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第196話 猟犬は、逃げる時ほど牙を隠さない

 天蓋の猟犬てんがいのりょうけんは、撤退を選んだ。


 それは敗走ではない。


 だが、勝利でもない。


 エリラの実は見た。


 赤金の実。


 神薬系どころではない、エリクサー素材の可能性を持つ果実。


 リーネを目覚めさせるかもしれない実。


 それは、確かにそこにあった。


 あと数歩だった。


 あと数歩で届いた。


 だが、その数歩の前に魔神戦王まじんせんおうゴブリン・ガルザヴェインが立っていた。


 そして今、ドランが倒れている。


 胸を深く裂かれ、肺を潰され、骨を砕かれた。


 ノアの癒歌奥義いやしうたおうぎ――命継いのちつぎで、命だけは繋がれている。


 だが、もう戦えない。


 風壁は張れない。


 笑うこともできない。


 呼吸するだけで、血が喉に絡む。


「撤退する」


 ロウエンが言った。


 その声に迷いはなかった。


 迷っている時間がないからだ。


 セラは赤金の実を見ていた。


 右目から血涙が流れている。


 それでも、彼女は目を閉じなかった。


「次は取る」


「次は取る」


 ロウエンは短く返した。


「今はドランを出す」


 その言葉で、全員の目的が切り替わった。


 エリラの実を取る。


 それは変わらない。


 だが、今ではない。


 今の目的は、生きて出ること。


 ドランを死なせないこと。


 見た情報を失わないこと。


 そして、次に戻ること。


    ◇


 白い部屋では、ロードが叫んでいた。


「逃がすな! 逃がすな逃がすな逃がすな!」


《深部封鎖、起動中》


「遅い! もっと早く閉じろ!」


《天蓋の猟犬、撤退速度が高いです》


「見れば分かる! 見れば分かることを言うな!」


 白い部屋の壁面には、撤退を始めた六人が映っている。


 いや、正確には五人と一人だ。


 ドランはロウエンの空糸に吊られ、ノアの歌に命を繋がれている。


 自力で歩いていない。


 それでも、天蓋の猟犬は陣形を崩していなかった。


 ロウエンが空糸で全員の位置を結ぶ。


 ミトが先頭で帰路の匂いを嗅ぐ。


 セラは目を閉じ、値星眼を休ませながらも、記憶の中で赤金の星を固定している。


 アゼルが小天蓋を後方へ広げ、追撃を落とす準備をしている。


 ノアは歌い続けている。


 ドランの命を繋ぎながら、全員の足音も整えている。


「なぜ崩れない!」


 ロードは叫んだ。


「普通は一人重傷になれば崩れるだろうが!」


《Sランク冒険者パーティーです》


「それはもう聞き飽きた!」


 フィルエが森灰観測室から言った。


「ロード、追撃が雑」


「雑にもなる!」


「雑だと逃げられる」


「分かっている! 分かっているが、どうすればいい!」


 ガルザヴェインが、エリラの木の前で血を流しながら立っている。


 右腕は深く裂けている。


 胸の白銀傷も開いている。


 脇腹の傷から黒い血が落ちる。


 それでも彼は追おうとしていた。


「ロード」


「待て!」


「オレ、オウ」


「待てと言った! お前がそこを離れたら、エリラの木が空く!」


「デモ、ニゲル」


「分かっている! ああ、分かっている!」


 ロードの声が揺れた。


「どうすればいいんだぁああ!」


 白骨書記が静かに骨板を掲げる。



選択肢:


一、ガルザヴェイン追撃

利点:討伐可能性上昇

欠点:エリラの木防衛低下、ガルザヴェイン重傷悪化


二、深部封鎖優先

利点:エリラ防衛維持

欠点:天蓋の猟犬生還可能性上昇


三、全配下追撃

利点:圧力上昇

欠点:連携混乱、罠破損、重要区画損傷



「正しい整理をするな! 余は今、叫びたいのだ!」


 フィルエが言った。


「二。深部封鎖優先」


「だが逃げる!」


「ガルザヴェインを離す方が危ない。木を守る方が大事」


 ロードは、苦しそうに黙った。


 それは正しい。


 正しいが、腹立たしい。


 天蓋の猟犬はエリラの実を見た。


 エリクサー素材かもしれないと口にした。


 それを生きて持ち帰られる。


 だが、ここでガルザヴェインを追わせ、エリラの木を傷つけられたら本末転倒だ。


「……ガルザヴェイン」


「ロード」


「木から離れるな」


 ガルザヴェインの拳が、ぎり、と鳴った。


 だが、彼は頷いた。


「ワカッタ」


「追撃は迷宮でやる」


「ワカッタ」


「お前はエリラを守れ」


「エリラ、マモル」


 魔神戦王は、血まみれのまま木の前に立った。


 ロードは壁面へ向き直る。


「帰路喰らい! カゲヌイ! ハイハネ! グズ! 湿骨軍列! 全部動け! 絶対に逃がすな!」


    ◇


 天蓋の猟犬の前で、白い霧が閉じた。


 いや、前だけではない。


 左右。


 背後。


 足元。


 上。


 深部全体が、彼らを閉じ込めるために動き出した。


 まず、軍帰路喰らい(いくさきろぐらい)の落武者。


 灰白の鎧が、霧の向こうに現れる。


 刃が抜かれている。


 狙いは、帰路。


 天蓋の猟犬が戻ろうとする道。


 その意味を斬るための刃。


 ロウエンが即座に言う。


「ノア、帰り歌」


「歌ってる」


 ノアの声が震えている。


 ドランの命を繋ぎながら、さらに帰路を歌で固定する。


 普通なら無理だ。


 だが、彼女はSランクの歌癒し。


 二つの歌を重ねる。


命継いのちつぎ」


 低い旋律。


帰犬歌きけんか


 さらに低い、地面をなぞるような歌。


 それが、ロウエンの空糸と繋がる。


 歌が道を作る。


 空糸がその道に形を与える。


 軍帰路喰らいの落武者が刃を振った。


 帰り歌が斬られる。


 旋律が一瞬歪む。


 ドランの呼吸が乱れる。


 ノアの口元から血が流れた。


「ノア!」


 セラが叫ぶ。


「止まらない!」


 ノアは歌をやめない。


 やめれば、ドランが死ぬ。


 やめれば、帰路が消える。


 その二つを同時に支えている。


 ロウエンが空糸を刃へ投げた。


「空糸技――刃結やいばむすび」


 落武者の刃へ、見えない糸が絡む。


 縛るのではない。


 刃の軌道を、ほんの少し重くする。


 軍帰路喰らいが二撃目を振る。


 重い。


 遅い。


 その一拍で、アゼルが星を落とした。


「星落術――帰路星きろぼし!」


 白い星が、落武者と天蓋の猟犬の間に落ちる。


 星が割れ、白い光の筋を作った。


 それは出口ではない。


 だが、一瞬だけ、帰る方向を照らす。


 ミトが叫んだ。


「こっち!」


 彼女は白い光の筋とは少しずれた方向へ走る。


 ロウエンは迷わず従った。


 なぜなら、ミトは匂いを嗅いでいる。


 光は目印。


 匂いは本物。


 落武者が追おうとする。


 そこへ、ドランがかすれた声で言った。


「……壁」


 意識が戻ったのではない。


 半分、反射だ。


 それでも彼の魔力が一瞬だけ動く。


 薄い風壁が、落武者の前に立った。


 すぐに斬られる。


 だが、一拍止めた。


 天蓋の猟犬は、その一拍で霧の封鎖を抜けた。


    ◇


 次に来たのは、影軍縫いカゲヌイだった。


 通路の影。


 ドランを吊る空糸の影。


 ノアの歌の振動が作る影。


 アゼルの小天蓋が落とす影。


 全部に針が落ちる。


 影を縫われれば、動きが止まる。


 動きが止まれば、戻り水が足を取る。


 足を取られれば、湿骨軍列が追いつく。


 ミトが叫んだ。


「影、多い!」


 アゼルが小天蓋を逆に薄くした。


 光を落としすぎると影が濃くなる。


 なら、光を散らす。


「星落術――薄雲星うすぐもぼし


 小さな星が霧の中で砕け、淡い光の雲になった。


 影の輪郭がぼやける。


 カゲヌイの針が落ちる場所がずれる。


 セラが右目を細く開く。


 血涙はまだ止まっていない。


 だが、彼女は影の中に走る価値のない黒線を見た。


「右下、針の芯!」


 ロウエンが空糸を走らせる。


 カゲヌイの針そのものを切ろうとはしない。


 芯を撫で、角度を変える。


 影針が、天蓋の猟犬の影ではなく、白磁壁の影を縫った。


 その壁が、ぎしりと鳴る。


 カゲヌイの針が無駄に消費される。


 だが、完全には防げない。


 一本が、ノアの影に刺さった。


 ノアの足が止まりかける。


 ドランの呼吸が乱れる。


「ノア!」


 ロウエンが糸を伸ばす。


 だが、先にミトが動いた。


 彼女は自分の足を、ノアの影に重ねた。


 影をずらす。


 自分の影で、ノアの影針を引き受ける。


 針がミトの影に食い込む。


 ミトの足から血が飛んだ。


「っ……!」


 ノアの歌が戻る。


 ミトは歯を食いしばる。


「走れる!」


「嘘」


 ノアが言う。


「ちょっと嘘!」


 ミトが叫ぶ。


 ロウエンは判断した。


「ミトを中央へ。俺が先導する」


 ミトは反論しようとした。


 だが、足が一瞬もつれた。


 それで十分だった。


 セラが彼女の腕を取る。


「強がるの禁止」


「まだ走れる」


「走れるのと先頭は別」


 ミトは悔しそうに頷いた。


 天蓋の猟犬は、傷つきながらも崩れない。


 役割を入れ替える。


 先頭を変える。


 歌を変える。


 糸を変える。


 撤退中なのに、陣形が生きている。


    ◇


 白い部屋で、ロードは壁面を叩きそうになっていた。


 叩く手はない。


 だが、気分としては叩いていた。


「なぜ止まらん!」


《影針、一部命中。ミト負傷》


「一部では足りん! 止めろ!」


《ノアの歌、ロウエンの空糸、アゼルの光調整により被害軽減》


「全部うまいこと言うな!」


 フィルエが言う。


「ロード、逃げる時の方が強い」


「何がだ!」


「天蓋の猟犬。たぶん、逃げる訓練をすごくしてる」


「冒険者だからか」


「うん。死なないために」


 ロードは歯噛みした。


 そうだ。


 冒険者は、殺すだけの存在ではない。


 生きて帰る存在だ。


 特にSランク冒険者パーティーともなれば、撤退こそ強い。


 宝を拾って帰る。


 仲間を抱えて帰る。


 情報を持って帰る。


 そのための技と判断を持っている。


「くそ」


 ロードは低く言った。


「くそ、くそ、くそ」


《次防衛、戻り水深落とし》


「やれ! いや、待て、エリラ方面へ流すな! 逃げ道の方へ落とせ!」


《実行》


    ◇


 通路の床が、急に静かになった。


 それまで湿っていた音が消える。


 ミトが顔を上げる。


「床、抜ける」


「全員、上!」


 ロウエンの空糸が全員の腰へ絡む。


 だが、ドランは重い。


 重傷で動けない。


 ノアが命継を維持している。


 そこで床が落ちた。


 戻り水深落とし。


 床一面が、薄い白磁膜ごと下へ沈む。


 その下には、戻り水の深い水路。


 沈めば、体が重くなる。


 装備が絡む。


 骨槍が下から来る。


 そして、帰路を見失う。


 ロウエンが空糸を引く。


「空糸技――吊群つりむれ!」


 全員の体が、空中で吊られた。


 だが、重い。


 ドランの体が沈みかける。


 ノアが彼を支えようとして歌を乱す。


 アゼルが星を落とす。


「星落術――浮星うきぼし!」


 白い星が、ドランの下で砕ける。


 軽い浮力が生まれる。


 ドランの体が、ほんの少し持ち上がる。


 セラが封じ布から、さきほど回収した偽果実を取り出した。


「使う!」


 ロウエンが叫ぶ。


「何に!」


「重り!」


 セラは偽果実の封を少しだけ開け、戻り水の底へ投げた。


 赤錆牙粉を含んだ偽果実が水中で割れる。


 赤錆噛みの匂いに反応して、床下の骨牙群がそちらへ集まる。


 ドランへ向かっていた骨槍の一部が、偽果実へ逸れた。


「高い餌だな!」


 ドランがかすれた声で笑った。


「起きてるなら黙ってて!」


 ノアが怒鳴る。


 その声に、少しだけ安堵が混じっていた。


 ドランはまだ生きている。


 まだ冗談が言える。


 つまり、帰らせなければならない。


 ロウエンの空糸が限界まで張る。


 彼の指から血が出る。


 糸が食い込んでいる。


 それでも、全員を吊ったまま通路の向こうへ渡す。


「あと、三呼吸!」


 ノアが歌を合わせる。


 アゼルが浮星を追加する。


 ミトが痛む足で壁を蹴る。


 セラがドランの体を押す。


 ロウエンが歯を食いしばる。


 一呼吸。


 二呼吸。


 三呼吸。


 全員が、落とし穴の向こうへ渡った。


 背後で戻り水が高く跳ねる。


 骨槍が空を刺す。


 天蓋の猟犬は、また逃げた。


    ◇


 ロードは、白い部屋で沈黙した。


 ほんの一瞬だけ。


 そして叫んだ。


「またか!」


《戻り水深落とし、回避》


「またか! またなのか!」


《ミト、負傷継続。ロウエン、指裂傷。ドラン、重傷継続》


「だが死んでいない!」


《はい》


「一人も死んでいない!」


《はい》


「何なんだあいつらは!」


 フィルエが静かに言う。


「Sランクパーティー」


「分かっていると言っているだろうが!」


 だが、もう分かっていなかった。


 いや、分かり始めていた。


 Sランクパーティーは、単純な火力や耐久力ではない。


 危機に陥ってからの処理力。


 撤退判断。


 役割の再配置。


 犠牲を出さずに無理を通す技。


 それが圧倒的だった。


 余の迷宮は、殺すための仕組みをいくつも持っている。


 だが、彼らは死なないための仕組みを持っている。


 そして今のところ、そちらの方が勝っている。


「出口までの距離は」


《外縁方向へ接近中》


「止めろ」


《次防衛、灰霧迷走層》


「やれ。だが、もう分かっている。あいつらは迷っても戻る」


《はい》


「なら、傷を増やせ。荷を重くしろ。ドランを落とせ」


 フィルエが少し低い声で言った。


「ロード」


「何だ」


「ドランを狙うのは正しい。でも、やりすぎるとノアが壊れるかも」


「それで止まるなら」


「逆。歌が強くなるかも」


 ロードは黙った。


 あり得る。


 アレクがそうだった。


 仲間の死で、人間は変わる。


 ノアがSランクのままさらに何かへ届く危険。


 それは避けたい。


「……殺すな。落とせ」


《対象ドラン、致死回避での離脱阻止》


「そうだ」


《困難です》


「知っている!」


    ◇


 灰霧迷走層が展開された。


 白い霧が深くなる。


 道が四つに割れる。


 同じ匂い。


 同じ音。


 同じ風。


 同じ外縁反応。


 普通なら、ここで迷う。


 だが、天蓋の猟犬は止まらなかった。


 ノアが歌を変えた。


「帰犬歌――二番」


 一度歌った帰り歌の続き。


 最初に入ってきた時から、彼女は歌で道を記録していた。


 音の高さ。


 霧の返り。


 足音の沈み。


 仲間の呼吸。


 それらを、旋律として覚えている。


 だから、同じように見える四つの道でも、歌への返りが違う。


「左から二番」


 ノアが言った。


 ミトも鼻を鳴らす。


「同じ。左から二番。外の土に一番近い」


 ロウエンは即座に決める。


「行く」


 灰霧迷走層は、彼らを迷わせきれなかった。


 ハイハネが霧を動かす。


 道をずらす。


 しかし、アゼルの薄雲星が霧の流れを可視化する。


 セラの値星眼が、価値のない偽道を消す。


 ロウエンの空糸が、物理的な空間の曲がりを拾う。


 迷走層が、少しずつ解かれる。


 だが、完全には無駄ではない。


 時間は削れる。


 体力は削れる。


 ノアの歌はさらに重くなる。


 ロウエンの指から血が増える。


 ミトの足はまだ痛む。


 ドランの呼吸は浅い。


 天蓋の猟犬は、逃げている。


 だが、余裕ではない。


 彼らも削れている。


「あと少し」


 ロウエンが言った。


「外縁まで出る」


 セラは一度だけ、振り返りそうになった。


 奥にある赤金の星。


 エリラの実。


 彼女は、それを目に焼き付けていた。


「次は」


 セラが言った。


「次は、取る」


 ノアの歌が、一瞬だけ強くなった。


 それは同意だった。


 リーネを起こすために。


 次は必ず取る。


    ◇


 最後の封鎖は、浅層外縁で起きた。


 戻り水が前を塞ぐ。


 湿骨軍列が左右から迫る。


 白磁根が背後を閉じる。


 軍帰路喰らいの落武者が、霧の奥に現れる。


 深部ほどではない。


 だが、最後の門だ。


 ここで止める。


 ロードは白い部屋で叫んだ。


「ここだ! ここで止めろ! 外へ出すな!」


 天蓋の猟犬は、最後の力を切った。


 ドランは動けない。


 だが、かすかに片手を上げた。


「……壁、少し」


 ノアが叫ぶ。


「喋らないで!」


「……うるせえ」


 ドランの指先から、薄い風壁が出る。


 それは弱い。


 だが、戻り水の表面を少しだけ押し返す。


 アゼルが小天蓋を限界まで開く。


「星落術――犬門星けんもんせい!」


 星が、外縁方向の霧へ落ちる。


 出口を照らすのではない。


 出口の形を作る。


 ミトがその匂いを拾う。


「そこ!」


 セラが値星眼で偽の外光を消す。


 ノアが帰犬歌を最後まで歌い切る。


 ロウエンが空糸をすべて伸ばした。


 指から血が噴く。


 空糸が、六人をまとめて外へ引く。


空糸奥義そらいとおうぎ――天蓋帰巣てんがいきそう!」


 見えない糸が、彼らを包んだ。


 迷宮の中で得た帰路の断片。


 歌が覚えた道。


 匂いが拾った土。


 星が照らした出口。


 値星眼が消した偽道。


 ドランの風壁が押し返した水。


 それらが、一つの帰還線になる。


 軍帰路喰らいの落武者が刃を振った。


 帰還線を斬る。


 斬った。


 だが、一本ではなかった。


 六人分。


 いや、七人分。


 眠るリーネの名を含めた、七つの帰る理由。


 一本を斬っても、残りが繋ぐ。


 ロウエンの空糸が、血で赤く染まる。


 彼は歯を食いしばった。


「帰るぞ!」


 天蓋の猟犬が、白い霧を抜けた。


    ◇


 外の空気が入った。


 土。


 夜明け前の森。


 封鎖線から離れた古い水路跡。


 六人は、そこへ転がり出た。


 ロウエンは膝をついた。


 セラは右目を押さえて倒れかけた。


 ミトは足を引きずる。


 アゼルは小天蓋を畳む余力もなく、星を消した。


 ノアはドランに覆いかぶさるようにして歌い続けている。


 ドランは生きていた。


 かすかに。


 だが、確かに。


「出た……?」


 アゼルが呟く。


 ミトが森の土を嗅いだ。


「外」


 セラは、震える声で言った。


「見た」


 ロウエンが息を整える。


「ああ」


「あれは、エリクサー素材かもしれない」


「分かっている」


「報告は?」


 ノアが、歌の合間に言った。


 ロウエンは首を横に振った。


「しない」


「無許可侵入だから」


「ああ。言えば、俺たちが終わる。素材も取り上げられる」


 セラが右目を閉じたまま言う。


「なら、秘密」


「秘密だ」


「次は?」


 ノアが問う。


 ロウエンは、ドランを見た。


 胸の傷は深い。


 命継で繋いでいるだけ。


 すぐに治療しなければ死ぬ。


「ドランを治す」


「その後は」


 ロウエンは、白い霧を見た。


 霧の奥に、赤金の実が揺れている。


 彼の目には見えない。


 だが、確かにある。


「準備する」


 セラが言った。


「一カ月」


 ノアが頷く。


「ドランが動けるまで、それくらい」


 ミトが足を押さえながら言う。


「私の足も治す」


 アゼルが、疲れた声で笑った。


「僕の星図も直す」


 ロウエンは頷いた。


「一カ月後、もう一度入る」


 天蓋の猟犬は、誰にも見つからないよう、森の闇へ消えた。


 彼らは逃げ帰った。


 だが、負けたわけではない。


 彼らは見た。


 エリラの実を。


 そして、次は取りに来る。


    ◇


 白い部屋では、ロードが固まっていた。


《侵入者、外部脱出》


「……」


《天蓋の猟犬、全員生存》


「……」


《ドラン、重傷。ミト、負傷。ロウエン、負傷。セラ、値星眼損傷傾向。ノア、魔力消耗大。アゼル、魔力消耗中》


「……逃げた」


《はい》


「逃げた……」


 ロードの声は、静かだった。


 静かすぎた。


 フィルエが言った。


「ロード」


「見られた」


「うん」


「エリラを見られた」


「うん」


「エリクサー素材かもしれないと言われた」


「うん」


「逃げられた」


「……うん」


 しばらく沈黙があった。


 やがて、ロードは低く言った。


「管理音声」


《はい》


「天蓋の猟犬は、外部へ公表すると思うか」


《低確率です》


「理由」


《無許可侵入のためです。情報を公開すれば、彼ら自身が王国・ギルド・神殿の処罰対象になります》


「つまり、すぐに王国が来るわけではない」


《はい》


「ギルドも知らない」


《現時点では》


「神殿も」


《はい》


「だが、天蓋の猟犬は知った」


《はい》


「戻るな」


《極めて高確率で再侵入します》


「いつ」


《ドランの重傷回復後と推定。ノアの治療能力およびSランク資金力を考慮し、およそ一カ月》


「一カ月……」


 ロードは、静かに笑った。


 それは、楽しげな笑いではなかった。


 怒り。


 悔しさ。


 そして、冷たい理解。


「余は逃がした」


《はい》


「今の迷宮では、Sランクパーティーを確実には殺せない」


《はい》


「罠は解かれ、魔物は倒され、ガルザヴェインでも止めきれず、撤退を許した」


《はい》


「はっきり言うな」


《事実です》


 ロードはしばらく黙った。


 そして、白い部屋の床に落ちていたダンジョン新聞を見た。


「取引だ」


《はい?》


「ダンジョン新聞の取引欄。上位ロードとの取引。Sランク以上を殺すための仕組みを買う」


 フィルエが静かに言った。


「ロード、強くなる?」


「ああ」


 ロードは、エリラの木の方角を見た。


 赤金の実は、まだそこにある。


 守れた。


 今回は。


 だが、次も守れるとは限らない。


「一カ月だ」


 ロードは言った。


「一カ月で変える」


 白骨書記が、新しい骨板を出した。



天蓋の猟犬、初回侵入結果:


エリラの実、視認される。

採取は阻止。

天蓋の猟犬、全員生還。

ドラン重傷。

再侵入可能性:極高。


迷宮側課題:


Sランクパーティー殺害能力不足。

撤退阻止能力不足。

高位価値感知への対策不足。

複合連携突破への対策不足。

エリラの木防衛強化、最優先。



「その通りだ」


 ロードは、低く言った。


「次は、逃がさない」


 白い霧の外で、天蓋の猟犬は傷を抱えて去った。


 白い霧の内で、霧灰白庭迷宮は敗北ではない敗北を噛みしめた。


 そして、次の一カ月が始まった。

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