第181話 Sランクは、霧を斬る
アレク・ヴァイスが、一歩踏み出した。
ただ、それだけだった。
だが、その一歩で白い霧が裂けた。
灰白の霧が、まるで刃に怯えた布のように左右へ割れる。
戻り水が、彼の足元から退く。
白磁の床に染みていた魔力が、薄く震える。
影が、わずかに遅れて彼の足に追いついた。
それまで、迷宮の中で人間は常に迷わされる側だった。
霧に視界を奪われ。
影に足を縫われ。
水に帰路を飲まれ。
骨に行く手を塞がれ。
声に心を刺されてきた。
だが、今のアレクは違った。
彼は、迷わなかった。
右手には白銀の剣。
左手には、血で濡れた記録板。
背には黒弓。
腰には短剣。
肩には破れた祈祷布の白片。
仲間たちの残したものを背負い、彼は前へ進む。
「灰白庭」
アレクは、低く言った。
「俺は帰る」
その声は怒鳴り声ではなかった。
だが、霧が震えた。
叫びより深く。
憎悪より冷たく。
決意だけが、刃の形になっている。
◇
白い部屋で、余は壁面を見ていた。
そこに映るアレクの反応は、さきほどまでとは別物だった。
《対象アレク・ヴァイス》
《推定:Sランク相当》
《状態:重傷、魔力急上昇、肉体負荷危険域》
《精神状態:極限集中》
《目的:記録板の外部持ち帰り》
「……本当にSランクなのか」
《はい》
「Aランク上位ではなく?」
《反応値、技量変動、迷宮干渉抵抗値、いずれもAランク域を超過しています》
「人間種の通常最高到達点、と言ったな」
《はい》
人間の最高到達点。
余はその言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。
Aランク二組は強かった。
それは十分に分かった。
湿骨軍列を押し返し、ハイハネの霧を読み、カゲヌイの影を避け、戻り水を凍らせ、軍帰路喰らいの落武者に傷を与えた。
だが、今のアレクは、そのどれとも違う。
一人になったのに。
仲間をすべて失ったのに。
記録板を抱えているせいで、片手が塞がっているのに。
むしろ、強くなっている。
「管理音声」
《はい》
「Sランクとは、皆こうなのか」
《個体差があります。ただし、Sランク冒険者は人間の限界域に到達した存在です》
「限界域か」
余は壁面のアレクを見つめた。
限界に立つ人間。
そして、限界を燃やしながら進む人間。
「なら、試す」
《戦闘方針》
「まずは迷宮で止める。ガルザヴェインはまだ出すな」
魔神練兵窟の奥で、金色の目が開いた。
ガルザヴェインだ。
契約線越しに、奴の興奮が伝わる。
「ロード」
「待て」
「ツヨイ、イル」
「待てと言っている」
「タタカウ」
「まだだ」
ガルザヴェインは不満そうに、魔神進軍鐘を小さく鳴らした。
ごん。
「鳴らすな」
「……マツ」
かろうじて待った。
だが長くは待たないだろう。
余は白い部屋の床を睨む。
「まずは、霧だ」
《灰霧追導蛾ハイハネ、遠隔制御》
「殺すためではない。足を止めろ。方向を奪え」
《承知しました》
◇
アレクの周囲へ、霧が流れ込んだ。
ただ濃い霧ではない。
灰霧追導蛾ハイハネが導く、層のある霧。
上から視界を押さえる霧。
足元の距離を狂わせる霧。
耳元で声の距離をずらす霧。
前に進んでいるはずなのに、少しずつ横へ滑らせる霧。
Aランクなら、これだけで歩みが鈍る。
だが、アレクは剣を横へ払った。
「白銀剣技――霧裂」
斬撃が走った。
霧が裂ける。
ただ風圧で散ったのではない。
霧の流れそのものを斬った。
ハイハネが作った層が、縦に切断される。
方向を狂わせる流れが消え、足元の白磁床が露わになる。
《灰霧層、切断》
《ハイハネの遠隔制御、一部破断》
「霧を斬った……?」
余は思わず呟いた。
いや、霧を払う冒険者ならいた。
魔術で散らす者もいた。
光で照らす者もいた。
だが、今のは違う。
流れを見て、意味を斬った。
フィルエが静かに言った。
「ロード、あれ、霧がどこへ誘導したいか見てる」
「見ているのか?」
「たぶん、感じてる。霧そのものじゃなくて、迷わせる意思を斬ってる」
「面倒なことをする」
アレクは進む。
霧が再び寄ろうとする。
彼は二度目を振る。
「白銀剣技――二重霧裂」
二つの斬撃が、上下から霧を割った。
ハイハネが遠くで羽を震わせる。
ふぁさ、と音が乱れた。
《灰霧追導蛾ハイハネ、制御負荷上昇》
「下げろ。無理にぶつけるな」
《承知しました》
霧だけでは止まらない。
「カゲヌイ」
《影軍縫いカゲヌイ、待機中》
「影を縫え」
《対象の影が薄いです》
「薄い?」
《対象周囲の白銀魔力により、影の輪郭が不安定》
「それでもやれ」
《実行》
◇
アレクの足元に、影針が落ちた。
一本。
二本。
十本。
床に伸びる彼の影を縫い止めようとする。
アレクは立ち止まらなかった。
剣を下へ向ける。
「白銀剣技――影断」
足元の影が、剣圧で裂けた。
影そのものを斬ったのではない。
縫われる前に、自分の影を動かした。
影針が空を刺す。
カゲヌイの針が、白い床に虚しく突き立った。
次の針は、角度を変えて背後の影へ。
アレクは振り返らない。
だが、剣の柄で床を軽く叩いた。
白銀の魔力が床を走る。
影が一瞬だけ薄くなり、針が抜ける。
《影軍縫い、失敗》
《カゲヌイ、再試行》
カゲヌイは軍勢の影を縫った。
ゴブリンの群れも、狼の流れも、調査隊の隊列も縫った。
だが、今のアレクは一人だ。
一人でありながら、動きが読みにくい。
しかも、背負っている死者たちの意思が、彼の影を複雑にしている。
アレクの影は、一つではないように見えた。
盾の影。
氷の影。
弓の影。
斧の影。
祈祷布の影。
記録板の影。
死んだ者たちの残り香が、影の輪郭を歪ませている。
「……人間の影ではないな」
《精神負荷および所持品の残留魔力が影に混在しています》
「カゲヌイだけでは止まらんか」
次は骨だ。
「湿骨軍列」
《展開》
「壊される前提で出せ。足を止めることだけ考えろ」
《承知しました》
◇
白い霧の向こうから、湿骨軍列が現れた。
今度は壁ではない。
輪だ。
アレクを囲むように、骨槍が円形に展開する。
前後左右。
斜め。
床下。
天井近く。
十万の魔物を喰った骨の軍列が、一人の人間を囲む。
骨槍が、一斉に突き出た。
アレクは、記録板を左腕に抱えたまま、右手だけで剣を振るった。
「白銀剣技――円環断」
白銀の斬撃が、彼を中心に輪となって広がる。
骨槍がまとめて断たれた。
前列が崩れる。
しかし、湿骨軍列は止まらない。
折れた骨を後列が拾う。
次の槍が来る。
今度は上下から。
アレクは低く身を沈めた。
「白銀剣技――昇月」
下から上へ、白い月のような斬撃が走る。
天井から降る骨槍が砕ける。
床下から伸びる骨槍も、根元から斬られる。
湿骨軍列が、初めて後ずさった。
軍列が、人間一人を前に退いた。
《湿骨軍列、深部前線部損耗》
《損耗率上昇》
「下げろ」
《まだ展開可能です》
「下げろ。これ以上は無駄に削られる」
《承知しました》
湿骨軍列が霧の奥へ引く。
アレクは追わない。
彼の目的は戦闘ではない。
帰還だ。
記録板を持ち帰ることだ。
だから、迷宮の配下を倒しても、深追いしない。
それがまた厄介だった。
ただ怒りで暴れるだけなら誘導できる。
だが、彼は怒りを燃やしながら、目的を見失っていない。
マルクの記録を外へ持ち帰る。
その一点が、剣を支えている。
「軍帰路喰らい」
《待機中》
「出ろ」
《損傷残存》
「構わん。今のアレクの目的は帰還だ。お前の相性が最も良い」
《実行》
◇
軍帰路喰らいの落武者が、霧の中から現れた。
灰白の鎧。
ひび割れた兜。
ベルグの斧で割られた肩。
ネイザの矢で傷ついた兜。
それでも、刃は残っている。
アレクは足を止めた。
彼はこの落武者が何をするか、もう見ている。
帰路を喰う。
射線を喰う。
目的を喰う。
道の意味を斬る。
自分が帰ろうとするほど、こいつは強い。
だが、アレクは前へ出た。
「お前を越えなければ、帰れない」
落武者は答えない。
刃を構える。
アレクも剣を構えた。
白銀の刃と、灰白の刃。
二つの刃が、霧の中で向かい合う。
先に動いたのは落武者だった。
刃が横へ走る。
肉ではなく、アレクの帰る意思を斬る一撃。
アレクは、それを正面から受けなかった。
白銀の剣を斜めに構え、刃の進む道そのものへ重ねる。
「白銀剣技――帰刃」
白銀の剣が、落武者の刃と擦れ合った。
火花ではなく、白い霧が散る。
アレクの帰る意思が、落武者に喰われる前に、剣へ変わる。
帰るための道を、刃にする技。
落武者の刃が弾かれた。
余は白い部屋で身を乗り出した。
「帰路喰らいを、受けた?」
《アレク・ヴァイス、帰還意思を剣技へ変換。干渉を一部相殺》
「そんなことができるのか」
《Sランク域の技量と精神状態によるものと推定》
落武者が二撃目を放つ。
今度はアレクの目的を斬りに来る。
記録板を持ち帰る目的。
マルクの最終査定を外へ伝える目的。
アレクは左腕の記録板を強く抱えた。
「白銀剣技――記守」
剣の光が、記録板を包む。
落武者の刃が、その光へ触れる。
ぎし、と嫌な音が鳴った。
記録板の端が少し裂ける。
だが、完全には喰われない。
アレクは踏み込んだ。
「白銀剣技――断帰!」
白銀の剣が、落武者の胴を斬った。
深い。
ネイザとベルグがつけた傷を、さらに広げる。
落武者の鎧が割れる。
《軍帰路喰らいの落武者、重度損傷》
「引け!」
《回収します》
軍帰路喰らいが霧の中へ下がる。
アレクは追わなかった。
やはり目的は帰還。
余は、初めて焦りに近いものを覚えた。
「本当に出口へ向かっているな」
《はい》
「止める手が足りん」
《ガルザヴェインの出撃を提案》
魔神練兵窟から、すでに金色の圧が漏れている。
ガルザヴェインは立ち上がっていた。
「ロード」
「まだ待て」
「マテナイ」
「待てと言った」
「ツヨイ。アレ、ツヨイ」
「分かっている」
「タタカウ」
「まだだ!」
だが、余自身も分かっていた。
このまま迷宮だけで殺せるか。
殺せるかもしれない。
だが、損耗が大きくなる。
しかもアレクは外へ向かっている。
深部ならともかく、外縁に近づけば、情報漏洩の危険が出る。
もう調査隊はいない。
マルクも死んだ。
記録板を持っているのはアレクだけ。
この男を殺せば、情報は漏れない。
なら。
「まだだ」
余は自分に言い聞かせるように言った。
「もう少し、見る」
フィルエが言った。
「ロード、危ないよ」
「分かっている」
「アレク、さっきより強くなってる。戦いながら、Sランクに馴染んでる」
「人間も成長するか」
「うん。ガルザヴェインみたいに」
その言葉に、余は少しだけ黙った。
ガルザヴェイン。
未成熟の魔神。
戦いながら成長する怪物。
そして、今のアレク。
仲間の死と記録を抱え、人間の限界域へ届いた剣士。
似ている。
違うのに、どこか似ている。
◇
アレクは進む。
傷は増えている。
脇腹は裂け、肩には骨槍のかすめた痕がある。
腕の血管は浮き、口元には血が滲む。
Sランクへ届いたとはいえ、体が完全に追いついているわけではない。
むしろ、命を燃やしている。
長くは持たない。
だが、今は止まらない。
白い道の奥に、外の匂いが濃くなる。
今度は本物に近い。
完全な出口ではない。
だが、外縁へ繋がる道だ。
あと少し。
アレクは記録板を抱え直した。
「持って帰る」
彼は呟く。
「全員の死を」
その前に、最後の白磁根が立ち上がった。
太い。
これまでの細い根とは違う。
白い柱のような根が、通路を塞ぐ。
その表面には、死んだ者たちの顔が浮かんでいた。
幻ではない。
記憶でもない。
白磁根が、これまで吸った血と魔力の残滓を表面に浮かべている。
ガルドス。
エリシア。
リンド。
サラナ。
トーマ。
ネイザ。
ベルグ。
リーゼ。
オルフェン。
マルク。
カルム。
全員の顔。
アレクは目を閉じなかった。
「もういい」
彼は剣を構えた。
「お前たちを、もう一度使わせない」
白銀の光が、強くなる。
「白銀剣技――葬光、二式」
斬撃が走る。
白磁根に浮かんだ顔が、一つずつ消えていく。
斬る。
弔うように。
奪い返すように。
迷宮に使わせないように。
白磁根が割れた。
道が開く。
外縁の風が、本当に少しだけ入ってきた。
《外縁接続路、露出》
《対象、外部到達まで近距離》
「まずい」
余は言った。
もう見る段階ではない。
ここで止めなければ、アレクは外へ出る。
そして記録板を持ち帰る。
「ガルザヴェイン」
魔神練兵窟で、金色の目が輝いた。
「ロード」
「戦え」
その瞬間、魔神進軍鐘が鳴った。
ごん。
迷宮全体が震えた。
「ただし、外へ出るな。ここは余の腹の中だ。あの人間を殺せ。記録板を外へ出すな」
ガルザヴェインが笑った。
「ロード、メイレイ」
黒い魔神性が、魔神練兵窟から深部通路へ流れる。
白い霧が、金色に濁る。
アレクが足を止めた。
外へ向かう道の前。
その道を塞ぐように、灰緑の巨体が現れた。
魔神ゴブリン・ガルザヴェイン。
回復しきってはいない。
胸にはまだ折剣濁白騎士の傷痕。
腕にもグズの打撃痕。
だが、目は笑っている。
戦えることが嬉しい。
強者が目の前にいることが嬉しい。
ただそれだけの笑み。
アレクは白銀の剣を構えた。
「……ガルザヴェイン」
彼はその名を知っていた。
王都を恐怖に落とした魔神ゴブリン。
蒼穹の楔を退けたSランク魔物。
死んだのか、生きているのか分からなかった災厄。
それが今、灰白庭の中にいる。
外へ出たら、絶対に伝えなければならない情報。
だが、目の前の魔神は笑っていた。
「オマエ」
ガルザヴェインが言う。
「ツヨイ」
アレクは答えた。
「どけ」
「イヤ」
「俺は帰る」
「タタカウ」
白銀の剣が光る。
魔神の拳に黒い魔力が集まる。
白い霧の中で、人間の最高到達点と未成熟の魔神が向かい合った。
白い部屋で、余は静かに告げた。
「ここからは、ガルザヴェインの戦いだ」
フィルエが息を呑む。
魔神進軍鐘が、もう一度鳴った。
ごん。
そして、アレクとガルザヴェインが同時に踏み込んだ。




