第189話 天蓋の猟犬は、白い霧を値踏みする
天蓋の猟犬が、白い霧へ入った。
その瞬間、霧灰白庭迷宮は、彼らを見た。
いや、見たというより、味を確かめた。
先頭は、空糸のロウエン。
その少し後ろに、値星眼のセラ。
右に、風壁師のドラン。
左に、獣嗅ぎのミト。
中央後方に、歌癒しのノア。
最後尾寄りに、星落術師のアゼル。
六人。
それだけ。
だが、白い霧の中に踏み込んだ気配は、六人分とは思えなかった。
一人ひとりが、濃い。
Aランク冒険者のように強い、というだけではない。
自分の強さを知っている。
自分の役割を知っている。
仲間の距離を知っている。
そして、迷宮を恐れている。
恐れているのに、足が止まらない。
それが一番厄介だった。
◇
白い部屋で、余は壁面に映る六人を睨んでいた。
「……Sランク冒険者パーティーとは、こういうものか」
《はい》
「数は少ない。だが、重い」
《個体反応、全員高位です》
「アレクの時とは違うな」
《アレク・ヴァイスは戦闘中にSランク相当へ到達しました。今回の対象は、侵入時点でSランク冒険者パーティーです》
「分かっている」
アレクは、最後に化けた。
仲間を失い、記録を抱え、人間の最高到達点へ届いた。
だが、天蓋の猟犬は違う。
最初から、その域にいる。
しかも、パーティーだ。
連携がある。
役割がある。
経験がある。
そして、目的がある。
宝を拾う。
素材を持ち帰る。
おそらく、奥にある赤金の価値も嗅ぎ取っている。
エリラの実。
あれを見られたなら、絶対に帰せない。
「管理音声」
《はい》
「エリラの木周辺は」
《深部重要区画封鎖、維持》
「結実数は」
《現在、百一個》
「採取済みは?」
《本日採取十個。残数九十一個》
「最後の一個は」
《保護対象として登録済み》
「よし」
フィルエの声が森灰観測室から届く。
「ロード」
「何だ」
「セラ、まだ見えてない。でも、方向は覚えたかも」
「値星眼か」
「うん。価値の匂いじゃなくて、光を見る感じ。エリラの木までは届いてない。でも、奥に“赤金の何か”があるって思ってる」
「つまり、深部へ来る気だな」
「来る」
「なら、殺す」
余は即答した。
だが、浅層で雑に殺せる相手ではない。
むしろ、浅層で雑に殺そうとすれば、こちらの手札を無駄に晒す。
まずは見る。
天蓋の猟犬が何をするか。
何に反応するか。
何を恐れるか。
何を欲しがるか。
「白骨書記」
白骨書記が骨筆を持って現れた。
「Sランク侵入者台帳を開け」
骨板が用意される。
⸻
Sランク侵入者台帳:
対象:天蓋の猟犬
目的推定:
高位素材取得
神薬系素材探索
Sランク迷宮産宝物回収
対応方針:
浅層で技量観測
中層で分断試行
深部接近時、全力排除
エリラの木視認者、生還不可
⸻
「よし」
魔神練兵窟から、ガルザヴェインの声が届いた。
「ロード」
「待機だ」
「ワカッタ」
「まだ何も言っていないぞ」
「マツ。ツヨイ、ミル」
「……よし」
成長している。
以前なら、強者の気配だけで鐘を鳴らしていた。
今は待つ。
待てば戦えると知ったからだ。
魔神戦王ゴブリン。
役割を覚えた戦力。
頼もしい。
そして、少しだけ怖い。
◇
白い霧の中で、ロウエンは足を止めた。
「歓迎されているな」
ドランが周囲を見る。
「どこがだ。何も出てこねえぞ」
「だからだ」
ロウエンは指先を軽く動かした。
見えない空糸が、霧の中へ伸びる。
細い糸は空間をなぞり、白い霧の層に触れ、戻ってくる。
「入口の霧が薄い。通りやすくしている」
ミトが鼻を鳴らした。
「奥へ誘ってる。浅いところの匂い、わざと弱くしてる」
セラが右目を細める。
「小さい星が多いね。白磁花片、骨粉、灰白採取物。浅層素材としては悪くない」
ドランが笑う。
「拾うか?」
「拾わない。安い」
「安くはないだろ」
「私たちが命を賭ける値段じゃない」
アゼルが天井を見た。
霧で空は見えない。
当然だ。
迷宮の中に夜空はない。
しかし、彼の指先には小さな星屑のような魔力が浮いている。
「星の通りが悪い。天井が閉じてるっていうより、霧が上を曖昧にしてる」
ノアが低く歌う。
言葉ではない。
短い鼻歌のような旋律。
それが六人の周囲に薄く広がり、霧の湿りを少しだけ柔らかくする。
「声が返りすぎる」
ノアが言った。
「ここで大声を出すと、真似されるかも」
「声真似の噂は本当か」
ドランが口の端を上げる。
「だったら俺の声で偉そうなこと言わせたいな」
「もう十分偉そう」
ミトが即答した。
ロウエンは、軽く手を上げる。
全員が静かになる。
彼は足元を見る。
戻り水の膜。
白い床に、ほとんど見えないほど薄く張っている。
普通の冒険者なら踏む。
踏めば、足を取られる。
慌てれば沈む。
沈めば、骨槍が出る。
だが、ロウエンは踏まなかった。
「空糸技――露吊り」
見えない糸が床へ落ちる。
水の膜に触れる。
その瞬間、戻り水の表面が糸で吊られたように浮き上がった。
薄い膜が、床から剥がれる。
ミトがひょいとその下を覗き込む。
「骨、いる」
床下に、小さな骨槍の先が見えた。
待っていたのだ。
誰かが踏むのを。
ドランが肩を回す。
「じゃ、踏まなきゃいい」
「いや」
ロウエンは少し笑った。
「挨拶は返しておこう」
空糸が引かれる。
吊られた戻り水の膜が、床下へ叩きつけられた。
逆に。
骨槍が水圧で折れる。
かた、と小さな音。
白い霧の中で、迷宮の浅い罠が砕けた。
◇
白い部屋で、余は目を細めた。
「踏まずに処理したか」
《空間干渉系の糸術と思われます》
「戻り水膜を吊るとはな」
白骨書記が骨筆を走らせる。
⸻
ロウエン・グレイヴ:
空糸技・露吊り
戻り水膜を床面から剥離。
床下骨槍罠を逆圧で破壊。
⸻
「白骨書記、しっかり記録しろ。こいつらの技は全部使える」
《はい》
「セラは浅層素材を拾わないか」
《価値選別能力が高いものと思われます》
「安い餌には食いつかない。厄介だな」
フィルエが言う。
「ミトも水の下の骨を嗅いだ。目で見てないのに分かってる」
「獣嗅ぎか」
「うん。あの人、かなり危ない。罠が“生きてる”かどうか嗅ぎ分ける」
「罠の匂いまで嗅ぐな」
《Sランクです》
「分かっている!」
余は浅層図を広げた。
最初の罠は軽く潰された。
なら、次は少し複雑にする。
「灰白採取物を一つだけ光らせろ。価値は中程度。拾わせる気はない。セラの反応を見る」
《承知しました》
「戻り水は下げろ。白磁根を細く。影針は使うな。まだカゲヌイを読ませるな」
《実行》
◇
霧の先に、小さな光が見えた。
白銀色。
床の割れ目に挟まった、薄い欠片。
白銀磁片に似ている。
だが、もっと粗い。
それでも、浅層に落ちているものとしては十分高価だった。
セラは一目見て言った。
「囮」
ドランが笑う。
「早いな」
「価値はある。でも、置かれ方が綺麗すぎる。自然に落ちた素材じゃない」
ミトが鼻を鳴らす。
「下に根。細い。白い。待ってる」
ロウエンが頷く。
「なら拾わない」
「でも、面白いね」
セラが少しだけ近づいた。
ロウエンが目を向ける。
「拾わないと言った」
「拾わない。でも見る」
彼女は片膝をつき、右目だけで欠片を見た。
銀縁の薄眼鏡の奥で、値星眼が光る。
小さな星。
白。
灰。
水。
少しだけ、古い戦闘魔力。
「……これは、元は誰かの武具だね」
ロウエンが眉を動かす。
「冒険者の?」
「たぶん。刻印は消されてる。でも、金属の癖が残ってる。Aランク以上の装備片を混ぜて作った素材」
アゼルが静かに言う。
「迷宮が加工してる?」
「そう見るべきだね」
セラは立ち上がった。
「この迷宮は、殺した冒険者の装備をそのまま置かない。砕いて、混ぜて、新しい素材にしてる」
ドランが低く唸る。
「嫌な工房だな」
「でも、高い」
「お前、そういうとこあるよな」
「冒険者だから」
その言葉に、全員が少しだけ笑った。
緊張の中の短い笑い。
それでも、足は止まらない。
彼らは素材を見た。
価値を知った。
罠を踏まなかった。
そして、情報だけを持って進んだ。
◇
余は少しだけ感心した。
「拾わずに価値だけ読んだか」
《はい》
「欲があるのに、手を出さない」
《高位冒険者としての判断です》
「面倒だな」
ただ強欲なら殺しやすい。
慎重すぎれば奥へ来ない。
だが、天蓋の猟犬は違う。
欲がある。
だが、安い欲では動かない。
価値を見る。
罠を嗅ぐ。
拾うかどうかを選ぶ。
これは、長く生き残った冒険者の動きだ。
フィルエが言う。
「ロード、まだ浅層なのに向こうはかなり読んでる」
「分かっている」
「でも、全部は見えてない。エリラの木までは遠い」
「なら、もっと奥へ進むだろうな」
「うん」
それが目的なら。
奥にある赤金の星を見たのなら。
彼らは浅層の小さな素材などに満足しない。
「よし」
余は言った。
「浅層は抜けさせる」
《よろしいのですか》
「構わん。Sランク冒険者パーティーを浅層で止められると思うな」
その代わり、観察する。
中層で削る。
深部で殺す。
エリラの木には近づけさせない。
「ハイハネ」
《灰霧追導蛾、待機中》
「霧を薄く誘導しろ。迷わせるな。むしろ進みやすく見せろ」
《誘導先は》
「戻り水湿地外縁。中層前の処理場だ」
《承知しました》
「グズにはまだ出るなと伝えろ。小門だけ使う」
《泥塞大門将グズ、待機》
「ガルザヴェインも待機」
「マツ」
返事は早い。
偉い。
だが、拳を握る音がした。
戦いたくて仕方ないのは分かる。
余も見たい。
だが、まだだ。
◇
天蓋の猟犬は進んだ。
浅層の罠を避ける。
あるいは潰す。
あるいは無視する。
白灰匣を見つけても、すぐには開けない。
セラが価値を見て、ロウエンが空糸で封を撫で、ミトが匂いを嗅ぎ、ドランが風壁で距離を取り、アゼルが小星を浮かべ、ノアが低く歌う。
それから、必要なら開ける。
危険なら置く。
中身が安ければ見送る。
Sランク冒険者パーティーの探索は、静かで、速く、無駄がなかった。
小さな灰霧ゴブリンが一匹、霧の中から覗いた。
ミトが先に気づく。
「ゴブリン」
「敵意は?」
ロウエンが聞く。
「怖がってる。あと、何かの命令を気にしてる」
「何か?」
「強いやつ」
ミトが首を傾げる。
「ゴブリンの上にいる、もっと強いゴブリンの匂い」
ガルザヴェインの痕跡だ。
薄い。
深部秘匿で消してある。
それでも、ミトは嗅いだ。
白い部屋で、余は舌打ちした。
「鼻が良すぎる」
フィルエが言う。
「でも、正体までは分かってない」
「それで十分だ。深く嗅がせるな」
灰霧ゴブリンは逃げた。
天蓋の猟犬は追わなかった。
また、浅層の小物には食いつかない。
彼らの狙いはもっと奥。
赤金の星。
エリラの実。
セラが時折、目を押さえる。
まだ見えない。
だが、奥へ進むほど、微かな価値の圧が強くなっているのだろう。
「近づいてる」
セラが言った。
「まだ遠いけど、奥にある」
ロウエンが頷く。
「浅層は抜ける。罠の質が変わる前に、陣形を変えるぞ」
ドランが前へ出る。
「ここから俺が前?」
「ああ。中層前は泥と水が増えるはずだ」
ミトが鼻を鳴らす。
「湿った匂い。骨も多い」
アゼルが指先に小さな星を三つ浮かべる。
「天井が少し高くなる。小星なら落とせる」
ノアが歌を変えた。
少し低い、歩調を整える歌。
六人の呼吸が揃う。
ロウエンは、空糸を前へ伸ばした。
「行くぞ」
◇
白い部屋で、余は中層前の迷宮図を開いた。
戻り水湿地外縁。
戦屍処理後の灰泥。
小型泥門の配置。
湿骨軍列の待機線。
ハイハネの霧。
カゲヌイの影針。
ただし、まだ本気ではない。
相手はSランクパーティー。
こちらも一手ずつ見る必要がある。
「管理音声」
《はい》
「Sランクパーティーを相手にする時、浅層の常識は捨てる」
《はい》
「欲で釣るだけでは足りん。罠で削るだけでも足りん。相手は罠を読む。宝を選ぶ。仲間を守る。撤退も視野に入れる」
《はい》
「なら、欲と撤退路を同時に設計する」
《意図は》
「奥に価値を感じさせる。だが、帰れると思わせる。帰れると思うから、さらに一歩踏み込む」
フィルエが静かに言った。
「前の調査隊とは違うね」
「ああ。あいつらは記録を持ち帰るために来た。こいつらは宝を持ち帰るために来た」
「だから、帰る道が必要」
「そうだ。帰れないと分かれば、撤退を優先する。だが、帰れると思えば欲が勝つ」
余は笑った。
「冒険者とは、面倒で、実に迷宮向きだ」
中層前の霧が、ゆっくり動く。
天蓋の猟犬が進む先に、湿った灰の匂いが広がった。
その奥に、わずかに赤金の匂いとは違う、高価そうな白銀の反応を置く。
エリラではない。
偽物でもない。
戦争後に生まれた、本物の高位素材。
ただし、取るには湿地へ入る必要がある。
「まずは、足を濡らしてもらう」
余は言った。
「Sランク冒険者どもが、どれほど沈みにくいか見せてもらおう」
白い霧の奥で、天蓋の猟犬は中層の湿りへ足を踏み入れた。




