第18話 若い牙
その翌日から、余は外周監視を一段厚くした。
洞窟ネズミを二匹、外寄りの細穴へ回す。
入口近くのゴブリン配置を少し下げ、代わりに新小部屋手前へ一体増やす。
グズには「すぐ殴るな、まず見ろ」と命じたが、半分も通じていない気がした。
「ギィ?」
「見てから殴れという意味だ」
「ギィ!」
「先に殴っておるではないか!」
《習性です》
「便利に使うなその言葉を」
とはいえ、監視は監視で重要だ。
赤泥蟻穴の蟻が、外周をかすめるように這うのを二度確認した。直接侵入はしてこない。だが、こちらを試すような動きが混じる。あまり近づけば鼠が出る位置、少し外れれば何もない位置。その境目をなぞるように、群れが揺れる。
「嫌らしいな」
《外周確認と縄張り把握の可能性》
「余も同じことを考えておった」
さらに気になるのは、人間の流れだった。
昨日まで湿臭洞窟の真正面へ伸びていた獣道の踏み跡が、今日はやや薄い。代わりに森側へずれた足跡が増えている。たまたまかもしれぬ。だが、たまたまでは済ませたくない程度には変化していた。
そんな折、新聞の交流欄がまた騒がしくなった。
《交流欄更新》
「む」
余は白い部屋の中央で新聞を開く。
⸻
【交流欄・短報】
・“赤泥蟻穴”:残るだけなら石でもできる
・“誰か”:続いてるなあ
・“朽縄井戸”井守:石は新聞読めないでしょ
・“赤泥蟻穴”:迷宮は奪う側であれ。流れを喰え。場を喰え。来るものを待つだけの主に、上はない
・“玻璃宮の姫”:相変わらず品がありませんわね
・“赤泥蟻穴”:品で腹は膨れぬ
・“灰冠のロード”:吠えすぎだ
⸻
「……」
余はしばし無言で、その文面を眺めた。
なるほど。
こやつは、ただ余を煽りたいだけではないらしい。自分の迷宮観を誇示している。流れを喰え。場を喰え。来るものを待つな。そういう主張だ。
たしかに一理はある。
受け身では干上がる。
待つだけでは奪われる。
それはその通りだ。
だが、吠え方が若い。焦りが見える。上へ行きたくて仕方ない匂いがする。
「管理音声」
《はい》
「若いな」
《相手のことですか》
「余のことでもある」
《否定はしません》
「せぬな!」
さらに、交流欄の下に個別通知が入る。
【“朽縄井戸”井守 より】
⸻
“ご近所さん、だいぶ噛みつき癖あるね。たぶん若いよ。あとああいうの、外で小細工してること多いから気をつけなー”
⸻
「……」
やはりそうか。
井守も同じ見方らしい。
ならば、余の読みもそれほど外れておらぬのだろう。
噛みつき癖がある。
若い。
外で小細工をする。
まとめると、実に面倒な隣人である。
「それで、どうするかだな」
余は新聞を閉じ、地図を開いた。
赤泥蟻穴は、こちらから見て森寄りの浅い地中にあるらしい。直接の位置は見えぬが、蟻の流れと人間の足跡の偏りからすれば、おおよその影は掴める。
問題は、こちらがどう応じるか。
噛みつかれたから噛み返すか。
無視するか。
あるいは、別のやり方で盤面を触るか。
「……」
だが結論を出す前に、その日の昼、湿臭洞窟へ小さな侵入者が来た。
冒険者ではない。
採集者崩れらしい二人組だ。
装備は粗末で、革袋と短刃物のみ。洞窟の入口でしばらく相談したあと、どうやら“軽く覗いて素材でも取るか”という気安さで入ってきたらしい。
「舐めておるな」
《低位迷宮への一般的認識です》
「腹は立つが、利用できる」
《はい》
余はすぐに迎撃態勢を組む。
「グズ」
「ギィ」
「入口では押すな。まず通せ」
「ギィ?」
「通してから、滑らせろ。騒がせて、引け」
「ギィッ!」
まだ単純な命令しか通りにくいが、今のグズなら十分だ。
採集者崩れの二人は、入口付近のゴブリンの気配に少し身構えたものの、数が少ないと見るや強気に進んだ。
「出たな、ちっこいの」
「二、三匹ならやれるだろ」
そう言って踏み込んだ足が、僅かに泥を取る。
片方が舌打ちする。
「なんだこの床」
「湿ってるだけだ、気にすんな」
気にするべきである。
さらに奥へ。
前に出た方が小さく滑る。
そこへ鼠が足元を走り、もう一方が驚いて短刃を振る。空振る。ぶつかる。叫ぶ。奥からゴブリンが石を投げ、壁際のポフキノコがわずかに膨らむ。
「ちっ、なんだよこの洞窟!」
「戻るか!?」
「まだ早――うおっ」
また滑る。
今度は片膝をついたところへ、グズが奥から飛び出し、わざと一撃だけ入れてすぐ退く。
「ギィッ!」
「ぐっ!?」
「いた、いたいた! 帰るぞ!」
そのまま二人は半ば転ぶように逃げていった。
深追いはしない。
余も命じぬ。
「……よい」
《低消耗で撃退》
「うむ」
殺してはおらぬ。
だが、それでよい場合もある。こういう半端者は、恐怖だけ抱えて帰る方が働くこともある。軽く見るな、という認識を周囲へ流すには、死体より逃走者の方が便利なこともある。
その認識に、余は自分で少し驚いた。
以前なら、とにかく撃退できたことに安堵して終わっていただろう。今は違う。逃げた二人が何を語るか、その波及まで少し考えている。
「……余は嫌な主になってきたな」
《適応です》
「便利な言葉だな、本当に」
だがその直後、さらに面白くないことが起きた。
外周監視の鼠が、森側の浅い地面で、細かな赤土の盛り上がりをいくつも見つけたのだ。
「何だそれは」
《小規模掘削痕の可能性》
「蟻か」
《高確率です》
赤泥蟻穴の群れが、外周のあちこちへ小さな穴を増やしている。
こちらへ直接繋げるほどではない。だが、人間の足を嫌がらせるには十分かもしれぬ。踏めば崩れる。歩幅が乱れる。道を少しだけ変える。それだけで、選ばれる通り道は変わる。
「……なるほど、流れを喰う、か」
交流欄での言葉が、ここで繋がる。
こやつは本気で、外周の流れそのものを喰おうとしているのだ。道をいじり、魔物を誘導し、人間の足をずらし、自分のところへ少しでも寄せる。
それが迷宮の強さだと信じている。
若く、攻撃的で、飢えている。
まさしく“若い牙”だった。
「……」
余は白い部屋の中央で、しばらく考えた。
腹は立つ。
だが、同時に分かる。
余もまた、上へ行きたい。生き残りたい。育ちたい。だからこそ新聞を読み、取引をし、床勾配ひとつに知恵を絞っている。
あやつは、それをもっと剥き出しにやっているだけだ。
そしてその違いが、おそらく生死を分ける。
「管理音声」
《はい》
「余はあやつほど飢えて見えるか」
《内心では同程度かと》
「やめよ」
《ただし表出は異なります》
「……そうか」
表に出すか、出さぬか。
吠えるか、盤を引くか。
その差は大きい。
そして、その差を余はこれから大きくしていかねばならぬ。
その夜、交流欄はさらに更新された。
⸻
【交流欄・短報】
・“赤泥蟻穴”:来るものを待つだけの湿りは、いずれ干上がる
・“誰か”:まだ言う
・“朽縄井戸”井守:君さ、だいぶ気にしてるでしょ
・“赤泥蟻穴”:気にしてなどおらぬ
・“玻璃宮の姫”:もっと見苦しいですわね
・“赤泥蟻穴”:喰う側だけが残る
・“灰冠のロード”:違う。残る側だけが喰える
⸻
「……」
余は、その最後の一文をじっと見た。
残る側だけが喰える。
短い。
だが、強い。
余が前に返した言葉とも少し重なる。灰冠のロードは、やはり芯のところで“生き残り”を最優先に見ているのだろう。
そして余も、そこは同じだ。
「……返す必要はあるか」
《今回は不要かと》
「うむ」
あまり毎度毎度応じても、新聞上での殴り合いになるだけだ。そうなれば面白がる者はいても、得るものは少ない。
それより今は、外を見る。
そして実際に盤面を読む。
余はそう決めた。
だが、その前にもう一つ、やっておくべきことがあった。
「グズ」
「ギィ」
「新入りを集めよ」
「ギィッ」
入口側の広めの空間へ、ゴブリンどもがぞろぞろ集められる。相変わらず少し臭いし、少し汚いし、視線も落ち着きがない。だが、以前よりは“群れ”として形になってきた。
余は迷宮全体へ声を響かせた。
「よいか。最近、外が少し騒がしい」
「ギィ?」
「ぎぃ……」
「他所の穴が、こちらの流れを触っておる」
無論、半分も分かっておるまい。
だが構わぬ。
「ゆえに、今後は見る。よく見る。勝手に飛び出すな。勝手に追うな。位置を覚えよ。臭いを覚えよ。余の迷宮は、慌てて噛みつくのではない」
「……ギィ?」
「足を止め、道を狂わせ、気づけば喰っておる――そういう迷宮になる」
「ギィッ!」
最後だけ、なぜか勢いよく返事をした。
分かったのか。
いや、たぶん雰囲気である。
だが、雰囲気でもよい。主がどういう顔をしているかは、それなりに伝わるものだ。
グズが胸を叩く。
新入りどもも真似して胸を叩く。
何だか少し面白くて、少し笑いそうになったが、そこは堪えた。
配下の前で堂々としておる方が都合がよい。
《演出効果あり》
「演出と言うな」
《事実です》
「うむ……」
それから、余は改めて外周監視へ意識を向けた。
赤い蟻。
薄くなる足跡。
ずれ始める流れ。
煽る言葉。
若い牙。
こやつはまだ直接には噛んでこぬ。だが、じわじわと歯形を残し始めている。
「……よい」
余は低く呟いた。
「ならば余も、そろそろ考えねばならぬな」
《何をですか》
「迷宮は洞窟の中だけで完結せぬ、ということをだ」
《はい》
「外もまた盤面である」
《妥当です》
その言葉は、すとんと腹に落ちた。
洞窟の中に王国を築くだけでは足りぬ。
入口の外、森の縁、獣道、採集者の足、魔物の群れ、そういうものまで含めて盤面なのだ。
それを動かそうとする若い牙が隣にいる。
ならば、こちらも読むだけでは済まぬ日が来る。
「だが、まだだ」
今はまだ、読む。
何を欲しがっておるか。
どこが弱いか。
どうすれば自分で転ぶか。
吠える相手ほど、足元は見えやすい。
そうであればよい、と余は思った。
新聞欄の向こうで、赤泥蟻穴のロードはまだ吠えているのかもしれぬ。
だが余は今、少しだけ違う場所を見始めている。
配下の前で堂々とし。
交流欄で無駄に喚かず。
外周の流れを読む。
その全てが、少しずつ“王の真似事”ではなくなってきていた。
まだ完成には遠い。
だが確かに、余は変わり始めている。
湿った洞窟の奥で、その変化だけは静かに育っていた。




