵入者、四名処理。
Bランク混成隊、全滅。
風系魔術師、重泥霧で墜落。
歌術師、反響喰い薄膜で詠唱ずれ。
連携型傭兵隊、連結焼き火灰で崩壊。
落下魔術師、逆星骨により術式反転、死亡。
課題:
Sランク相当の耐性は未検証。
⸻
「最後の課題が重い」
《はい》
「だが、本番で検証するしかない」
《はい》
天蓋の猟犬は戻ってくる。
その予測に変化はない。
正確な日付は分からない。
だが、ドランの傷が癒え、ノアの声が戻り、セラの目が休まり、ロウエンの空糸が編み直された頃。
彼らは来る。
リーネを起こすために。
エリラの実を奪うために。
今度は、必ず採取具を持ってくる。
エリラを傷つけず、外へ持ち出すための道具を。
「管理音声」
《はい》
「エリラの枝に、衝撃逃がし膜を張れ」
《目的は》
「戦闘の余波で実が落ちるのを防ぐためだ。枝を縛るな。木が嫌がる」
フィルエがすぐに答えた。
「強く縛ると嫌がると思う」
「なら、揺れを殺すのではなく逃がせ」
《エリラ枝用衝撃逃がし膜を形成》
「よし」
それでも、絶対ではない。
戦闘が起きれば、何があるか分からない。
ガルザヴェインが殴る。
ドランが受ける。
アゼルの星が落ちる。
ロウエンの糸が走る。
その衝撃で、実が落ちるかもしれない。
その時、拾われたら。
「……駄目だ」
余は呟いた。
「一個たりとも取らせん」
フィルエが静かに言う。
「ロード」
「何だ」
「全部を完璧には防げない」
「分かっている」
「でも、守るためにできることは増えた」
「ああ」
「それで戦うしかない」
「……そうだな」
フィルエは、こういう時に余の思考を戻す。
すべてを防ごうとして固まる余に、できることとできないことを分けさせる。
ありがたい。
少し腹立たしいが、ありがたい。
◇
天蓋の猟犬が逃げてから、もうすぐ一カ月が経とうとしていた夜。
白い部屋に、静かな警告が出た。
《外縁、微弱な観測反応》
「天蓋の猟犬か?」
《未確定》
「場所は」
《封鎖線外、古い水路跡周辺》
余は、壁面を拡大した。
白い霧の外。
森の奥。
古い水路跡。
誰もいない。
少なくとも、目には見えない。
だが、そこに薄い星のような魔力が残っていた。
アゼルか。
いや、セラかもしれない。
あるいは、ロウエンの空糸か。
とにかく、偵察が来ている。
まだ本隊ではない。
だが、近い。
「来るな」
《高確率》
「何日以内だ」
《三日以内の可能性が高いです》
余は笑った。
今度は、取り乱さなかった。
怖くないわけではない。
不安がないわけでもない。
だが、準備はした。
ソウルを使った。
取引をした。
偽天猟庭を作った。
ガルザヴェインを訓練した。
エリラの木を守る準備もした。
できることはやった。
「白骨書記」
白骨書記が骨筆を構える。
「新しい台帳だ」
⸻
天蓋の猟犬、再侵入迎撃記録。
目的:
エリラの実防衛。
侵入者全滅。
エリラの実外部流出阻止。
ガルザヴェイン再戦記録。
偽天猟庭実戦運用。
注意:
天蓋の猟犬は一人も侮らない。
撤退力を最重要警戒。
エリラの実は一個たりとも取らせない。
戦闘衝撃による落果にも注意。
⸻
「よし」
余は、深部のエリラの木を見た。
赤金の実が静かに揺れている。
偽星幕の奥に、本物の命の光がある。
それを狙って、猟犬が来る。
六つの牙を持つ、Sランクの猟犬が。
「来い」
余は言った。
「今度こそ、余の腹で噛み砕いてやる」
だが、白い霧の外で、見えない誰かが同じように思っている気がした。
今度こそ、取る。
その気配が、夜の森に残っていた。




