第175話 帰るための記録は、血で濡れる
リンドの糸が、白い霧の中へ伸びていた。
細い。
頼りない。
だが、それは道だった。
帰路ではない。
帰路は、軍帰路喰らい(いくさきろぐらい)の落武者に喰われた。
入口も、方角も、魔力盤の針も、祈祷布の導きも、すべて役に立たなくなっている。
それでも、リンドが命を使って見つけた裂け目がある。
外へ向かう水脈の逆流。
白い壁の割れ目。
戻り水が逆に冷たい場所。
そこへ繋がる糸。
それだけが、今の彼らに残された道だった。
アレク・ヴァイスは、リンドの短剣を握った。
柄には糸が結ばれている。
糸の先は、霧の奥へ伸びている。
指先に、かすかな振動が伝わる。
リンドが最後に残した合図。
まだ、切れていない。
「進む」
アレクは言った。
声は低い。
怒りを押し殺している。
悲しみを飲み込んでいる。
隊長として、まだ立っている。
「ガルドス、前。エリシア、足場。ベルグ、右の圧を割れ。ネイザ、上と奥。トーマ、調査隊を離すな」
全員が動いた。
言葉は少ない。
だが、動きは速い。
リンドを失った。
サラナを失った。
カルムを失った。
帰路も失った。
それでも、Aランク二組はまだ崩れていない。
ガルドスが巨大な方盾を前へ出す。
盾の表面に、鋼色の紋が浮かび上がった。
「鋼旗盾術――城歩き」
盾が、ただの防具ではなくなる。
方盾の下端が白磁床へ噛み込み、まるで移動する城壁のように前へ進み始めた。
ガルドスの歩みに合わせ、盾が床を削る。
戻り水の膜を押し退け、骨片を弾き、前方の霧を割る。
その後ろに、調査隊三人が入る。
マルク。
リーゼ。
オルフェン。
マルクは記録板を抱え、リーゼは割れかけた魔力盤を胸に押さえ、オルフェンは汚れた祈祷布を握っている。
エリシアが杖を掲げた。
顔色は悪い。
氷結路を維持し続けたせいで、魔力消耗が激しい。
だが、彼女の声は乱れなかった。
「氷界術――銀路固定」
白い床に、銀色の氷路が伸びる。
ただ凍らせるだけではない。
足場として固める。
戻り水が下から噛んでも割れにくく、踏み込んだ者の重さに応じて厚みを変える氷の道。
ガルドスの重い足でも割れない。
調査隊が踏んでも滑らない。
リンドの糸の方向へ、銀路が細く伸びていく。
「長くは持たない」
エリシアが言う。
「持つ間に走る」
アレクが答えた。
◇
霧の奥から、湿骨軍列が再び現れた。
今度は正面ではない。
左右。
斜め後方。
天井近く。
骨槍が、まるで森の枝のように霧の中から伸びる。
先ほどまでよりも、さらに嫌な動きだった。
正面から受け止めさせるのではない。
盾の横を突く。
氷路を砕く。
調査隊の足を狙う。
明らかに、彼らの陣形を学んでいる。
「右!」
ベルグが吠えた。
双斧を両手で回す。
「双斧技――岩割旋!」
双斧が旋風のように回った。
ただ振り回すのではない。
斧の軌道が上下にずれ、骨槍の束を根元から砕いていく。
骨槍が折れる。
盾へ届く前に砕かれる。
氷路へ刺さる前に弾かれる。
その威力は、普通の前衛では出せない。
ベルグは荒っぽい。
だが、Aランク前衛だ。
斧を振るう範囲に、味方を巻き込まない。
調査隊の位置を避け、ガルドスの盾と噛み合うように、骨だけを砕いていく。
その左奥から、骨兵が薄く回り込む。
ネイザの弓が鳴った。
「黒弓技――鴉羽三連」
三本の黒矢が、霧の中へ消える。
次の瞬間、三体の骨兵の中核に同時に刺さった。
眼窩。
胸。
槍の柄。
それぞれ違う場所へ移されていた戻り水の中核を、正確に射抜く。
骨兵が崩れる。
「中核を移されても読めるのか」
トーマが言う。
「二度見た」
ネイザは短く答えた。
「三度目なら撃てる」
だが、霧がそれを見ていたように動く。
次の骨兵たちは、中核の光をさらに薄めた。
骨の中を流れる戻り水の反応が分散する。
ネイザの目が細くなる。
「次は少し遅れる」
「十分だ」
アレクが剣を構えた。
前方に、湿骨軍列の骨盾が並ぶ。
その奥に、リンドの糸が伸びている。
邪魔だ。
アレクは踏み込んだ。
「白銀剣技――旗裂き」
白銀の剣が、横へ走った。
骨盾を割る。
ただ切断するのではない。
盾と盾の重なり、列の支点、後列からの押し込み。
そこをまとめて裂く。
湿骨軍列の一角が開いた。
ガルドスの城歩がそこへ押し込む。
「進め!」
アレクの声で、隊列が前へ出た。
◇
白い部屋で、余はその戦いを見ていた。
「技を使い始めたな」
《Aランク冒険者の本領です》
「先ほどまでより、明らかに強い」
《撤退を目的としたため、温存を切り替えたものと思われます》
「なるほど」
余は、霧の中の人間たちを見る。
アレクの白銀剣技。
ガルドスの鋼旗盾術。
エリシアの氷界術。
ネイザの黒弓技。
ベルグの双斧技。
トーマもまだ大技を残しているはずだ。
Aランク二組は、ただ罠に怯えているわけではない。
帰るために、本気で力を切り始めている。
「よい」
余は言った。
「こうでなくては、測りに来た意味がない」
《湿骨軍列、損耗増大》
「まだ下げるな」
《さらに損耗します》
「構わん。こいつらの技を記録しろ。白骨書記」
白骨書記が骨筆を走らせる。
⸻
人間技記録:
白銀剣技・旗裂き
骨盾列の支点を斬断。軍列分断に有効。
鋼旗盾術・城歩
移動防壁。戻り水膜の押し退け、調査隊保護に有効。
氷界術・銀路固定
戻り水上に安定足場を形成。撤退路確保に有効。
黒弓技・鴉羽三連
分散中核への同時射撃。湿骨軍列に有効。
双斧技・岩割旋
広範囲骨槍破砕。側面圧への対処に有効。
⸻
「よく書け」
白骨書記は、骨筆をさらに速めた。
フィルエが言う。
「ロード、あの人たち帰路に近づいてる」
「分かっている」
「止める?」
「止める」
余は、白い霧の奥を見た。
人間たちが向かう先。
リンドが見つけた裂け目。
外へ繋がる可能性のある細い水脈。
今はまだ、希望として存在している。
だが、希望は壊すためにある。
「トーマを狙う」
《薬師兼呪具師です》
「支援役は、撤退戦で厄介だ。薬で霧を散らし、氷を補助し、毒で戻り水を鈍らせる。しかも、あいつは冷静だ」
《暁鴉の弦、残存三名。支援役を失うと行動継続能力が低下》
「そうだ」
フィルエが静かに言った。
「でも、トーマは自分が狙われてるって気づくよ」
「気づかせる」
《意図は》
「気づいた上で、仲間のために薬を使わせる」
白い部屋の床下で、戻り水が細く流れを変えた。
◇
最初に異変を察したのは、トーマだった。
彼は薬瓶を取り出しかけた手を止めた。
「……俺か」
ネイザが横目で見る。
「何が」
「次、俺が狙われる」
ベルグが双斧を振るいながら叫ぶ。
「なんで分かる!」
「さっきから霧の匂いが、俺の薬瓶だけ避けてる。警戒されてるってことだ」
トーマは自分の腰に残った薬瓶を見る。
残りは少ない。
霧散らし。
戻り水阻害薬。
影薄め。
出血止め。
解呪薬。
そして、切り札が一つ。
彼はその切り札には触れなかった。
まだ早い。
だが、迷宮はそれも見ているだろう。
「アレク!」
トーマが叫ぶ。
「次の広い場所まで行け! そこで一度隊列を組み直す!」
アレクは問い返さなかった。
「道は?」
リンドの糸は、アレクの手元にある短剣へ繋がっている。
その糸が指す方向へ、銀路が伸びている。
エリシアが息を切らしながら言う。
「あと少し。右奥の白い壁」
リーゼが魔力盤を見る。
「水脈の逆流、強くなっています。あそこに外側の反応があります」
マルクが記録する。
⸻
撤退候補点、右奥白壁の裂け目。
戻り水逆流あり。
外部方向反応、微弱。
⸻
彼らは進んだ。
だが、迷宮は待たない。
白い霧が足元へ沈み、戻り水が浮き上がる。
湿骨軍列の骨兵が、今度は前ではなく床下から槍を出す。
調査隊を狙う。
トーマが薬瓶を叩きつけた。
「薬呪――泥醒まし」
薬が床へ広がる。
戻り水と泥の反応が一瞬だけ鈍る。
骨槍の伸びが遅れる。
ガルドスが盾で受け、ベルグが砕く。
アレクが調査隊を進ませる。
だが、床下から次の罠。
白磁根が、今度は薬の匂いを避けるように回り込む。
トーマは舌打ちした。
「薬を避けてきた」
彼は二本目を割る。
「薬呪――白根枯らし」
薄い緑の煙が白磁根へ絡む。
根の動きが鈍る。
オルフェンがその上に浄化布を重ねる。
「祈布術――穢れ留め」
白い布が根に巻きつき、動きを止める。
調査隊もただ守られているだけではない。
オルフェンは、神殿の鑑定官だが、浄化術も使える。
リーゼも、魔力盤の割れた針を使って周囲の反応を読んでいる。
「左、影反応!」
リーゼの声で、ネイザが矢を放つ。
影針が撃ち落とされる。
マルクは記録を続ける。
全員が、帰るために働いていた。
だが、トーマの薬瓶は減っていく。
彼は残りを見た。
霧散らし一本。
解呪一本。
切り札一本。
それだけ。
「トーマ」
ネイザが言う。
「温存しろ」
「できるならな」
その瞬間、白い霧の中から、サラナの声がした。
「トーマ」
トーマの手が止まった。
死んだ仲間の声。
光砂術師サラナの声。
「こっち、見えるよ」
ベルグが怒鳴る。
「聞くな!」
トーマは笑った。
「聞くかよ」
だが、声は続いた。
「明け筋、まだ残ってる」
それは、サラナの技名だった。
彼女が最後に使った光砂術。
仲間と道を繋ぐために、命を使って維持した術。
その名を使われた瞬間、ベルグの怒りが爆ぜかけた。
「てめえ……!」
ベルグが霧へ踏み出そうとする。
ネイザが叫ぶ。
「ベルグ!」
トーマが先に動いた。
霧散らしの薬瓶を、ベルグの足元へ叩きつける。
霧が一瞬だけ晴れる。
そこには、サラナはいない。
代わりに、白磁根と骨槍が待っていた。
もしベルグが一歩踏み出していれば、胸を貫かれていた。
「馬鹿野郎」
トーマが言った。
「礼は後で言え」
ベルグは歯を食いしばる。
「……悪い」
「謝るな。調子が狂う」
しかし、その霧散らしは最後の一本だった。
そして迷宮は、それを待っていた。
霧が濃くなる。
今までより重い。
白灰の粉が、トーマの周囲へ集まる。
ハイハネの追跡粉。
今度はトーマに付いた。
ネイザが即座に矢を構える。
「上か!」
矢を放つ。
ふぁさ、と羽音が遠ざかる。
当たらない。
ハイハネはもう、射線を読んでいる。
トーマは、自分が印をつけられたことを理解した。
「来るぞ」
床下から、戻り水。
壁から、白磁根。
影から、影針。
正面から、湿骨軍列。
全部が、トーマへ向く。
支援役を殺しに来た。
ネイザが前へ出る。
ベルグも出る。
アレクも戻ろうとする。
トーマは叫んだ。
「戻るな!」
彼は最後の切り札の瓶を抜いた。
黒い瓶だった。
中には、毒でも薬でもない。
呪具師としての切り札。
自分の魔力と血を混ぜた、短時間だけ周囲の迷宮干渉を鈍らせる危険な薬。
「薬呪奥義――命瓶割」
トーマは、自分の胸へ瓶を叩きつけた。
瓶が割れる。
黒い薬が血に混じる。
彼の体から、黒緑の煙が広がった。
霧が押し退けられる。
白磁根が枯れる。
影針が鈍る。
戻り水が一瞬だけ止まる。
道が開いた。
右奥の白い壁。
リンドが示した裂け目。
そこまでの道が、ほんのわずかに見えた。
「行け!」
トーマが叫んだ。
ネイザの顔が歪む。
「トーマ!」
「行けって言ってるだろ!」
彼の体に、骨槍が刺さった。
一本。
二本。
それでも、命瓶割の煙は消えない。
ベルグが動けない。
トーマは血を吐きながら笑った。
「サラナに怒られる前に、行け」
ネイザがベルグの肩を掴む。
「行くぞ」
「でも!」
「行くぞ!」
ベルグは、泣くような顔で歯を食いしばった。
そして走った。
アレクたちも走る。
調査隊も、ガルドスに押されるように進む。
トーマの煙が、迷宮の干渉をわずかに押し返している間に。
白い壁の裂け目へ。
外へ向かうかもしれない道へ。
その背後で、トーマは最後の薬瓶の破片を握った。
「……まったく」
彼の周囲に、湿骨軍列が迫る。
影針が戻る。
白磁根が再び伸びる。
霧が閉じる。
「薬師が一番先に死ぬってのは、やっぱり割に合わねえな」
骨槍が、彼の胸を貫いた。
《Aランク薬師兼呪具師トーマ、死亡》
《獲得ソウル:1,180》
◇
白い部屋で、余は目を細めた。
「道を開かれたな」
《命瓶割により、一時的に迷宮干渉が低下》
「Aランク支援役の奥義か」
《記録しました》
白骨書記が骨筆を走らせる。
⸻
薬呪奥義・命瓶割
自身の血と魔力を媒介に、周囲の迷宮干渉を短時間鈍化。
代償大。使用者生存率低。
撤退路確保に有効。
⸻
「厄介だ」
《対象トーマ、死亡》
「だが、仕事はされた」
トーマの死で、彼らは裂け目へ近づいた。
リンドの死。
サラナの死。
トーマの死。
それぞれが、少しずつ道を繋いでいる。
だから、彼らはまだ完全には折れていない。
仲間の死を、進む理由に変えている。
「人間は面倒だな」
フィルエが言う。
「だから強い」
「そうだな」
余は、白い壁の裂け目へ走る生存者たちを見た。
残りは。
鋼旗の四剣、アレク、ガルドス、エリシア。
暁鴉の弦、ネイザ、ベルグ。
調査隊、マルク、リーゼ、オルフェン。
八人。
かなり減った。
だが、まだ多い。
そして、彼らは裂け目へ近づいている。
「裂け目を閉じるか」
《可能です》
「いや」
余は首を振った。
「閉じれば、ただ絶望するだけだ」
《では》
「裂け目の先に、次の殺し場を作る」
希望を見せる。
そこへ走らせる。
そして、そこが次の深みだと知らせる。
白い部屋の床に、迷宮図が開く。
裂け目の先。
浅層と中層の境。
白磁偽財殿の崩落跡から外れた、小さな灰白回廊。
そこへ繋げる。
「次は鋼旗を削る」
《対象候補》
「ガルドス」
フィルエが少し黙った。
「盾から?」
「ああ。あれがいる限り、調査隊は死ににくい」
「アレクが怒るよ」
「怒らせる」
余は、白い霧の中のアレクを見た。
まだ冷静だ。
まだ隊長だ。
だが、仲間は減っている。
守るものも減っている。
そして、その分、彼の中に何かが溜まっている。
まだSランクなど知らない。
余は知らない。
人間がどこまで変わるかなど、知らない。
ただ、あの剣士が崩れないまま怒りを溜めていることだけは分かる。
「次で、盾を折る」
◇
トーマの煙が消えかける中、アレクたちは裂け目へ辿り着いた。
白い壁の割れ目。
そこから、冷たい戻り水の逆流が漏れている。
リーゼが叫ぶ。
「外部方向反応、微弱ですがあります!」
マルクが記録板を握る。
「ここを抜ければ、外へ?」
リンドはいない。
答えられる斥候はいない。
ネイザが代わりに霧の奥を見る。
「外へ直接ではない。だが、今の場所からは出られる」
ベルグが振り返る。
トーマの姿はもう霧に消えていた。
サラナもいない。
彼は何も言わず、サラナの光砂筒を握った。
アレクが裂け目を見た。
「全員、入る。ガルドス、後ろを守れ」
「いや、俺が最後だ」
「そう言っている」
ガルドスは少しだけ笑った。
「なら、任せろ」
エリシアが裂け目へ氷を流し込む。
白い壁の割れ目が、氷で少し広がる。
人が一人ずつ通れる程度。
まずリーゼ。
次にマルク。
オルフェン。
ネイザ。
ベルグ。
エリシア。
アレク。
最後にガルドス。
その順で通る。
アレクが白銀の剣を構え、霧の奥を見た。
トーマの煙はもう薄い。
湿骨軍列の骨音が戻ってきている。
軍帰路喰らいの落武者も近づいている。
「急げ」
リーゼが裂け目へ入る。
マルクが続く。
その時、裂け目の奥から冷たい風が吹いた。
外の風ではない。
迷宮内の別の区画の風。
だが、一瞬だけ、それは外の空気に似ていた。
人間たちの顔に、ほんの少しだけ希望が戻る。
その希望を抱えたまま、彼らは裂け目の奥へ消えていった。
そして白い部屋で、余は静かに笑った。
「ようこそ」
裂け目の先。
灰白回廊。
そこに、次の罠が開き始める。
「そこは出口ではない」
余は告げた。
「次の腹だ」




