第182話 魔神は、人間の頂点と殴り合う
白銀の剣と、黒い拳がぶつかった。
音が遅れて来た。
まず、光が裂けた。
次に、霧が吹き飛んだ。
最後に、白磁の床が割れる音が響いた。
アレク・ヴァイスの剣は、ガルザヴェインの拳を受け止めていた。
いや、受け止めたのではない。
斬り込んでいた。
魔神ゴブリンの黒い魔力をまとった拳へ、白銀の刃が食い込んでいる。
血が飛んだ。
黒い血。
ガルザヴェインの拳から、確かに血が流れた。
「……硬い」
アレクが呟く。
その声に驚きはない。
ただ、測っている。
敵の硬さを。
魔力の厚みを。
骨の位置を。
次にどこを斬ればよいかを。
一方、ガルザヴェインは笑っていた。
拳を斬られて。
血を流して。
それでも、金色の目を細め、楽しそうに笑っていた。
「イタイ」
ガルザヴェインは言った。
「イイ」
拳を引く。
アレクは追わない。
記録板を左腕に抱えたまま、半歩だけ位置を変える。
出口へ向かう道は、ガルザヴェインの背後にある。
外縁へ繋がる細い接続路。
そこへ辿り着けば、外に出られるかもしれない。
だが、その前に魔神がいる。
アレクは分かっていた。
倒す必要はない。
通ればいい。
記録を持ち帰ればいい。
仲間たちの死を、灰白庭の正体を、外へ伝えればいい。
だが、目の前の相手は、通してくれるような怪物ではなかった。
「どけ」
アレクが言う。
ガルザヴェインは、笑ったまま首を横に振る。
「イヤ」
「俺は帰る」
「タタカウ」
「帰るために斬る」
「斬レ」
ガルザヴェインが両腕を広げた。
「オレ、タタカウ」
白い霧の中、二つのSランク相当が向かい合う。
人間の最高到達点。
未成熟の魔神。
白い部屋で、余は息を詰めるようにその光景を見ていた。
《外縁接続路付近、戦闘圧上昇》
《周辺構造、損傷危険》
「周囲の補強を厚くしろ」
《ソウル消費による緊急補強を実行》
「ガルザヴェインに伝えろ。外へ出るな。道を壊しすぎるな。記録板を外へ出すな」
《契約線を通じて伝達》
ガルザヴェインの胸の契約線が、金色に濁って光る。
魔神は一瞬だけ、白い部屋の方を見たような気がした。
「ロード、メイレイ」
彼は言った。
「ワカッタ」
分かっているのか。
本当に分かっているのか。
余は不安だったが、今は任せるしかない。
アレクが動いた。
◇
白銀の剣が、霧を裂きながら走る。
「白銀剣技――霧断走」
速い。
踏み込みが見えない。
白い霧そのものを足場にしたような、異様な加速。
アレクは正面から行かなかった。
ガルザヴェインの左側へ抜ける。
狙いは首ではない。
出口だ。
魔神を倒すより、背後を取って接続路へ走る。
合理的な判断だった。
だが、ガルザヴェインは笑った。
「ハヤイ」
魔神の足が床を叩く。
白磁が割れる。
巨体が、信じられない速度で横へ滑った。
アレクの進路へ、拳が置かれる。
ただ殴るのではない。
進む先に拳を置いた。
アレクは剣を返す。
「白銀剣技――返月」
白銀の刃が、拳の軌道を受け流しながら、ガルザヴェインの腕を斬る。
黒い血が散る。
浅くない。
腕の筋肉まで届いている。
だが、ガルザヴェインの拳は止まらなかった。
受け流されたはずの拳が、途中で軌道を変える。
手首ではない。
肘でもない。
肩から魔力が噴き出し、無理やり拳の方向を変えた。
アレクの脇腹へ入る。
「ぐっ……!」
アレクの体が横へ飛ぶ。
白い床を滑り、片膝をつく。
記録板を抱える左腕を、彼は最後まで離さなかった。
《アレク・ヴァイス、負傷拡大》
《記録板、保持》
「今のを受けて、板を落とさんのか」
余は思わず呟いた。
フィルエが低く言う。
「落としたら、全部終わると思ってる」
「執念だな」
「うん。でも、あれが今のアレクの芯」
アレクは立ち上がった。
口元から血が落ちる。
白銀の剣は、まだ光っている。
ガルザヴェインは腕の傷を見た。
指で血を拭い、それを眺める。
「キレル」
彼は嬉しそうに言った。
「オマエ、キレル」
「当たり前だ」
アレクは剣を構える。
「俺は、剣士だ」
「ケンシ」
ガルザヴェインがその言葉を繰り返す。
そして、拳を握る。
「オレ、コブシ」
黒い魔力が、拳に集まる。
さきほどより濃い。
大きい。
殴るためだけの魔力。
「魔神拳――黒牙砕」
言葉は不完全だが、技として成立していた。
ガルザヴェインの拳が、黒い牙のような魔力をまとって突き出される。
アレクは真正面から受けなかった。
剣を斜めに置き、拳の表面を削るように斬る。
「白銀剣技――牙滑り」
黒い魔力が削られる。
拳の威力が横へ逃げる。
だが、ガルザヴェインはその瞬間、逆の手を開いた。
爪。
鋭く伸びた魔神の爪が、アレクの記録板を狙う。
剣士ではなく、目的を狙った。
アレクの目が鋭くなる。
「させるか!」
彼は左腕を引く。
同時に剣を逆手へ返す。
「白銀剣技――記守」
白い光が記録板を包む。
ガルザヴェインの爪が、その光へ食い込む。
ぎし、と記録板が軋む。
端が削れる。
だが、砕けない。
アレクの剣が、ガルザヴェインの爪を斬った。
指が一本、飛ぶ。
魔神の指が白い床へ落ち、黒い血を撒く。
「……ッ」
ガルザヴェインの笑みが深くなった。
「イタイ」
「何度も言うな」
「タノシイ」
「俺は楽しくない」
「オマエ、カエル。オレ、トメル。タタカイ」
ガルザヴェインは切られた指を見下ろす。
その切断面に、黒い魔力が集まった。
完全に再生するわけではない。
だが、血が止まる。
筋肉が締まり、次に同じ切り方では落ちにくいように変質していく。
「またか」
アレクが目を細める。
「戦いながら、変わるのか」
ガルザヴェインが笑う。
「オレ、マダ、ナル」
「未成熟というわけか」
「ミセイジュク」
ガルザヴェインは、その言葉の意味を噛むように繰り返した。
「モット、ナル」
◇
白い部屋で、管理音声が告げる。
《ガルザヴェイン、戦闘適応中》
《アレク・ヴァイスの斬撃傾向を学習》
《ただし、アレク・ヴァイスも魔神の動きへ対応中》
「互いに学んでいるのか」
《はい》
フィルエが言った。
「長引くと危ない」
「どちらが」
「両方」
アレクは命を削っている。
長引けば、体がもたない。
だが、ガルザヴェインは戦いながら成長する。
長引けば、さらに強くなる。
そして、その戦闘圧は迷宮にも負荷をかける。
外縁接続路の白磁床は、すでに何度も割れている。
戻り水の流れも乱れている。
影糸は近づけない。
湿骨軍列も巻き込まれれば砕かれる。
これは、もう迷宮の罠の戦いではない。
強者同士の殴り合いだ。
余は、それを分かっていた。
だからこそ、目が離せなかった。
「ガルザヴェイン」
余は契約線越しに告げる。
「記録板を壊すな。回収する」
「ワカッタ」
「アレクは殺せ」
「ワカッタ」
「外へ出るな」
「ワカッタ」
少し不安だ。
だが、三つは伝わった。
ガルザヴェインが、魔神進軍鐘へ手を伸ばす。
ごん。
一度、鳴らした。
迷宮の中に、低い音が広がる。
魔物の軍勢を動かす音ではない。
今は、自分自身を高める音。
魔神進軍鐘・一鳴。
ガルザヴェインの黒い魔力が、さらに濃くなる。
アレクもまた、剣を両手で握り直した。
いや、左手には記録板がある。
だから、完全な両手持ちではない。
それでも、彼は記録板を胸当ての内側へ押し込み、革紐で固定した。
左手が空く。
ただし、記録板は胸元。
狙われれば、命と一緒に砕ける位置だ。
「持って帰る」
アレクは言った。
「これを」
白銀の剣を両手で構える。
その瞬間、剣の光がさらに強くなる。
《アレク・ヴァイス、剣圧上昇》
《両手構えへ移行》
「本気か」
余は呟いた。
アレクが踏み込む。
◇
次の一合は、見えなかった。
白銀の光と黒い魔力が交差した。
アレクの剣が、ガルザヴェインの胸を裂く。
ガルザヴェインの爪が、アレクの肩を裂く。
血が飛ぶ。
白い床に、黒と赤が同時に散る。
「白銀剣技――命耀断!」
アレクの剣が、命を燃やすように輝く。
縦斬り。
横斬り。
斜め。
突き。
すべてが速い。
しかも、一撃ごとに意味が違う。
ただ肉を斬るのではない。
ガルザヴェインの魔力の流れを斬る。
拳の溜めを斬る。
足の踏み込みを斬る。
次の動きの芽を斬る。
まるで、戦いそのものを解体する剣だった。
ガルザヴェインの体に傷が増える。
腕。
胸。
肩。
脇腹。
太腿。
白銀の斬撃が、魔神の体へ次々と入る。
だが、ガルザヴェインは下がらない。
むしろ、前へ出る。
「イイ」
拳。
アレクが避ける。
爪。
剣で受ける。
膝。
アレクの腹へ入る。
彼の体が浮く。
だが、アレクは空中で剣を返した。
「白銀剣技――落月」
落下の勢いを使った斬撃が、ガルザヴェインの肩へ入る。
深い。
骨まで届く。
ガルザヴェインの片腕が、一瞬だけ下がった。
アレクがその隙に、横を抜けようとする。
出口へ。
外縁接続路へ。
だが、ガルザヴェインは笑った。
「ソレ」
彼は、無事な方の腕で地面を殴った。
白磁床が砕け、戻り水が噴き上がる。
出口への道が、一瞬だけ水で塞がれる。
アレクはそれを斬る。
「白銀剣技――水裂!」
道が開く。
だが、その一瞬でガルザヴェインが前に入る。
「カエサナイ」
アレクの目が細くなる。
「なら、斬る」
「斬レ」
二人がまたぶつかる。
拳と剣。
爪と刃。
牙と白銀。
アレクの剣は、確かにガルザヴェインを傷つけている。
だが、ガルザヴェインの体は、その傷から学んでいる。
最初は深く入った斬撃が、次は少し浅くなる。
同じ角度では、筋肉が固まる。
同じ踏み込みでは、足が先に動く。
同じ誘いでは、引っかからない。
アレクもそれに気づく。
「同じ剣は通じないか」
彼は、剣筋を変えた。
白銀の剣が、さらに細く鋭くなる。
「なら、全部変える」
ガルザヴェインの笑みが、子供のように輝いた。
「モット」
◇
戦いは、出口を中心に回った。
アレクは何度も抜けようとする。
ガルザヴェインは何度も塞ぐ。
アレクが斬る。
ガルザヴェインが受ける。
受けきれずに血を流す。
だが、立つ。
ガルザヴェインが殴る。
アレクは受け流す。
受け流しきれずに骨を軋ませる。
だが、立つ。
白い部屋では、警告が次々と流れていた。
《外縁接続路、損傷率四十一パーセント》
《戻り水流路、乱れ》
《白磁床、補強材消費》
《ガルザヴェイン、負傷蓄積》
《アレク・ヴァイス、肉体負荷上昇》
《記録板、保持状態継続》
「まだ板を守っているのか」
《はい》
「どれだけ執念深い」
《目的保持能力、極めて高》
フィルエが言った。
「ロード、アレクはガルザヴェインを倒す気じゃない。帰る気だよ」
「分かっている」
「でも、ガルザヴェインは倒す気で戦ってる」
「それも分かっている」
「この差、使えるかも」
「どういうことだ」
「アレクは出口を見る。ガルザヴェインはアレクを見る」
余は、その言葉に少し黙った。
なるほど。
アレクの目的は帰還。
ガルザヴェインの目的は戦闘。
だから、アレクは隙を見て抜ける。
ガルザヴェインはそれを塞ぐ。
だが、戦いそのものを楽しむガルザヴェインは、時折、アレクを倒すより強い一撃を受けることを選ぶ。
危険だ。
だが、契約で制御できる。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「出口を背にしろ。アレクではなく、出口を守れ」
「……」
「戦いたければ、あいつを帰すな」
ガルザヴェインの金色の目が、少しだけ動いた。
「カエス、タタカイ、オワル」
「そうだ」
「カエサナイ、ツヅク」
「そうだ」
「ワカッタ」
ガルザヴェインの動きが変わった。
アレクを追うのではなく、出口を背にした。
体を半身にし、接続路を完全に塞ぐ。
アレクはそれを見て、表情を変えた。
「学ぶな」
「ロード、オシエタ」
「厄介な主だな」
「オレノ、ロード」
ガルザヴェインは笑った。
「ツヨイ」
アレクは、白銀の剣を構え直す。
「なら、その主ごと斬る」
「ロード、キルナ」
「お前をどかす」
「イヤ」
また、ぶつかった。
◇
アレクは技を変えた。
速度ではなく、重さ。
「白銀剣技――城崩し」
かつてガルドスの盾と共に使った対大型用の剣技。
相手の重心を崩し、守りの姿勢ごと切り開く技。
白銀の剣が、ガルザヴェインの膝を狙う。
ガルザヴェインは拳で受けようとする。
だが、剣は拳ではなく床を斬った。
白磁床が斜めに割れ、ガルザヴェインの足場が崩れる。
巨体がわずかに傾く。
そこへアレクが踏み込む。
「白銀剣技――昇牙!」
下から上への斬撃。
ガルザヴェインの胸を裂く。
深い。
黒い血が大きく噴いた。
《ガルザヴェイン、胸部深創》
「ガルザヴェイン!」
余は思わず叫んだ。
だが、ガルザヴェインは倒れない。
彼は笑っていた。
そして、傾いた体のまま、アレクの剣を腕で挟んだ。
肉で。
骨で。
無理やり。
白銀の剣が一瞬、動かなくなる。
アレクの目が見開かれる。
ガルザヴェインの額が、アレクの顔面へ叩き込まれた。
鈍い音。
アレクの鼻が潰れ、血が飛ぶ。
それでも彼は剣を離さない。
膝蹴りが腹に入る。
アレクの体が折れる。
だが、記録板は胸元に固定されたまま。
ガルザヴェインが爪を伸ばす。
今度こそ、記録板へ。
アレクは、折れそうな体を無理やり捻った。
記録板を守るために。
爪が彼の背を裂いた。
「ぐあっ!」
アレクの悲鳴。
初めて、はっきりした悲鳴だった。
それでも、記録板は守った。
ガルザヴェインが、ほんの少しだけ動きを止める。
「ナゼ」
彼は問うた。
「ナゼ、ソレ、マモル」
アレクは血を吐きながら答えた。
「仲間が……死んだからだ」
「シンダ」
「それを、なかったことにさせない」
アレクは剣を引き抜く。
腕の肉を裂きながら。
ガルザヴェインも血を流す。
「記録は、あいつらが生きた証だ」
ガルザヴェインの金色の目が、細くなる。
「ナカマ」
「そうだ」
「シンダ、ナカマ」
「だから帰る」
ガルザヴェインは、しばらく黙った。
その顔から、ほんの少しだけ笑みが消えた。
だが、すぐに戻る。
今度の笑みは、さっきまでとは少し違った。
「ワカラナイ」
彼は言った。
「デモ、ツヨイ」
拳を構える。
「ソレ、オマエ、ツヨクスル」
アレクは剣を構える。
「ああ」
「ナラ、オレ、ソレゴト、タオス」
ガルザヴェインの魔力が膨れ上がる。
アレクの白銀の剣も、さらに強く光る。
このまま続けば、どちらもただでは済まない。
だが、止まらない。
◇
白い部屋で、余はその会話を聞いていた。
「ガルザヴェインが、理解しようとしている」
《はい》
「戦い以外をか」
《仲間、記録、帰還目的について反応あり》
フィルエが静かに言う。
「これ、ガルザヴェインにとって大きいかも」
「どういう意味だ」
「強さが、ただ戦いたいだけじゃないって見てる。アレクは帰るために強い。仲間のために強い。ガルザヴェインはそれを見てる」
「進化の種か」
「たぶん」
アレクを殺せば、ガルザヴェインは変わる。
ただSランク冒険者を倒したからではない。
強さの理由を見たから。
戦いの意味を、少しだけ理解したから。
それは、魔神練兵窟で役割を教えた時と同じ流れだった。
「なら、勝たせる」
余は言った。
「ガルザヴェインに、こいつを越えさせる」
《戦闘支援しますか》
「直接の罠は出すな。邪魔になる」
《では》
「出口を封じろ。アレクが抜ける隙だけを潰せ。戦いはガルザヴェインに任せる」
《承知しました》
外縁接続路の奥で、白磁根が静かに動いた。
出口そのものを壊すのではない。
抜け道だけを塞ぐ。
逃げられない。
なら、アレクは戦うしかない。
帰るために。
ガルザヴェインを倒すために。
そして、ガルザヴェインは戦う。
アレクを倒すために。
強さを知るために。
白い霧が、二人を囲む。
もう、他の配下は近づかない。
これは、魔神と人間の頂点の戦いだ。
◇
アレクは、最後の構えに入った。
白銀の剣を、正面へ。
両足を白磁床に沈めるように立つ。
胸元の記録板が、血で赤く染まっている。
彼の体は限界だった。
骨が軋む。
筋肉が裂ける。
魔力が内側から燃える。
だが、剣はぶれない。
「白銀剣奥義――」
白い光が、剣へ集まる。
霧が退く。
戻り水が止まる。
白磁床が細かく震える。
「人極一閃」
人間の最高到達点。
人としての限界を、剣の一点へ集める奥義。
ガルザヴェインも構えた。
拳ではない。
爪でもない。
両腕を開き、胸の傷をさらす。
魔神進軍鐘が、腰で揺れる。
ごん。
黒い魔力が、全身から噴き上がる。
「魔神爪――」
彼の両腕に、黒い爪のような魔力が生える。
床を削り、霧を裂き、空気を震わせる。
「王喰い」
アレクが踏み込む。
ガルザヴェインが踏み込む。
白銀の一閃と、黒い魔神爪が、正面からぶつかった。
白い部屋の壁面が、真っ白に染まった。
音は、まだ来ない。
結果も、まだ見えない。
ただ、迷宮全体が震えていた。




