第179話 査定官は、死ぬために記録を閉じない
残ったのは、四人だった。
アレク・ヴァイス。
白銀の剣士。
鋼旗の四剣の隊長。
いまや、その鋼旗も彼一人だけになっている。
査定官マルク・ゼノ。
血と泥で濡れた記録板を抱えた男。
魔力盤技師リーゼ・アルム。
三枚あった魔力盤のうち、まともに動くものはもう一枚もない。
浄化鑑定官オルフェン。
白かった祈祷布は、灰と黒に染まり、端は何度も裂けている。
四人。
それだけだ。
Aランクパーティ二組と調査隊。
十二人で入った再査定隊は、霧の中で四人まで減った。
カルムは記録を残して死んだ。
リンドは帰路の裂け目を見つけて死んだ。
サラナは光路を繋いで死んだ。
トーマは命瓶割で道を開いて死んだ。
ガルドスは盾として残って死んだ。
エリシアは氷の道を作って死んだ。
ネイザは黒弓を撃ち尽くして死んだ。
ベルグは怒りを斧に乗せて死んだ。
全員が、何かを残した。
だから、アレクはまだ進んでいた。
右手に白銀の剣。
左手にネイザの黒弓。
腰にはリンドの短剣。
背にはベルグが託した血濡れの光砂筒。
記録袋にはカルムの板。
マルクの腕には、仲間たちの死を記した記録。
彼らはもう、個人ではなかった。
死んだ者の重さを背負った、四人だった。
◇
灰白の回廊は、静かになっていた。
静かすぎた。
湿骨軍列の骨音も、ハイハネの羽音も、白磁根の這う音も聞こえない。
軍帰路喰らい(いくさきろぐらい)の落武者も、姿を見せない。
アレクは、それが最も危険だと分かっていた。
迷宮が黙る時は、次の形を作っている時だ。
「リーゼ」
「はい」
「盤は」
リーゼは、胸に抱えた魔力盤を見た。
三枚のうち、一枚は完全に割れている。
一枚は針が折れた。
最後の一枚も、硝子面にひびが走り、針は震え続けている。
「外部反応は拾えません。でも、迷宮内の魔力密度ならまだ見えます」
「使えるか」
「一度だけなら」
その言葉に、マルクが顔を上げた。
「一度?」
リーゼは頷いた。
「盤を焼き切れば、周囲の魔力の濃淡を一瞬だけ広げて見られます。出口ではなく、危険の薄い方向なら分かるかもしれません」
オルフェンが低く言う。
「その後は?」
「盤は壊れます」
「あなたは」
リーゼは少しだけ黙った。
「たぶん、魔力焼けを起こします」
アレクの目が険しくなる。
「駄目だ」
「でも、他に道がありません」
「君まで失うつもりはない」
リーゼは、かすかに笑った。
その笑みは、泣いているようでもあった。
「私も失われたくありません。でも、ここで盤を抱えて死ぬよりは、使ってから死ぬ方がまだいい」
マルクが、記録板を握りしめた。
「リーゼ」
「マルクさん」
リーゼは、彼を見た。
「カルムは見たものを書きました。私は、見えないものを見るために来ました」
マルクは言葉を失った。
オルフェンが祈祷布を握る。
「なら、私が焼けを抑えます」
「できますか」
「完全には無理です」
「でしょうね」
「ですが、あなたが倒れるまでの時間を少し延ばすことはできます」
「十分です」
アレクは、目を閉じた。
まただ。
また、誰かが自分の役割を果たすために命を削ろうとしている。
止めたい。
だが、止めれば全員死ぬ。
隊長として、彼はその判断をもう何度も強いられていた。
「……分かった」
アレクは言った。
「ただし、終わったらすぐ下がれ」
リーゼは頷いた。
「はい」
その返事が嘘に近いことを、全員が分かっていた。
◇
白い部屋で、余はその会話を見ていた。
「魔力盤を焼くつもりか」
《周囲魔力濃淡の強制視覚化と思われます》
「厄介だな」
《一時的に迷宮偽装の一部が露見する可能性があります》
「止めるか」
《推奨》
余は少し考えた。
止めることはできる。
盤へ先に影針を落とす。
白磁根で技師の腕を縛る。
戻り水で足を取る。
だが。
「見せる」
《よろしいのですか》
「見せた上で殺す」
マルクは査定官だ。
彼は記録する。
リーゼが魔力濃淡を見れば、マルクはそれを書く。
そして、その記録を持ち帰れなければ、記録は余のものになる。
人間がどう測るのか。
どこを危険と見るのか。
それを知る機会だ。
「ただし、本当の深部は見せるな」
《魔神練兵窟、夜棺白庭、コア区画は遮断済み》
「骸門残響隔離層の核も隠せ」
《隔離強化》
「見せるのは、壊れた偽の出口、戻り水の大流、湿骨軍列の残り、白磁偽財殿の崩落反応、その程度でいい」
《承知しました》
フィルエが言った。
「ロード、リーゼが見るのは一瞬だよ」
「一瞬あれば十分だろう」
「うん。向こうにも、こっちにも」
その通りだ。
彼女が焼く一瞬。
それは人間側にとって最後の道標になるかもしれない。
だが、余にとっても最後の釣り糸になる。
◇
リーゼは、最後の魔力盤を床へ置いた。
割れた硝子面に、血のついた指を当てる。
血は、彼女自身のものだ。
さきほど飛んだ骨片で切れた指先。
それを媒介にする。
「魔力盤術――全域焼視」
盤面の針が、異常な速度で回り始めた。
ひび割れた硝子の下で、白い光と黒い点がぶつかる。
リーゼの顔が歪む。
オルフェンが祈祷布を彼女の肩にかけた。
「祈布術――熱禍留め」
祈祷布が淡く光り、リーゼの体へ流れ込む過剰魔力を一部受け止める。
だが、すぐに布の端が焦げ始めた。
「見えます!」
リーゼが叫んだ。
白い回廊の景色が、一瞬だけ変わる。
霧が薄皮のように剥がれる。
壁の向こうの戻り水。
床下を流れる骨の筋。
白磁根の束。
影針の溜まり。
遠くの崩落した白磁偽財殿。
さらにその奥に、黒く遮断された区画。
だが、そこは見えない。
見ようとした瞬間、魔力盤の針が一本弾け飛んだ。
「奥は駄目です! 見えない、いえ、見せられていない!」
マルクが記録板を開く。
「見えたものを言え!」
「右は死路! 白磁根と戻り水の袋小路! 正面は湿骨軍列の待機層! 左奥に崩落回廊、そこから外縁に近い魔力の薄い線!」
「左奥か!」
「でも、途中に大きな影があります!」
「影?」
「落武者……いえ、違う、道そのものが影になってる!」
軍帰路喰らいの干渉だ。
出口へ近い道ほど、帰路喰らいに喰われやすい。
リーゼはさらに見ようとする。
魔力盤の硝子が砕け始めた。
オルフェンの祈祷布が黒く焦げる。
「もう十分です!」
オルフェンが叫ぶ。
「まだ!」
リーゼの目から血が流れた。
「左奥の影、斬れば一瞬だけ通れます! でも、斬れるのは強い剣か、強い光か、強い祈り――」
そこで、魔力盤が割れた。
ばきん。
硝子が弾け、白い光がリーゼの体を貫いた。
「リーゼ!」
アレクが駆け寄る。
リーゼは倒れかけたが、オルフェンが支えた。
だが、彼女の目はもう焦点が合っていない。
「左……奥……」
彼女は震える声で言った。
「外に……近い……でも、影……」
マルクは、泣きそうな顔で記録した。
⸻
魔力盤術・全域焼視。
結果:
右路、死路。
正面、湿骨軍列待機層。
左奥、外縁に近い魔力薄線。
ただし、軍帰路喰らい由来と思われる影干渉あり。
強剣、強光、強祈祷による一時突破の可能性。
代償:
魔力盤全損。
リーゼ、重度魔力焼け。
⸻
リーゼは、マルクの筆の音を聞いて、少しだけ笑った。
「書けましたか」
「書けた」
「よかった」
その瞬間、床下の影が動いた。
余が動かしたのではない。
いや、正確には、余の命令を待っていた影が動いた。
カゲヌイの影針が、割れた魔力盤の影へ刺さる。
割れた盤の破片が、一斉に跳ねた。
破片の一つが、リーゼの胸へ向かう。
アレクが剣で弾く。
二つ目を弾く。
三つ目も。
四つ目が、オルフェンの祈祷布に当たり、止まる。
だが、五つ目。
小さな硝子片。
それはリーゼの喉へ刺さった。
彼女は声を出せなかった。
ただ、目を見開く。
アレクが手を伸ばす。
オルフェンが祈祷布で喉を押さえる。
だが、魔力焼けで弱った体に、硝子片は深く入りすぎていた。
リーゼは、震える手でマルクの記録板を指さした。
書いて。
そう言っているようだった。
マルクは、震える筆で書いた。
⸻
リーゼ・アルム、全域焼視により左奥の突破路を確認。
直後、魔力盤破片による致命傷。
⸻
リーゼは、その文字を見た。
そして、静かに息を吐いた。
《調査隊魔力盤技師リーゼ・アルム、死亡》
《獲得ソウル:420》
《取得:全域焼視の記録、魔力盤焼損片、外縁薄線の観測残滓》
◇
アレクは、リーゼの死体から手を離せなかった。
また、届かなかった。
今度は目の前だった。
助けようとした。
剣で破片を弾いた。
四つまで弾いた。
だが、五つ目が届いた。
小さな硝子片。
それが命を奪った。
「……くそ」
アレクの声は、小さかった。
叫びではない。
もっと深く、低いものだった。
オルフェンが、リーゼの目を閉じた。
彼の手も震えている。
「彼女は、道を見つけました」
マルクが記録板を握る。
「はい」
「なら、行きましょう」
オルフェンは、静かに立ち上がった。
祈祷布は、ほとんど黒く焦げている。
だが、まだ少しだけ白い部分が残っている。
「左奥。影干渉を越える必要があります」
アレクは頷いた。
「俺が斬る」
「強い剣が必要、とリーゼは言いました」
「ああ」
「しかし、影は道そのものにかかっている。剣だけでは足りないかもしれません」
「なら?」
オルフェンは、自分の祈祷布を見た。
「強い祈りも、必要でしょう」
マルクが顔を上げる。
「オルフェン殿」
「次は、私の役目です」
アレクは言葉を失った。
もう、嫌だった。
誰かが役目を果たすたびに死ぬ。
進むたびに、誰かが残る。
それでも止まれば、死んだ者のすべてが無駄になる。
「……行く」
アレクは言った。
「左奥だ」
◇
白い部屋で、余はリーゼの死を確認した。
「魔力盤は壊れたな」
《はい》
「だが、左奥の薄線を見られた」
《はい》
「構わん。次は祈祷布か」
《オルフェンが自己犠牲的行動を取る可能性が高いです》
「人間は順番に死にに来るな」
《役割遂行と推定》
「分かっている」
フィルエが静かに言った。
「アレク、変わってきてる」
「まだだ」
「うん。まだ。でも、奥が冷たくなってる」
「怒りではないのか」
「怒りもある。でも、それだけじゃない。何かを置いていくたび、剣が軽くなってる。重くなってるのに、軽くなってる」
「分かりにくいな」
「うん。でも危ない」
アレクはまだAランクだ。
だが、その剣の魔力は少しずつ変わっている。
死者を背負うたび。
助けられなかった手を握るたび。
記録を持ち帰る意味が重くなるたび。
白銀の剣が、静かに冷えている。
燃えるのではない。
冷えて、研ぎ澄まされている。
「次で、オルフェンを殺す」
《承知しました》
「マルクはまだ残せ」
《記録継続のためですね》
「そうだ」
マルクには最後まで書かせる。
そして最後に、アレクへ託させる。
余はまだ知らない。
それが何を引き起こすのかを。
◇
左奥の道は、狭かった。
灰白の壁が左右から迫り、天井も低い。
水の流れは冷たい。
たしかに外縁に近い。
だが、その中央には黒い影が垂れていた。
道そのものにかかった影。
軍帰路喰らいの落武者が喰った帰路の残り。
そこを通ろうとすれば、戻る意味を失う。
足が止まる。
方向を失う。
下手をすれば、同じ場所を回り続ける。
アレクは剣を構えた。
白銀の刃が、薄く光る。
「白銀剣技――道裂」
剣が振られる。
影が裂ける。
だが、完全には切れない。
すぐに黒い筋が戻る。
まるで、道の傷口が閉じるように。
オルフェンが前に出る。
「祈りを重ねます」
「危険だ」
アレクが言った。
オルフェンは穏やかに答えた。
「ここに来て、危険でないことがありましたか」
アレクは何も言えなかった。
オルフェンは、黒く焦げた祈祷布を広げる。
残った白い部分は少ない。
それでも、彼は祈った。
「祈布術奥義――帰白標」
祈祷布の白い部分が、淡く輝いた。
その光が、黒い影の上へ落ちる。
外へ帰るための祈り。
死者を送る祈りではない。
生者を帰すための祈り。
影が、少しだけ薄くなる。
「今です」
オルフェンが言った。
アレクが再び剣を振る。
「白銀剣技――道裂!」
今度は、影が深く裂けた。
通れる。
ほんの数呼吸だけ。
「マルク、先へ!」
アレクが叫ぶ。
マルクが走る。
記録板を抱えて。
だが、影の奥から落武者が現れた。
軍帰路喰らい。
刃を構え、オルフェンの祈りを斬ろうとする。
オルフェンは逃げなかった。
祈祷布を両手で広げる。
「アレク殿、マルク殿を」
「オルフェン!」
「記録を、外へ」
落武者の刃が振られる。
オルフェンの祈祷布が裂ける。
黒く汚れた布が、白い欠片となって舞う。
だが、その布が裂ける瞬間、光が強くなった。
帰白標。
最後の白が、影を押し返す。
マルクが影の裂け目を抜ける。
アレクも続く。
だが、オルフェンは残った。
落武者の刃が、彼の胸を貫いている。
オルフェンは血を吐きながらも、祈祷布の端を離さなかった。
「神よ」
彼は、初めて長い祈りではなく、短く言った。
「この記録だけは、帰してください」
落武者の刃が引き抜かれる。
オルフェンの体が崩れる。
影が閉じる直前、彼の祈祷布の白い欠片が、アレクの肩に落ちた。
《神殿浄化鑑定官オルフェン、死亡》
《獲得ソウル:530》
《取得:帰白標の記録、生還祈願の残滓、浄化布の白片》
◇
影の裂け目を抜けた先で、アレクとマルクは転がるように倒れた。
残ったのは、二人。
アレク・ヴァイス。
マルク・ゼノ。
それだけだった。
マルクは、記録板を抱えたまま震えている。
全身が血と泥で汚れている。
だが、記録板は離していない。
アレクは、ゆっくり立ち上がった。
肩に、オルフェンの祈祷布の白片が乗っている。
手には白銀の剣。
腰にはリンドの短剣。
腕にはリーゼの血。
胸にはガルドスとエリシアの声。
足元には、戻れなかった者たちの重さ。
マルクが、震える声で言った。
「アレク殿」
「何だ」
「記録は……あります」
「そうか」
「ですが」
彼は、白い霧の奥を見た。
そこには、まだ道がある。
外へ続いているのか。
さらに迷宮の奥へ続いているのか。
分からない。
「私たちは、帰れるでしょうか」
アレクは答えなかった。
答えられなかった。
だが、剣を握った。
「帰る」
それは、約束ではない。
願いでもない。
命令だった。
自分自身への。
マルクは、記録板を抱え直した。
「なら、書きます」
彼は震える手で書く。
⸻
リーゼ・アルム、全域焼視により左奥の薄線を確認。死亡。
オルフェン、帰白標により影干渉を一時突破。死亡。
残存:
アレク・ヴァイス
マルク・ゼノ
結論:
灰白庭は、Aランクではない。
⸻
その一文を書いた瞬間、白い霧の奥で何かが笑ったような気がした。
アレクは剣を構える。
マルクは記録板を抱える。
二人だけになった再査定隊は、まだ終わっていない。
だが、迷宮はもう、次の獲物を決めていた。




