表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

198/244

第195話 魔神戦王は、猟犬の牙を受ける

 魔神進軍鐘まじんしんぐんしょうが鳴った。


 ごん。


 その一音で、深部の霧が沈んだ。


 白い霧の奥から、黒い魔神性が押し出される。


 それは風ではない。


 熱でもない。


 ただ、そこに強いものが来るという圧だった。


 天蓋の猟犬てんがいのりょうけんは、一瞬で陣形を変えた。


 ロウエンが前へ出る。


 ドランが半歩右へ。


 ミトが低く沈む。


 セラは後ろへ下がりながらも、赤金の実から目を離さない。


 ノアが歌を止め、喉を整える。


 アゼルは小天蓋しょうてんがいを広げ、星を並べる。


 そして、その向こう。


 エリラの木の前に、魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェインが立った。


 完全に回復した体。


 だが、傷跡は残っている。


 胸には、白銀の剣が刻んだ傷。


 脇腹には、アレク・ヴァイスの帰天一閃きてんいっせんの跡。


 腕には、折剣濁白騎士せっけんだくはくきしの斬撃痕。


 それらは弱点ではない。


 戦歴だった。


 黒い魔神性が、傷跡を鎧のように縁取っている。


 金色の目が、六人を見た。


「ツヨイ」


 ガルザヴェインは言った。


 嬉しそうだった。


 だが、以前とは違う。


 ただ戦いたいだけの声ではない。


 彼は背後のエリラの木を一度だけ見た。


 赤金の実が揺れている。


 甘い香りがする。


 それを背にして、ガルザヴェインは拳を握った。


「エリラ、マモル」


 ロウエンが空糸を指に絡めた。


「守護役か」


 セラが右目を押さえたまま言う。


「あの木の前から動かないつもりだね」


「なら、動かす」


 ドランが笑う。


 だが、その笑みは硬い。


 彼も分かっている。


 目の前の魔物は、これまでの罠や兵とは違う。


 迷宮の配下でありながら、単体でSランク級。


 王都を震えさせた魔神ゴブリンが、今はさらに進化している。


 アゼルが低く言った。


「魔神ゴブリン……じゃないね」


 ノアが続ける。


「もっと整ってる。魔力が荒れてない」


 ミトの鼻が小さく動く。


「戦いの匂い。あと、守る匂い」


 ロウエンは、短く判断した。


「突破する。討伐は目的じゃない」


 セラが即座に言った。


「実を一個でいい。あれを確認できれば――」


「分かってる」


 ロウエンの声に迷いはない。


「ドラン、道を作れ。アゼル、足を止めろ。ミト、隙を噛め。ノア、全員を繋げ。セラ、目を切るな」


 六人の呼吸が変わる。


 ノアの歌が、低く始まった。


戦歌いくさうた――猟犬拍りょうけんびょう


 心拍が揃う。


 足の重心が揃う。


 視線の切り替えが揃う。


 Sランクパーティーの戦闘が始まる。


    ◇


 白い部屋では、ロードが叫んでいた。


「木を守れ! 木を傷つけるな! 実を取らせるな! だが木のそばで暴れすぎるな! ガルザヴェイン、分かっているな!?」


《契約線伝達済み》


「本当に分かっているのか!?」


 魔神契約跡で、ガルザヴェインが低く答える。


「ワカッタ」


「ならよし! いや、よくない! 相手は六人だぞ! 囲まれるな! 木を背にしろ! だが押し込まれるな! ああもう、どう指示すればいい!」


 フィルエの声が飛ぶ。


「ロード、指示多い」


「少なくできる状況か!」


「ガルザヴェインには短い方が通る」


「分かっている!」


 ロードは一瞬だけ黙った。


 それから、契約線へ絞った命令を流す。


「エリラを守れ。実を取らせるな。外へ出すな。だが、木は傷つけるな」


 ガルザヴェインの金色の目が光る。


「ワカッタ」


 今度の返事は、はっきりしていた。


    ◇


 先に動いたのは、天蓋の猟犬だった。


 ロウエンの空糸が、左右へ広がる。


 直接ガルザヴェインを縛らない。


 まず空間を測る。


 エリラの木との距離。


 根の広がり。


 ガルザヴェインが踏み込める範囲。


 ドランが前へ出る。


風壁術ふうへきじゅつ――猟犬盾りょうけんだて!」


 透明な風壁が前方に展開する。


 普通の盾ではない。


 薄い壁が三枚。


 斜めに重なり、衝撃を横へ逃がす形。


 アレクのような一点突破ではなく、パーティーを守るための壁だ。


 ガルザヴェインは、それを見て笑った。


「カベ」


 拳を握る。


 黒い魔神性が拳に集まる。


魔神拳まじんけん――黒牙砕こくがさい


 拳が、風壁に叩き込まれた。


 一枚目が砕ける。


 二枚目が割れる。


 三枚目が大きく歪む。


 衝撃が横へ逃げるはずだった。


 だが、逃げた先の白磁壁までひび割れた。


 ドランの足が一歩下がる。


「重っ……!」


 ドランの顔から笑みが少し消えた。


 それでも、完全には崩れない。


「風壁術――二重犬門にじゅうけんもん!」


 砕けた風壁の奥に、次の風壁が立つ。


 その隙に、ミトが横へ走った。


 白磁の柱を蹴り、床に手をつき、獣のように低く回り込む。


爪牙技そうがぎ――背喉せのど!」


 狙いは背後。


 ガルザヴェインの首の後ろ。


 普通なら、届く。


 だが、ガルザヴェインは振り返らなかった。


 背中の筋肉が、黒い魔神性で膨れる。


 ミトの短爪が刺さる。


 だが、深く入らない。


「硬い!」


 ガルザヴェインの肘が後ろへ飛んだ。


 ミトは身を捻る。


 避ける。


 避けきれない。


 肘の風圧だけで、彼女の体が横へ弾かれた。


 ドランの風壁が受ける。


 ノアの歌が即座に変わる。


癒歌いやしうた――息継いきつぎ」


 ミトの肺に入った衝撃が、歌で整えられる。


 彼女は床を蹴って立ち直った。


「無理に背中は駄目」


「了解」


 ロウエンの声は冷静だった。


 だが、目は鋭くなっている。


 ガルザヴェインは、背後を取られても崩れない。


 ただ硬いだけではない。


 守る場所を背負っている。


 エリラの木を背にしたことで、彼の動きは制限されている。


 だが同時に、守る方向が明確になっている。


 動きが読みやすいはずなのに、突破しにくい。


 まるで、魔物が門になったようだった。


    ◇


 アゼルが小天蓋を大きく開いた。


星落術ほしおとしじゅつ――拘星鎖こうせいさ


 小さな星が、鎖のように連なって落ちる。


 狙いはガルザヴェインの四肢。


 倒すためではない。


 動きを縛るため。


 星の鎖が、ガルザヴェインの腕へ、足へ、肩へ絡む。


 黒い魔神性と白い星光が火花を散らす。


 ガルザヴェインは笑った。


「ホシ」


 両腕に力を込める。


 星鎖が軋む。


 アゼルの顔が歪む。


「引きちぎるなよ……!」


 ガルザヴェインは引きちぎらなかった。


 引きちぎろうとはした。


 だが、鎖が伸びる。


 アゼルは拘束ではなく、抵抗を利用している。


 引っ張れば引っ張るほど、星鎖が力を吸い、位置をずらす。


 ガルザヴェインの体が、ほんの半歩、エリラの木から離れた。


 セラの目が光る。


「今!」


 彼女は走らない。


 走るのはロウエンだ。


 空糸が前へ伸びる。


 狙いはエリラの実。


 取るのではない。


 まず触れて、実の性質を確認する。


 一本の空糸が、赤金の実へ向かう。


 ロードが白い部屋で絶叫した。


「触るなあああああ!」


 ガルザヴェインが反応した。


 星鎖で半歩ずらされながら、金色の目だけが空糸を捉える。


 彼は拳ではなく、咆えた。


魔神咆哮まじんほうこう!」


 黒い音が放たれる。


 ただの咆哮ではない。


 音に魔神性が混じり、空間の細い糸を震わせる。


 ロウエンの空糸が、エリラの実に触れる寸前で乱れた。


「くっ……!」


 ロウエンは糸を引き戻す。


 引き戻した先で、空糸が一本切れた。


 切れた糸の先が黒く焦げている。


「糸を咆哮で焼いた?」


 アゼルが目を見開く。


 ガルザヴェインは、星鎖を掴んだ。


 今度は引っ張らない。


 握って、潰す。


 星鎖の中の魔力の節を、拳で一つずつ砕いていく。


 アゼルが舌打ちした。


「学習が早い」


 星鎖が砕ける。


 ガルザヴェインが自由になる。


 ドランがすぐに前へ出た。


「風壁術――犬城けんじょう!」


 厚い風壁が立つ。


 ガルザヴェインの突進を受けるために。


 だが、ガルザヴェインは突進しなかった。


 床を蹴る。


 横へ。


 Sランクパーティーの中心ではなく、セラへ向かって。


 値星眼。


 エリラの実を見ている者。


 それを狙った。


「セラ!」


 ミトが割り込む。


 ガルザヴェインの爪が振るわれる。


魔神爪まじんそう――王喰おうぐい!」


 黒い爪が、ミトとセラをまとめて裂こうとした。


 ドランの風壁が横から入る。


 ノアの歌が重なる。


守歌まもりうた――骨響ほねひびき!」


 ミトの体に歌の防御が重なる。


 それでも、魔神爪は重かった。


 風壁が砕ける。


 歌の守りが裂ける。


 ミトの肩から脇腹へ、深い傷が走った。


「っ……!」


 血が飛ぶ。


 セラは倒れない。


 ミトが身を入れて庇ったからだ。


 ノアが即座に歌う。


「癒歌――肉縫にくぬい!」


 傷が塞がり始める。


 だが、遅い。


 ガルザヴェインの爪に残った魔神性が、傷口の治癒を邪魔している。


 ミトは歯を食いしばった。


「重い……けど、動ける」


「無理するな」


 ロウエンの声が低くなる。


 怒りはない。


 だが、判断が鋭くなる。


「ドラン、圧を受けろ。アゼル、上から剥がせ。ノア、ミトを繋げ。セラ、目を守れ」


 ドランが前へ出る。


 今回は笑わない。


風壁術奥義ふうへきじゅつおうぎ――天蓋城壁てんがいじょうへき


 天井から床まで、巨大な透明の城壁が降りた。


 風でできた城壁。


 それがガルザヴェインとエリラの木の間、そして天蓋の猟犬の前に立つ。


 ガルザヴェインは、拳を構えた。


「カベ」


「そうだ」


 ドランが歯を見せた。


「ちょっと本気の壁だ」


 ガルザヴェインの拳が、黒く染まる。


「魔神拳――黒牙砕」


 拳が城壁を殴る。


 風が悲鳴を上げた。


 天蓋城壁が歪む。


 ドランの足が床へ沈む。


 だが、割れない。


「おおおおおお!」


 ドランが吠える。


 筋肉ではない。


 風壁を支える魔力が、彼の全身から噴き上がる。


 アゼルが上から星を落とした。


「星落術――肩砕星かたくだきぼし!」


 白い星が、ガルザヴェインの肩へ落ちる。


 ガルザヴェインは拳で風壁を殴っている最中。


 避けられない。


 星が肩に直撃する。


 黒い血が飛ぶ。


 肩の傷が開く。


 ガルザヴェインが低く唸った。


 ミトが傷を押さえながらも、横から走る。


「爪牙技――踵噛かかとがみ!」


 短爪が、ガルザヴェインの足首へ入る。


 深くはない。


 だが、腱に触れる。


 ガルザヴェインの踏み込みがわずかに崩れる。


 ロウエンが空糸を走らせた。


「空糸技――獣縛けものしばり」


 空糸が、ガルザヴェインの傷ついた肩、足首、肘を結ぶ。


 縛るのではない。


 動いた時に、傷が引き合うように結ぶ。


 ガルザヴェインが動けば、傷が痛む。


 痛みで動きが鈍る。


 セラが右目で叫ぶ。


「胸の白銀傷! あそこ、魔力の流れが歪む!」


 アゼルが星を構える。


 だが、ガルザヴェインの目が光った。


「ソコ、アレク」


 白銀傷。


 アレク・ヴァイスが残した傷。


 彼にとって、それは弱点であると同時に戦歴だった。


 ガルザヴェインは、胸の傷へ自分の拳を叩きつけた。


 黒い魔神性が、白銀傷を中心に広がる。


 傷跡が赤黒く光る。


 闘傷成長とうしょうせいちょう


 強敵による傷を、経験として定着させる力。


 天蓋の猟犬が弱点として狙おうとした瞬間、その傷が逆に反応した。


 アゼルの星が胸へ落ちる。


 白銀傷へ触れる。


 だが、傷跡から黒い魔神性が噴き上がり、星を受け止めた。


 完全には防げない。


 ガルザヴェインの胸から血が飛ぶ。


 しかし、致命傷にはならない。


 ガルザヴェインは笑った。


「アレク、ノコッタ」


 セラの顔が変わる。


「この魔物、傷を鎧にしてる……!」


 白い部屋で、ロードは叫んだ。


「よし! よし、ガルザヴェイン! その調子だ! いや、木に近づけるな! そっちだ、そっちではない! ああもう、右だ右! 違う、ガルザヴェインの右ではなく余から見て右だ!」


《契約線指示が混乱しています》


「分かっている!」


 フィルエが言う。


「ロード、短く」


「エリラを守れ!」


 ガルザヴェインが答える。


「ワカッタ」


 それでよかった。


    ◇


 戦いはさらに激しくなった。


 天蓋の猟犬は、ガルザヴェインを倒そうとしていない。


 少なくとも最初はそうだった。


 目的はエリラの実。


 ガルザヴェインを動かし、道を作り、実を一つでも取る。


 だが、ガルザヴェインはエリラの木を背にして動かない。


 動かされても、戻る。


 星で縛られても砕く。


 風壁で押されても殴る。


 空糸で傷を結ばれても、痛みごと前へ出る。


 ミトが回り込めば、肘や膝で迎撃する。


 セラが価値を見れば、彼女を狙う。


 ノアが歌えば、魔神咆哮で音を乱す。


 アゼルが星を落とせば、白銀傷や黒い拳で受ける。


 ドランの風壁は、何度も砕け、何度も立つ。


 ロウエンの空糸は、何度も切れ、何度も結び直される。


 Sランクパーティーと魔神戦王。


 深部の白い庭園跡が、戦場になった。


 エリラの木の赤金の実は、その後ろで静かに揺れている。


 まるで、戦いなど知らないように。


 だが、ロードはそれどころではなかった。


「木に破片が飛ぶ! 飛ばすな! 誰だ今の星! アゼルか! あいつを止めろ! いや、止める前にドランの壁を壊せ! いや壊すと破片が飛ぶ! どうすればいいんだぁああ!」


《冷静な判断を推奨》


「できるならしている!」


 白骨書記は骨板へ書く。



ロード、深部重要素材防衛時に顕著な混乱。



「記録するなああ!」


    ◇


 ロウエンは戦いながら、状況を測っていた。


 ガルザヴェインは強い。


 想定以上だ。


 Sランク魔物。


 しかも進化している。


 ただの魔神ゴブリンではない。


 迷宮の守護役として立っている。


 そして、この場所では倒す必要がある相手ではない。


 動かせればいい。


 だが、動かない。


 動かそうとすれば、傷を負いながら戻る。


 エリラの木を背にする位置だけは絶対に譲らない。


 つまり、この魔物は守っている。


 それも、命令だけではない。


 本人の意思でも。


「ドラン」


 ロウエンが言った。


「一度、正面から押せるか」


「押すだけならな」


「倒す必要はない。半歩でいい」


「半歩か。高い半歩だな」


 ドランは笑った。


 血が口元に滲んでいる。


 風壁を何度も砕かれ、その反動が体へ来ていた。


 それでも、彼は前へ出る。


「ノア」


「分かってる」


 ノアの歌が、今までと変わった。


 優しい歌ではない。


 癒す歌でもない。


 押すための歌。


剛歌ごうか――大犬吠おおいぬぼえ」


 ドランの背に、歌の力が乗る。


 アゼルが星を一つ、ドランの足元へ落とす。


「星落術――足場星あしばぼし


 足元が固まる。


 ロウエンの空糸が、ドランの腰と肩を支える。


 ミトがガルザヴェインの足首へ牽制を入れる。


 セラが叫ぶ。


「左足、今!」


 ドランが両腕を広げた。


「風壁術奥義――天蓋城壁、二重!」


 二枚の巨大な風壁が重なる。


 それを、ドラン自身が押した。


 風の城壁が、ガルザヴェインへ真正面からぶつかる。


 ガルザヴェインが拳を構える。


「魔神拳――黒牙砕!」


 拳が風壁へ叩き込まれる。


 一枚目が砕ける。


 二枚目が歪む。


 ドランの腕の筋が切れる音がした。


 血が噴く。


 だが、彼は止まらない。


「押すぞ、犬ども!」


 天蓋の猟犬の全員が、ほんの一瞬、ドランへ力を乗せた。


 歌。


 星。


 糸。


 風。


 足場。


 呼吸。


 ガルザヴェインの足が、半歩下がった。


 たった半歩。


 だが、その半歩で、エリラの木への道が一瞬だけ開いた。


「セラ!」


 ロウエンが叫ぶ。


 セラが走る。


 いや、走ろうとした。


 しかし、ガルザヴェインの金色の目が彼女を捉えた。


「トラセナイ」


 ガルザヴェインが、風壁を殴るのをやめた。


 代わりに、体ごと前へ出る。


 自分の胸で風壁の残りを受け、肩で砕き、爪を振るう。


 狙いはセラ。


 ドランが割り込む。


 それは、ほとんど反射だった。


 守るための反射。


 風壁師として、仲間を前に出したなら、守るのが自分の仕事。


 ガルザヴェインの魔神爪が、ドランの風壁を裂く。


 裂いた上で、ドラン本人へ届いた。


 黒い爪が、彼の胸を斜めに裂いた。


 骨が砕ける音。


 肺が潰れる音。


 ドランの巨体が吹き飛んだ。


「ドラン!」


 ノアの叫びが、歌ではなく声になった。


 ドランは白磁床を転がり、壁に叩きつけられた。


 血が広がる。


 呼吸が詰まっている。


 胸が、普通ではない形にへこんでいる。


 ガルザヴェインも無傷ではない。


 ドランの二重天蓋城壁とアゼルの星で、右腕が大きく裂けていた。


 肩も砕けかけている。


 胸の白銀傷も開き、黒い血が止まらない。


 だが、立っている。


 エリラの木の前に。


 セラは実へ届かなかった。


 あと数歩。


 それだけの距離だった。


 しかし、その数歩を、魔神戦王が許さなかった。


    ◇


 白い部屋で、ロードは息を止めたように固まった。


「……止めた」


《ドラン、重傷》


《ガルザヴェイン、重傷》


《エリラの実、未採取》


「止めた……止めたぞ……」


 次の瞬間、ロードは叫んだ。


「よくやったガルザヴェイン! だが血! お前の血が木の方へ飛んでいる! 戻り水、洗え! いや吸うな、洗え! エリラに魔神血を吸わせるな! いや、もう魔神契約跡の木だが、追加は危険だ!」


《洗浄処理》


 フィルエが言った。


「ロード、まだ終わってない」


「分かっている!」


 天蓋の猟犬は、ドランの重傷を見て、空気を変えた。


 ノアがドランへ駆け寄る。


 歌が震えている。


 だが、すぐに整った。


癒歌奥義いやしうたおうぎ――命継いのちつぎ」


 歌が、ドランの胸へ入る。


 潰れた肺を、完全に治せるわけではない。


 折れた骨を一瞬で戻せるわけでもない。


 だが、命を繋ぐ。


 出血を止め、呼吸を一つずつ戻し、死に向かう流れを押し返す。


 ドランは、かすかに息を吸った。


 生きている。


 だが、もう戦えない。


 ロウエンは、それを見て判断した。


 早かった。


 悔しさよりも早く。


 欲よりも早く。


 冒険者としての判断が出た。


「撤退する」


 セラが振り返る。


「でも――」


「撤退だ」


 ロウエンの声は、低く硬い。


「ドランが死ぬ」


 その一言で、セラは歯を食いしばった。


 赤金の実は目の前にある。


 エリクサー素材かもしれない。


 リーネを起こせるかもしれない。


 だが、仲間の命より高い宝はない。


 天蓋の猟犬の規則。


 それは、今も生きている。


「分かった」


 セラは言った。


 声が震えていた。


「でも、次は取る」


 ロウエンは頷いた。


「次は取る」


 ガルザヴェインが、血まみれのまま前へ出ようとする。


 ミトが唸る。


 アゼルが星を構える。


 ノアはドランを歌で繋いでいる。


 セラは赤金の実から目を切れない。


 ロウエンが空糸を広げた。


「退くぞ」


    ◇


 白い部屋で、ロードが叫んだ。


「逃がすな!」


《侵入者、撤退動作》


「逃がすな逃がすな逃がすな! エリラを見た! 完全に見た! エリクサー素材と言った! 絶対に逃がすな!」


《深部封鎖を起動します》


「帰路喰らい! カゲヌイ! 戻り水! 全部だ! 全部で塞げ!」


《実行》


「ガルザヴェイン、追え!」


 ガルザヴェインが一歩出る。


 だが、足が少し揺れた。


 傷が深い。


 ドランの風壁とアゼルの星、ロウエンの空糸、ミトの攻撃。


 そして、自ら受けた攻撃が重なっている。


 追える。


 だが、万全ではない。


 フィルエが叫んだ。


「ロード、ガルザヴェインも危ない!」


「だが逃がせん!」


「追わせすぎると木から離れる!」


 その言葉で、ロードは一瞬止まった。


 ガルザヴェインが追えば、エリラの木の守りが薄くなる。


 だが、追わなければ逃げられる。


 どうすればいい。


「どうすればいいんだぁああ!」


 その叫びの中、天蓋の猟犬は動いていた。


 ロウエンの空糸が、全員を繋ぐ。


 ノアがドランの命を歌で支える。


 アゼルが小天蓋を後方へ広げる。


 ミトが先頭で帰路の匂いを嗅ぐ。


 セラが赤金の星を最後にもう一度見て、目を閉じる。


 ドランは意識がない。


 それでも、彼らは撤退を始めた。


 魔神戦王の前から。


 エリラの木の前から。


 命と情報を抱えて。


 ロードは白い部屋で叫んだ。


「逃がすなあああ!」


 深部の霧が、彼らの背を追って閉じ始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ