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第194話 赤金の匂いは、ロードの余裕を剥がす

 泥の大門が、深部手前で閉じていた。


 それは、ただの泥門ではない。


 泥塞大門将でいそくだいもんしょうグズの泥核から伸ばした、準本体級の遠隔門。


 白磁片を含んだ灰泥。


 戻り水で練った重い門扉。


 内側には、湿骨軍列しつこつぐんれつ骨梁こつばり


 表面には、赤錆噛みの牙粉。


 影には、影軍縫いカゲヌイの針。


 霧には、灰霧追導蛾はいむついどうがハイハネの灰白粉。


 深部へ向かう道を、門そのものが一つの迷宮のように塞いでいる。


 余は白い部屋で、その防衛図を睨んでいた。


「二層だ」


《はい。エリラの木封鎖圏まで、残り二層》


「分かっている。さっき聞いた」


 余は腕を組んだ。


「だから、ここで止める」


《深部手前防衛、展開中》


「泥門、骨梁、影針、灰霧粉。全部重ねたな」


《はい》


「よし。ここで止める。ここで止まれば問題ない。まだ大丈夫だ。まだ――」


 言いながら、余は壁面を見た。


 白い霧の奥から、天蓋の猟犬てんがいのりょうけんが来る。


 六人。


 空糸そらいとのロウエン。


 値星眼ねぼしがんのセラ。


 風壁師ふうへきしのドラン。


 獣嗅けものかぎのミト。


 歌癒うたいやしのノア。


 星落術師ほしおとしじゅつしのアゼル。


 全員、生きている。


 浅層を越えた。


 戻り水湿地外縁を越えた。


 赤錆核を罠ごと処理して回収した。


 白磁偽財殿はくじぎざいでん外周の罠群を焼き払った。


 偽果樹園すら突破した。


 しかも、こちらの罠を見て、嗅いで、値踏みして、解いて、素材まで持っていった。


 そして今、深部手前の大門へ向かっている。


 余は、努めて落ち着いた声を出した。


「ここで止める」


《はい》


「止まるはずだ」


《はい》


「止まれ」


《命令対象が異なります》


「分かっている!」


 森灰観測室しんかいかんそくしつから、フィルエの声がした。


「ロード、声が少し早い」


「早くなどない」


「早い」


「……少し早いかもしれん」


「焦ると罠が雑になる」


「分かっている。だから今、きちんと止める準備をしているのだ」


 そうだ。


 ここで止める。


 エリラの木までは、まだ二層ある。


 まだ見えない。


 まだ匂いも完全には届いていない。


 セラの右目も、赤金の星をはっきり掴んではいない。


 まだ大丈夫だ。


 まだ。


    ◇


 天蓋の猟犬は、泥の大門の前に立った。


 ミトが最初に鼻を鳴らす。


「泥。骨。水。金属を噛む粉。影。霧。全部いる」


 ドランが肩を回した。


「盛り合わせだな」


 ノアが門の前で低く歌う。


 声が泥門へ染み込み、低い反響が返ってきた。


探音歌たんおんか――門鳴もんなり」


 ごう、と門が鳴った。


 ただの泥ではない。


 中に骨梁がある。


 戻り水が流れている。


 どこかで、赤錆噛みの牙粉がかちかちと小さく鳴った。


「中、空っぽじゃない。骨で支えてる」


 アゼルが小天蓋しょうてんがいを開く。


 青黒い半球が頭上に浮かび、星が並んだ。


「焼くと爆ぜそう」


 セラが右目を細める。


「正面の白い筋、見える?」


「見える」


 ロウエンが答える。


「でも、見えすぎる」


 セラは頷いた。


「わざと見せてる。あそこを狙わせたいんだと思う」


 ドランが笑う。


「じゃあ、狙わない」


「正解」


 ロウエンは指を少し動かした。


 空糸が伸びる。


 泥門の表面ではなく、その左右の白磁壁へ。


 門そのものを切らない。


 門が立っている場所を支えている壁の結び目へ、見えない糸を滑り込ませる。


「空糸技――門脇解もんわきほどき」


 白磁壁の内側で、細い結線がほどけた。


 泥門が、ほんの少し傾く。


 すぐに戻り水が動く。


 傾きを補正しようと、門の内部へ流れ込む。


 アゼルが小さな星を落とした。


星落術ほしおとしじゅつ――支星ささえぼし


 星は門を焼かない。


 戻り水の補正流だけを打つ。


 水が乱れる。


 門がまた傾く。


 ドランが両腕を広げた。


風壁術ふうへきじゅつ――逆扉さかとびら


 透明な風の壁が、泥門の正面に生まれた。


 押すのではない。


 まず、吸う。


 風が泥門の表面を手前へ引く。


 泥門は、内側の骨梁で耐えようとする。


 そこへ、ミトが走った。


 壁を蹴る。


 白磁片を踏む。


 泥門の側面へ、獣のように張りつく。


爪牙技そうがぎ――骨筋抜ほねすじぬき」


 短爪が、門の隙間へ入った。


 骨梁の一本を引っ掻き切る。


 門が大きく軋む。


 その瞬間、影が落ちた。


 カゲヌイの影針。


 狙いはミトの影。


 だが、ノアの歌が先に触れた。


沈黙歌ちんもくか――針眠はりねむり」


 影針の意図が、一拍鈍る。


 その一拍で、ミトは壁から飛び退いた。


 ロウエンの空糸を足場にして、仲間の横へ戻る。


 門がさらに歪む。


 ドランが笑った。


「押すぞ」


 ロウエンが短く答える。


「今」


 ドランの風壁が、向きを変えた。


 吸っていた風が、一気に押す風へ変わる。


「風壁術――門返もんがえし!」


 泥の大門が、内側から裂けた。


 爆発ではない。


 崩落でもない。


 構造をほどかれ、支えを切られ、補正水を乱され、風で逆に返された門が、自分の重さで横へ倒れた。


 ごう、と重い音がした。


 準本体級の遠隔泥門が、道を塞ぐ役目を果たせないまま倒れる。


    ◇


 白い部屋で、余は叫んだ。


「グズの門がああああ!」


《準本体級遠隔泥門、崩壊》


「見れば分かる!」


 中層の奥で、グズが低く唸った。


「グ……ズ……!」


「待て! お前の本体はまだ出すな! 出すなと言っている! お前まで出て壊されたら余が本当に困る!」


《ロードに肉体的涙腺はありません》


「比喩だ! 今そういうことを言うな!」


 壁面の表示が更新される。


《侵入者、深部手前防衛第一層を突破》


《エリラの木封鎖圏まで、一層半》


「一層半!?」


 余は思わず叫んだ。


「一層半だと!? 今ので止めるはずだっただろうが! 二層あっただろう! どこへ行った、半層!」


《泥門層が突破されたためです》


「報告ではなく止め方を言え!」


《次防衛層:白磁庭残骸層はくじていざんがいそう


「起動! 今すぐ!」


《起動済み》


「もっと起動しろ!」


《白磁庭兵、湿骨軍列支援部、白磁花粉、灰霧層、影針網、全て展開中》


「それで止まるのだな!?」


《保証はできません》


「保証しろ!」


《不可能です》


「管理音声!」


「ロード」


 フィルエの声が割り込む。


「落ち着いて。次がある」


「次しかないのだぞ!」


「だから、次を雑にしないで」


 余は息を吸った。


 必要ないが、吸った気がした。


「……分かっている」


 本当に分かっている。


 焦って全部を投げ込めば、天蓋の猟犬はそれを解く。


 六人は、罠を一つのまとまりとして見ている。


 泥門だけではない。


 泥門を支える壁、水、骨、影、霧、音。


 全部を見て、役割分担で解いてくる。


 だから、次は殺す罠ではなく、止める層にする。


 目的を薄める。


 足を遅らせる。


 視界を乱す。


 時間を奪う。


 その間に、エリラの木の秘匿をさらに――


《警告》


「何だ!」


《値星眼反応、上昇》


「……もう?」


《対象セラ、赤金価値方向への感知を継続》


「まだ見えていないな?」


《明確な視認には至っていません》


「ならよい。まだよい。まだ大丈夫だ。まだ……」


 フィルエが小さく言った。


「ロード、同じこと言ってる」


「黙れ」


    ◇


 泥門の向こうには、白磁庭残骸層が広がっていた。


 崩れた白い柱。


 半分だけ残った庭園の小路。


 泥に沈んだ白い花壇。


 戻り水に浸った石像。


 白磁庭園の清らかな残骸と、スタンピードの灰と骨が混じった場所。


 美しい。


 だが、汚い。


 白い。


 だが、死の匂いがする。


 天蓋の猟犬が足を踏み入れると、花壇から白磁花が咲いた。


 白い花弁が開く。


 花粉が舞う。


 それは毒ではない。


 眠り粉でもない。


 記憶を薄める粉だった。


 自分がなぜここへ来たのか。


 何を探しているのか。


 どこへ帰るつもりなのか。


 それを、一瞬だけ曖昧にする。


 目的を薄める。


 欲を薄める。


 帰路を薄める。


 人間は、目的を失うと弱くなる。


 だが、ノアの歌が先に響いた。


名呼なよび歌」


 彼女は、仲間の名を歌った。


 ロウエン。


 セラ。


 ドラン。


 ミト。


 アゼル。


 ノア。


 そして、リーネ。


 その名が出た瞬間、六人の足取りが戻る。


 白磁花粉が彼らの記憶を薄めようとしても、歌が名前を結び直す。


 誰が誰であるか。


 誰のために来たのか。


 何を拾うために来たのか。


 その芯が、歌で固定される。


 ドランが前へ出た。


「風壁術――花散はなちらし」


 風が回り、白磁花粉を吹き払う。


 だが、吹き払われた花粉は灰霧と混じり、白い光を乱反射させた。


 アゼルの小天蓋が揺れる。


「反射が多い。星が散る」


 セラは右目を押さえた。


「価値の星も散る。偽の光が多い」


 ミトが鼻を鳴らす。


「甘い匂い、でも混じってる。偽物じゃない。少しだけ、本物の端」


 余は白い部屋で硬直した。


「今、何と言った」


《ミト、エリラ由来と思われる甘香を微弱感知》


「なぜ漏れた!」


《泥門崩壊により深部空気層が乱れた可能性》


「グズの門が崩れたせいか! いや、グズは悪くない! 悪いのはあいつらだ!」


 セラが霧の奥を見る。


 右目に銀の星が浮かぶ。


 その奥で、ほんの少しだけ、赤金の光が揺れた。


 まだ遠い。


 まだ形はない。


 だが、前よりもずっと強い。


「近い」


 セラが言った。


「さっきより、ずっと」


 ノアの声が静かになる。


「リーネに使える?」


「分からない」


 セラは嘘をつかなかった。


「でも、神薬系の可能性はかなり高い」


 その言葉で、天蓋の猟犬の空気が変わる。


 ロウエンが空糸を張り直す。


 ドランが風壁を厚くする。


 ミトが低く構える。


 アゼルが小天蓋を広げる。


 ノアの歌が強くなる。


 彼らは、前へ進む。


 エリラへ向かって。


 余は壁面に向かって叫んだ。


「進むな! そこで止まれ! 止まれと言っている!」


《外部に音声は届いていません》


「届かせるな! いや、届いても止まらん! くそ!」


    ◇


 白磁庭残骸層の石像が動いた。


 半分崩れた女神像。


 白い騎士像。


 獣の像。


 それらが白磁根と骨で繋がれ、ゆっくり立ち上がる。


 白磁庭兵はくじていへい


 未完成の守護兵だが、深部手前の防衛戦力としては十分なはずだった。


 さらに、背後に湿骨軍列の骨槍が並ぶ。


 白磁庭兵が前へ。


 湿骨軍列が後ろから支える。


 白磁花粉が舞う。


 灰霧が反射する。


 影が揺れる。


 複合防衛層。


 これで止める。


 止めなければならない。


「止まれ……止まれ、止まれ、止まれ」


 余は無意識に呟いていた。


 ガルザヴェインが魔神契約跡で言った。


「ロード」


「まだだ!」


「チカイ」


「分かっている!」


「エリラ、マモル」


「分かっていると言っている!」


「オレ、イツ?」


「……まだだ。まだ待て。ここで止まるかもしれん。いや、止まれ。止まってくれ」


 フィルエが小さく言った。


「ロード、願いになってる」


「うるさい!」


    ◇


 天蓋の猟犬は、白磁庭兵を見た。


 ロウエンが言う。


「正面戦闘」


 ドランが笑った。


「ようやくまともに殴れるな」


「まともではない」


 セラが即座に言う。


「首の裏、膝、胸の白い点。そこが結び目」


 ミトが頷く。


「匂いもそこ。生きてる根が集まってる」


 ノアの歌が強くなる。


戦歌いくさうた――猟犬拍りょうけんびょう


 六人の心拍が揃う。


 呼吸が揃う。


 動き出す瞬間が揃う。


 アゼルの小天蓋が濃くなる。


「星落術――庭割星にわわりぼし


 星が落ちた。


 一体目の白磁庭兵の頭部を砕く。


 白い破片が飛ぶ。


 中から戻り水が噴き出す。


 それをロウエンの空糸が横へ逃がす。


 ミトが二体目の背後へ回る。


「爪牙技――芯噛しんがみ」


 短爪が首の裏へ入る。


 白磁根の結び目を裂く。


 二体目が崩れる。


 三体目が骨槍と同時に拳を振るう。


 ドランの風壁が拳を受ける。


 ロウエンの空糸が骨槍の軌道をずらす。


 セラが叫ぶ。


「右膝、白点!」


 ミトが飛ぶ。


 爪が入る。


 膝が崩れる。


 アゼルの小星が追撃し、胸の中核を撃ち抜く。


 白磁庭兵三体。


 短時間で崩れた。


《白磁庭兵、全損》


《湿骨軍列支援部、損耗》


 白い部屋で、余は絶叫した。


「何でだ!」


《弱点を特定されています》


「なぜ分かる!」


《セラ、ミト、ロウエンの連携によるものと推定》


「推定ではなく止めろ!」


《止まりません》


「止めろと言っている!」


《不可能です》


「管理音声!」


 表示がさらに更新される。


《白磁庭残骸層、防衛崩壊》


「崩壊!? 崩壊とは何だ! まだ三体しか出していないぞ!」


《白磁庭兵三体、全損》


「三体全部!? 一体くらい足を止めろ!」


《侵入者、前進継続》


《エリラの木秘匿圏まで、一層未満》


「一層未満……?」


 余は、一瞬、言葉を失った。


 そして、叫んだ。


「近い! 近い近い近い! もう見えるだろうが! いや、見るな! 見るな、セラ! 右目を閉じろ!」


「ロード、相手に聞こえてない」


「聞こえなくても言う! 見るなああああ!」


    ◇


 セラは、白磁庭兵の崩れた向こうを見た。


 右目が強く光る。


 そして、彼女は初めて息を呑んだ。


「……見えた」


 ロウエンが即座に振り向く。


「赤金か」


「見えた」


 セラの声は震えていた。


「本物」


 ノアの歌が一瞬だけ止まりかけた。


「神薬系?」


 セラは右目を押さえた。


 血涙が一筋、頬を伝う。


 それでも、笑った。


「神薬系どころじゃない」


 白い部屋で、余の意識が凍った。


「見るな」


 セラは、霧の奥を見ている。


 木そのものは、まだはっきり見えない。


 だが、赤金の星が見えた。


 命の果実。


 エリラの実。


「見るな……」


 余の声は、白い部屋の中だけに落ちる。


 セラは震える声で言った。


「これ、エリクサー素材かもしれない」


 その瞬間。


 余は完全に取り乱した。


「見るなああああああ!」


 白い部屋が震えた。


 フィルエが息を呑む。


 白骨書記が骨筆を落とす。


 魔神契約跡で、ガルザヴェインが立ち上がる。


「ロード」


 余は叫んだ。


「ガルザヴェイン!」


「ワカッタ」


「待て、いや待つな! いや、場所が近い! 木から離せ! 絶対に実を取らせるな! だが木を傷つけるな! ああもう、分かるな!?」


 ガルザヴェインは、金色の目を燃やした。


「エリラ、マモル」


 魔神進軍鐘が鳴る。


 ごん。


 深部の霧が、黒く震えた。


 天蓋の猟犬は、その音を聞いた。


 ミトが叫ぶ。


「来る! 強いの!」


 ロウエンが空糸を広げる。


「全員、戦闘陣形!」


 セラは、なおも赤金の星から目を離せなかった。


「ロウエン」


「何だ」


「あれ、絶対に必要」


 ロウエンは、短く答えた。


「分かった」


 その声に、迷いはなかった。


「取る」


 白い霧の奥で、黒い魔神性が膨れ上がる。


 ロードは白い部屋で、ほとんど叫び続けていた。


「駄目だ駄目だ駄目だ! 近い! 近すぎる! ガルザヴェイン、止めろ! 全力で止めろ!」


 そして。


 魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェインが、エリラの木を背にして現れた。


 赤金の実が揺れる、その手前に。


 Sランクパーティー《天蓋の猟犬》の前に。

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