第174話 鋼旗は、仲間を守るほど重くなる
帰路は消えた。
それは、ただ道が見えなくなったという意味ではなかった。
地図が役に立たない。
糸が繋がらない。
魔力盤が入口を指さない。
祈祷布が外の気配を拾わない。
足跡を辿っても、同じ白い霧の中へ戻される。
帰るという行為そのものが、何かに噛み千切られたようだった。
軍帰路喰らいの落武者。
その灰白の鎧は、霧の奥に立っている。
まだ距離はある。
だが、刃を抜いた姿だけで、全員が理解していた。
あれを越えなければ、戻れない。
「落武者を倒す」
ベルグが双斧を握り直した。
暁鴉の弦の前衛。
サラナを失ったばかりの男だ。
声は荒い。
だが、足は前へ出ていない。
怒りで突っ込む寸前で、ネイザの視線がそれを止めていた。
「待て」
ネイザは黒弓を構えたまま言った。
「あれだけ見てると死ぬ」
「じゃあ何を見る」
「周り全部だ」
その言葉通りだった。
落武者だけではない。
霧の奥から、湿骨軍列の骨音が近づいている。
上では、灰霧追導蛾の羽音が薄く響く。
床下には戻り水。
壁の影には、影軍縫いカゲヌイの気配。
そして、どこかで声を真似る何かが待っている。
アレクは白銀の剣を握り、短く命じた。
「鋼旗、調査隊を囲め」
ガルドスが即座に前へ出る。
巨大な方盾を構え、マルク、リーゼ、オルフェンを背後へ入れる。
エリシアが右側へ立つ。
杖の先から薄い氷の線を床へ流し、戻り水の揺れを探る。
リンドは左側へ移動し、壁と床へ細い糸を張った。
ただの帰路糸ではない。
今度は、切られてもよい糸。
揺れを拾うための糸。
迷宮がどこに触れたかを知るための糸だった。
暁鴉の弦は、少し離れて外周を固める。
ネイザが落武者を狙い、ベルグが湿骨軍列側を睨む。
トーマは薬瓶を三本、指の間に挟んでいた。
サラナのいた場所は、空いている。
その空白が、陣形全体を少しだけ軽くしていた。
いや、違う。
軽くなったのではない。
誰もがそこを意識して、重くなっている。
アレクはその空白を見ないようにして言った。
「撤退路を作る。リンド、道を探せ」
「やってる」
リンドは床に膝をつき、指先で白い泥をなぞった。
「普通の帰り道は駄目だ。さっき喰われた。だから、迷宮がまだ噛み切ってない“物理的なズレ”を探す」
マルクが息を整えながら聞いた。
「物理的なズレ?」
「帰路は喰われた。でも、俺たちが歩いてきた空間そのものは残っている。霧で意味を変えられても、床の傷や水の流れは全部は消せない」
リンドは壁へ張った糸を軽く弾く。
微かな振動が返る。
「……右奥に、戻り水の流れが逆巻いてる場所がある。そこがたぶん、来た道と繋がっていた部分だ」
リーゼが魔力盤を見る。
針は折れている。
だが、盤面に薄い流れだけは残っていた。
「確かに、水脈だけが外側へ向いています。でも、入口反応はありません」
「入口じゃなくていい」
リンドは言った。
「今は穴でいい。外へ近づく穴なら」
オルフェンが祈祷布を握る。
「その穴へ向かえば、落武者が来ますな」
「もう来てる」
ネイザが矢を放った。
黒い矢が霧を裂く。
落武者の兜へ向かう。
だが、落武者は動かなかった。
刃をわずかに上げる。
矢の軌道が、半歩ずれた。
兜ではなく、肩をかすめる。
ネイザが舌打ちした。
「射線を食われた」
トーマが薬瓶を投げる。
瓶は空中で割れ、灰色の煙を広げる。
射線を固定する薬煙。
空気中の魔力の流れを一瞬だけ可視化する薬だ。
霧の中に、細い線が何本も浮かんだ。
「今なら見える!」
ネイザが二射目を放つ。
今度は三本。
一本は落武者の刃へ。
一本は足元へ。
一本は背後の霧へ。
落武者は一歩下がった。
初めて、動いた。
刃で一本を落とし、足をずらして二本目を避け、三本目は霧の中へ消える。
だが、三本目につけられた黒糸が、落武者の背後で引っかかった。
ネイザが目を細める。
「背後に道がある」
「出口か?」
ベルグが聞く。
「違う。あれは、こいつが喰った帰路の残りだ」
落武者が、ゆっくりこちらを向いた。
灰白の刃が、横へ動く。
ネイザの黒糸が切れた。
同時に、リンドの張った糸も一本、灰になった。
「来るぞ!」
ガルドスが叫ぶ。
その瞬間、湿骨軍列が突っ込んできた。
◇
骨槍の壁が、右側から押し寄せた。
先ほどよりも速い。
湿骨軍列は、前の戦闘で彼らの対応を見ている。
氷を警戒し、光砂を警戒し、弓を警戒し、薬を警戒している。
だから今度は、初手から広がらない。
細く、硬く、槍先を一点へ集めてきた。
狙いは調査隊。
ガルドスの盾の裏だ。
「来い!」
ガルドスが方盾を構える。
盾と骨槍がぶつかった。
がん、と鈍い音が霧を震わせる。
一本一本なら軽い。
だが、列で押されると重い。
ガルドスの足が滑る。
床には戻り水の膜。
踏ん張りにくい。
エリシアが即座に氷を走らせた。
「足元、固める!」
ガルドスの足元だけが薄く凍る。
踏ん張りが戻る。
だが、湿骨軍列は氷を覚えている。
前列の骨兵が、自分たちの足元の骨を砕いて撒いた。
骨粉が氷に混じり、表面をざらつかせる。
氷が均一に広がらない。
「また骨粉……!」
エリシアが杖を強く握った。
「なら、厚く凍らせる!」
彼女の魔力が上がる。
氷の厚みが増し、戻り水の膜ごと固まる。
湿骨軍列の足が鈍る。
そこへ、ベルグが横から突っ込んだ。
「どけ、骨ども!」
双斧が、骨槍の束を叩き折る。
ベルグの斧筋は荒い。
だが、力だけではない。
彼はサラナの光砂筒を腰に差したまま、斧の角度を少し変えていた。
飛び散る骨粉を、調査隊の方へ飛ばさないように。
怒っている。
だが、雑にはなっていない。
ネイザが低く言った。
「ベルグ、三歩以上出るな」
「分かってる!」
「分かってない時の声だ」
「うるせえ!」
それでも、ベルグは三歩目で止まった。
四歩目へ出れば、霧の壁が彼と仲間を切り離す。
彼もそれを分かっている。
サラナの死で、分からされた。
アレクはその横を抜け、湿骨軍列の中核を斬った。
白銀の剣が光る。
戻り水の光が宿る骨兵を、胸から断つ。
湿骨軍列の一部が崩れる。
だが、崩れた骨を別の骨兵が拾おうとする。
その手を、リンドの糸が絡め取った。
「拾わせるな」
リンドは、戦闘に加わりながらも道を読んでいた。
糸を張り、床を見て、壁の湿りを見て、落武者の立ち位置を見ている。
その目は、忙しすぎた。
だから、迷宮はそこを狙った。
霧の奥から声がした。
「リンド、左」
アレクの声だった。
リンドは反応しなかった。
さっき決めた通り、声は信じない。
だが、声と同時にアレク本人が左へ動いた。
いや、そう見えた。
霧の中に、アレクの影が映ったのだ。
リンドの目が、一瞬だけそちらへ引かれる。
本物のアレクは右にいた。
偽の影。
マネの声と、霧の影。
その合わせ技。
「ちっ!」
リンドは即座に糸を切る。
だが、半拍遅れた。
足元の戻り水が、彼の靴底を舐める。
床下から細い骨槍。
リンドは短剣で弾く。
一本。
二本。
三本目が、彼の太腿を浅く裂いた。
「リンド!」
アレクが叫ぶ。
「浅い!」
リンドは歯を食いしばって立ち直った。
だが、血が落ちる。
白い床が、それをすぐに吸った。
トーマが薬瓶を投げる。
「止血、踏め!」
リンドは瓶の割れた場所へ足を置く。
薬粉が傷口へ絡み、血が止まる。
「借りた」
「返すなら生きて返せ」
「努力する」
その間にも、ガルドスの盾は押されている。
湿骨軍列の槍が、盾の縁を抉る。
調査隊はその背後で身を縮める。
マルクは、それでも記録を続けていた。
⸻
湿骨軍列、第二交戦。
前回の戦闘手段への対策を確認。
氷結線に骨粉散布。
射線妨害。
声と影による誤誘導。
帰路喰らい存在、射線および経路に干渉。
護衛負荷、増大。
⸻
その記録を見たリーゼが、震える声で言った。
「マルクさん、もう十分です。撤退を」
「分かっている」
「本当に?」
「分かっている」
マルクの顔も青い。
だが、目だけは記録から離れない。
彼は、危険を理解している。
それでも、職務から離れられない。
灰白庭を測る。
王都へ持ち帰る。
それが、彼の役割だった。
だからこそ、この迷宮は彼を逃がさない。
◇
白い部屋で、余はマルクを見ていた。
「あの査定官、まだ書くか」
《職務意識が高いと推定》
「厄介だ」
フィルエが言った。
「アレクも、ずっと調査隊を見てる」
「隊長だからな」
「うん。守るものが多いほど、動きが重くなる。でも、強くもなる」
「守るものを増やすほど隙が増える」
「でも、簡単には折れない」
その通りだった。
アレクは強い。
まだAランクの範囲だ。
だが、ただ自分が斬るだけの剣士ではない。
仲間を見ている。
調査隊を見ている。
撤退路を見ている。
それが彼を遅くもしているが、同時に崩れにくくしている。
「だから、支えを順に折る」
余は言った。
「いきなりアレクを狙うな。まず、鋼旗の周りを削る」
《対象候補:リンド》
「まだ殺すには早い。だが、負傷させた。次は盾か氷だ」
《ガルドス、エリシア》
「今はガルドスを追い込みすぎるな。盾が死ぬと隊列が大きく崩れる。まだ記録させたい」
《では、エリシアの魔力消耗を増やします》
「そうだ。戻り水を少しずつ出せ。凍らせ続けさせろ」
《実行》
白い床下で、戻り水がゆっくり増えた。
◇
エリシアは、最初に気づいた。
「水が増えてる」
彼女の声は冷静だった。
だが、額には汗がある。
「床下から、少しずつ。凍らせないと盾列の足場が崩れる」
アレクが問う。
「維持できるか」
「できる。でも魔力を使う」
ベルグが叫ぶ。
「なら下がるぞ!」
リンドが歯を食いしばる。
「帰路がないって言っただろ!」
「じゃあ前か!」
「前にも罠がある!」
「どこにも罠じゃねえか!」
トーマが薬瓶を割る。
戻り水の流れを少し鈍らせる薬粉。
だが、床下の水量が多い。
薬が薄まる。
「この量を止める薬はない」
エリシアが言う。
「私が足場を作る。全員、氷の線から外れないで」
彼女は杖を両手で握った。
「氷結路」
白い床に、一本の氷の道が生まれる。
それは帰路ではない。
今いる場所から、リンドが見つけた水脈の逆巻きへ向かうための仮の道。
細い。
だが、踏める。
ガルドスが盾を構えたまま、その道の前へ出る。
「俺が先に行く」
「重いから割れるかも」
エリシアが言う。
「割れたら、もっと厚くしろ」
「簡単に言う」
「お前ならできる」
エリシアは一瞬だけ目を伏せた。
それから、小さく笑う。
「そういう雑な信頼、嫌いじゃないわ」
ガルドスが氷の道へ踏み出す。
割れない。
次に調査隊。
マルク、リーゼ、オルフェン。
アレクがその横を守る。
リンドは後ろを見ている。
暁鴉の弦が最後尾を固める。
全員が氷の道を渡り始めた。
その時、軍帰路喰らいの落武者が動いた。
刃が、氷の道へ向けられる。
帰路ではない。
だが、今この瞬間、人間たちはそれを帰るための道として使っている。
ならば、喰える。
落武者の刃が横へ振られた。
氷の道の意味が、ふっと薄くなる。
足元が分からなくなる。
リーゼがふらついた。
「きゃっ!」
アレクが手を伸ばす。
支える。
その瞬間、別の場所で骨槍が出る。
ガルドスが盾で受ける。
ベルグが斧で砕く。
ネイザが落武者へ矢を撃つ。
矢はまた半歩ずれる。
「くそ!」
エリシアが叫んだ。
「私の道を、変なものにするな!」
杖の先に、強い氷の光が集まる。
「氷結路、固定!」
氷の道が厚くなる。
白から青へ。
硬く、重く、はっきりした足場になる。
軍帰路喰らいの干渉が、一瞬だけ弾かれた。
全員の足元が戻る。
「今!」
アレクが叫ぶ。
隊列が進む。
あと少し。
リンドが見つけた水脈の逆巻き。
そこへ行けば、外へ向かう手がかりが見つかるかもしれない。
だが、迷宮はそこを渡さない。
氷の道の下で、戻り水が大きく揺れた。
エリシアの目が見開かれる。
「下から来る!」
氷の下に、骨が集まっていた。
湿骨軍列の骨兵ではない。
砕けた骨。
流れていた骨片。
死体処理されていた骨の破片。
それが、氷の道の下で集まり、杭のように立ち上がる。
氷を下から突き破るために。
「ガルドス!」
「任せろ!」
ガルドスが盾を氷の道へ叩きつけた。
盾の重みで氷を押さえる。
骨杭が下から突く。
氷が軋む。
エリシアが魔力を流す。
ガルドスが盾で押さえる。
アレクが横から骨杭を斬る。
ベルグが後ろで湿骨軍列を押し返す。
ネイザが落武者を牽制する。
トーマが薬瓶を割り続ける。
全員が、一つの細い氷の道を守るために動いていた。
それは撤退戦だった。
まだ撤退できていないのに。
帰るための足場を作る戦い。
そして、その足場はエリシアの魔力で支えられていた。
彼女の顔色が悪くなる。
「エリシア」
アレクが呼ぶ。
「まだ平気」
「嘘をつくな」
「なら、少し無理」
「どれくらい」
「帰るまでは」
その言葉に、アレクは何も言えなかった。
鋼旗の四剣は、仲間を守るパーティだ。
だが、今は守るものが多すぎる。
調査隊。
記録。
帰路。
死んだカルムの記録板。
サラナの遺志。
すべてが、彼らの足を重くしていく。
◇
白い部屋で、余はその光景を見ていた。
「重いな」
《はい》
「守るものが増えれば、動きは鈍る」
《はい》
「だが、崩れない」
むしろ、守るものがあるから立っている。
ガルドスは盾を捨てない。
エリシアは氷を切らさない。
アレクは剣を鈍らせない。
リンドは傷を負っても道を読む。
ネイザはサラナを失っても射線を探す。
ベルグは怒りを抑えて三歩で止まる。
トーマは薬を惜しまない。
マルクは記録を手放さない。
強い。
Aランク二組は、やはり強い。
「だから、面白い」
フィルエが少しだけ呆れた声を出した。
「ロード、楽しそう」
「楽しくはない」
《声色に昂揚》
「管理音声は黙れ」
だが、昂揚しているのは事実だ。
これは、ただ一方的な殺戮ではない。
相手が考え、守り、粘り、こちらの罠を破ってくる。
だから、こちらも考える。
次にどう折るか。
どこから削るか。
どの守りを重くするか。
「リンドを殺す」
余は決めた。
フィルエが静かに言う。
「帰路を読んでるから?」
「そうだ。あれがいる限り、いずれ出口の輪郭を掴む」
《対象リンド、負傷あり》
「だが、ただ槍で刺しても避ける。声にももう反応しない」
《手段は》
「選ばせる」
リンドは斥候だ。
罠を見抜く。
道を読む。
なら、見抜いた罠を、あえて仲間へ伝えさせる。
その上で、自分が入らなければならない状況を作る。
「水脈の逆巻きへ、本物の手がかりを少しだけ置け」
《外へ向かう実際の流れを開示しますか》
「ほんの少しだ。リンドなら分かる程度に」
《危険です》
「その手がかりを餌にする」
白い部屋の床下で、戻り水がわずかに流れを変えた。
◇
リンドは、すぐに気づいた。
「……あった」
彼の声が、霧の中で鋭くなる。
アレクが問う。
「帰路か」
「いや、帰路そのものじゃない。でも、外へ向かう水脈の端だ。ここを辿れば、入口反応の偽物を剥がせるかもしれない」
マルクが顔を上げる。
「本当か」
「たぶん」
「たぶん、か」
「この迷宮で断言する奴は先に死ぬ」
リンドは、氷の道の先にある小さな水の渦を指した。
戻り水が、そこだけ逆に巻いている。
外へ向かう流れが、迷宮内の流れとぶつかってできた歪み。
それは確かに、手がかりだった。
同時に、露骨すぎた。
リンドは歯を食いしばる。
「罠だな」
アレクが言う。
「分かるのか」
「分かる。だが、本物でもある」
「どういうことだ」
「罠の中に、本物の手がかりが混じってる。俺たちに触らせるために」
ネイザが言った。
「なら、触るな」
「触らなきゃ帰れない」
トーマが苦い顔をする。
「嫌な二択だな」
「三択目もある」
ベルグが言う。
「迷宮を全部ぶっ壊して帰る」
「できるなら最初からやってる」
エリシアの声は少し苦しげだった。
氷の道を維持し続けているせいだ。
リンドはその様子を見た。
ガルドスの盾も限界に近い。
ネイザの矢も減っている。
トーマの薬瓶も残り少ない。
調査隊はもう走り続けるだけで危うい。
時間はない。
「俺が行く」
リンドが言った。
アレクは即座に首を振る。
「駄目だ」
「俺しか読めない」
「だからこそ、お前を失えない」
「読めなきゃ全員失う」
その言葉に、アレクは黙った。
リンドは細い糸を何本も指へ巻きつける。
「俺が渦に触って、流れを拾う。拾ったら糸で合図する。アレク、お前が調査隊を連れて進め」
「リンド」
「隊長。俺は斥候だ。道を見つけるのが仕事だ」
ガルドスが低く言った。
「戻れ」
「努力する」
トーマが薬瓶を一本投げた。
「足の傷に塗れ。痛み止めと止血だ」
「助かる」
ネイザが矢を二本構える。
「何か出たら撃つ」
「全部は無理だろ」
「できるだけ撃つ」
ベルグが双斧を構えた。
「骨が出たら割る」
エリシアが、氷の道を少しだけ伸ばす。
「三呼吸だけなら、渦の手前まで足場を作れる」
「十分」
サラナの死後、暁鴉も鋼旗も、言葉が少なくなっていた。
だが、それぞれが役割を果たす準備をした。
リンドは、一度だけアレクを見た。
「記録は持ち帰れよ」
「全員で持ち帰る」
「そう言うと思った」
リンドは笑った。
そして、氷の道を走った。
◇
霧が動いた。
リンドが渦へ向かう。
その足元へ、戻り水が伸びる。
エリシアの氷がそれを凍らせる。
骨槍が床下から出る。
ベルグが斧で砕く。
影針が影へ落ちる。
ネイザが矢で撃ち落とす。
声が聞こえる。
「リンド」
アレクの声。
リンドは反応しない。
次はガルドスの声。
「戻れ」
反応しない。
次は、死んだカルムの声。
「こっちです」
反応しない。
次は、知らない女の声。
たぶん、サラナの声だ。
「見えるうちに」
リンドの足が、一瞬だけ揺れた。
だが止まらない。
「悪いな。俺はお前と組んでない」
彼は渦へ手を伸ばした。
指が戻り水へ触れる。
冷たい。
次の瞬間、膨大な流れがリンドの頭へ流れ込んだ。
入口。
偽入口。
骨の流れ。
死体処理水路。
浅層へ戻る道。
中層へ落ちる穴。
食われた帰路の跡。
そして、外へ向かう細い裂け目。
「……見えた!」
リンドが叫ぶ。
糸を強く引く。
合図。
アレクが動く。
「全員、リンドの糸へ!」
その瞬間、渦の底から白磁根が伸びた。
リンドの腕を絡める。
彼は短剣で切る。
一本。
二本。
三本。
だが、根は水の中から次々と出る。
足首。
腰。
肩。
そして背中。
リンドは逃げようとしなかった。
代わりに、指へ巻いていた糸をすべて引いた。
糸が壁へ、床へ、仲間の足元へ走る。
外へ向かう裂け目の方向を示す。
「右奥、白い壁の割れ目! 水が逆に冷たいところだ! そこを斬れば、戻れる!」
アレクが叫ぶ。
「リンド、戻れ!」
リンドは振り返った。
霧の中で、少しだけ笑った。
「無理だな」
アレクが走り出そうとする。
ガルドスが肩を掴んだ。
「行くな!」
「離せ!」
「今行けば全員死ぬ!」
リンドの体が、白磁根に引かれていく。
彼は最後に、短剣を投げた。
短剣は、アレクの足元へ刺さる。
柄には糸が結ばれていた。
出口へ向かう最後の導線。
「持っていけ!」
白磁根が、リンドを霧の奥へ引き込んだ。
その直後、床下から骨槍が伸びる。
リンドは避けなかった。
いや、避けられなかった。
骨槍が胸を貫く。
それでも、彼は糸を離さなかった。
「アレク!」
最後の声。
「帰れ!」
次の瞬間、霧がリンドを呑んだ。
《Aランク斥候リンド・カーレン、死亡》
《獲得ソウル:1,280》
◇
白い部屋で、余は静かにその死を見ていた。
「見つけたか」
《リンド・カーレンは、一時的に外部方向の裂け目を特定しました》
「優秀だったな」
《はい》
「だから殺した」
《はい》
フィルエが小さく言った。
「でも、道を残した」
「見えている」
リンドは死んだ。
だが、彼の糸は残った。
外へ向かう細い裂け目。
完全な帰路ではない。
だが、今の人間たちには希望に見える。
「使わせるか」
《撤退成功の可能性が上昇します》
「使わせる」
フィルエが驚いたように言う。
「いいの?」
「今すぐはな」
余は白い霧の中のアレクを見る。
彼はリンドの短剣を拾っている。
手が震えている。
だが、泣いていない。
怒りもある。
悲しみもある。
しかし、それ以上に隊長としての判断がある。
リンドの死を無駄にしないために、道を使う。
そういう顔だ。
「希望を持たせる」
余は言った。
「そして、その希望を持ったまま、さらに折る」
◇
アレクはリンドの短剣を握った。
糸が繋がっている。
白い壁の割れ目へ。
右奥。
戻り水が逆に冷たい場所。
そこが、外へ向かう裂け目。
リンドが命を捨てて見つけた道。
「行くぞ」
アレクの声は低かった。
ガルドスが盾を構える。
エリシアは蒼白な顔で氷の道を維持している。
ネイザは無言で矢を番える。
ベルグはリンドが消えた霧を見てから、奥歯を噛んだ。
トーマは薬瓶を残り二本だけ確認する。
マルクは、震える手で記録した。
⸻
斥候リンド、外部方向の裂け目を確認。
本人は死亡。
糸と短剣により導線を残す。
撤退可能性、わずかに回復。
⸻
リーゼは泣いていた。
オルフェンは祈らなかった。
祈る時間を、リンドが命で買ったからだ。
アレクは、白銀の剣を構える。
「リンドの道を使う」
誰も反対しなかった。
帰路は失われた。
だが、裂け目はある。
命で見つけた、細い希望。
彼らはそこへ向かって進み始めた。
その背後で、軍帰路喰らいの落武者が、静かに刃を上げた。
希望は、まだ喰われていない。
だが、迷宮はそれを見ている。




