第193話 偽りの果樹園は、猟犬の鼻を試す
深部手前に、果樹園が生まれた。
正確には、生やした。
余が。
もちろん、本物ではない。
エリラの木ではない。
神級素材を実らせる命の木など、そう簡単に増やせるものではない。
だが、似せることはできる。
赤い実。
金色の葉。
甘い匂い。
白磁の幹。
戻り水の湿り。
灰霧の柔らかい膜。
魔神契約跡の光を薄く模した、赤金色の反射。
深部手前の小さな空間に、それらを組み合わせた偽りの果樹園を作った。
一本ではない。
七本。
それぞれの木に、赤金色の実をつける。
実の数は多すぎない。
少なすぎても怪しい。
一本につき、五つから八つ。
木の下には白い花びらを散らし、甘い香りを薄く広げる。
さらに、見えないところに戻り水。
根の下に白磁根。
枝の影にカゲヌイの影針。
果実の中に、赤錆噛みの牙粉。
そして、果樹園全体を包むようにハイハネの灰霧を薄く流す。
普通の冒険者なら、これで十分だ。
赤金色の実を見て、神級素材だと勘違いする。
甘い香りに気を取られる。
手を伸ばす。
果実を取る。
その瞬間、実が割れ、牙粉が散り、白磁根が腕を絡め、戻り水が足を沈め、影針が足を縫う。
終わりだ。
だが、相手は普通の冒険者ではない。
Sランク冒険者パーティー、天蓋の猟犬。
余は白い部屋で腕を組み、その偽果樹園を見下ろしていた。
「どう見る」
《対象の反応待機中》
「セラの値星眼は」
《強く反応する可能性があります。ただし、本物との差異を見抜かれる可能性も高いです》
「ミトの鼻は」
《匂い偽装を看破する可能性があります》
「腹立たしいな」
フィルエの声が森灰観測室から届く。
「ロード、似せすぎると逆に変だよ」
「なぜだ」
「本物のエリラの木は、生きてる。偽物は、きれいすぎる」
「きれいすぎると駄目なのか」
「うん。果物は、ちょっとむらがある方が生きてる」
「面倒だな、木は」
「生き物だから」
余は少し考えた後、偽果樹園の実の色を少しだけ崩した。
赤を濃くしすぎたもの。
金の薄いもの。
ひびのあるもの。
熟しすぎたように見えるもの。
まだ青さの残るもの。
完璧をやめる。
生き物らしい不揃いを混ぜる。
「これでどうだ」
「まし」
《偽装精度、上昇》
「よし」
白骨書記が骨板へ書く。
⸻
偽果樹園:
目的:天蓋の猟犬の価値判別能力確認
本物:なし
赤金偽果:四十六個
罠:果実破裂、白磁根、戻り水沈降、影針、赤錆牙粉
備考:不揃い感を追加。フィルエ助言により偽装精度上昇。
⸻
「備考はいらん」
白骨書記は消さない。
最近、こいつは本当に消さない。
◇
天蓋の猟犬は、偽果樹園の手前で止まった。
最初に止まったのは、ミトだった。
彼女は地面に手をつき、鼻を小さく動かした。
「甘い」
ドランが肩を回す。
「とうとう来たか?」
「違う」
ミトは即答した。
「甘いけど、違う。これは混ぜた匂い」
ロウエンが目を細める。
「本命じゃない?」
「たぶん」
セラが右目を開いた。
値星眼が、偽果樹園を見る。
赤金の実が星のように映る。
価値はある。
低くはない。
むしろ高い。
普通の迷宮素材なら十分以上。
だが、さっき一瞬だけ見た奥の赤金とは違う。
あの奥の星は、目が焼けるほどだった。
これは眩しいが、焼けない。
「……高い」
セラは言った。
「でも、違う」
ノアが静かに聞く。
「リーネに使えそう?」
「分からない。でも、あの奥のやつとは違う。神薬系に似せた、別の高位素材」
アゼルが小天蓋を薄く開く。
星屑が頭上に浮かび、偽果樹園の中へ淡い光を落とす。
「木の影が変だ。根元の影が、実の数と合ってない」
ドランが笑った。
「つまり罠か」
ロウエンは頷く。
「罠だな」
「じゃあ無視?」
ドランの問いに、セラが少しだけ笑った。
「見たい」
「やっぱり」
「だって高い」
「冒険者だな」
「冒険者だから」
ロウエンは指を動かした。
空糸が果樹園の入口へ伸びる。
だが、踏み込まない。
糸だけで空気を撫でる。
甘い香りの層。
灰霧の流れ。
枝の揺れ。
実の重さ。
罠線。
戻り水の潜り方。
彼はそれを一つずつ拾っていく。
「果実に牙粉」
ミトが言った。
「赤錆系。噛む匂い」
「枝の影に針」
アゼルが続ける。
「影系罠。カゲヌイか」
ノアが短く歌った。
「探音歌――実鳴り」
音が果実に触れる。
偽果実の中から、細かいかちかちという音が返ってきた。
「中に何かいるね」
「いるというより、仕込んである」
セラが右目を細める。
「でも、実そのものにも価値はある。これ、罠素材としては上物」
「罠ごと拾うか?」
ドランが聞く。
ロウエンは少し考えた。
「一個だけ」
「一個だけ?」
「本命ではない。ここで時間を使いすぎるな」
セラは少し不満そうだったが、頷いた。
「一個だけなら、あの右奥。金が薄い実。あれが一番安定してる」
「一番価値が高いんじゃないのか」
「違う。一番壊しても情報が取れそう」
セラはもう、持ち帰ることだけを考えていない。
調べている。
次に来るために。
深部の本命を見つけるために。
偽果樹園を、迷宮が見せた試験品として扱っている。
余は白い部屋で舌打ちした。
「向こうも観察しているな」
《はい》
「罠を踏ませるつもりが、罠を調べられている」
フィルエが少し笑った。
「お互い様」
「笑うな」
◇
セラが選んだ果実は、右奥の二本目にあった。
赤より金が薄い。
他の実より少し小さい。
熟しきっていないように見える。
だが、値星眼には分かる。
中の牙粉が少ない。
魔力の流れが素直。
罠としての反応は弱いが、果実殻と香りに情報が残っている。
採るなら、これだ。
ロウエンが空糸を伸ばす。
だが、今回は直接切らない。
ドランが風壁を細く立てる。
「風壁術――小瓶」
果実の周りだけを、透明な風の膜で包む。
もし実が破裂しても、牙粉が外へ散らないように。
ノアが歌う。
「鎮歌――甘噛み」
かちかちと鳴っていた牙粉の反応が、少し鈍る。
アゼルが小さな星を一つ、果実の枝元へ置いた。
「星落術――枝灯り」
枝の内部構造が、薄く浮かび上がる。
ミトが鼻を鳴らした。
「そこ。上から切ると怒る。下から撫でる」
ロウエンが頷く。
「空糸技――果撫」
空糸が、果実を支える枝を下から撫でた。
切るのではない。
実が自分から落ちたと思うように、枝の接続をほどく。
果実が、ぽとりと風の小瓶の中へ落ちた。
何も起こらない。
いや、起こりかけた。
実の中で牙粉が反応した。
だが、ノアの鎮歌で鈍り、ドランの風膜で閉じられ、アゼルの枝灯で魔力の逃げ道が見えている。
セラがすぐに封じ布をかけた。
偽果実は、そのまま小さな封瓶へ収まった。
「採れた」
ドランが言う。
「罠果実、一個」
セラは瓶を軽く振った。
「研究用。持ち帰れたら面白い」
ロウエンはすぐに周囲を見た。
「長居しない」
その瞬間、偽果樹園全体が動いた。
採られた。
罠が不発のまま持ち去られた。
なら、こちらから起こす。
偽果樹園の根が、床下で一斉に蠢く。
白磁根が伸びる。
戻り水が噴き出す。
影針が枝影から落ちる。
残り四十五個の偽果実が、同時に膨らむ。
余は、白い部屋で言った。
「爆ぜろ」
◇
偽果実が一斉に割れた。
赤金色の皮が裂け、中から甘い香りと赤錆牙粉が噴き出す。
普通なら、ここで終わる。
目を潰し、喉を焼き、金属装備を喰い、足を止める。
その隙に戻り水と白磁根が絡む。
だが、天蓋の猟犬は遅れなかった。
ロウエンが叫ぶ。
「伏せるな、跳べ!」
ドランが両腕を上げる。
「風壁術――猟犬天蓋!」
風壁が上へ開いた。
屋根のように。
六人を包むのではなく、六人を上へ押し上げる足場として。
全員が同時に跳ぶ。
ノアの歌がそれを支える。
「跳躍歌――軽足」
ミトは壁を蹴る。
セラは封瓶を抱える。
アゼルは小天蓋を広げる。
ロウエンは空糸で全員の軌道を結ぶ。
ドランは最後に自分を押し上げる。
偽果実の牙粉は、足元で爆ぜた。
彼らはその上にいない。
戻り水が噴く。
届かない。
白磁根が伸びる。
空糸で逸らされる。
影針が落ちる。
ノアの歌で一拍遅れ、アゼルの小星に撃ち落とされる。
天蓋の猟犬は、空中で陣形を維持していた。
ロウエンが空糸を引く。
「空糸技――犬渡り」
見えない糸が、偽果樹園の向こう側へ渡る。
六人はその糸を足場にして、爆発する果樹園を飛び越えた。
足元で、赤金の偽果実が次々と爆ぜる。
甘い香りと赤錆の粉が渦巻く。
だが、彼らは一人も飲まれない。
最後にドランが振り返り、笑った。
「いい匂いの罠だったな」
ミトが顔をしかめる。
「鼻が痛い」
ノアが短く歌い、彼女の鼻の痛みを和らげる。
セラは封瓶を確認した。
「一個は無事」
ロウエンは短く言った。
「十分。進む」
◇
白い部屋で、余はしばらく黙っていた。
「……飛び越えたな」
《はい》
「全果実同時破裂を」
《回避されました》
「一個持っていかれたな」
《はい》
「外へ出す気か」
《対象は保持中》
「まだ外ではない」
余は自分に言い聞かせるように言った。
「まだ、迷宮内だ」
だが、明確に分かった。
Sランクパーティーは、罠を踏まない。
踏む前に構造を読む。
起動しても、瞬時に立体的に逃げる。
空間を使う。
歌を使う。
価値を見る。
匂いを嗅ぐ。
星で撃つ。
風で押す。
罠を正面から受けない。
「今までの殺し方では足りん」
フィルエは何も言わなかった。
白骨書記が骨筆を走らせる。
⸻
偽果樹園罠:
結果:失敗。
偽果一個、回収される。
爆発罠、空中退避と風壁、空糸連携により回避。
影針、歌と小星で対応。
戻り水、届かず。
白磁根、空糸で逸らされる。
教訓:
地上罠のみではSランクパーティーに対し不十分。
立体移動、空中退避、同時連携への対策必須。
⸻
「腹立たしいほど正しい」
余は言った。
しかし、失敗だけではない。
偽果樹園は彼らの本気を少し引き出した。
猟犬天蓋。
軽足。
犬渡。
空中陣形。
これらを見られた。
それは大きい。
問題は、彼らがさらに奥へ進んでいることだ。
「距離は」
《エリラの木封鎖圏まで、まだ二層》
「近いな」
《はい》
「次で止める」
ガルザヴェインが反応する。
「ロード」
「まだだ」
「ツヨイ」
「分かっている」
「オレ、マツ」
「偉いぞ」
ガルザヴェインは少し満足そうだった。
褒められて嬉しいのか。
魔神戦王とは何なのか。
まあよい。
「次は、戦力を当てる」
《対象》
「グズとカゲヌイの連携。湿骨軍列を支援に。ハイハネは上を潰せ」
《ガルザヴェインは》
「まだ出すな。あれは最後だ」
余は迷宮図を開いた。
エリラの木へ向かう手前。
白磁庭園の残骸と、泥門の重なる場所。
そこを閉じる。
天蓋の猟犬が空中へ逃げるなら、天井を泥で塞ぐ。
風橋を使うなら、風の行き先を泥門で切る。
星を落とすなら、白磁反射で散らす。
「今度は、踏ませる罠ではない」
余は言った。
「道そのものを潰す」
◇
天蓋の猟犬は、偽果樹園を抜けた。
セラは右目を押さえている。
赤金の本命が、少し近くなった。
見えるわけではない。
だが、価値の圧が強い。
偽果樹園の実とは違う。
赤錆核とも違う。
白骨水晶片とも違う。
あれは、命の星だ。
神薬系の可能性がある。
いや。
セラは、もう少しだけ踏み込んで思った。
神薬系どころではないかもしれない。
リーネを起こせるかもしれない素材。
その可能性が、彼女の胸を熱くする。
だが、同時に冷たくもする。
この迷宮は、簡単にくれない。
むしろ、近づくほど殺しに来る。
ロウエンが前方を見た。
「次、重いのが来る」
ミトが頷く。
「泥。骨。影。全部」
ドランが笑う。
「いよいよ本気か?」
ノアが低く歌う準備をする。
「まだ本気じゃないと思う」
アゼルが小天蓋を調整する。
「でも、次は痛いかもね」
セラは封瓶を袋へ入れた。
「なら、早く抜けよう」
ロウエンは空糸を広げた。
「陣形、猟犬走り」
六人の足が、同じタイミングで前へ出る。
深部の霧が、重くなる。
その奥で、泥の大門がゆっくりと閉じ始めていた。




