第198話 猟犬は、傷を隠して牙を研ぐ
天蓋の猟犬は、王都へ正面から戻らなかった。
戻れるはずがなかった。
彼らは許可証なしで灰白庭へ入った。
Sランク相当迷宮として封鎖されている場所へ、王国にも、ギルドにも、神殿にも報告せず、勝手に侵入した。
それが露見すれば、Sランクパーティーであってもただでは済まない。
資格停止。
罰金。
取得物の没収。
王国依頼の停止。
神殿管理素材の不正探索容疑。
最悪の場合、冒険者ではなく犯罪者として扱われる。
だから、彼らは封鎖線へは戻らなかった。
古い水路跡を抜け、森の獣道を通り、王都の外壁近くにある廃れた薬草小屋へ向かった。
そこは、天蓋の猟犬が何年も前から使っている隠れ家だった。
公には存在しない。
ギルドにも届けていない。
怪我をした時、追われた時、拾ったものをすぐには見せたくない時。
そういう時のための場所だった。
今回は、すべてに当てはまった。
◇
ドランは、扉をくぐる前に一度死にかけた。
ノアの歌が途切れたのだ。
ほんの一拍。
それだけだった。
だが、その一拍で、ドランの胸から血が噴いた。
潰れた肺が、もう一度潰れようとする。
折れた肋骨が、内側へ沈もうとする。
ノアは膝から崩れかけながらも、喉を押さえて歌を繋いだ。
「癒歌奥義――命継ぎ、二重」
声が掠れている。
普通なら、もう歌えない。
それでも、ノアは歌った。
ドランの胸に、淡い光が縫い込まれる。
傷が治るわけではない。
砕けた骨が完全に戻るわけでもない。
ただ、死へ落ちる速度を遅らせる。
命を、糸一本で引き戻し続ける。
「寝かせろ!」
ロウエンが言った。
ドランの巨体を、空糸で支えながら奥の処置台へ運ぶ。
ミトは足を引きずりながら扉を閉めた。
セラは右目を布で押さえている。
血涙は止まりかけていたが、まだ視界は揺れていた。
アゼルは小天蓋を展開しようとして、指先の星が一つも浮かばないことに気づいた。
「くそ……」
彼は壁にもたれた。
星図が焼けている。
魔力の回路が、迷宮内で無理をしすぎたせいで乱れていた。
だが、今は自分のことなど後回しだった。
「ノア、持つか」
ロウエンが問う。
「持たせる」
ノアは短く答えた。
「どれくらい」
「今夜」
「一カ月は?」
「私一人じゃ無理」
ノアはドランの胸へ手を当てた。
歌が細く続いている。
「骨は戻せる。肺も塞げる。血も止められる。でも、あれは魔神性が入ってる。傷口の奥で、まだ黒い爪が噛んでる」
ミトが低く唸った。
「あのゴブリンの爪、嫌な匂いだった」
「魔神戦王だ」
セラが言った。
右目を押さえたまま、彼女は処置台のドランを見た。
「ただの魔神ゴブリンじゃない。王都の記録にあったガルザヴェインより、もっと整ってた。迷宮の守護役になってた」
ロウエンは無言で頷いた。
彼も見た。
ガルザヴェインは、ただの魔物ではなかった。
エリラの木を背にしていた。
動かされても戻った。
傷を受けても守った。
そして、木を傷つけないように戦っていた。
あれは偶然ではない。
あの魔神は、迷宮と契約している。
ロウエンは、その言葉を口にはしなかった。
口にすれば、重くなりすぎる。
ただ、心の中では確信していた。
灰白庭は、魔神戦王を飼っている。
◇
夜が深くなる頃、隠れ家に一人の老人が来た。
白い髭。
曲がった背中。
薬草と酒と古い紙の匂い。
リーネの師匠だった錬金術師、オルバ・レント。
ギルドに所属していない。
王国の薬師名簿にも今は載っていない。
腕は確かだが、性格が悪く、口も悪く、王都の正式な薬師たちからは嫌われている。
つまり、天蓋の猟犬にとっては信用できる相手だった。
オルバは処置台のドランを見るなり、顔をしかめた。
「馬鹿どもが」
「挨拶は後にしてくれ」
ロウエンが言う。
「これ以上の挨拶があるか。見ろ、この傷。胸を開かれて、肺を潰されて、魔神性まで噛んでおる。よく生きて帰ったな」
ノアが、かすれた声で言った。
「生かしてます」
「お前も馬鹿だ。喉が裂けかけておる」
「後で診てください」
「今診る」
「先にドラン」
「同時に診る」
オルバは乱暴に薬箱を開いた。
中から、黒い粉、青い針、銀色の糸、奇妙な臭いのする軟膏を取り出す。
「ノア、歌を弱めろ。全部お前が抱えるな。わしの薬で半分持つ」
「できますか」
「できなければ来ておらん」
ノアは少しだけ歌を弱めた。
その瞬間、ドランの胸がまた不自然に沈みかける。
オルバが黒い粉を傷口へ叩き込んだ。
じゅう、と煙が上がる。
魔神性が粉と反応して黒く泡立つ。
「魔神爪の残りだ。取るぞ」
銀の糸が、傷口の奥へ入る。
ドランの体が跳ねた。
意識はない。
だが、痛みに体が反応する。
ミトが彼の腕を押さえた。
「ドラン、ごめん」
アゼルも反対側を押さえる。
ロウエンは空糸で処置台ごと固定する。
セラは目を逸らさなかった。
ノアは、かすれた歌で命を繋ぐ。
オルバは、銀糸を引いた。
黒い爪のような魔力片が、傷口から引きずり出される。
空気が重くなる。
ミトが顔をしかめた。
「臭い」
「黙れ、獣鼻。吸うな」
「吸いたくない」
オルバは魔力片を青い瓶へ入れ、すぐに封をした。
「こいつは危険だ。売れば高い」
「売らない」
ロウエンが即答した。
「分かっておる。分析する」
オルバは次に青い針をドランの胸へ刺した。
胸骨の位置を整える。
肺の穴を塞ぐ。
血を止める。
ノアの歌が少しずつ安定する。
長い処置だった。
夜が明ける直前、ようやくドランの呼吸が深くなった。
生きている。
まだ危険だが、死の淵からは少し離れた。
ノアはその場で倒れた。
ミトが慌てて支える。
「ノア!」
「寝ただけだ」
オルバが言った。
「喉を潰しかけて、命歌を一晩続けた。死んでいないだけ褒めてやれ」
ロウエンは小さく息を吐いた。
「助かるか」
「誰が」
「二人とも」
「ドランは一カ月。動けるまで一カ月。戦えるまでなら、本来は三カ月と言いたいところだが、お前たちは聞かんだろう」
「一カ月で戦えるようにしてくれ」
「ほら聞かん」
オルバは舌打ちした。
「ノアは一週間はまともに歌うな。無理をすれば声を失う」
「一カ月後には?」
「歌える。だが、次に同じことをすれば、喉ではなく命が減る」
ロウエンは頷いた。
「分かった」
「分かっておらん顔だ」
「分かっている」
「嘘をつけ」
◇
ドランの処置が終わった後、六人は、いや、意識のある五人は地下室へ移った。
隠れ家の地下には、リーネの保存棺へ繋がる小さな部屋がある。
直接リーネの眠る場所ではない。
もし追跡された時に、リーネの居場所を守るための中継部屋だ。
そこに、今回拾ったものを並べた。
白骨水晶片。
赤錆核。
偽果樹園の罠果実。
白磁核片。
骨星結晶。
そして、ドランの胸から抜いた魔神爪の魔力片。
オルバは、それらを一つずつ見た。
「よくまあ、これだけ拾って生きて戻ったな」
「足りない」
セラが言った。
右目には治療用の布が巻かれている。
それでも、彼女は素材の位置を正確に把握していた。
「本命は取れてない」
「本命とは」
オルバが問う。
部屋の空気が変わる。
ロウエンは、少し間を置いて答えた。
「赤と金の実だ」
「実?」
「深部に木があった。魔神が守っていた。セラの目では、神薬系。いや、それ以上の反応だった」
オルバの眉が動いた。
「形は」
セラが答える。
「丸い。赤と金が混じってる。木は白くない。赤金色の幹。葉は赤と金。甘い匂い。命の星に見えた」
ミトが続ける。
「果物みたい。でも薬みたい。命の匂い。リーネの匂いに少し近い」
ノアは眠っている。
だが、彼女が意識を保っていたら、同じことを言っただろう。
オルバの顔色が、わずかに変わった。
彼は何も言わず、古い革袋から一冊の本を取り出した。
錆びた金具のついた、分厚い薬草記録。
ページは黄ばみ、文字はかすれている。
彼は数枚めくり、ある頁で指を止めた。
そこには、赤金色の実の絵があった。
粗い絵だ。
だが、セラは息を呑んだ。
「これ」
ロウエンが本を覗き込む。
オルバが低く言った。
「エリラの実」
部屋が静まり返る。
「神級素材だ」
セラの手が震えた。
「やっぱり」
オルバは続ける。
「エリクサーの素材の一つ。五つ必要な神級素材のうちの一つ。普通なら、伝説や詐欺師の口上にしか出てこない」
ロウエンが言う。
「リーネは」
「完全なエリクサーなら、可能性はある」
「エリラの実だけでは?」
「足りん。だが、道は開く。五つのうち一つが本物なら、残り四つを探す理由が生まれる」
ミトが小さく言った。
「リーネ、起きるかも」
誰もすぐには答えられなかった。
希望は、危険だ。
軽く口にすれば、折れた時に刺さる。
だが、希望は確かにそこにあった。
灰白庭の深部。
魔神戦王が守る木。
赤金の実。
エリラの実。
「報告はできないな」
アゼルが言った。
オルバが鋭い目で彼らを見る。
「お前ら、許可証は」
誰も答えない。
オルバは額を押さえた。
「馬鹿どもが」
「知ってる」
ロウエンが言った。
「報告すれば、無許可侵入が露見する。素材も王国か神殿に押さえられる」
セラが続ける。
「リーネには届かなくなる」
「だから黙るのか」
「黙る」
オルバは、深いため息をついた。
「お前らは本当に冒険者だな」
「褒めてるのか」
「罵っている」
「どっちでもいい」
ロウエンは本の絵を見た。
赤金の実。
エリラの実。
目の前まで行った。
届かなかった。
次は届かせる。
◇
会議は、夜明け後まで続いた。
ノアとドランは眠っている。
それでも、残る四人とオルバで作戦の骨を組む。
「一カ月だ」
ロウエンが言った。
「ドランが動けるまで、一カ月」
オルバが嫌そうに顔をしかめる。
「本来は三カ月と言ったぞ」
「一カ月で、最低限動けるようにしてくれ」
「死にに行く気か」
「取りに行く」
「同じだ」
アゼルが卓上に星図を広げた。
「迷宮側も変わるよ。僕たちが逃げた。エリラを見た。次に備えるはず」
セラが頷く。
「値星眼対策は絶対してくる。偽の価値、偽の空白、価値反応の散乱。たぶん、次はもっと見にくい」
ミトが言う。
「匂いも変える。甘いのを隠す。偽物も増やす」
ロウエンは空糸を指に巻く。
「帰路も潰してくる。ノアの歌、俺の空糸、アゼルの星、ミトの嗅覚。全部対策される」
「じゃあ、どうする」
アゼルが問う。
ロウエンは、少し笑った。
「対策される前提で、さらに対策する」
セラも笑った。
「嫌な言い方」
「冒険者の仕事だ」
まず必要なのは、エリラの実を傷つけずに採取する道具。
オルバが言った。
「神級素材は、普通の採取具で触るな。実が拒むか、迷宮が反応する」
「道具は作れるか」
「材料がいる」
「何が」
「白骨水晶片。骨星結晶。あと、赤錆核は少しだけ使う。魔神爪片は絶対に入れるな。あれは守護反応を呼ぶ」
「なら、使わない」
「エリラの実を採るなら、命を鎮める器がいる。お前らが持ち帰った罠果実も、殻の構造だけ使える」
セラが頷く。
「偽果樹園の実を拾った意味が出た」
「偽物でも、迷宮がエリラを真似ようとしたものだ。構造の手がかりにはなる」
次に、ガルザヴェイン対策。
ドランがいなければ戦線は維持できない。
だが、ドラン一人に受けさせれば、また潰される。
ロウエンは言った。
「次は、ガルザヴェインを倒そうとしない。動かす。離す。木から引き剥がす」
ミトが首を振る。
「あいつ、守る匂いが強い。離れても戻る」
「だから、戻る道を塞ぐ」
アゼルが目を細める。
「ガルザヴェインを閉じ込める?」
「短時間だけでいい」
セラが言う。
「木との間に価値のない空白を作る。あいつは木を見てる。視界と匂いと命令を遮れば、一拍遅れるかも」
ミトが考える。
「匂い遮り、必要」
ノアが起きていれば、歌による撹乱も入れられる。
ただし、ノアの喉は休ませなければならない。
なら、歌に頼りすぎない手段がいる。
アゼルが言った。
「僕の小天蓋、次は乱される。星落対策も来るはず。だから、天井じゃなく足元に星を仕込む」
「足元?」
「落とす星じゃなく、踏む星。罠に見えるけど、実は僕たちの逃走点になる」
ロウエンは頷いた。
「帰路を複数にする」
「うん。迷宮が一つ斬っても、別の道へ飛べるようにする」
オルバは、あきれた顔で言った。
「お前ら、取ることより帰ることを先に決めておるな」
「当たり前だ」
ロウエンが言う。
「取って帰らなければ、拾ったことにならない」
それが冒険者だった。
◇
昼頃、ドランが一度だけ目を覚ました。
顔は青白い。
声は掠れている。
「……取れたか?」
最初の言葉がそれだった。
ノアが寝台の横で目を開ける。
彼女もほとんど眠れていない。
「取れてない」
「そっか」
「でも、見つけた」
ドランの目が少しだけ動いた。
「リーネの?」
「たぶん」
「なら、次だな」
「あなたは寝て」
「一カ月?」
「一カ月」
「短いな」
「本来三カ月」
「じゃあ一カ月でいい」
「よくない」
ノアの声が少し震えた。
ドランは、動かない腕を少しだけ上げようとして失敗した。
ノアがその手を握る。
「次は、あんな受け方しないで」
「無理だろ。俺、壁だし」
「壁でも壊れる」
「壊れないようにする」
「約束」
「冒険者の約束は」
「帰ってきてから有効、なんて言ったら殴る」
ドランは、かすかに笑った。
「じゃあ、帰ってから殴られる」
ノアは泣かなかった。
泣くと歌えなくなるからだ。
◇
その日の夕方、ロウエンは一人でリーネの保存棺へ行った。
透明な棺の中で、リーネは眠っている。
三年前から変わらない顔。
死んでいない。
だが、目覚めない。
ロウエンは棺の横に立ち、静かに言った。
「見つけた」
リーネは答えない。
「たぶん、本物だ」
答えない。
「エリラの実。エリクサー素材の一つ」
答えない。
「一回目は取れなかった。ドランが死にかけた。ミトも怪我した。ノアは喉を潰しかけた。セラは目を焼いた。アゼルは星図を乱した。俺は糸を何本も失った」
ロウエンは、棺の硝子に手を置いた。
「でも、全員帰った」
静かな部屋に、彼の声だけが落ちる。
「次は取る」
答えはない。
けれど、ロウエンは続けた。
「そのために、一カ月使う」
彼は、昔リーネが言った言葉を思い出した。
宝は、売るだけじゃつまらない。
誰かをもう一回歩かせたりできる方が面白い。
「お前を起こす」
ロウエンは言った。
「だから、もう少し寝ていろ」
その声は、命令ではなかった。
約束でもなかった。
願いだった。
冒険者らしくない、静かな願い。
◇
同じ夜。
天蓋の猟犬は、灰白庭で見たことを誰にも話さなかった。
ギルドにも。
王国にも。
神殿にも。
酒場にも。
仲の良い冒険者にも。
ただ一人、オルバだけが知っている。
それで十分だった。
無許可侵入が露見すれば、彼らは終わる。
そして、エリラの実が公になれば、リーネには届かない。
だから、沈黙する。
沈黙して、準備する。
セラは右目を治しながら、偽星幕に備える眼鏡の改造を始めた。
ミトは傷ついた足を休めながら、灰白庭の匂いを布に写して分類した。
アゼルは、小天蓋ではなく足元へ星を仕込む術式を組んだ。
ノアは喉を休め、声を使わない治癒補助の鈴を作った。
ドランは寝台で、息をするたびに胸を痛めながら、次の風壁の形を考えた。
ロウエンは、空糸を新しく編んだ。
切られた糸の代わりではない。
次に、ガルザヴェインの守りを抜くための糸。
天蓋の猟犬は、傷ついていた。
だが、折れていない。
むしろ、目標は明確になった。
一カ月後。
彼らは、もう一度灰白庭へ向かう。
今度は宝探しではない。
エリラの実を奪うために。
眠る仲間を起こすために。
そして、Sランク冒険者として。
彼らは牙を研ぎ始めた。




