第1話 最弱迷宮の目覚め
「整列! 整列せよと言っておる! 横一列! せめて前を向け!」
余の号令に、ゴブリンどもは一応、反応した。
したのだが。
三体は違う方向を向き、二体は棍棒を振り回し、四体は隣の耳を引っ張り、さきほど小便していた個体は、まるで何事もなかったように鼻をほじっておる。
駄目だ。
駄目かもしれぬ、こやつら。
「おい管理音声、初期兵の交換はできぬのか」
《召喚済み個体の返品機能はありません》
「返品というな。夢も希望もない」
《なお、ゴブリンはコスト比で見れば非常に優秀です》
「この有様でか!?」
白い部屋の窓越しに迷宮内部を見下ろしながら、余は頭――のようなものを抱えたくなった。頭はない。だが気分としては完全に抱えている。
優秀とは何だ。こやつら、統率の“と”の字もないではないか。
一体が壁を引っ掻き始め、それを止めようとした別の一体が何故か殴り合いを始めた。さらにその横で、一匹――いや一体か――が床に座り込み、ぼんやりと自分の棍棒を舐めている。
「……おい。あれは何をしておる」
《確認します。棍棒の味を確かめています》
「なぜだ!?」
《不明です》
「不明なのか!」
しかも、困ったことに、まるで意味がないわけでもなかった。
余が意識を向けると、彼らの動きの一つ一つが妙に細かく分かる。誰がどこにいるか、どの通路に何体いるか、どの辺りの空気が湿っているか。洞窟の状態が、肌感覚のように伝わってくるのだ。
――ああ、なるほど。
余は、本当にこの迷宮そのものらしい。
分かりたくない事実であった。
「よい。落ち着け。落ち着くのだ余。王とはたぶん、こういう部下にも動じず、泰然としているもの……」
言いかけたところで、一体のゴブリンが、通路の角でしゃがみ込んだ。
いやな予感。
次の瞬間、じょぼじょぼと音を立てて床を濡らし始めた。
「貴様ぁぁぁぁぁぁっ!?」
もう駄目だ。泰然などしていられるか。
「そこで何をしておる! なぜそこでする!? せめて隅へ行け、隅へ!」
怒鳴ると、当のゴブリンはびくりと肩を震わせ、慌てて立ち上がった。だが、途中で止められなかったらしく、歩きながらまだ少し漏れておる。
しかもそれを踏んで、別の一体が派手に滑って転んだ。
ごっ、と鈍い音。
一拍遅れて、周囲のゴブリンどもがきゃっきゃと笑い始める。
「何だその地獄絵図は!」
《床面が湿潤化しています》
「見れば分かる!」
余はしばし沈黙した。
……いや、待て。
転んだ。
今、確かに転んだ。
濡れた岩床は滑るのか。
当たり前と言えば当たり前なのだが、余は少しだけ目を細めた。いや、目はないが、そういう気分である。
「管理音声。迷宮内の地形情報を詳細表示せよ」
《表示します》
白い窓の横に、簡素な見取り図が浮かぶ。
入口から続く細い通路。折れ曲がる角が二つ。途中に小部屋が一つ。そこを抜ければ、コア安置区画――つまり余の核がある最奥部だ。短い。やはり短い。剣の得意な者が走れば、あっという間にたどり着ける距離である。
だが、狭い。
横に二人も並べば窮屈そうなほどに狭い。
しかも曲がり角がある。視界が切れる。足元は悪い。岩は湿る。ゴブリンどもは馬鹿だが、数だけはいる。
「……ふむ」
弱い。余はまだ圧倒的に弱い。
だが、弱いなりに戦いようはあるのではないか。
そう思った瞬間、少しだけ胸の内が静かになった。
恐怖は消えぬ。だが、恐怖のまま固まっているよりは、数段ましだ。
「よし、配置を決める」
余は白い窓越しに全体を見渡した。
「入口付近に十体。最奥部に十体。前衛と後備えで分ける」
《配置命令を受理します》
ゴブリンどもが、のそのそと動き始める。
……遅い。実に遅い。隊列というものを理解しておらぬから、ぞろぞろ歩き、途中で押し合い、二体ほど道に迷いかけ、さらに一体が壁の染みを気にして立ち止まった。
「おい、そこの染みは後にせよ! 今は持ち場へ向かえ!」
一体こちらを見上げ、きょろきょろしたあと、なぜか仲間を殴った。
「命令伝達に誤差が多すぎる!」
《ゴブリンですので》
「万能な説明だな、それは!」
だがどうにかこうにか、入口側に十体、奥に十体が収まった。
入口側は、ひどい有様だった。半分がだらけ、二体は座り込み、残りも棍棒を肩に担いでぼんやりしている。まるでやる気が感じられぬ。
一方、奥の十体は比較的ましである。理由は単純、余が近いからだ。どうやらこやつら、余の意識が濃い場所ほど多少はしゃきっとするらしい。
「……なるほど。近いほうが命令も通りやすいのか」
《コア近傍では支配効率が向上します》
「それは早く言え!」
《質問されませんでしたので》
いちいちもっともらしい。
だが、これは重要だ。つまり、入口側の十体は実質、捨て駒寄りということになる。嫌な現実であった。いや、まだ何も起きておらぬうちから捨てるつもりはない。ないのだが、もし侵入者が来れば、最初に削られるのはあちらだろう。
侵入者。
その言葉を思い出しただけで、ぞわりとした。
「……来るのか、本当に」
《ダンジョンは外界に認識されることで、いずれ探索対象となります》
「曖昧な言い方をするな。今日か。明日か。いつだ」
《予測不能です》
「役に立たぬ!」
思わず怒鳴ったが、怒鳴っても時は分からぬ。分からぬものは分からぬのだろう。無機質な声は、こちらの感情など少しも気にしない。
白い部屋に、沈黙が落ちた。
ゴブリンどもは洞窟の中でぐだぐだしている。入口側の一体が欠伸をし、別の一体がまたしゃがみ込もうとしていたので、余は全力で阻止した。
そんなことを繰り返しながら、余は少しずつ迷宮の感覚に慣れていった。
どこに湿り気が溜まりやすいか。
どの通路の石が出っ張っているか。
小部屋はどれほど狭いか。
曲がり角の先は見えにくいか。
音がどう響くか。
ゴブリンどもの足音はうるさいか。
――見る。
――覚える。
――比べる。
それをしている間だけは、不思議と焦りが薄れた。
「余は……戦うのではなく、運営するのだな」
《はい。あなた自身が前線に立つことはできません。ゆえに観測、配置、判断が重要です》
「ふむ」
それは、妙にしっくりきた。
剣を振るうのではない。魔法を撃つのでもない。余は盤上を見て、駒を置き、動かす。洞窟そのものを使い、相手を削る。
そう考えると、少しだけ――本当に少しだけだが――やれそうな気がした。
「……王、というより店主とか家主ではないか?」
《ダンジョンロードです》
「便利な言葉だな、それは」
余がため息をついた、その時だった。
ぶつ、と。
迷宮の入口近くで、何かが引っかかるような感覚が走った。
自分の皮膚の端を、爪でひっかかれたような、不快な違和感。
「……ん?」
白い窓の映像がふっと揺れ、入口付近の視界へと切り替わる。
岩の裂け目から、外の光が細く差し込んでいた。そこへ、影が三つ。
一つは剣を帯びた男。革鎧、長剣、肩で風を切る歩き方。前に出たがるタイプだ。
一つは杖を持つ女。ローブの裾を気にしながら足元を見ている。火か風か、そういう遠距離の術を使いそうで嫌である。
そして、軽装の小柄な影が一つ。短剣。視線が鋭い。壁と床、周囲の痕跡を舐めるように見ている。
三人。
三人組。
余は、思考が止まった。
《侵入者反応を確認》
「来たぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
早い! 心の準備が! まだ! 何一つ! 整っておらぬのだが!?
入口側のゴブリンどもは、外光に気づいてぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた。隠れるでもなく、威嚇するでもなく、ただ騒がしい。最悪である。
剣士の男が裂け目の先から中を覗き込み、鼻で笑った。
「お、当たりだな。小型の洞窟型だ。Eか、よくてD」
「油断しないで。臭いが強い」
「魔物いるね。数は……多くない」
聞こえる。
洞窟の振動が、音の形で余に届く。
余は、ごくりと唾を呑み込む真似をした。唾も喉もないが、気分の上では確かに飲んだ。
三人組。剣士、魔術師、斥候。
嫌だ。
嫌すぎる。
最初の客として重すぎる。
「おい管理音声。まだ初心者歓迎期間とか、そういう保護措置はないのか」
《ありません》
「世界が新人に厳しすぎる!」
剣士が、ためらいなく一歩踏み込んできた。
暗い洞窟へ。
余の迷宮へ。
余を殺しに来る、最初の侵入者として。
ぞわり、と迷宮全体が粟立つ。
怖い。
心底、怖い。
あれに奥まで来られたら終わる。余は壊され、消える。今ここにある意識も、考えも、焦りも、全部、跡形もなく消し飛ぶ。
……ふざけるな。
そんな終わり方、認められるか。
「全個体、戦闘配置!」
余は叫んだ。
「入口側は迎撃! 奥の十体は待機! 勝手に飛び出すな、絶対にだ!」
ゴブリンどもが一斉にぎゃあっと吠える。
統率は怪しい。
忠誠も怪しい。
知能はもっと怪しい。
だが、今この瞬間、余にはこやつらしかおらぬ。
白い部屋の中で、余は震えるような意識を無理やり引き締めた。
見ろ。
慌てるな。
相手を観察しろ。
数、装備、歩幅、視線、並び、癖。
ビビるのは後でよい。叫ぶのも後でよい。まずは見るのだ。
「……剣士が前、杖持ちが後ろ、小柄なのが床を見ておるな」
剣士は速い。だが狭所では振り回しにくいはずだ。
杖持ちは後方支援型。止まって撃つなら、そこが隙になる。
そして――小柄な斥候。
あれが厄介だ。
あれだけが、ちゃんとこの迷宮を見ている。
「なるほど」
恐怖の底で、妙に頭が冷えていく。
さっきまで散々取り乱していたのが、自分でも信じられぬほどに、視界が澄んだ。
剣士は前のめりだ。
斥候は慎重だ。
杖持ちは二人を信用している。
三人は連携しているようで、たぶん、まだ完全ではない。
Eランクだと侮っている。
ならば。
勝てる、とは言わぬ。
だが――崩せる。
「よい。ならば、余が使うべきは強さではない」
白い窓の向こうで、三人組が迷宮へ足を踏み入れる。
入口側のゴブリンどもが、わあっと群れた。
その様子を見ながら、余はゆっくりと言った。
「地形と、臭気と、馬鹿だ」
その瞬間、斥候の娘がぴたりと足を止め、薄暗い通路の奥を見た。
まるで誰かに見られている、とでも感じたかのように。
余は、わずかに息を詰める。
――面白い。
最初にそう思ったのは、きっと恐怖が限界を越えたせいだ。
だが同時に、確信もあった。
こやつらは、殺せる。
上手くやれば。
ギリギリのところで、きっと。




