19話 迷宮は盤上にある
それから三日ほど、余はあまり動かなかった。
いや、正確には――洞窟の中は動かした。床の泥化は少しずつ進め、旧小部屋の湿気保持も調整し、苔スライム導入の受け皿になる壁面を選び、鼠の巡回導線も組み替えた。
だが、外に対しては大きく手を出していない。
見ることを優先した。
「見ろ」
「ギィ」
「追うな」
「ギィ……」
「近づきすぎるな」
「ギィッ」
グズにはそればかり言っている。
だいぶ不満そうだが、今はそれでよい。外周の気配にいちいち反応してゴブリンを飛び出させていては、かえって盤面を乱される。
余が見たかったのは、赤泥蟻穴が何をしているか、その“癖”だ。
結果から言えば、癖はあった。
かなり分かりやすく。
「……こやつ、せっかちだな」
《同意します》
「蟻の流れが増減しすぎる」
《はい》
「じわじわ寄せるというより、手を出してすぐ成果を欲しがっておる」
赤泥蟻穴の群れは、外周のあちこちに小穴を増やす。
獣道沿いの地面が少し崩れる。
小型魔物が一時的にこちらを避ける。
採集者の足跡もわずかにずれる。
だが、その変化は長く続かぬ。半日から一日ほどで偏りが戻る場所も多い。
つまり、外周制御がまだ安定していない。
焦ってあちこち触っているから、逆に均しきれていないのだ。
「若いな」
《再確認ですか》
「余も含めてな」
《はい》
そうして見ているうちに、ひとつ予想外の流れが起きた。
本来なら赤泥蟻穴の外周寄りへ向かうはずだった足跡が、途中で大きく逸れ、湿臭洞窟側の獣道へ流れ込んできたのだ。
しかも一人や二人ではない。
三人。
だが、剣士・魔術師・斥候のような整った編成ではない。
剣を持つ男が一人。
荷を背負った軽装の女が一人。
そして短槍を持った若い男が一人。
冒険者というより、半端な採集護衛崩れだ。装備はばらばらで、足取りにも統一感がない。
「……何だあれは」
《予定外侵入者》
「見れば分かる」
ただ、問題は質ではなく、“なぜこちらへ来たか”だった。
本来の流れと少し違う。
しかも三人は入口前で揉めていた。
「いや、さっきの穴よりこっちの方がマシだろ」
「マシって、臭いんだけど……」
「向こうは赤い虫が多すぎたんだよ!」
「じゃあ軽く見て、やばかったらすぐ出るぞ」
「……」
余は白い部屋の中央で、無言になった。
向こうは赤い虫が多すぎた。
つまり、こやつらは赤泥蟻穴へ寄りかけ、嫌気が差してこちらへ流れてきたのだ。
「管理音声」
《はい》
「盤面が動いておるな」
《はい》
「余の意思とは無関係に」
《近隣迷宮の干渉により》
面白い。
いや、面白がっている場合ではないのだが、やはり面白い。
外の流れを触れば、こちらへ来る侵入者の質すら変わる。準備不足の三人組。赤泥蟻穴で嫌な思いをして、予定変更で流れ着いた連中。こういうのは、練度が低く、連携も甘いが、その分読みにくい。
嫌な種類の予想外だ。
「グズ」
「ギィ」
「入口では押すな。三人の足並みが乱れるまで待て」
「ギィッ」
「鼠は荷持ち女を脅かせ。槍の若いのには近づきすぎるな」
「ギィ」
「茸は旧小部屋手前で半開き。早すぎるなよ」
《指示妥当》
「当然である」
侵入者三人は、かなり軽率に中へ入ってきた。
赤泥蟻穴で疲れていたのか、こちらを舐めていたのか、その両方か。
剣の男が先頭。
荷持ち女が真ん中。
短槍の若い男が最後尾で、落ち着きなく周囲を見ている。
「うわ、ぬるっとしてる」
「ただの湿りだろ」
「いやでも滑るって」
「黙って歩け」
足並みがもう危うい。
前と後ろで歩幅が合っていない。荷持ち女だけ慎重で、先頭と最後尾がそれを急かす。こういう編成は崩れやすい。
「……よいな」
《好条件です》
まず、入口側のゴブリンが二体だけ顔を見せる。
「いたぞ」
「二匹か、やれる」
「待っ――」
荷持ち女が何か言いかけた時には遅い。
剣の男が前へ出る。足を取られる。浅く滑る。そこへ鼠が横切る。
「うおっ」
「ひっ」
「なんだ今の!」
短槍の男が反射で突く。外す。剣の男の肩にかすりそうになり、怒鳴られる。
「危ねえだろうが!」
「鼠が!」
「ただの鼠で槍振るな!」
隊列が乱れた。
「今だ」
「ギィッ!」
グズ配下の一体が石を投げる。荷持ち女の革袋に当たる。中身が少し散る。
「やだ、袋が!」
「拾うな、進め!」
「進むの!?」
そのやり取りの間に、奥へ退いていたゴブリンが別角度からまた現れる。見えては消え、見えては消え、数がはっきりしない。
前へ出た剣の男は、焦れて踏み込みを増やす。
その足が、新小部屋手前の調整した床でずるりと流れた。
「っ!?」
今度はしっかり膝をつく。
「ギィッ!」
そこへグズが一撃。
「ぐあっ!」
「うわっ、出た!」
「前、前見ろって!」
だが後ろはもう崩れている。
荷持ち女は袋を押さえ、短槍の若い男は鼠ばかり目で追い、剣の男は前しか見えていない。
「……弱いな」
《連携不足です》
「いや、そこではなく。盤に弱い」
《はい》
正面戦なら、三対数匹で押し切れたかもしれぬ。
だが盤面が悪い。床が悪い。視界と意識の置き方が悪い。
そして、何より“今ここに来るつもりで来ていない”のが悪い。
赤泥蟻穴で嫌になり、流れてきた。
その時点で、こやつらの頭はこの湿臭洞窟用に整っていないのだ。
そこへ余の迷宮が噛み合う。
「茸」
《旧小部屋手前、半開き開始》
「よし」
壁際のポフキノコが、ぶわりと半開きになる。
胞子は濃くはない。
だが、咳き込ませるには十分。
「ごほっ、なにこれ!」
「胞子か!?」
「戻るぞ、戻る!」
「荷物、荷物が!」
遅い。
戻ると決めた時には、すでに来た道の床が最初より悪く感じる。焦っているからだ。人は焦ると、ぬめりや段差に対する感覚が雑になる。
荷持ち女が滑る。
短槍の男がそれを支えようとしてぶつかる。
剣の男が振り返って怒鳴る。
その横を鼠が走る。
また石が飛ぶ。
グズが奥から声を張る。
「ギィィッ!!」
叫びだけで、さらに脅える。
「やばい!」
「出ろ出ろ出ろ!」
「袋が裂けた、ちょっと待って!」
「待たねえ!」
三人はほとんど転がるように入口へ逃げていった。
余は追わせない。
ここで深追いして外で反撃をもらう方が面倒だ。
「止めよ」
「ギィ」
「追うな」
「ギィッ」
やがて、洞窟の外が静かになる。
撃退は成功。
損耗ほぼなし。
消耗も軽い。
「……よい」
《低消耗撃退、成功》
「うむ」
だが、余の意識は撃退そのものより、そこで起きた流れの方へ向いていた。
赤泥蟻穴が嫌がらせをした。
あるいは、外周を強くいじりすぎた。
その結果、本来あちらへ寄るか、あるいはもっと別の場所へ流れるはずだった三人組が、こちらへ滑り込んできた。
余はそれを迎撃した。
つまり――
「……これは」
《何を示しますか》
「迷宮は、自分の中だけを整えていても足りぬ」
《はい》
「外の流れで、来る相手そのものが変わる」
《その通りです》
「ならば……」
余は地図を開く。
湿臭洞窟だけを見ても足りぬ。
周辺の獣道、足跡、採集場所、外れた魔物の流れ、小穴の位置、踏み荒らされた赤土。そういうものまで含めて盤面だ。
洞窟は盤の一角に過ぎない。
入口の外から、すでに戦いは始まっている。
「……迷宮は盤上にある、か」
《適切な表現です》
その言葉を口にした瞬間、ひどくしっくりきた。
洞窟の中に罠を置き、魔物を配し、地形を整える。
それだけでは半分だ。
盤の上で、どの駒がどちらへ流れるか。誰がどこで嫌になり、どこへ逸れ、どういう状態で入口に来るか。そこまで見て初めて、一つの迷宮運営なのだろう。
「……面白い」
余は再びそう呟いた。
脅威であり、面白い。
腹立たしく、だが面白い。
赤泥蟻穴の若い牙は、たぶんそこまで言語化しておらぬ。ただ飢えたままに流れを奪おうとしているのだろう。だが余は今、そこへ少し違う見方を得た。
読む。
流れを読む。
来る相手を読む。
相手の小細工が、どんな形でこちらへ返ってくるか読む。
「管理音声」
《はい》
「鼠監視を外周寄りにもう二匹増やせるか」
《可能です。迷宮内巡回密度は若干低下》
「構わぬ。今は外が重要だ」
《承認》
「あと、採集者崩れ三人の逃走方向を追え」
《周辺噂への波及確認ですか》
「うむ」
《ロードらしい判断です》
「そう何度も言うな。照れるであろう」
《理解不能です》
その時、新聞の地域欄が小さく更新された。
⸻
【地域短報】
・近隣低位迷宮周辺にて、未熟侵入者の流動増減あり
・赤土性小穴の増加報告
・一部で“赤い虫の穴は嫌だ”との採集者証言
⸻
「……」
余はそれを見て、静かに笑った。
「おぬし、嫌がられておるぞ、若い牙」
赤泥蟻穴は、たぶん攻めすぎたのだ。
人を寄せたいのに、虫の不快感で逆に流している。
焦って外をいじるから、粗が出る。
結果として、一部はこちらへ流れてくる。
それは今のところ、余にとって悪い話ではない。
むしろ、好機になり得る。
「……まだ盤は見えきっておらぬ。だが、癖は見えるな」
《はい》
焦り。
飢え。
成果を急ぐ手。
若い牙。
そこに付け込めるかもしれぬ。
いや、付け込むべきだ。
迷宮同士が互いの流れを奪い合うなら、遠慮していては損をする。
その考えが出たことに、余は自分で少し驚いた。
だが、否定はしなかった。
これは人間の喧嘩ではない。
迷宮の生存競争だ。
向こうが噛むなら、こちらも噛み返す。ただし、同じ噛み方はせぬ。正面から吠え合うのではなく、盤の置き方で差をつける。
「グズ」
「ギィ」
「今の三人、どう見た」
「ギィ……?」
「ふむ。分からぬか」
《当然です》
「言うな」
だが、グズが分からずとも、余が分かればよい。
来た連中は、こちらへ来るつもりで来ていなかった。
だから乱れた。
ならば、こちらへ“乱れた状態で来る者”をもっと増やせれば、余の迷宮はより勝ちやすくなる。
無論、あまり露骨にやれば人間側も気づく。
だが、自然に流れてきたように見える程度ならどうだ。
「……」
余はそこまで考え、すぐには手を出さぬことにした。
まだ早い。
まずは盤をもっと読む。
赤泥蟻穴がどこで歪むか。
人間がどこで嫌がるか。
そして、どこへ逃げるか。
それを掴んでからでよい。
《慎重です》
「当然である」
《以前より一拍置けています》
「……それは、そうかもしれぬな」
余は白い部屋の中央で、ゆっくりと姿勢を正した。
洞窟の中だけ見ている主では、もう足りぬ。
盤面を見る主にならねばならぬ。
怖い。
知らぬことが増えるほど怖い。
だが同時に、知らねば勝てぬ。
そのことを、余はもう理解していた。
「……よい」
窓の向こうで、湿った床が鈍く光る。
鼠が走る。
ゴブリンが散った荷物を集めている。
ポフキノコは半開きからゆっくりと戻っていく。
そのすべての外側に、見えぬ盤が広がっている。
森の縁。
赤土の小穴。
嫌がる採集者。
流れてくる半端者。
吠える隣人。
迷宮は、確かに盤上にあった。
そして余は今、その盤を見始めたばかりだった。




