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第192話 Sランクは、罠を踏まずに壊す

 天蓋の猟犬てんがいのりょうけんは、さらに深くへ進んだ。


 そこから先の霧は、浅層の霧とは違っていた。


 ただ白いだけではない。


 灰が混じる。


 泥の湿りが混じる。


 骨粉のざらつきが混じる。


 そして、ところどころに、甘い匂いを隠すための別の匂いが混じっていた。


 白磁花の香り。


 古い血。


 赤錆の金属臭。


 戻り水の冷たさ。


 それらが、わざとらしく重ねられている。


 普通の冒険者なら、そこで鼻も目も狂う。


 価値あるものの匂いも、危険なものの匂いも、全部が混ざって分からなくなる。


 だが、ミトは足を止めた。


 獣嗅けものかぎのミト。


 人間の顔をした、獣の鼻を持つ女。


 彼女は白い壁に手を当て、目を閉じ、ゆっくり息を吸った。


「匂いを重ねてる」


 ロウエンが聞く。


「本命を隠してる?」


「うん。でも、隠し方が増えた。さっきより多い。偽物の甘い匂いもある」


 セラが右目を押さえながら頷いた。


「価値の空白も増えたよ。隠してますって場所が、あっちにもこっちにもある」


 ドランが肩を鳴らす。


「どれが本物だ?」


 セラはしばらく黙った。


 値星眼ねぼしがんが、白い霧の奥を見ている。


 銀色の光が右目に浮かぶ。


 彼女の視界には、価値が星として映る。


 小さな星。


 白い星。


 赤い星。


 黒い星。


 そして、隠された星。


 だが、今はその隠された星が複数ある。


 迷宮が偽の空白を作っていた。


 価値があるように見せた穴。


 危険を隠しているように見せた空間。


 深部への道を示すようで、実は横へ誘導する偽の沈黙。


 セラは、苦笑した。


「向こう、学んでるね」


 アゼルが天井を見る。


「僕たちが見てることを、向こうも見てる」


 ノアの歌が、少し低くなった。


「じゃあ、こっちも見方を変える?」


 ロウエンは、空糸を一本伸ばした。


 白い霧の中で、見えない糸がゆっくり揺れる。


「本物を探すな」


 セラが彼を見る。


「じゃあ?」


「偽物が避けている場所を探す」


 セラは一瞬だけ黙り、それから笑った。


「隊長、たまに嫌なこと言うよね」


「冒険者だからな」


 ロウエンは、霧の流れを糸でなぞる。


 偽物の秘匿反応は、価値があるように見せるために置かれている。


 つまり、迷宮が意識して作ったものだ。


 ならば、その配置には癖が出る。


 隠したいものへ向かう本当の道を、完全に隠そうとするあまり、偽物の空白はそこを避ける。


 何もないように見せている場所。


 空白すら置かれていない場所。


 そこが、本命へ繋がる可能性がある。


 ミトが鼻を鳴らした。


「右奥。匂いが薄すぎる」


 セラも頷く。


「星もない。なさすぎる」


 ロウエンは小さく笑った。


「じゃあ、そっちだ」


    ◇


 白い部屋で、余はその判断を見ていた。


「……偽物を見て、本物を避けた場所を読むか」


《はい》


「嫌な賢さだな」


 フィルエが静かに言う。


「Sランクだから」


「分かっている」


 分かっている。


 だが、腹立たしい。


 こちらが隠せば隠すほど、隠し方を読む。


 見せれば見せたものを疑う。


 何も見せなければ、何もない場所を疑う。


 これでは、ただの迷路では意味がない。


 いや、迷路そのものは意味がある。


 だが、ただの迷路では足止めにしかならない。


 殺しにはならない。


「なら、読む余裕を奪う」


《戦闘投入ですか》


「ああ」


 余は迷宮図を開いた。


 天蓋の猟犬が向かう右奥の道。


 そこは、エリラの木へ直行する道ではない。


 だが、深部へ近づく正しい方向ではある。


 このまま進ませれば、いずれ魔神契約跡周辺の封鎖圏に触れる。


 まだ早い。


 まだ、あの赤金の実を見せる段階ではない。


「湿骨軍列を出す」


《通常軍列ですか》


「いや。薄槍列では駄目だった。今度は重い方だ」


《湿骨軍列・骨城列を展開します》


「加えて、グズの小型泥門。カゲヌイの影針。ハイハネの霧。全部重ねろ」


《複合防衛を実行》


「ただし、ガルザヴェインはまだ待て」


 魔神練兵窟から、低い声が返る。


「マツ」


 以前より、少しだけ落ち着いた声だった。


 だが、その奥に戦いたい熱があるのは隠せていない。


「まだだ」


「ワカッタ」


 余は白い霧を見た。


 Sランクパーティーの足を止める。


 少しでいい。


 ここで火力を見せてもらう。


 こちらの罠がどこまで通じるのか。


 そして、通じないなら、どこから壊されるのか。


「来い、猟犬ども」


 余は呟いた。


「今度は、骨と泥で噛んでやる」


    ◇


 右奥の通路に入った瞬間、天蓋の猟犬は止まった。


 床が鳴ったからだ。


 かた。


 かたかた。


 かたかたかた。


 骨の音。


 だが、先ほどの薄槍列とは違う。


 音が重い。


 多い。


 そして、揃っている。


 白い霧の奥から、湿骨軍列が現れた。


 今度の軍列は、槍ではなく城だった。


 骨の盾。


 骨の門。


 骨の壁。


 数えきれない骨が白磁片でつながり、戻り水で濡れ、巨大な移動壁のように進んでくる。


 湿骨軍列・骨城列。


 正面を塞ぎ、押し潰し、足場を奪うための重い陣形。


 その背後には、細い骨槍が無数に覗いている。


 壁を崩そうと近づけば、槍が出る。


 迂回しようとすれば、左右の白磁壁から小型泥門が立つ。


 上を抜けようとすれば、ハイハネの灰霧が視界を潰す。


 影を踏めば、カゲヌイの影針が落ちる。


 迷宮の複合防衛。


 Aランクなら、ここで隊列が潰れる。


 Bランクなら、壁を見る前に死ぬ。


 だが、天蓋の猟犬は、そこで慌てなかった。


 ロウエンが短く言う。


「骨城」


 ドランが前へ出る。


「俺の出番だな」


 ノアの歌が変わる。


重足歌おもあしうた


 六人の足取りが重く、安定する。


 戻り水の揺れや泥門の押しに対して、体が流されにくくなる歌。


 ドランが両腕を広げた。


「風壁術――逆城さかしろ


 透明な風の城壁が、骨城列の正面に立つ。


 骨の城と、風の城。


 二つの壁が衝突した。


 どん、と重い音がした。


 骨城列が押す。


 風壁が受ける。


 湿骨軍列の後列が、さらに圧をかける。


 白磁片が軋み、戻り水が跳ねる。


 ドランの足が床にめり込む。


 だが、彼は笑っていた。


「重いな」


 ベルグのような荒い笑いではない。


 盾役として、受けることを楽しむ笑い。


「でも、まだ持てる」


 その隙に、アゼルが上を見た。


 天井は低い。


 空はない。


 だが、彼は自分の小天蓋しょうてんがいを開く。


 青黒い半球。


 小さな星図。


 その中で、星が一つ、強く光った。


「星落術――割城星かつじょうせい


 一つの星が落ちた。


 小星雨ではない。


 白い星の槌。


 骨城列の中央へ、真上から落ちる。


 骨の盾壁が砕けた。


 湿骨軍列の重い壁に、大きな穴が開く。


 だが、骨城列はすぐに修復しようとする。


 周囲の骨が集まり、白磁片が動き、戻り水が流れ込む。


 そこへ、ミトが飛び込んだ。


「爪牙技――骨髄抜こつずいぬき」


 彼女の短爪が、骨城列の内部へ入る。


 中核を一つ抜くのではない。


 戻り水が流れる骨の幹を引き裂く。


 湿骨軍列の修復流が一瞬止まった。


「今」


 ロウエンの空糸が走る。


「空糸技――城縫解しろぬいほどき」


 骨城列をつないでいた白磁の結線が、見えない糸でほどかれていく。


 切るのではない。


 ほどく。


 切れば、破片が罠になる。


 ほどけば、構造が落ちる。


 骨城列の中央が崩れた。


 ドランが風壁を押す。


「風壁術――城返し」


 骨城列が、自分の重みで後ろへ倒れた。


 湿骨軍列の一部が、味方の列ごと押し潰された。


《湿骨軍列・骨城列、中央崩壊》


《損耗率上昇》


 白い部屋で、余は歯を食いしばった。


「重い方も崩すか」


《はい》


「まだだ。左右の泥門を閉じろ」


《小型泥門、作動》


    ◇


 左右の壁から、小型泥門がせり出した。


 グズの遠隔門。


 骨城列を処理した直後の天蓋の猟犬を、横から挟み込む。


 泥門は完全に閉じる前に、ドランの風壁へ当たる。


 だが、風壁は正面に向いていた。


 横からの圧には薄い。


「横!」


 ミトが叫ぶ。


 ロウエンの空糸が横へ走る。


 泥門の縁をなぞり、押し出す力の方向を読む。


「ドラン、右が早い」


「分かった!」


 ドランが足を踏み替える。


「風壁術――犬囲いぬがこい!」


 風壁が正面だけでなく、六人の周囲へ丸く広がった。


 犬小屋より広い。


 群れを囲う風の防壁。


 泥門が左右から圧をかける。


 風壁が受ける。


 ぎし、と空気が軋む音がした。


 ノアが歌を変えた。


支柱歌しちゅうか


 風壁に、歌の支えが入る。


 ドランの呼吸が整う。


 泥門の圧に耐える時間が伸びる。


 セラは、その間に泥門の表面を見ていた。


「白い筋がある。そこが弱い」


 アゼルが指を向ける。


「星落術――筋星すじぼし


 小さな星が、泥門の白い筋へ落ちる。


 爆発ではない。


 細く、深く、星が筋を焼く。


 ロウエンの空糸が、その焼けた筋へ入り込む。


「空糸技――泥解でいほどき」


 泥門の構造が緩む。


 ドランが風壁を一気に広げた。


 泥門が押し返される。


 グズの小型門が、左右で崩れた。


 中層の奥で、グズが低く唸る。


「グ……ズ……」


 白い部屋で、余は眉を寄せた。


「グズ、無理をするな。まだ本体は出るな」


「グズ」


 グズは従う。


 だが、不満そうだ。


 自分の泥門を壊されたのが気に食わないのだろう。


 それは分かる。


 余も気に食わない。


「カゲヌイ」


《影軍縫い、待機》


「今だ。風壁の影を縫え」


《実行》


    ◇


 風壁には影がある。


 見えない壁でも、霧の流れがそれを形として示せば、薄い影が生まれる。


 カゲヌイの影針は、そこへ落ちた。


 ドランが作った犬囲の影が、床へ縫われる。


 風壁の形が固定される。


 つまり、動かせなくなる。


 動かせなければ、次の攻撃に対応できない。


 その瞬間、崩れた骨城列の奥から、残った骨槍が一斉に突き出た。


 風壁の隙間へ。


 固定された角度の死角へ。


 さすがに、これは入る。


 だが、ノアが一歩前へ出た。


沈黙歌ちんもくか――針眠はりねむり」


 歌が、影針へ触れる。


 影針が眠るわけではない。


 影針を動かしている意図を、ほんの一拍だけ鈍らせる歌。


 カゲヌイの針が、微かに遅れる。


 その一拍で、ロウエンが空糸を引いた。


 風壁の影が、床から剥がれる。


 ドランが壁をずらす。


 骨槍は、風壁の外側を滑っていった。


 一本だけ、ミトの肩をかすめる。


 血が飛ぶ。


 ノアの歌がすぐに変わる。


癒歌いやしうた――薄皮縫うすかわぬい」


 傷口が塞がる。


 完全ではない。


 だが、戦闘には支障ない。


 ミトは肩を回した。


「平気」


 ドランが笑う。


「初傷か」


「そっちは無傷?」


「汗はかいた」


「弱い」


「ひどい」


 軽口を叩く余裕すらある。


 余は白い部屋で、低く笑った。


「これは本当に、今までと違うな」


《はい》


「骨城、泥門、影針、骨槍。複合で重ねて、かすり傷か」


《ミトに軽傷。即時治療済み》


「戦果とは呼べんな」


 だが、見えたものは多い。


 ドランの風壁は、単なる防御ではない。


 ノアの歌は、回復だけではない。


 カゲヌイの影針の意図へ干渉した。


 アゼルは構造の弱点を焼ける。


 セラは弱点を見る。


 ロウエンは切らずにほどく。


 ミトは中核と生きた罠を嗅ぐ。


 美しいほどに役割が噛み合っている。


 迷宮側の複合罠を、パーティー側の複合技で解いてくる。


「白骨書記、全部記録」


 骨筆が猛烈に走る。



天蓋の猟犬、複合防衛突破。


骨城列:

ドランの逆城で受け、アゼルの割城星で破壊、ミトが修復流を断ち、ロウエンが結線をほどく。


小型泥門:

ドランの犬囲で耐え、セラが弱点筋を発見、アゼルが筋星で焼き、ロウエンが泥解で崩す。


影針:

ノアの針眠りにより一拍遅延。ロウエンが風壁影を剥離。


結果:

迷宮側複合防衛、突破。

天蓋の猟犬、軽傷一名。即時回復。



「腹立たしいほど参考になる」


 余は言った。


 フィルエが静かに返す。


「ロード、強くなるための戦いだね」


「ああ」


 このままでは勝てない。


 それが分かっていく。


 だが、分かることは悪いことではない。


 知らないまま次にぶつかるよりいい。


 問題は、エリラの実を見られる前に止められるかどうかだ。


 しかし。


「セラの反応は?」


《赤金価値への興味、継続》


「やはりか」


 天蓋の猟犬は、骨城列を突破した後も、足を止めなかった。


 拾える素材は拾った。


 だが、長居はしない。


 もっと奥へ。


 もっと価値のあるものへ。


 セラの右目は、白い霧の奥を見ている。


 ミトは、甘い匂いを少しずつ強く感じている。


 ノアは、そこにリーネを起こす可能性を見ている。


 ロウエンは、進む価値を判断している。


 つまり、止まらない。


    ◇


 天蓋の猟犬は、崩れた骨城列の向こうへ進んだ。


 ミトの肩の傷はもう塞がっている。


 だが、服には血の跡が残った。


 ノアがそれを見て、少し眉をひそめる。


「痛む?」


「痛くない」


「嘘」


「ちょっと」


「後でちゃんと歌う」


「うん」


 ドランが笑った。


「ミトが怪我するなんて珍しいな」


「罠が生きてる。しかも、匂いを変える。嫌」


 ロウエンが言う。


「向こうは、こちらを見て対応している」


 セラが頷く。


「罠も魔物も、固定じゃない。こっちを観察して組み替えてる」


「Sランク迷宮だからね」


 アゼルが小天蓋を畳みながら言った。


「でも、まだ本命じゃない」


 ノアが霧の奥を見た。


「甘い匂い、少し近い」


 ミトも頷く。


「うん。赤金。命の匂い。遠いけど、さっきより近い」


 セラの右目が、微かに揺れる。


「私にも見えそうで見えない。隠してる。たぶん、すごく大事なもの」


 ドランが肩を回す。


「それを取りに来たんだろ」


 ロウエンは、少しだけ考えた。


 ここまでで、罠は予想以上に厄介だった。


 だが、突破できている。


 軽傷は出たが、戦闘継続に問題はない。


 拾った素材もある。


 帰路も、まだ完全には失っていない。


 撤退は可能。


 だから、進める。


「進む」


 ロウエンが言った。


「ただし、次に重傷が出たら撤退判断を入れる」


 誰も反対しなかった。


 冒険者は、死ぬために進むのではない。


 拾って帰るために進む。


 それを忘れるパーティーは、Sランクにはなれない。


 天蓋の猟犬は、さらに奥へ進んだ。


    ◇


 白い部屋で、余は深部図を見た。


 エリラの木までの距離が、少しずつ縮まっている。


 まだ直前ではない。


 だが、もう浅くはない。


 そろそろ、本格的に危険域だ。


「次は白磁偽財殿の内周跡を使うか」


《再建中ですが、防衛使用可能》


「いや、内周は壊されると困る」


《では》


「深部手前の偽果樹園を作る」


《偽果樹園ですか》


「エリラの木を直接隠すより、似た構造を見せる。神級ではないが、高価な実を生らせた偽木だ」


《急造になります》


「構わん。目的は足止めだ。セラがどう判別するかを見る」


 フィルエが言う。


「でも、エリラに似せすぎると木が嫌がるかも」


「本物の枝は使わん」


「なら大丈夫かも」


「それに、偽木は罠だ。食わせる気もない」


《偽果樹園、形成します》


 白い部屋の奥で、ソウルが少し流れる。


 深部手前に、小さな偽りの果樹園が作られていく。


 赤い実。


 金の葉。


 甘い匂い。


 だが、命の深さはない。


 エリラの実には及ばない。


 それでも、普通の冒険者なら目を奪われる。


 Sランクパーティーなら、見抜くかもしれない。


 見抜いてもいい。


 見抜く時間を使わせる。


 そして、そこへ次の罠を重ねる。


「次は、価値そのものを餌にする」


 余は言った。


「天蓋の猟犬よ」


 白い霧の奥で、偽りの赤い果実が揺れる。


「本物と偽物を、どこまで嗅ぎ分けられるか見せてみろ」

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