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第173話 分断された調査隊は、帰路を失う

 カルムの死は、白い霧の中に残らなかった。


 血の跡も、引きずられた跡も、叫びの残響も、すぐに薄くなった。


 床に落ちた血は、戻り水に吸われた。


 白磁根はくじこんが這った跡は、灰霧が撫でるように隠した。


 腹を貫いた骨槍は、床下へ戻った。


 まるで、最初からそこには誰もいなかったように。


 だが、人間たちの中には残った。


 記録士カルムの名。


 兄の声で呼ばれたこと。


 一歩だけ踏み出したこと。


 手が届きかけたこと。


 そして、記録板だけが戻ってきたこと。


 査定官マルク・ゼノは、血で濡れた記録板を革袋に収めた。


 その動きは丁寧だった。


 だが、指は震えていた。


「次の異常を確認したら撤退する」


 アレク・ヴァイスが言った。


 白銀の剣は、まだ抜かれたままだ。


「そう約束した」


「はい」


 マルクは頷いた。


「ですが、今の時点で戻っても、再査定には足りません」


 リーゼが顔を上げる。


 目元は赤い。


「カルムが死んだんですよ」


「分かっています」


「分かっているなら――」


「だからです」


 マルクの声は、静かだった。


 静かすぎて、かえって痛かった。


「彼が命をかけて残した記録を、未完のまま持ち帰ることはできません」


 オルフェンが、短い祈りを終えて目を開けた。


「マルク殿。記録は大切です。しかし、生きて戻らねば記録は届きません」


「承知しています」


 マルクは、白い霧の奥を見た。


「次の異常を確認します。それで撤退判断を確定します」


 リンドが低く言った。


「その“次”を向こうが選んでくる」


 誰も反論しなかった。


 この迷宮は見ている。


 カルムの最期が、それを証明していた。


 ただ罠を置いて待つ迷宮ではない。


 人を見て、反応を見て、声を使い、記憶を刺してくる。


 アレクは、仲間と調査隊を見渡した。


「隊列を組み直す」


 その声で、全員が動いた。


 鋼旗の四剣は、調査隊の近くへ寄る。


 暁鴉の弦は、やや左後方へ回る。


 ネイザは弓を構えたまま、一度も白い霧から目を離さない。


 ベルグは双斧を握り、唇を噛みしめていた。


 サラナは、光砂の筒を二本取り出している。


 トーマは薬瓶の残数を確認しながら、誰にともなく言った。


「声は全部疑え。自分の名前を呼ばれても反応するな。死んだ奴の声なら、なおさらだ」


 リーゼが小さく震えた。


 オルフェンが彼女の肩に手を置く。


「耳より、合図を信じましょう」


 リンドが、指で三つの符号を示した。


「撤退、集合、停止。声は使わない。霧の中で声がずれるなら、手符号と糸の振動だけだ」


 アレクは頷く。


「進む。だが、これ以上異常が出た時点で撤退する」


 ネイザが、霧の奥を見たまま言った。


「撤退路が残っていればな」


    ◇


 十二人だった隊列は、十一人になった。


 その事実は、歩くたびに重くなる。


 カルムがいた場所には空白がある。


 記録を取る音が減った。


 防水紙に筆が走る、かすかな音が消えた。


 代わりに、マルクが自分で記録を始めた。


 片手に測定板。


 片手に記録板。


 本来なら、査定官が戦場で自ら筆を取るのは危険だ。


 だが、カルムはいない。


 記録を止めるわけにはいかない。


 リーゼの魔力盤が、小さく鳴った。


「帰路糸の反応が……変です」


 リンドが足を止める。


「どれだ」


「最初に張った三本のうち、二本が消えています。一本は残っているはずなのに、方向が逆に出ています」


「逆?」


 リンドは糸を引いた。


 指先に伝わる振動。


 本来なら、外へ向かうはずの糸。


 だが、振動は奥から返ってくる。


 外へ伸ばした糸が、奥へ繋がっている。


「……やられた」


 リンドの声が低くなる。


「糸を切ったんじゃない。繋ぎ替えられた」


 マルクが記録する。



帰路糸、二本消失。

一本は方向反転。

迷宮による経路改変、または感覚誘導の可能性。

帰路の信頼性、低下。



 アレクが言う。


「戻れるか」


 リンドは即答しなかった。


 それが答えのようなものだった。


「今なら、たぶん戻れる。ただし、俺の糸はもう信用できない。霧の流れと床の湿り、壁の傷で辿る」


「時間は?」


「かかる」


 ネイザが言った。


「その時間を、迷宮がくれると思うか」


 答えは、霧の奥から来た。


 ふぁさ。


 羽音。


 柔らかく、薄く、だが耳に残る音。


 サラナが即座に光砂を撒く。


 金色の砂が霧に広がる。


 しかし、その光は途中で鈍った。


 灰色に濁り、粒の一つ一つが重く落ちる。


「また霧が光を食ってる」


「本体は見えるか」


 ネイザが問う。


 サラナは目を細めた。


「見えない。でも、流れは上。霧を操ってる何かがいる」


 トーマが薬瓶を手にした。


「蛾か。外縁で報告されてたやつかもしれない」


 ふぁさ。


 羽音がまた鳴る。


 今度は右。


 次は左。


 さらに背後。


 音の位置が変わる。


 いや、音だけではない。


 霧の流れそのものが、隊列を撫でるように回り始めた。


 アレクが手符号を出す。


 停止。


 全員が止まる。


 その瞬間、白い霧が濃くなった。


 アレクとガルドス、エリシア、リンド。


 調査隊三人。


 暁鴉の弦四人。


 その間に、薄い白壁が下りる。


 視界が切れる。


「分断!」


 リンドが叫ぶ。


 声を使うなと決めた直後だった。


 それでも、叫ばざるを得ないほど速かった。


 ガルドスが盾を打ち鳴らす。


 集合の合図。


 だが、返ってきた音が二重になる。


 ひとつは本物。


 もうひとつは、半拍遅れた偽物。


「音もずらしてる!」


 エリシアが氷の線を床へ走らせる。


 霧の壁を凍らせ、形を固定しようとした。


 だが、霧が凍る直前に薄く割れ、氷は空を掴んだ。


 フィルエの森灰術ではない。


 ハイハネの霧導きだ。


 霧が、凍らされる場所を避けた。


「賢い霧ね」


 エリシアが歯を食いしばる。


「ただの自然現象じゃない」


    ◇


 暁鴉の弦は、白い霧の向こう側に切り離されていた。


 ネイザはすぐに弓を構え、三本の矢を霧へ撃ち込んだ。


 矢には細い黒糸が結ばれている。


 仲間側へ繋げるための糸だ。


 だが、矢は途中で失速した。


 霧が重い。


 白灰の粉が矢羽にまとわりつき、軌道を落とした。


「通らない」


 サラナが前へ出る。


「私が開ける」


 彼女は光砂の筒を三本同時に抜いた。


 金色の砂が手のひらから溢れる。


「光砂術・明けあけすじ


 砂が一筋の光路を作る。


 白い霧の中に、細い黄金の道が伸びた。


 それは視界を開く術ではない。


 進むべき方向に光を通す術。


 霧や闇の中で、仲間に位置を知らせるための道標。


 白い霧が、その光を食おうとする。


 だが、サラナは歯を食いしばり、さらに砂を流す。


「食わせない……!」


 金の光が、霧の中で震えながら進んだ。


 向こう側に、ぼんやりとガルドスの盾が見える。


「繋がった!」


 ベルグが叫ぶ。


 その瞬間、影が動いた。


 光路ができたことで、影もできた。


 白い霧の中で、金の砂が作った細い光。


 その下に生まれた、細い影。


 影軍縫いカゲヌイが、そこへ針を落とした。


 サラナの足元の影が、床へ縫われる。


「っ!」


 サラナの光砂が一瞬乱れる。


 霧が一気に食い込む。


 ネイザが矢を放つ。


 影針を撃ち落とす。


 一本。


 二本。


 三本。


「多い!」


 ネイザが叫ぶ。


 影針は一本ではない。


 光路の影そのものに沿って、次々と針が生えてくる。


 光を伸ばせば、影も伸びる。


 影を伸ばせば、カゲヌイが縫う。


「サラナ、切れ!」


 トーマが叫ぶ。


「今切ったら、向こうと繋がらない!」


「死ぬぞ!」


「だから繋げるの!」


 サラナは光砂をさらに強めた。


 彼女は理解していた。


 今ここで光路を切れば、暁鴉は助かるかもしれない。


 だが、調査隊と鋼旗の位置を見失う。


 そして、この迷宮で位置を見失えば、帰路を失う。


 なら、つなぐしかない。


 たとえ、自分が狙われるとしても。


 ベルグが前へ出る。


「影なら床ごと割る!」


 双斧を床へ叩きつける。


 白磁床に亀裂が走り、影針の一部が弾け飛ぶ。


 トーマが薬瓶を割る。


 影を薄くする発光薬。


 足元に白い光が広がり、サラナの影が一瞬だけ弱くなる。


 ネイザが、霧の上方へ矢を放った。


 矢が何かをかすめる。


 ふぁさ、と羽音。


「蛾がいる。上、かなり奥」


「見える?」


「まだ無理だ」


 その間にも、サラナの足元に影針が戻ってくる。


 光路は繋がりかけていた。


 向こう側で、アレクがこちらを見た。


 ガルドスが盾を構え、霧の壁を押し開こうとしている。


 もう少し。


 もう少しで、隊列が繋がる。


 その時、サラナの肩に白灰の粉が落ちた。


 ハイハネの追跡粉。


 霧の中で、サラナの輪郭だけが淡く光る。


「しまっ――」


 ネイザが即座に矢を構える。


 だが、狙うべきものが多すぎた。


 影針。


 霧。


 羽音。


 光路。


 そして、床下から伸びる骨槍。


 サラナは光路を切らなかった。


 最後まで維持した。


「行って!」


 彼女が叫ぶ。


 その声は、霧越しにアレクたちへ届いた。


 金の光路が、ついに二つの隊列を繋いだ。


 だが、同時に、影針が彼女の足を完全に縫い止める。


 床下から湿骨軍列の槍が伸びた。


 一本目をベルグが斧で砕く。


 二本目をネイザが射抜く。


 三本目をトーマが薬瓶で溶かす。


 四本目が、サラナの胸を貫いた。


 彼女の光砂が、霧の中へ散った。


 金色の粒が、白い霧に飲まれていく。


「サラナ!」


 ベルグの叫びが、霧を震わせた。


 サラナは、血を吐きながらも手を下げなかった。


 光路は、まだわずかに残っている。


「……見え、るうちに……」


 そこまで言って、彼女の体は崩れた。


《Aランク光砂術師サラナ、死亡》


《獲得ソウル:1,340》


    ◇


 白い部屋で、余はサラナの死を見ていた。


「……粘ったな」


《光路維持により、分断の完全化に失敗》


「失敗ではない」


 余は言った。


「一人殺した。霧の中で光を使う術師を落とした。十分だ」


 だが、あの女はただ死んだのではない。


 道を繋いだ。


 仲間と調査隊を完全に切り離すことはできなかった。


 Aランク。


 やはり強い。


 ただ殺されるだけではない。


 死ぬ時に役割を果たす。


 それが面倒で、だからこそ価値がある。


 フィルエが言った。


「ロード、ベルグが怒ってる」


「見えている」


 ベルグの魔力が、霧の向こうで荒れている。


 サラナを失った怒り。


 それが双斧へ流れ込んでいる。


「今すぐ殺すか」


《可能です》


「いや、まだだ」


 余は、霧の中の人間たちを見る。


 彼らはサラナの光路を使って再合流しようとしている。


 完全には離せなかった。


 なら、次は帰路を奪う。


 分断の目的は殺すことだけではない。


 戻れないと知らせることだ。


「軍帰路喰らい」


《展開中》


「まだ姿は見せるな。まず、戻り道を喰え」


《実行》


    ◇


 サラナの残した光路は、短かった。


 しかし、それでも十分だった。


 アレクたちはその道を頼りに、暁鴉の弦へ近づく。


 ベルグはサラナの体を抱えようとした。


 ネイザが止める。


「置け」


「ふざけるな」


「持っていけない」


「置いていけるか!」


 ベルグの双斧が震える。


 トーマが、低く言った。


「ベルグ。サラナが最後に何と言ったか、聞いてただろ」


 ベルグは歯を食いしばる。


 行って。


 見えるうちに。


 彼女はそう言った。


 自分を運べとは言わなかった。


 ベルグは、サラナの光砂筒を一つだけ取った。


 血に濡れた小さな筒。


 それを腰に差す。


「後で取りに来る」


 ネイザは否定しなかった。


 だが、全員が分かっていた。


 この迷宮で、後で取りに来るという言葉ほど虚しいものはない。


 アレクたちが合流する。


 調査隊三人も、息を切らしていた。


 リーゼはサラナの死体を見て顔を青くする。


 マルクは何かを言おうとしたが、言葉が出なかった。


 オルフェンが短く祈る。


 長い祈りはできない。


 この迷宮は、死者に長い別れを許さない。


 アレクは、サラナの死体を見てからネイザを見た。


「撤退する」


 ネイザは頷いた。


「異論はない」


 マルクも、今度は反論しなかった。


「記録は十分です。少なくとも、Aランクのままと断じることはできません」


「なら戻る」


 リンドが帰路糸を確認する。


 その顔が、さらに険しくなった。


「……ない」


 ガルドスが聞く。


「何がだ」


「帰路がない」


 ベルグが怒鳴る。


「ふざけんな。さっきまで来た道があるだろうが!」


「見える道はある」


 リンドは、霧の奥を見た。


「だが、戻る道じゃない」


 リーゼが魔力盤を見た。


 盤面の針がぐるぐると回っている。


「方向が……定まりません。入口側の魔力反応が、複数に分かれている。いえ、全部入口に見える……」


 オルフェンの祈祷布が、勝手に一方向へ引かれる。


 彼は顔をしかめた。


「死者の流れも同じです。外へ向かっていない。迷宮の中を回っています」


 ネイザが弓を構えたまま言う。


「帰路を喰われたか」


 その言葉に、空気が凍った。


 帰路喰らい。


 噂としては知っていた。


 戻れなくなる。


 出口がずれる。


 帰ろうとするほど奥へ行く。


 だが、それは噂だった。


 今、その噂が現実として目の前にある。


 アレクは、ゆっくり息を吐いた。


「落ち着け」


 彼自身も、落ち着いているわけではない。


 だが、隊長として言う。


「道が見えないなら、作る。リンド、壁と床の物理痕跡で逆算できるか」


「時間が要る」


「どれくらい」


「霧が何もしなければ、半刻」


 トーマが苦く笑う。


「してくれると思うか?」


 答える者はいない。


 ネイザが言った。


「高所が欲しい。視界がなくても、空間の広がりが分かる場所」


 エリシアが杖を握る。


「氷柱を立てれば、少し上がれる」


「立てた瞬間に狙われる」


 リンドが言う。


「でも、他にない」


 アレクは判断した。


「やる。ガルドス、盾。ベルグ、正面。ネイザ、上方警戒。トーマ、霧対策。エリシア、氷柱。リンド、帰路解析。調査隊は中央で記録をまとめろ」


 全員が動く。


 サラナを失っても、動く。


 それがAランクだった。


 エリシアが氷柱を立てる。


 白い床から、透明な氷が伸びる。


 ネイザがその上へ跳び上がる。


 霧の上へ、ほんの少しだけ顔を出す。


 彼は一瞬で周囲を見た。


 白い霧の海。


 骨の流れ。


 曲がる通路。


 そして、遠くに見えるはずの入口の気配が、三つ。


 四つ。


 いや、七つ。


「入口が増えている」


 ネイザが言った。


 その声は、珍しく硬かった。


「全部、偽物か?」


「分からない。だが、本物がどれか分からない」


 その瞬間、氷柱の影が動いた。


 カゲヌイではない。


 もっと重い影。


 灰白の鎧を着た落武者が、霧の向こうに立っていた。


 軍帰路喰らいの落武者。


 まだ遠い。


 だが、刃を抜いている。


 ネイザが弓を構える。


「出たぞ」


 アレクが剣を構える。


「全員、陣形」


 落武者は動かない。


 ただ、刃を横へ振った。


 斬ったのは人ではない。


 道だった。


 リーゼの魔力盤の針が、一斉に折れた。


「入口反応、消失!」


 リンドの帰路糸が、手元で灰になった。


 オルフェンの祈祷布が、力を失って垂れた。


 全員が理解した。


 帰路は、今、完全に喰われた。


 マルクが、震える手で記録板に書いた。



撤退路、喪失。

帰路喰らい系存在を確認。

入口反応、複数偽装後に消失。

物理帰路、魔力帰路、死者流路、すべて不明瞭。


結論:

現時点で自力撤退は極めて困難。



 その一文を書いた時、マルクの顔から色が消えた。


 調査隊は、帰るために入った。


 記録を持ち帰るために入った。


 その帰る道が、失われた。


 ベルグが双斧を構える。


 怒りを押し殺し、前を見る。


「なら、斬って作るしかねえな」


 アレクも剣を構えた。


「そうだ」


 ネイザが氷柱から降りる。


「落武者を倒せば、戻るかもしれない」


 リンドが首を横に振る。


「かもしれない、だ」


 トーマが薬瓶を握る。


「でも、やるしかない」


 エリシアの杖に氷が走る。


「やるなら、早く」


 軍帰路喰らいの落武者が、霧の奥で刃を構えた。


 その背後では、湿骨軍列の骨音が再び近づいている。


 さらに上では、ふぁさ、と羽音がした。


 ハイハネの霧。


 カゲヌイの影。


 戻り水の床。


 帰路を失った人間たちを、迷宮が囲んでいく。


 マルクは記録板を握りしめた。


 カルムの血が、まだ乾いていない。


 アレクは白銀の剣を上げた。


「突破する」


 その声は、仲間たちと調査隊へ向けられたものだった。


 だが、霧の奥で見ているロードにも届いた。


 白い部屋で、余は静かに言った。


「来い」


 帰路を失った者が、どこまで進めるか。


 それを見せてもらう。

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