第180話 白銀の剣は、記録を託されて変わる
残ったのは、二人だった。
アレク・ヴァイス。
マルク・ゼノ。
白銀の剣士と、血塗れの査定官。
それだけだった。
十二人で入った。
王国認定調査隊四名。
Aランクパーティ二組。
灰白庭の再査定。
目的は攻略ではない。
宝探しでもない。
魔神素材の回収でもない。
ただ調べ、測り、記録し、帰る。
それだけだった。
だが、今は二人しかいない。
カルムは記録を残して死んだ。
リンドは裂け目を見つけて死んだ。
サラナは光の道を繋いで死んだ。
トーマは命瓶割で道を開いて死んだ。
ガルドスは盾として残って死んだ。
エリシアは氷の道を作って死んだ。
ネイザは射線を喰われながらも仲間を戻して死んだ。
ベルグは黒弓を投げ返して死んだ。
リーゼは全域焼視で道を見て死んだ。
オルフェンは帰白標で影を開いて死んだ。
全員が死んだ。
全員が、何かを残して。
アレクは白銀の剣を握っていた。
腰にはリンドの短剣。
背にはベルグが投げた黒弓。
胸元には、オルフェンの祈祷布の白い欠片。
左腕には、リーゼの血が乾かずに残っている。
そして、隣にはマルクがいる。
記録板を抱えた査定官。
彼だけが、この迷宮が何であるかを言葉にできる。
だが、その言葉を外へ持って帰れるかどうかは、もう分からなかった。
「アレク殿」
マルクが言った。
声は掠れている。
「私は、足が遅い」
「知っている」
「戦えもしない」
「知っている」
「記録板を抱えているせいで、さらに遅い」
「知っている」
「なら――」
「言うな」
アレクは、霧の奥を見たまま遮った。
「置いていけとは言わせない」
マルクは黙った。
白い霧が、二人の周囲をゆっくり流れている。
もう、襲いかかってはこない。
だが、それがかえって恐ろしい。
この迷宮は、必要な時にだけ動く。
殺す時に殺す。
見せる時に見せる。
黙る時は、次の形を作っている。
アレクは知っていた。
次が来る。
必ず来る。
そして、今度こそ最後だ。
◇
白い部屋で、余は二人を見ていた。
「まだ立つか」
《はい》
「剣士の方はともかく、査定官まで」
《記録保持意志が極めて高いです》
「厄介だ」
余は、マルク・ゼノを見た。
戦闘力は低い。
ソウル価値も、Aランク冒険者と比べればたいしたことはない。
だが、あの男は危険だ。
見たものを言葉にする。
迷宮の機能を分類する。
危険度を測る。
そして、記録として残す。
もし外へ帰れば、人間側は灰白庭を正しく恐れる。
いや、正しく対策し始める。
それは困る。
「殺す」
《対象:マルク・ゼノ》
「ああ。だが、すぐには殺すな」
《理由は》
「最後まで書かせる」
白骨書記が、白骨書記室でかたかたと顎を鳴らした。
床に骨筆で書く。
⸻
査定官の最終記録は有用。
人間側がどの言葉で迷宮を測るか、回収価値あり。
⸻
「そうだ」
余は頷いた。
「書かせる。託させる。そして奪う」
フィルエの声が森灰観測室から届いた。
「アレク、すごく静か」
「怒っているのではないのか」
「怒ってる。でも、もう表に出てない。剣の中に入ってる」
「剣の中?」
「うん。ガルドスが死んだ時は揺れた。エリシアが死んだ時は冷えた。リーゼとオルフェンが死んで、もっと細くなった」
「細い?」
「糸みたいに。切れそうなくらい張ってる」
余は、アレクの白銀の剣を見た。
たしかに、光が変わっている。
まだAランクだ。
管理音声の表示も、そう告げている。
《対象:アレク・ヴァイス》
《推定:Aランク上位》
《状態:重傷、魔力消耗中、精神負荷極大》
Aランク上位。
だが、何かが軋んでいる。
限界に近い。
折れるか。
それとも、ただ死ぬか。
「まあよい」
余は言った。
「次で終わらせる」
◇
二人の前に、道が現れた。
今度は三つではない。
一本だけ。
狭い白い道。
左右は灰白の壁。
床は乾いている。
奥には、わずかな外光のようなものが見える。
風もある。
今までよりも、ずっと本物に近い。
だからこそ、アレクは動かなかった。
「……本物に近すぎる」
マルクが呟いた。
彼は、記録板を開く。
筆先は震えていたが、それでも文字を書く。
⸻
単一道出現。
外部反応あり。
これまでの偽装出口より安定。
ただし、安定しすぎている。
本物の帰路を模した最終誘導の可能性。
⸻
アレクは周囲を見る。
霧。
床。
壁。
天井。
音。
匂い。
どこにも明確な罠はない。
だが、何もないはずがない。
「マルク」
「はい」
「俺の後ろを歩け。俺が止まったら止まれ。俺が走れと言ったら走れ」
「分かりました」
「俺が死んだら」
マルクの手が止まる。
アレクは続けた。
「記録板を持って走れ」
「……あなたが死んだら、私は一歩も進めません」
「それでも走れ」
「無理です」
「無理でも走れ」
マルクは、少しだけ笑った。
泣きそうな笑みだった。
「無茶な命令です」
「俺は隊長だからな」
「私の隊長ではありません」
「今は、そういうことにしておけ」
アレクは歩き出した。
マルクはその後ろを進む。
一歩。
二歩。
三歩。
何も起きない。
白い道は静かだ。
外へ向かっているように見える。
風は少しずつ強くなる。
外の匂いに似たものも濃くなる。
マルクの記録板に、汗が落ちた。
「外部反応、近づいています」
「本物か」
「分かりません」
「そうか」
アレクは、足を止めなかった。
白い道の奥に、光が見える。
今度こそ、本当に外かもしれない。
封鎖線。
王国騎士団。
ギルドの監視員。
外で待つ者たち。
そこまで戻れれば、記録を渡せる。
灰白庭はAランクではない。
そう伝えられる。
だが、アレクはもう知っていた。
この迷宮は、そんなに甘くない。
だから、光に近づいた時。
彼は剣を構えた。
そして、光が笑った。
◇
白い光の中から、最初に出てきたのは、ガルドスだった。
巨大な方盾を持った男。
鎧は砕けていない。
血も流していない。
いつものように、盾を肩に担いでいる。
「アレク」
彼は言った。
「遅かったな」
アレクは剣を下げなかった。
「違う」
次に、エリシアが出てきた。
氷色の杖を持ち、静かに微笑んでいる。
「隊長は、まだ前を見てる?」
リンドもいた。
短剣を回しながら、軽く肩をすくめる。
「だから言っただろ。こっちだって」
サラナが光砂を手に、トーマが薬瓶を振り、ネイザが黒弓を構え、ベルグが双斧を担いでいる。
カルムが記録板を持って立っている。
リーゼが魔力盤を抱えている。
オルフェンが白い祈祷布を広げている。
全員いた。
死んだはずの全員が。
白い光の中で、まるで外に出られたかのように。
マルクが息を呑む。
「これは……」
「見るな」
アレクが言った。
「全部偽物だ」
だが、声が揺れた。
それを迷宮は逃さない。
ガルドスが一歩前へ出る。
「置いていったな」
エリシアが言う。
「私にも、前を見ろって言わせた」
リンドが笑う。
「俺の糸、使っただろ」
サラナが首を傾げる。
「光、見えた?」
トーマが薬瓶を投げるふりをする。
「命瓶割、痛かったんだぞ」
ネイザが静かに言う。
「戻れと言った」
ベルグが吠える。
「お前だけ戻るのか」
カルムが、血のない顔で問う。
「記録、足りますか」
リーゼが、割れていない魔力盤を差し出す。
「見えましたよ」
オルフェンが祈る。
「帰しましょう」
アレクの指が、白銀の剣の柄へ食い込んだ。
偽物だ。
分かっている。
声も。
姿も。
表情も。
全部、霧と記憶と残響で作ったものだ。
それでも。
それでも、心は揺れる。
彼らは死んだ。
自分が守れなかった。
自分が進めと言った。
自分が置いていった。
自分が、隊長だった。
マルクが、必死に記録板へ書こうとする。
だが、手が震えて書けない。
アレクは低く言った。
「マルク。後ろに下がれ」
「アレク殿」
「これは、俺のものだ」
白銀の剣が、かすかに光る。
「俺が斬る」
ガルドスの幻が盾を構える。
エリシアの幻が氷を伸ばす。
リンドの幻が糸を張る。
サラナの幻が光を撒く。
トーマの幻が薬瓶を構える。
ネイザの幻が矢を番える。
ベルグの幻が斧を振り上げる。
カルム、リーゼ、オルフェンの幻が、それぞれ記録と盤と布を掲げる。
白い道が、死者の形で満ちた。
アレクは踏み込んだ。
「白銀剣技――葬光」
剣が振られた。
最初に、ガルドスの盾が割れた。
幻だ。
だが、斬った瞬間、アレクの胸が痛んだ。
次に、エリシアの氷が砕ける。
リンドの糸が切れる。
サラナの光砂が散る。
トーマの薬瓶が割れる。
ネイザの矢が折れる。
ベルグの斧が砕ける。
カルムの記録板が白い霧に変わる。
リーゼの魔力盤が溶ける。
オルフェンの祈祷布が舞う。
すべて斬った。
すべて、もう一度殺した。
アレクの息が荒くなる。
マルクは、その背中を見ていた。
あまりにも痛い背中だった。
「……進みます」
マルクが言った。
アレクは頷く。
だが、その瞬間、白い光の下から影が出た。
幻は囮。
本命は足元。
アレクが幻を斬る間、床下で戻り水が静かに広がっていた。
狙いはアレクではない。
マルクだった。
「マルク!」
アレクが振り返る。
戻り水がマルクの足を掴んでいる。
白磁根が記録板へ伸びる。
骨槍が床下で待つ。
マルクは、悟った。
今度こそ、自分の番だ。
彼は記録板を胸に抱えたまま、アレクへ叫んだ。
「受け取ってください!」
アレクが走る。
白銀の剣で戻り水を斬る。
「白銀剣技――水裂!」
水が割れる。
白磁根が伸びる。
アレクはそれを斬る。
骨槍が出る。
斬る。
また根。
また水。
また槍。
斬る。
斬る。
斬る。
だが、数が多い。
幻を斬った直後で、息が乱れている。
マルクは、自分が助からないことを理解した。
だから、記録板を投げた。
アレクへ。
血と泥と涙と文字で満ちた、再査定の記録。
アレクは左手を伸ばす。
届く。
記録板を掴んだ。
その瞬間、骨槍がマルクの胸を貫いた。
「ぐっ……」
マルクの眼鏡が落ちる。
白い床に当たり、割れる。
彼は血を吐きながらも、アレクを見た。
「持って……帰って……」
アレクは叫ぶ。
「マルク!」
「これは……Aランクでは……ありません……」
マルクの手が震える。
彼は最後の力で、記録板を指さした。
「書いて……あります……」
アレクは記録板を見た。
最後のページ。
マルクの文字。
⸻
最終査定。
灰白庭はAランクではない。
少なくとも、Aランクパーティ二組および王国認定調査隊による再査定行動は、浅層から中層境界相当で壊滅。
湿骨軍列、影軍縫い、灰霧追導蛾、泥門、軍帰路喰らいを確認。
十万規模の魔物軍勢処理後も、迷宮活動は極めて活発。
ガルザヴェイン反応は未確定。ただし魔神性の残留あり。
判定:
灰白庭はSランク相当と見るべきである。
⸻
アレクの手が震えた。
Sランク相当。
マルクは、そこまで書いていた。
帰るために。
王都へ伝えるために。
そして、その本人は、もう助からない。
マルクは、かすかに笑った。
「アレク殿」
「喋るな」
「お願いします」
「喋るな!」
「持って……帰って……」
その言葉を最後に、マルクの体から力が抜けた。
《王国ギルド査定官マルク・ゼノ、死亡》
《獲得ソウル:760》
《取得:最終査定記録、Sランク相当判定言語、職務遂行意思の残滓》
◇
白い部屋で、余はマルクの死を確認した。
「これで調査隊は全滅か」
《はい》
「記録板は」
《アレク・ヴァイスが保持》
「よい」
持たせた。
あえて持たせた。
そして、アレクも殺す。
記録板ごと回収する。
それで終わりだ。
余はそう考えた。
そのはずだった。
だが、フィルエの声が鋭く響いた。
「ロード」
「何だ」
「アレク、変」
壁面の中で、アレクはマルクの死体を抱えていた。
いや、抱えているのは記録板かもしれない。
彼は動かない。
白銀の剣は床に突き立てられている。
頭を垂れている。
泣いているようにも見える。
だが、涙はない。
ただ、静かだった。
あまりにも静かだった。
《対象アレク・ヴァイス、魔力変動》
「変動?」
《上昇ではありません。圧縮されています》
「圧縮?」
《魔力が剣へ集中。精神負荷、極大。肉体負荷、危険域》
アレクが、ゆっくり立ち上がった。
左手に記録板。
右手に白銀の剣。
彼はマルクの死体を見下ろし、静かに言った。
「……分かった」
声は、低かった。
「持って帰る」
白銀の剣が、白く光った。
いや、白ではない。
蒼白い。
冷たい光。
怒りの赤ではない。
憎悪の黒でもない。
命を削った、研ぎ澄まされた白。
「全員の記録を」
光が強くなる。
「全員の死を」
白い霧が、押し返された。
戻り水が震える。
カゲヌイの影が揺れる。
軍帰路喰らいの落武者が、霧の奥で刃を構え直す。
管理音声が警告した。
《対象アレク・ヴァイス、魔力急上昇》
「またか」
《Aランク域を突破》
余は、そこで言葉を失った。
「突破?」
《推定:Sランク相当反応》
「……Sランクだと?」
《Sランク冒険者は、人間種における通常最高到達点です》
「人間は」
余は、白い霧の中のアレクを見た。
仲間を全員失い。
調査隊を全員失い。
記録を託され。
それでも帰ると決めた剣士。
「ここから、まだ上がるのか」
アレクが剣を構えた。
白銀の刃が、蒼白い光を帯びる。
床に残った戻り水が、彼の足元から退いた。
霧が裂ける。
白い道が、彼の前に開く。
それは迷宮が開けた道ではない。
彼が、自分の剣で開いた道だ。
「灰白庭」
アレクは、静かに言った。
「俺は帰る」
その声が、白い部屋まで届いたような気がした。
余は、初めて背筋が冷える感覚を覚えた。
「これが」
人間の最高到達点。
Sランク。
「人間の底力か」
白い霧の中で、アレク・ヴァイスが一歩踏み出した。
その一歩で、灰霧が斬れた。




