第190話 戻り水湿地は、猟犬の足を沈められない
戻り水湿地の外縁は、静かだった。
静かに見えるようにしていた。
白い霧は薄い。
床は灰色に乾いて見える。
壁には白磁片が混じり、ところどころに銀色の反射がある。
奥には、わずかに高価そうな白い輝き。
白銀磁片ではない。
だが、それに近い。
戦争後に生まれた、白磁と魔物骨と戻り水が混じった高位素材。
取る価値はある。
命を賭けるほどではない。
だが、Sランク冒険者が足を止めるくらいには、十分な餌だった。
余は白い部屋で、その輝きを見下ろしていた。
「セラは気づくか」
《値星眼による反応を確認》
壁面の中で、値星眼のセラが足を止めた。
右目の奥に、薄い銀の光が宿る。
彼女は、湿地の奥に置いた白い素材を見た。
「あるね」
空糸のロウエンが振り返る。
「赤金か?」
「違う。白い。水と骨と白磁。戦争後にできた素材かな。価値は高いけど、私たちが一番欲しい星じゃない」
ドランが笑う。
「じゃあ無視か?」
「拾えるなら拾う」
「冒険者だな」
「当たり前でしょ」
ミトが鼻を鳴らした。
「床、乾いてない」
「見れば分かる」
ドランが言うと、ミトは首を振る。
「違う。見える水じゃない。下にいる。水が息してる」
戻り水を息と言うか。
余は少し目を細めた。
「やはり、嗅ぐな」
フィルエが森灰観測室から答える。
「ミト、かなり正確。戻り水が動く前に分かってる」
「厄介だ」
ロウエンが指を動かす。
空糸が前へ伸び、床の上をなぞった。
見えない糸が、灰色の床の薄膜に触れる。
戻り水が、わずかに震えた。
その瞬間、ロウエンは糸を引かない。
前の浅層で見せたように、水膜を吊らない。
代わりに、糸を数本、周囲の壁へ打ち込んだ。
「吊ると反応する」
彼は言った。
「今回は踏まずに渡る」
アゼルが指先に小さな星を三つ浮かべた。
「星を足場にする?」
「いや。星は温存」
ロウエンはドランを見た。
「風壁」
「はいよ」
ドランが前へ出る。
大柄な体。
盾は持たない。
だが、彼が両腕を広げた瞬間、空気が固まった。
「風壁術――浮橋」
湿地の上に、透明な板のような風が敷かれた。
見えない。
だが、霧の流れがその上でわずかに曲がる。
戻り水は、床の上に薄く息を潜めている。
しかし、風の橋はその上へ触れていない。
ほんの指一本分、浮いている。
「……浮いて渡るか」
余は呟いた。
《戻り水接触を回避しています》
「見れば分かる」
実に面倒だ。
戻り水湿地は、踏ませて沈めるための場所だ。
踏まない者には効きが悪い。
もちろん、こちらにも手はある。
だが、まずは見よう。
「戻り水、まだ動くな」
《承知しました》
天蓋の猟犬は、風の橋へ乗った。
最初にロウエン。
次にミト。
セラ。
ノア。
アゼル。
最後にドラン。
ドランは自分の作った風橋を支えながら最後尾を歩く。
普通なら術者が中央にいる。
守られる側に入る。
だが、この男は違う。
後ろに立ち、橋を維持し、仲間全員を前へ送る。
盾役ではないと言いながら、役割は盾に近い。
ただし、物理盾よりずっと自由だ。
「フィルエ」
「うん」
「どこを狙うべきだと思う」
「まだ狙わない方がいい。橋を見てる」
「橋を?」
「戻り水が、橋を覚えてる。次なら触れるかも」
なるほど。
戻り水も成長する。
十万の魔物を沈め、Sランク冒険者の足も見ている。
今は踏まれなかった。
だが、風の圧、魔力の形、橋の高さを覚えれば、次は水を伸ばせる。
「よし。覚えろ」
《戻り水、風橋反応を記録》
◇
湿地中央の白い輝きへ、セラが近づいた。
彼女はすぐには拾わない。
しゃがむこともしない。
右目で価値を測る。
「白骨水晶片……いや、違う。白磁核に、骨の星が入ってる」
アゼルが反応した。
「骨の星?」
「小さいけど、戦場で死んだ魔物の魔力が結晶化してる。魔術媒体としては良い。治癒には向かない。防御か、死霊術か、迷宮術式向き」
ノアが少し眉をひそめる。
「じゃあ、リーネには使えない?」
「直接はね。でも売れば高い」
ドランが笑う。
「じゃあ拾おう」
ミトが、素材の周囲を嗅ぐ。
「下に口がある」
「口?」
「取ったら、噛む」
ロウエンがうなずいた。
「なら、直接取らない」
彼は空糸を一本伸ばした。
白い素材へ向ける。
だが、触れる寸前で止める。
「セラ」
「うん」
セラが小さな銀の札を取り出した。
価値封じの札。
拾った素材の魔力反応を一時的に薄める道具だ。
彼女が札を投げる。
ロウエンの空糸が、それを空中で受け取り、素材の上へ静かに落とす。
札が貼りついた瞬間、白い素材の光が少しだけ弱まった。
その直後、床下の戻り水が噛みつくように動いた。
素材の周囲が沈む。
白磁の歯のような根が、床から噴き出す。
だが、素材はそこにはなかった。
ロウエンの糸が、札ごと素材を横へ滑らせていた。
床に触れないように、ほんの少しだけ浮かせて。
白磁根は空を噛んだ。
戻り水も空を呑んだ。
ドランが口笛を吹く。
「綺麗に抜いたな」
セラは素材を受け取った。
すぐに魔力封じ布で包む。
「戦利品一つ」
ノアが少しだけ笑う。
「まだ浅いのに」
「だから浅いものとして扱う。奥はもっとある」
セラの右目が、霧の奥へ向く。
赤金の星はまだ見えない。
だが、方向は揺らいでいない。
奥。
もっと奥。
そこに何かがある。
◇
白い部屋で、余は少し笑った。
「盗まれたな」
《白骨水晶片、一個外部保有状態》
「まだ外部ではない。迷宮内だ」
《はい》
「回収は後でよい」
むしろ、拾わせたことに意味がある。
彼らは浅層素材を無視した。
しかし、中層前の素材は拾った。
つまり、彼らにとって拾う価値の境目が分かった。
白骨水晶片級なら拾う。
白磁花片や灰白採取物は拾わない。
ならば、餌の調整ができる。
「白骨書記」
白骨書記が書く。
⸻
天蓋の猟犬、素材判断:
低価値浅層素材:無視
中価値白骨水晶片:回収
回収方法:直接接触せず、空糸と価値封じ札で罠回避
⸻
「よし」
問題は、ここからだ。
彼らは湿地へ入り、罠を回避し、素材を拾った。
だが、まだ本格戦闘をしていない。
Sランクパーティーの戦闘力を見たい。
しかし、殺しに行くのは早い。
戦わせる。
技を引き出す。
そして、危機感を与える。
「湿骨軍列を少数」
《展開しますか》
「いや、通常の軍列では駄目だ。相手が見飽きる。戦争後の改良型を出せ」
《湿骨軍列・薄槍列を展開》
「数は?」
《三十体》
「十分だ」
フィルエが少し首を傾げる気配がした。
「薄槍列?」
「Sランク相手に正面槍壁は遅い。細く、軽く、足場を崩すための槍だ」
「試すんだ」
「ああ」
湿地の床下で、骨が動いた。
◇
最初に気づいたのはミトだった。
「骨、来る。軽い。細い。速い」
ロウエンが空糸を引く。
風橋の左右に、細い糸が張られる。
「ドラン、橋を上げろ」
「はいよ」
風橋が、わずかに上がった。
その瞬間、下から細い骨槍が突き出す。
太い槍ではない。
針に近い。
しかし速い。
風橋の下を突き抜け、もし橋が上がっていなければ足裏を貫いていた。
「湿骨軍列」
アゼルが言う。
「前の再査定隊を殺したやつ?」
「その一部だろうね」
セラが素材袋を締める。
「でも、軽い。足止め用」
ロウエンが笑った。
「なら、正面から受ける必要はない」
床下から、薄槍列が一斉に伸びる。
三十体分。
湿った骨の針槍が、風橋の下、左右、前方から突き出す。
ドランの風橋が揺れる。
「おい、下からくすぐるなよ」
ドランが両腕に力を込めた。
「風壁術――吊城」
風橋が、橋ではなく吊られた城壁のように形を変える。
床から離れ、白い霧の中で浮かぶ足場となる。
骨槍は届きにくい。
だが、湿骨軍列もただ下から突くだけではない。
壁を登る。
骨針が白磁壁を刺し、そこを足場にして上がってくる。
薄い骨兵。
軽量化された湿骨兵。
眼窩には小さな戻り水の光。
手には針槍。
足場を崩すために作った、湿骨軍列の支族。
「来たね」
アゼルが指を鳴らした。
「星落術――小星雨」
天井は見えない。
空もない。
だが、アゼルの周囲に浮かんだ小さな星屑が、雨のように落ちた。
白い光の粒が、壁を登る薄骨兵を撃つ。
一つ一つは小さい。
だが、正確だった。
戻り水の中核を狙い、関節を砕き、針槍を折る。
薄骨兵が壁から落ちる。
落ちた先で戻り水に沈み、再構成しようとする。
しかし、ミトがそこへ飛び込んだ。
風橋から壁へ、壁から骨兵の背へ。
獣のような動き。
「爪牙技――喉抜き」
ミトの短爪が、骨兵の眼窩ではなく、胸骨の裏へ入る。
戻り水の小さな核を引っ掻き出した。
骨兵が完全に崩れる。
ミトはその核を嗅いで、顔をしかめた。
「まずそう」
「食うなよ」
ドランが言う。
「食べない」
ノアが低く歌う。
「狩猟歌――息合わせ」
歌が、六人の呼吸を揃える。
風橋の揺れ。
骨槍のタイミング。
小星雨の落下。
ミトの跳躍。
ロウエンの空糸。
すべてが、歌の拍に乗った。
湿骨軍列・薄槍列は、速い。
だが、天蓋の猟犬は、それより速く役割を合わせてくる。
ロウエンが空糸を引く。
「空糸技――犬走り」
六人の足元に細い糸が渡る。
それは道ではない。
合図だ。
踏む位置。
跳ぶ方向。
避ける間。
空糸がそれを足裏へ伝える。
湿骨軍列の薄槍が突き出す前に、六人が半歩ずれる。
刺さらない。
罠が空を切る。
◇
余は、白い部屋で黙った。
「強いな」
《はい》
「今のは、ほぼ損害なしで処理されたか」
《湿骨軍列・薄槍列、損耗率七十パーセント》
「下げろ」
《回収します》
これ以上は無駄だ。
薄槍列は、足場を崩すための改良型だった。
だが、風橋と空糸と歌で、足場そのものを共有された。
骨槍は当たらない。
小星雨に落とされる。
ミトに中核を抜かれる。
「面白い」
余は低く言った。
「本当に面白いな、Sランクパーティー」
フィルエが言う。
「ロード、押されてるよ」
「まだ試しているだけだ」
「うん。でも、向こうもまだ本気じゃない」
「分かっている」
彼らはまだ、大技を切っていない。
ロウエンの空糸は補助だけ。
セラは価値を見ているだけ。
ドランは橋。
ミトは中核抜き。
アゼルは小星雨。
ノアは息合わせ。
どれも本気ではない。
そして、こちらも本命は出していない。
Sランク迷宮とSランクパーティーの、探り合い。
だが、探り合いの段階でこれだ。
「戻り水、学んだか」
《風橋、空糸足場、歌による呼吸同期を記録》
「次は沈められるか」
《確率上昇》
「よし」
天蓋の猟犬は、湿地の外縁を抜けようとしている。
そして、セラの目は奥を見ている。
赤金の星を追っている。
なら、次は迷わせるのではない。
選ばせる。
「中層入口に、二つの価値反応を置け」
《二つですか》
「ああ。一つは白骨水晶片より上。もう一つは、エリラの実とは違う赤い偽反応」
《偽物ですか》
「完全な偽物ではない。魔神性を少しだけ混ぜた赤錆核だ。価値はある。だが、エリラではない」
《意図は》
「セラがどちらを見るか知りたい」
値星眼が価値をどう読むか。
神級素材へ向かうか。
魔神性素材へ釣られるか。
その判断を見る。
フィルエが静かに言う。
「セラ、たぶん両方見るよ」
「だろうな」
「そして、危ない方を選ぶ」
「冒険者だからか」
「うん」
余は笑った。
白い霧の奥。
中層入口が開く。
そこに二つの光を置く。
白く冷たい価値。
赤く危険な価値。
そして、さらに奥には、隠した赤金の命の星。
天蓋の猟犬は、湿地を抜けた。
彼らの足は、まだ沈んでいない。
だが、霧灰白庭迷宮の腹は、ゆっくりと深くなっていく。
◇
セラは、中層入口で足を止めた。
右目が、少しだけ痛む。
「二つある」
ロウエンが問う。
「赤金か?」
「違う。ひとつは白。高い。たぶん戦争後の結晶核。もうひとつは赤。魔神性が混ざってる」
ドランが笑う。
「魔神素材か?」
「かもしれない」
ミトが鼻を鳴らす。
「赤い方、危ない。食べたら死ぬ匂い」
「食べないよ」
セラは不満そうに言った。
アゼルが中層の天井を見上げる。
「ここから先、空間が変わる。浅層より広い。星、少し落としやすい」
ノアの歌が少し低くなる。
「息が重くなってる。ここから本番だね」
ロウエンは空糸を指に絡めた。
「拾うか、進むか」
セラは赤い価値反応を見た。
目が痛む。
だが、奥の赤金ではない。
これは、危険な赤。
魔神性を帯びた素材。
価値はある。
高く売れる。
リーネには使えないかもしれない。
でも、研究価値は高い。
「赤を見たい」
ロウエンは少しだけ笑った。
「そう言うと思った」
「ただし、触る前に三重に見る」
「許可」
天蓋の猟犬は、赤い価値へ向かって進み始めた。
白い部屋で、余はそれを見て笑った。
「よし」
冒険者は、危険な価値を選ぶ。
やはり迷宮向きの生き物だ。
中層の霧が、赤い核へ続く道をゆっくり開いた。




