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第17話 隣の迷宮

取引で得た設計と導入情報は、すぐに迷宮へ反映した。


 新小部屋前の床は、目に見えぬほど僅かに勾配を変える。水は溜まりすぎず、流れすぎず、踏まれた場所だけがぬかるみやすくなるように。


 旧小部屋周辺の壁面は、湿気保持を意識して空気の滞留を強めた。まだ苔スライムそのものは導入しておらぬが、定着させるならこういう場所だ、という“受け皿”を先に整える。


 どちらも派手ではない。


 見た目に大きく変わるわけでもない。


 だが、余には分かる。


 これは確かに、一段階“迷宮らしい進歩”だった。


「グズ」

「ギィ」

「このあたりは踏み込みを増やせ。入口から来る連中と、おぬしらの巡回導線をずらす」

「ギィ……?」

「要するに、おぬしらがあまり踏まず、敵がよく踏むように動け」

「ギィッ!」


 分かったのか分かっていないのか、グズは胸を叩いてから新入りどもへ怒鳴り散らし始めた。


 まあ、よい。


 全てを理解しておる必要はない。動きさえ合えば、それで勝てる局面は多い。


《移動頻度差による泥化誘導、緩やかに開始》

「よい」

《ただし、配下の知能に注意》

「耳が痛いな」


 だが、その改修に気を取られてばかりもいられぬ。


 余は再び新聞を開き、地域欄の短報を確認した。



【地域短報】

・“赤泥蟻穴”、近頃拡張傾向あり

・周辺小型魔物流動に変化の報告

・一部冒険者導線に微細な偏りあり



「赤泥蟻穴……」


 名を口に出すと、いかにも湿った土の匂いがしそうな響きだ。蟻穴というくらいだから、数を主軸にした地中迷宮なのだろうか。だとすれば、群れで押し、導線を細かく枝分かれさせるのが得意かもしれぬ。


「管理音声」

《はい》

「近隣と言っていたな」

《相対的には》

「具体にどの程度だ」

《冒険者の往復経路、採集導線、周辺小型魔物の流れが部分的に重なり得ます》

「……十分近いな」


 つまり、こちらに直接攻めてくるとかそういう話ではなくとも、周辺の“流れ”が重なる。


 魔物の流れ。


 人間の流れ。


 採集者や駆け出し冒険者の足。


 そういうものが偏れば、自然とどちらかの迷宮へ人が寄り、どちらかの迷宮が干上がる。


「面倒だな」

《迷宮ですので》

「それ便利な返しだな」

《事実です》


 余は少し黙った。


 実のところ、頭では分かっていた。


 人間は敵だ。


 剣を持ち、火を放ち、コアを壊しに来る。


 だが同時に、侵入者が来ねばソウルの流れも細る。迷宮は閉じていては育ちにくい。殺される危険そのものが、成長の糧でもある。


 嫌な仕組みだ。


 実に嫌な仕組みだ。


 だが、この世界はそうできているらしい。


「人間どもなど来ぬなら来ぬで静かでよいのに」

《成長は鈍化します》

「分かっておる」

《収支も停滞します》

「だから分かっておる!」


 結局そこへ戻る。


 余の関心の中心は、綺麗事ではない。


 自分の生存。


 迷宮の強化。


 損耗と収支。


 効率。


 そういうものだ。


 人間の死をどうこう嘆く立場にはないし、そもそもそういう目で見てもおらぬ。向こうもこちらを壊しに来るのだ。だったら、来ること自体が一つの資源であり、一つの脅威でもある。


「……ロードらしくなってきたな、余」

《元より素質はあります》

「たまに本当に嫌な褒め方をする」


 その時だった。


 窓の向こう、外周寄りの監視点に置いた鼠の一匹が、いつもと違う動きをした。


 ぴたりと止まり、鼻をひくつかせ、それから細穴へ戻らず、別方向へ逸れていく。


「む」


 余は意識をそこへ寄せた。


 外界寄りの浅い岩場。


 湿臭洞窟の外周と、森の下草が混ざる中間地帯。そこを、小型の何かがぞろぞろと移動している。


 鼠ではない。


 蜥蜴でもない。


 もっと小さく、もっとまとまりがある。


「……蟻か」

《可能性高》

「赤泥蟻穴の?」

《断定不可。ただし地域短報との整合性はあります》


 蟻の群れは、こちらへ向かって来ているわけではない。


 だが、こちらの外周をかすめるように動き、森の側へ流れていった。何をしているのかは分からぬ。採餌か、移送か、縄張り確認か。


 ただ、自然にしては妙にまとまりすぎていた。


「周辺小型魔物流動に変化、か」

《はい》

「こういうことだな」


 目に見えて危険ではない。


 だが、気持ちが悪い。


 しかも、その少し後に、別方向から来るはずだった野犬崩れの魔物群が、こちらの監視網に引っかからず横へ逸れていった。


「……おい」

《通常導線からズレています》

「偶然か」

《一度では判断不能》


 だが、一度でも気になる。


 余は黙って監視を続けた。


 さらに半日ほど観測すると、今度は採集者らしい二人組が本来より外を大きく回って歩き、結果として湿臭洞窟の真正面を避けるような道取りをしていた。


「……」


 偶然が三つ重なると、偶然とは言いづらくなる。


 少なくとも余はそう思う。


「管理音声」

《はい》

「余のところへ来るべき流れが、少し薄れておるな」

《傾向としては》

「赤泥蟻穴、外へ手を出しておるか」

《可能性があります》


 それは、正面からの敵意ではない。


 もっと地味で、もっと嫌なやり方だ。


 外周の流れをいじる。


 小型魔物の通り道を変える。


 人間の足が自然と逸れるようにする。


 その結果、どちらかへ流れが寄る。


 迷宮同士が、人間と魔物を巡って奪い合う。


「……なるほどな」


 余は白い部屋の中央で、じっと地図を見下ろした。


 面白い。


 いや、面白がってよいのかは分からぬが、少なくとも仕組みとしては面白い。迷宮同士が直接噛みつき合うのではなく、周辺の盤面をずらし合うのだ。


 人間側が見れば、ただの“最近あっちは魔物が多い”“こっちは妙に静かだ”という変化に見えるかもしれぬ。


 だがその裏に主がいるとしたら、話は別だ。


 そしてその時、新聞の交流欄が更新された。


 軽い気持ちで開いた余は、すぐ眉をひそめることになる。



【交流欄・短報】

・“赤泥蟻穴”:辺境の湿りは、上がった途端に随分騒がれておるな

・“朽縄井戸”井守:お、噂のご近所さん

・“赤泥蟻穴”:Dに一つ上がった程度で、主面をするのは少々早いのではないか?

・“誰か”:始まった

・“玻璃宮の姫”:品がありませんわね

・“赤泥蟻穴”:品で迷宮は育たぬ

・“朽縄井戸”井守:それはそう



「……」


 余はしばらく無言だった。


 何だその言い草は。


 いや、たしかに余はDへ上がったばかりだ。主面といえば主であるし、実際まだまだ未熟だ。それは認める。


 だが、こうも開けっぴろげに言われると腹が立つ。


「管理音声」

《はい》

「腹が立つ」

《はい》

「肯定するな」

《事実ですので》


 さらに続く。



・“赤泥蟻穴”:湿りと臭いだけで目立てるなら楽なものだ

・“誰か”:言うねえ

・“朽縄井戸”井守:ご近所トークかな

・“灰冠のロード”:吠える前に残れ

・“赤泥蟻穴”:残るだけでは足りぬ。迷宮は喰う側であれ

・“玻璃宮の姫”:下品ですわ



「喰う側、か」


 その言葉だけは、妙に棘があった。


 強気な物言い。


 いかにも若い。いかにも焦っている。


 たぶん、こやつは余とそう変わらぬところにいるのだろう。未熟で、だが上へ行きたくてたまらぬ。だからこそ吠える。だからこそ目立ちたがる。


「……余に似ておるところもあるな」

《否定はしません》

「そこは否定してくれてもよい」

《表出の仕方が異なるだけかと》

「耳が痛い!」


 だが、それで腹立たしさが消えるわけではない。


 むしろ、少しだけ冷えた。


 吠えるだけの相手ならよい。だが、外周の流れが実際に変わっている以上、こやつはたぶん、ただ口だけではない。蟻の群れを外へ伸ばし、人間と小型魔物の導線を少しずついじっている。


 つまり、こちらと同じく、盤面を触り始めているのだ。


「……どう返す」

《無視も選択肢です》

「腹は立つ」

《承知しています》

「だが、感情で返すのは浅い」

《その通りです》


 余は交流欄を見つめた。


 ここで「うるさい、余はDだぞ!」などとやれば、実に愚かである。初めの頃の余ならやっていたかもしれぬ。いや、たぶんやっていた。かなりの確率でやっていた。


だが今は違う。


 少なくとも、違おうとしている。


「……一拍置く」


 余は新聞を閉じ、白い部屋の中を一周した。


 無駄な行動である。


 だが、この無駄がたまに大事だ。感情で飛びつく前に、一度だけ間を置く。そうすると、少し頭が冷える。


 冷えた頭で考える。


 赤泥蟻穴は、たぶん自分を大きく見せたい。


 余の昇格で、周辺の視線が少しこちらへ寄った。


 それが気に入らぬ。


 ならば挑発する。


 揺さぶって、何か喋らせたい。


 あるいは、未熟な新人だと証明したい。


「……なるほどな」


 ならば、与えねばよい。


 感情も、具体も、手の内も。


「管理音声」

《はい》

「短く返す」

《内容は》

「吠えるだけなら洞窟犬でもできる……いや、少し長いか」

《やや感情が出ています》

「そうか」


 余はさらに考える。


 短く。


 冷たく。


 だが若造らしさだけは見せぬように。


 そして打った。



【“湿臭洞窟(仮称)”より】

“奪う前に、まず残れ。残れぬ牙は飾りにも劣る”



 送信。


 しばし、静寂。


《……》

「どうだ」

《前回よりはるかに良い返しです》

「前回基準で評価するな」

《成長が見えます》

「うむ……」

悪くない。


 かなり悪くない。


 少なくとも、喚いてはいない。少し王っぽい。いや、王っぽいというのは言い過ぎか。だが、主としての棘くらいは出せた気がする。


 そして案の定、欄がざわつく。



・“誰か”:お

・“朽縄井戸”井守:言うようになったじゃん湿り系

・“玻璃宮の姫”:少しは見栄えのする返しになりましたわね

・“赤泥蟻穴”:……

・“灰冠のロード”:それでいい



「……」


 余はそこで、ふっと息を抜いた。


 勝った、と言うほどのものではない。


 だが、少なくとも無様にはならなかった。


 それだけで十分だ。


「疲れた」

《交流だけで?》

「戦闘とは別の疲れがあるのだ!」

《理解不能ではありません》


 しかし、その直後だった。


 監視点の一つから、不自然な揺れが伝わる。


 浅い森側。


 湿臭洞窟の外周をかすめる古い獣道のあたりだ。


「何だ」


 意識を寄せる。


 そこには、地面を這うように進む小さな赤茶色の流れがあった。


 蟻。


 先ほど見たものより数が多い。


 一直線ではない。何かを探るように散開し、やがて再びまとまる。途中、こちらの洞窟へ近づきすぎる前に、すっと横へ流れていく。


 まるで、境界を確かめているようだった。


「……あやつ」


《赤泥蟻穴由来の可能性高》

「挑発の直後にこれか」

《偶然の可能性もあります》

「いや、余はあまり偶然だと思わぬ」


 蟻の群れはしばらく周辺を這い、それから森の方へ引いていった。


 直接の攻撃ではない。


 ただの威圧でもない。


 しかし、十分に鬱陶しい。


 こちらの外周を“見ている”という合図のようにも感じる。


「なるほどな」


 余は窓越しにその動きを追いながら、静かに呟いた。


「隣人というのは、こういうものか」


 壁一枚隔てた住人ではない。


 冒険者の導線一つ、魔物の流れ一つ、外周の空気一つを巡って、じわじわと圧をかけ合う相手。


 正面から殴るより先に、周囲を奪い合う相手。


 面倒だ。


 だが、この面倒を理解してこそ、迷宮の主なのかもしれぬ。


《対処しますか》

「すぐにはせぬ」

《理由は》

「まだ盤が見えておらぬ」


 余は地図を見下ろす。


 湿臭洞窟。


 森。


 浅い岩場。


 獣道。


 採集者の通り。


 小型魔物の流れ。


 そして近隣の赤泥蟻穴。


 点だったものが、ようやく線で繋がり始めている。


「まず読む」

《はい》

「どこで流れがぶつかるか。何を奪い、何を流しておるか。あやつは何を焦っておるか」

《観測優先、承認》

「うむ」


 感情では動かぬ。


 いや、腹は立っている。かなり立っている。だが、それをすぐ形にして返すほどまだ浅くはない……はずだ。たぶん。きっと。


 少なくとも、そうありたい。


「グズ」

「ギィ」

「外周寄りの鼠を増やす。細穴監視も少し広げる」

「ギィッ!」

「茸の増設はまだ待て。今は見る」

「ギィ……?」


 不満そうである。


 分かる。余もすぐ何かしたい。だが、見えておらぬ盤へ手を突っ込むのは危険だ。


 赤泥蟻穴がどの程度の規模か。


 蟻の群れがどこまで外を触っているか。


 人間と魔物の流れが本当に偏っているか。


 まずはそこからだ。


「……余のところへ来るはずのものを、奪われるのは気に入らぬな」

《それは当然です》

「当然か」

《収支に関わります》

「そうだな」


 そう、収支だ。


 誇りとか面子だけではない。人間の流れが寄ればソウルが増える。減れば伸びが鈍る。小型魔物が寄れば配下の餌や素材になる。逸れれば外周監視が薄れる。


 つまり、隣の迷宮とは生存競争そのものなのだ。


 理解すると、少しだけ寒くなった。


 そして同時に、少しだけ頭が冴えた。


「……面白い」


 ぽつりと零れた言葉に、管理音声がすぐ返す。


《脅威です》

「うむ。脅威であり、面白い」

《両立します》

「するな」


 余は、再び地域欄を開いた。


 赤泥蟻穴。


 Eランク。


 拡張傾向あり。


 周辺流動に変化。


 まだ情報は少ない。だが、少ないからこそ読む余地がある。


 交流欄での言葉。


 外周での蟻の動き。


 短報に載る程度の変化。


 それらを繋げば、少しずつ相手の輪郭が見えるはずだ。


「……よい」


 余は白い部屋の中央で、静かに笑った。


「ならば見ようではないか。隣の迷宮が、どのような顔をしておるのか」


 その笑みは、初めの頃のやけくそとは違った。


まだ余裕があるわけではない。


 だが、怯えて縮こまるだけでもない。


 盤面を見ようとしている顔だ。


 王と呼ぶにはまだ早い。


 だが少なくとも、ただの慌てた小物ではなくなりつつある。


 窓の向こう、湿った迷宮は静かに息づいている。


 鼠が走る。


 ゴブリンが怒鳴られる。


 壁は湿り、床は少しずつ泥を選ぶ。


 そしてその外には、赤い蟻が這っている。


 世界は、思っていたより狭く、思っていたより近い。


 隣の迷宮は、もう始まっていた。

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