第188話 天蓋の猟犬は、首輪より宝を選ぶ
王都には、灰白庭へ入るための許可証があった。
正確には、まだほとんど発行されていない。
Sランク相当迷宮への侵入許可。
王国印。
ギルド印。
神殿監査印。
魔術師団観測同意印。
それらが揃って初めて、封鎖線を正式に越えられる。
だが、その許可証には条件が多すぎた。
調査官の同行。
取得物の全量申告。
危険素材の王国優先買い上げ。
魔神性を帯びた物品の持ち出し制限。
迷宮産高位素材の鑑定前売却禁止。
発見物の最大七割を王国・ギルド・神殿が査定対象として押さえる可能性あり。
それを読んだ時、天蓋の猟犬の隊長ロウエン・グレイヴは、紙を二つに折った。
そして言った。
「首輪だな」
王都西区の古い宿。
《銀杯と煤竜》の二階。
窓の外には、まだ復興途中の街並みが見える。
スタンピードから一カ月。
王都は生き残ったが、傷は残っていた。
修理中の屋根。
煤けた壁。
神殿へ続く負傷者の列。
東門方面へ向かう荷車。
そして、南東の空を時々見る人々。
その先に、灰白庭がある。
戻らない調査隊と、戻らないAランク二組を呑み込んだ白い霧がある。
ロウエンは、許可証申請書を卓上へ置いた。
彼の得物は、剣でも槍でもない。
腰に下げた銀環。
そこから伸びる、肉眼では見えにくい空糸。
空間の歪みをなぞり、切り、縛る糸。
彼はそれを使う。
だから、異名は空糸のロウエン。
Sランク冒険者パーティー《天蓋の猟犬》の隊長だった。
「で?」
卓の向かいで、値星眼のセラが頬杖をついた。
短い赤茶の髪。
片目に銀縁の薄眼鏡。
彼女の右目は、価値あるものを見ると星のような光を拾う。
金貨の価値ではない。
希少性。
魔力密度。
歴史。
欲しがる者の多さ。
そういうものが、彼女には星として見える。
「首輪だって分かった上で、つけるの?」
ロウエンは首を横に振った。
「俺たちは猟犬だが、飼い犬じゃない」
部屋の隅で、風壁師のドランが笑った。
大柄な男だ。
分厚い盾は持たない。
代わりに、空気そのものを固めて壁にする。
無骨な顔に似合わず、手先は器用で、今は小さな木片を削って犬の形にしている。
「その言い方、好きだぜ」
「お前はだいたい好きだろ」
獣嗅ぎ(けものかぎ)のミトが床に寝そべったまま言った。
灰色の短髪。
耳は普通の人間のものだが、嗅覚と直感は魔物に近い。
彼女は地図を見るより、匂いで道を選ぶ。
今も床に頬をつけ、王都の下水と薬草と鉄錆の匂いを嗅ぎ分けている。
「許可証、臭い。墨と蝋と、偉そうな人間の指の脂」
「最後の匂い、いる?」
星落術師のアゼルが苦笑した。
痩せた青年で、髪は黒に近い藍色。
夜空の星を魔術式に落とし込み、小さな星屑のような魔力弾を降らせる。
派手だが、扱いは精密。
彼は天井近くに浮かべた小さな星図を指で回していた。
「でも、正規許可を取らないなら、封鎖線を抜けることになる。騎士団、ギルド監視員、魔術観測杭、神殿の浄化札。面倒だよ」
「面倒なだけで無理じゃない」
そう言ったのは、歌癒し(うたいやし)のノアだった。
白い髪を肩で切りそろえた、細身の女。
声で傷を塞ぐ。
歌で魔力を整える。
だが、彼女の歌は聖歌ではない。
酒場の歌も、葬送歌も、子守唄も、狩猟歌も使う。
天蓋の猟犬の中で、一番柔らかく見えて、一番無茶な判断をすることがある。
ノアは、窓の外を見た。
「正規許可を取ると、王国とギルドの目がつく。拾ったものは全部検査。危険素材は没収。高位素材は王国優先。神殿が神薬系素材を見つけたら、たぶん渡してくれない」
その言葉で、部屋の空気が少しだけ変わった。
神薬系素材。
その言葉は、彼らにとって軽くなかった。
◇
天蓋の猟犬は、六人組ではなかった。
昔は、七人いた。
七人目の名は、リーネ・ファル。
小柄な錬金術師で、笑うと片方の頬にだけえくぼができた。
素材を見る目はセラほどではなかったが、素材を薬へ変える手は天才だった。
彼女はよく言っていた。
「宝って、売るだけじゃつまらないでしょ。飲めたり、治せたり、誰かをもう一回歩かせたりできる方が面白い」
そのリーネは、今、眠っている。
死んではいない。
だが、生きているとも言いにくい。
三年前、天蓋の猟犬は北方の古いSSランク迷宮の外縁へ入った。
もちろん、攻略ではない。
攻略できるなど思っていなかった。
目的は、外縁に流れ出る星銀樹脂。
高位治癒薬の素材になるものだった。
その探索で、彼らは帰ってきた。
素材も拾った。
だが、リーネは深層呪睡を受けた。
肉体は生きている。
傷も腐らない。
老いもしない。
しかし、目覚めない。
普通の治療薬では駄目だった。
神殿の高位祈祷でも駄目だった。
Sランク冒険者の報酬をすべてつぎ込んでも、答えは同じだった。
完全なエリクサーなら、可能性がある。
ただし、エリクサーには五つの神級素材が必要。
それが、リーネの師匠だった老錬金術師の答えだった。
以来、天蓋の猟犬は探している。
もちろん、彼らは口では言わない。
リーネのためだけに動いているのではない、と。
宝を拾うためだ、と。
素材が高く売れるからだ、と。
誰も入れない場所へ入るのが冒険者だからだ、と。
その全部が本当だった。
そして、その全部の底に、眠ったままの仲間がいる。
◇
「灰白庭に、神薬系があると決まったわけじゃない」
アゼルが言った。
彼は冷静だった。
希望を口にする時ほど、慎重になる。
「でも、条件は揃ってる」
セラが指を一本ずつ立てる。
「一つ。十万規模の魔物が死んだ」
「二つ。Sランク魔物ガルザヴェイン由来の魔神性が残っている可能性」
「三つ。Aランク二組と再査定調査隊が全滅」
「四つ。中でSランク相当反応が出て消えた」
「五つ。迷宮そのものがSランク相当指定を受けた」
セラの右目が、薄く光った。
「こういう場所には、普通じゃない素材が出る」
ドランが木片を削る手を止めた。
「普通じゃない素材ってのは、だいたい普通じゃない死に方をする場所にある」
「それ、言い方」
ノアが眉をひそめる。
「でも事実だろ」
「事実だけど」
ミトが床から起き上がった。
「南東から、変な匂いする」
全員が彼女を見る。
ミトは鼻を鳴らした。
「直接じゃない。封鎖線の兵士とか、帰ってきた観測員とか、風にくっついた匂い。白い霧、泥、骨、魔神っぽい黒い匂い。あと……甘い」
セラの右目が、はっきり光った。
「甘い?」
「うん。すごく薄い。でも甘い。果物みたい。でも果物じゃない。薬みたい。でも薬じゃない」
ノアの表情が変わった。
「命の匂い?」
「近い」
ミトは首を傾げる。
「でも、遠すぎて分かんない」
ロウエンは、卓上の通達をもう一度見た。
灰白庭。
Sランク相当迷宮。
許可証なし侵入禁止。
その奥に、甘い匂い。
神薬系かもしれない素材。
あるいは、ただの迷宮の罠。
どちらでもいい。
確かめる価値がある。
「行く理由はある」
ロウエンが言った。
「ない理由もある」
アゼルが返す。
「戻らないAランク二組。戻らない調査隊。一瞬だけ出たSランク反応。それも消えた」
「だから、Sランクの俺たちが行く」
「傲慢だね」
「冒険者は多少傲慢でないと、未知の穴に入らない」
ノアが静かに言った。
「正規許可を取らない理由は、取り分だけ?」
ロウエンは首を横に振った。
「それもある。だが、それだけじゃない」
「じゃあ?」
「許可証を取れば、俺たちは王国の調査犬になる。入る場所も、拾う物も、戻る時刻も、報告する言葉も決められる」
ロウエンは、卓上の紙を指で押さえた。
「それでは、奥にあるものを選べない。リーネに必要なものがあっても、神殿が危険素材として押さえれば終わりだ。王国が国家管理品にすれば終わりだ。ギルドが鑑定保留にすれば終わりだ」
セラが続ける。
「先に拾った者が、値段を決める」
ドランが笑う。
「冒険者らしいな」
ノアは、少しだけ目を伏せた。
「リーネに使えるものなら、売らないよね」
全員が黙った。
やがて、ロウエンが答える。
「売らない」
その一言だけだった。
◇
天蓋の猟犬には、規則がある。
一つ。
拾えるものは拾う。
二つ。
拾えないものを無理に拾わない。
三つ。
仲間の命より高い宝はない。
四つ。
ただし、仲間を救える宝は命を賭ける価値がある。
その四つ目は、リーネが眠ってから加わった。
誰が言い出したのか、もう覚えていない。
たぶん全員だ。
ロウエンは、六人を見た。
「確認する」
彼の声で、全員の目が変わる。
冒険前の、いつもの空気。
「目的は灰白庭内部の高位素材確認。神薬系素材の可能性があるものを最優先で探す」
セラが頷く。
「価値反応は私が見る」
「魔神素材は?」
ドランが問う。
「拾えるなら拾う。だが、深追いしない」
ミトが鼻を鳴らした。
「魔神の匂い、変だったら避ける」
「Sランク反応の残滓は?」
アゼルが聞く。
「危険なら避ける。拾える残滓なら回収」
ノアが言う。
「負傷者が出たら?」
「ノアが治す。危険域なら即撤退」
ドランが笑う。
「撤退できれば、だろ」
「撤退できるように行く」
ロウエンは、机の上に小さな地図を広げた。
封鎖線。
騎士団の巡回。
魔術観測杭。
古い水路跡。
森の獣道。
狩人しか知らない崩れた石橋。
「正面からは入らない。古い水路跡を使う。封鎖線を越えた後、霧へ入る前に一度星眼と嗅覚で確認」
セラが右目に触れる。
「奥まで見ると目が焼けるかも」
「焼ける前に閉じろ」
「簡単に言う」
「簡単じゃないから言ってる」
ミトが笑った。
「ロウエン、いつもそれ」
アゼルは星図を畳む。
「内部で星術が使えるか分からない。霧で空が見えないと、大技は落としにくい」
「小星で十分だ」
「Sランク迷宮に小星で十分かな」
「足りなければ、迷宮の天井を星にしろ」
アゼルは呆れた。
「無茶言う」
「できるだろ」
「できるけど」
ドランが立ち上がり、肩を回した。
「俺は守ればいいんだな」
「いつも通りだ」
「今回は、守るだけで済むかな」
「済まないだろうな」
「なら、殴ってもいいな」
「三回までは許す」
「少ない」
「数える気はない」
「なら無限だ」
ノアがため息をついた。
「全員、帰る気ある?」
部屋が少し静かになる。
ロウエンが答えた。
「ある」
セラも言う。
「ある。拾ったものを鑑定したいから」
ドランが言う。
「ある。リーネに見せるものがあるかもしれないからな」
ミトが言う。
「ある。死ぬ匂い、まだしない」
アゼルが言う。
「ある。僕はまだ星図を完成させてない」
ノアは、最後に自分で言った。
「ある。リーネを起こす歌、まだ作れてない」
ロウエンは頷いた。
「なら行く」
◇
その夜、彼らはリーネの眠る部屋へ行った。
王都の外れ。
薬草師の古い家。
地下室に、透明な保存棺がある。
その中で、リーネは眠っている。
髪は三年前と同じ。
頬も痩せていない。
ただ、目を開けない。
ノアが棺のそばで小さく歌った。
治す歌ではない。
起こす歌でもない。
ただ、行ってくると告げる歌。
セラは棺の上に小さな銀貨を置いた。
「値段の付かないものを拾ってくる」
ドランは削りかけの犬の木彫りを置いた。
「起きたら笑え。似てないって」
ミトは棺の硝子に鼻を近づけた。
「匂い、変わってない。待ってて」
アゼルは小さな星光を一つ、部屋の天井に浮かべた。
「戻るまで消えないようにしておく」
ロウエンは、何も置かなかった。
ただ、棺の前に立った。
「灰白庭へ行く」
リーネは答えない。
「たぶん、かなり危ない」
答えない。
「でも、宝の匂いがする」
答えない。
「お前なら行けって言う」
地下室は静かだった。
ロウエンは、少しだけ笑った。
「だから行く」
その時、ノアの歌が少しだけ震えた。
誰も指摘しなかった。
Sランク冒険者でも、怖くないわけではない。
死にたくない。
帰りたい。
それでも行く。
宝があるかもしれないから。
素材があるかもしれないから。
仲間を起こせるかもしれないから。
そして何より。
彼らは冒険者だから。
◇
翌未明。
天蓋の猟犬は、王都を出た。
正門ではない。
西区の荷運び門から、野菜車に紛れて外へ出る。
門番は気づかなかった。
気づいても止められなかったかもしれない。
彼らはSランク冒険者パーティーだ。
国が命じなくても動く。
ギルドが止めても、行く時は行く。
それが冒険者というものだった。
ローヴェ南森へ向かう道中、ミトが何度か足を止めた。
「封鎖線、右に巡回。魔術杭、二つ。神殿札、風で鳴ってる」
セラが右目を細める。
「観測杭は価値低い。壊す必要なし」
アゼルが囁く。
「壊したらバレる」
ドランが笑う。
「じゃあ壊さない」
ノアは、低く喉を鳴らすような歌で全員の足音を薄くした。
ロウエンは、空糸を一本だけ前へ伸ばす。
見えない糸が、封鎖線の隙間を測る。
風の抜け方。
騎士の視線。
札の結界の薄い部分。
そこをなぞり、切らずに通す。
「ここだ」
彼らは古い水路跡へ降りた。
水はほとんどない。
苔と割れた石。
そして、白い霧の匂い。
灰白庭は近い。
セラが右目を開いた。
銀の星が、瞳の奥に浮かぶ。
「星眼」
彼女の視界に、いくつもの小さな価値が映る。
白磁花片。
灰白採取物。
戦争後の骨粉。
古い装備片。
浅層にも、それなりの価値はある。
だが、彼女はもっと奥を見ようとした。
ロウエンが言う。
「無理はするな」
「分かってる」
セラは奥を見た。
白い霧が厚くなる。
価値の星が、霧で滲む。
見えない。
隠されている。
だが、その奥の奥。
ほんの一瞬だけ。
赤と金が混ざったような星が、強く瞬いた。
セラの右目が焼けるように痛んだ。
「っ……!」
彼女は目を閉じ、膝をついた。
ノアがすぐに支える。
「セラ!」
「大丈夫」
「どこが大丈夫なの」
「見えた」
ロウエンの目が鋭くなる。
「何が」
「奥に、ある」
セラは涙を拭った。
涙に少しだけ血が混じっていた。
「赤と金。命の星。神薬系かもしれない」
全員が黙った。
ミトが鼻を鳴らす。
「甘い匂い、そっちからする」
ロウエンは、白い霧を見た。
灰白庭の奥。
Sランク迷宮の深部。
そこに、神薬系かもしれない何かがある。
リーネを起こせるかもしれない素材がある。
あるいは、全員を殺すための罠がある。
その両方かもしれない。
「行くぞ」
ロウエンが言った。
誰も反対しなかった。
白い霧が、静かに揺れている。
まるで、待っているように。
天蓋の猟犬は、許可証を持たずに霧へ向かった。
命令ではない。
任務でもない。
正義でもない。
宝を拾うため。
仲間を起こせるかもしれない素材を探すため。
そして、冒険者として。
彼らは、Sランク迷宮へ足を踏み入れようとしていた。




