第184話 戻らない査定隊は、封鎖線を重くする
封鎖線の外では、誰も動けなかった。
王国騎士団の槍列。
ギルド監視員。
魔術師団の観測班。
神殿の祈祷士。
そして、遠巻きに集まった冒険者や素材商たち。
彼らは、白い霧を見ていた。
灰白庭。
白箱迷宮。
銀刻帰らず。
白庭化した旧迷靄洞。
その呼び名は人によって違う。
だが、今その場にいる者たちは、同じものを見ていた。
白い霧。
静かな霧。
十二人を呑み込んだまま、何も返さない霧。
朝に入った調査隊は、まだ戻らない。
王国認定調査隊。
Aランクパーティ二組。
鋼旗の四剣。
暁鴉の弦。
その名を知っている冒険者たちは、最初こそ言っていた。
「Aランク二組だぞ」
「戻るだろ」
「攻略じゃない。調査だ」
「危なくなったら撤退する」
だが、時が過ぎるにつれて、その声は減った。
昼を過ぎた。
霧は静かだった。
夕方が近づいた。
霧は、少し濃くなった。
誰かが言った。
「……遅くないか」
別の誰かが、すぐに返した。
「調査だ。時間がかかる」
「でも、浅層だけの予定だろ」
「予定なんて、迷宮の中で何の役に立つ」
その言葉で、また沈黙が落ちた。
封鎖線の前に置かれた魔力盤は、ずっと震えていた。
魔力盤技師たちは、交代で数値を読んでいる。
灰霧反応。
白磁反応。
戻り水反応。
骨系反応。
影系反応。
それらが複雑に混じり、時折、盤面を黒く濁らせる。
だが、調査隊の個別反応は追えない。
霧に入った直後から、十二人の魔力は細かく乱れ、互いの位置を掴めなくなっていた。
それでも、最初は生存反応があった。
いくつかの戦闘反応もあった。
強い氷。
黒い矢。
盾術の鋼反応。
光砂。
薬呪。
白銀剣。
それらが、断続的に霧の中で瞬いた。
しかし、時間が経つにつれて一つずつ消えていった。
「光砂反応、消失」
「薬呪反応、消えました」
「大盾系の鋼反応、急激に低下……消失」
「氷界術反応、極大化後、消失」
「黒弓反応、消失」
報告を聞くたび、封鎖線の空気が重くなる。
ギルド職員の一人が、震える声で言った。
「撤退している可能性は」
魔力盤技師は答えなかった。
答えられなかった。
撤退している者の反応ではない。
これは、消えている。
霧の中で、ひとつずつ。
◇
夕暮れ前。
封鎖線の中央に置かれた大型魔力盤が、突然ひび割れた。
ぱきん。
その音は小さかった。
だが、その場にいた全員が振り向いた。
盤面の針が、あり得ない速度で回り始める。
灰白の霧の奥から、鋭い白い反応が立ち上がった。
それは、Aランクの魔力ではなかった。
もっと濃い。
もっと細い。
もっと危うい。
まるで、人間一人の命を一本の刃に変えたような反応。
魔力盤技師が叫んだ。
「高位人間反応!」
騎士団監督官が詰め寄る。
「誰だ!」
「識別不能! ですが……これは……」
技師の顔が青ざめた。
「Sランク相当……!」
封鎖線がざわめいた。
Sランク。
その言葉は、王都の戦場を経験した者たちに重すぎる。
蒼穹の楔。
人間の最高到達点。
王国が切り札として扱う存在。
その反応が、灰白庭の中で一瞬だけ発生した。
「蒼穹の楔が入ったのか?」
「違う! あの人たちは医療天幕だ!」
「なら誰が?」
「Aランクの中から……?」
誰かが呟いた。
「覚醒したのか」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
Aランク冒険者が極限でSランクへ至る。
伝説ではある。
記録にもある。
だが、それは奇跡ではない。
多くの場合、地獄の中でしか起きない。
仲間を失い、命を削り、逃げ場を失い、それでも立った者が、稀にその域へ届く。
誰が届いたのか。
なぜ届いたのか。
それを知る者は、霧の中にしかいない。
魔力盤の針が、さらに激しく震えた。
白いSランク相当反応の前に、黒い反応が現れる。
魔神性。
深い。
重い。
王都の戦場で記録されたものと、似ている。
魔力盤技師が、ほとんど悲鳴のように言った。
「黒い魔神性反応!」
騎士団監督官が叫ぶ。
「ガルザヴェインか!」
「分かりません! 似ています! ですが、深部で、いえ、外縁に近い場所で急に――」
次の瞬間、魔力盤が完全に割れた。
硝子が弾け、針が折れる。
盤面に映っていた白と黒の反応が、同時に潰れた。
沈黙。
封鎖線全体が、凍りついたように動きを止める。
技師が震える手で予備盤を開く。
だが、もう何も映らない。
白いSランク反応も。
黒い魔神性反応も。
消えていた。
「……反応は」
監督官が問う。
技師は、喉を鳴らした。
「消失」
「どちらが?」
「両方です」
「調査隊は」
「追跡不能」
「Aランク二組は」
「反応なし」
「Sランク相当反応は」
「消えました」
封鎖線の向こうで、白い霧だけが揺れている。
まるで、何事もなかったかのように。
◇
王都へ、報告はすぐに飛んだ。
早馬では遅い。
魔術伝令が使われた。
第一報は、ギルド本部長エルナンド・ロウの手元に届いた。
彼は報告書を読み、しばらく目を閉じた。
軍務卿オルド・ヴァイゼンも、その場にいた。
医療天幕から戻ったばかりのギルド治療官。
魔術師団長リヴァルト。
神殿代表。
そして、蒼穹の楔のユードも、片腕を失ったまま椅子に座っていた。
彼は本来、ここにいるべき状態ではない。
だが、灰白庭とガルザヴェインの報告だけは聞くと言って譲らなかった。
エルナンドは、紙を机へ置いた。
「灰白庭再査定調査隊、帰還せず」
室内の空気が重くなる。
「Aランクパーティ二組の反応、消失」
オルドが目を閉じる。
「調査隊四名の反応も、消失」
神殿代表が祈りの形に手を組む。
「途中、Sランク相当の人間反応を確認」
ユードが顔を上げた。
「誰だ」
「不明です。ただ、蒼穹の楔ではありません」
「それは分かっている」
ユードの声は硬い。
エルナンドは続ける。
「同時期に、黒い魔神性反応を確認。ガルザヴェイン由来の可能性あり。ただし、両反応とも直後に消失」
リヴァルトが低く呟いた。
「魔神ゴブリンが、まだ生きていた?」
「断定できません」
エルナンドは言った。
「残響、血、封印反応、あるいは生存個体。どれもあり得ます」
ユードが机を見つめる。
彼の失った左腕の傷が、まだ疼くようだった。
「……生きていたなら」
彼は、ゆっくりと言った。
「灰白庭の中で、何かが起きている」
オルドは問う。
「Aランクの誰かがSランクへ覚醒し、ガルザヴェインと戦った可能性は?」
室内が沈黙する。
エルナンドが答えた。
「あり得ます」
「結果は」
「どちらの反応も消失。ですが、調査隊は戻っていない」
それが答えだった。
もしSランクへ覚醒した冒険者が勝ち、生き残ったなら、戻るはずだ。
少なくとも、外へ出ようとするはずだ。
戻っていない。
つまり、負けた可能性が高い。
ユードは、かすれた声で言った。
「誰が覚醒した」
エルナンドは首を横に振る。
「分かりません」
「鋼旗か、暁鴉か」
「現時点では不明です」
ユードは目を閉じた。
「Sランクに届いても、帰れなかったのか」
その言葉は、重かった。
蒼穹の楔は、ガルザヴェインに敗れた。
そして今、灰白庭の中で生まれたかもしれないSランク相当の人間も、戻らなかった。
王都は、またひとつ理解した。
灰白庭は、Aランクでは測れない。
◇
ギルド本部の奥には、ランク規定を記した黒革の冊子がある。
普段、冒険者が目にするものではない。
ギルド上層部と王国査定官だけが扱う、危険度分類の基準書だ。
エルナンドは、それを机に置いた。
開いたページには、高位冒険者と高位迷宮に関する記述がある。
⸻
Sランク冒険者:
人間種における通常最高到達点。
国家級危機、Sランク魔物、Sランク迷宮への対応資格を持つ。
ただし、単独でのSランク迷宮攻略は推奨されない。
SSランク冒険者:
人間種の枠を一部逸脱した者。
人外領域。
国家戦力ではなく、大陸戦力として扱う。
SSSランク冒険者:
神域到達者。
記録上、存在は極めて稀。
王国基準では運用対象ではなく、祈願・交渉・回避対象とする。
⸻
オルドはその記述を読み、顔をしかめた。
「Sランクで人間の最高到達点か」
「はい」
エルナンドが答える。
「SSから先は、人間というより災害に近い扱いです」
「そのSランク相当反応が、灰白庭の中で消えた」
「はい」
「つまり」
オルドは、言葉を選ぶように言った。
「灰白庭は、Sランク冒険者を殺し得る迷宮だ」
「そう判断せざるを得ません」
神殿代表が目を伏せる。
「さらに、ガルザヴェイン由来の魔神性が消えていない可能性もある」
リヴァルトが言う。
「迷宮が魔神を封じたのか、喰ったのか、生かしているのか。そこが分からない」
ユードは低く言った。
「最悪を考えろ」
全員が彼を見る。
「ガルザヴェインが、灰白庭の中でまだ戦える状態にある。そう仮定して動くべきだ」
オルドは、しばらく沈黙した。
それから頷いた。
「灰白庭をSランク相当迷宮として仮指定する」
エルナンドは、すぐに書類を取った。
「正式指定には王とギルド評議会の承認が必要です」
「仮指定で構わん。封鎖線を下げるな。むしろ広げろ」
「一般冒険者の立ち入りは完全禁止に?」
「完全禁止だ。違反者は拘束。闇市関係者は即時摘発対象」
「素材商から反発が出ます」
「出させろ。死者の名簿を見せてやる」
オルドの声には、怒りがあった。
Aランク二組。
調査隊。
その全員が戻らない。
それでもなお宝を欲しがる者たちへの怒り。
だが、エルナンドは知っていた。
それでも人は行く。
恐怖は欲を殺さない。
ただ、欲に値段を付けるだけだ。
◇
医療天幕で、蒼穹の楔の面々にも報告が伝えられた。
イグナスは、まだ起き上がれない。
ドルガは両足を固定されている。
ラティカは熱が下がりきらず、セネリアは声がかすれている。
それでも、彼らは全員、報告を聞いた。
「再査定隊が戻らない」
ユードが言った。
彼は軍議室から戻り、仲間たちに報告していた。
「Aランク二組も」
ラティカが目を伏せる。
「鋼旗と暁鴉よね」
「ああ」
ドルガが歯を食いしばる。
「知ってる連中だった」
セネリアが祈祷布を握る。
「……誰か、生きている可能性は」
ユードは答えなかった。
それが答えだった。
イグナスが、天幕の天井を見たまま言う。
「Sランク反応が出たと聞いた」
「ああ」
「誰かが、届いたのか」
「おそらく」
「戻らなかったのか」
「ああ」
イグナスは目を閉じた。
彼らは知っている。
Sランクの重さを。
そこへ届くことが、どれほど異常かを。
そして、そのSランクでも帰れない場所があることを。
「灰白庭は、Sランクか」
イグナスが言う。
ユードは静かに答えた。
「少なくとも、そう扱うべきだ」
ラティカが、苦しげに笑った。
「私たち、ガルザヴェインにも勝ててないのに、今度はそれを呑んだかもしれない迷宮か」
誰も笑わなかった。
ドルガが拳を握る。
「治すぞ」
その言葉に、全員が彼を見た。
「足も、胸も、腕も、声も、全部だ。治して、鍛え直す」
ユードが自分の失った左腕を見る。
「腕は戻らない」
「なら、片腕用に鍛えろ」
「簡単に言う」
「簡単じゃないからやるんだろ」
イグナスが目を開けた。
「灰白庭へ行くのか」
ドルガは答えない。
代わりに、ラティカが言った。
「今行ったら死ぬ」
「だな」
「でも、いつか行くかもしれない」
セネリアが、祈祷布を握りながら小さく頷いた。
ユードは、南東の方角を見た。
「その時までに、俺たちは今のままではいられない」
蒼穹の楔は、敗北した。
だが、終わっていない。
灰白庭は、彼らにとっても新しい傷になった。
◇
封鎖線の前では、夜になっても人が散らなかった。
誰も、調査隊が戻るとは口にしなくなっていた。
それでも、霧を見る。
もしかしたら。
誰か一人でも。
そんな希望を捨てきれない者たちがいる。
鋼旗の四剣を知る者。
暁鴉の弦に助けられたことがある者。
調査隊のカルムを知るギルド職員。
魔力盤技師リーゼの同僚。
神殿のオルフェンを見送った修道士。
彼らは白い霧を見ていた。
やがて、ギルド職員が封鎖線の前に立った。
彼の手には、新しい通達がある。
赤い紙ではない。
黒縁の紙だった。
⸻
《王国・ギルド共同追加通達》
灰白庭再査定調査隊、未帰還。
Aランクパーティ《鋼旗の四剣》、未帰還。
Aランクパーティ《暁鴉の弦》、未帰還。
内部にてSランク相当反応、および高濃度魔神性反応を一時確認。
以後、灰白庭をSランク相当迷宮として仮指定。
一般冒険者、素材商、未許可探索者の接近を厳禁とする。
⸻
それを読み上げた時、誰かが泣いた。
誰かが怒鳴った。
誰かが地面を蹴った。
誰かが、黙ってその場を去った。
そして、何人かの冒険者は、白い霧を見たまま動かなかった。
恐怖で。
怒りで。
それとも欲で。
ギルド職員には分からなかった。
ただ一つ、分かることがある。
灰白庭は、もう以前のような宝箱迷宮ではない。
そこは、王都が押し付けた十万の魔物を呑み、Aランク二組と調査隊を返さず、Sランク相当の人間反応すら消した場所だ。
Sランク相当迷宮。
その言葉が、王都の夜に重く落ちた。
◇
白い霧の中では、静かな作業が続いていた。
アレクの亡骸。
マルクの記録板。
白銀剣の破片。
黒弓。
双斧の刃片。
祈祷布の白片。
魔力盤の破片。
光砂筒。
薬瓶の残骸。
方盾の砕片。
氷杖の欠片。
短剣と糸。
それらは、白磁根によって丁寧に回収されていく。
白骨書記が分類する。
宝物庫中枢補助核が価値を測る。
戻り水が血を洗う。
湿骨軍列が骨を拾う。
カゲヌイが影の残りを畳む。
ハイハネが霧を静かに戻す。
軍帰路喰らいの落武者は、傷ついた鎧で立ち尽くしている。
そして、魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェインは、アレクが倒れた場所を見ていた。
もう戦いは終わっている。
だが、彼はしばらく動かなかった。
白い部屋で、余は言った。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「戻れ。治療する」
「ワカッタ」
彼は素直に答えた。
以前なら、もっと戦いたがっただろう。
だが、今は違った。
戦いの余韻を、ただ噛み締めているように見えた。
「アレク」
ガルザヴェインが言った。
「キロク、モッテ、カエリタカッタ」
「ああ」
「カエレナカッタ」
「ああ」
「デモ、ツヨカッタ」
「そうだ」
ガルザヴェインは、自分の胸の白銀の傷を見た。
「オレ、オボエル」
「覚えておけ」
魔神戦王は、静かに頷いた。
余は白い部屋で、血に濡れた記録板を見る。
そこには、人間の言葉でこう書かれている。
⸻
灰白庭はSランク相当と見るべきである。
⸻
その査定は、外へ持ち帰られなかった。
だが、間違ってはいなかった。
余は静かに笑った。
「人間ども」
封鎖線の向こうにいる者たちへ、届くはずのない声で言う。
「お前たちの査定官は、正しかったぞ」
白い霧は、また静かに閉じた。
外では、灰白庭がSランク相当迷宮として仮指定された。
内では、霧灰白庭迷宮が正式にSランクへ至った。
その事実を、まだ人間は知らない。
ただ、帰らない者たちの名前だけが、王都の夜に増えていった。




