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第171話 白い霧は、十万の死体を隠している

 白い霧の中へ入った瞬間、音が変わった。


 封鎖線の外にいた人々のざわめき。


 騎士の鎧が擦れる音。


 馬の鼻息。


 遠くの王都から聞こえる鐘。


 それらが、背後で一枚の布をかけられたように鈍くなる。


 代わりに、耳の奥へ湿った音が入ってきた。


 水が流れる音。


 何かが床下で擦れる音。


 遠くで骨が鳴るような、かすかな音。


 かた。


 かたかた。


 それは一度聞いただけでは、風か、枝か、魔物かも分からない。


 だが、十二人のうち何人かは、すぐに足を止めた。


 斥候リンド・カーレン。


 黒弓使いネイザ。


 査定官さていかんマルク・ゼノ。


 そして、浄化鑑定官じょうかかんていかんオルフェン。


 彼らは別々の理由で、同じ異常を感じ取っていた。


「……浅い」


 リンドが呟いた。


 アレクが剣の柄に手を添えたまま聞く。


「霧がか?」


「違う。死体の跡が」


 リンドは膝をつき、白く湿った地面へ指を当てる。


 指先に、灰と泥がついた。


 その中に、黒い粒が混じっている。


 乾いた血ではない。


 砕かれた骨粉だ。


「ここは入口近くのはずだ。十万規模の魔物が押し込まれたなら、もっと死体があっていい。踏み潰された肉、骨、装備、角、牙、羽、何でもだ」


 ベルグが双斧を担ぎ直し、鼻を鳴らす。


「霧で見えないだけじゃねえのか」


「匂いも少ない」


 ネイザが答えた。


 彼は弓を構えたまま、霧の奥を見ている。


「血の匂いはある。だが、山ほど死んだ場所の匂いじゃない。消されている」


「消されている?」


 光砂術師サラナが、金色の砂を指先で転がした。


「迷宮が掃除したってこと?」


 薬師兼呪具師トーマが顔をしかめる。


「掃除なんて可愛い話じゃない。死体を残さない仕組みがあるんだろ」


 査定官マルクは、魔力測定板を取り出した。


 銀の板に、細い針が三本ついている。


 一つは属性。


 一つは濃度。


 一つは流動方向。


 針は、霧に触れた瞬間から落ち着きなく揺れていた。


「死体魔力はある。だが、地表に留まっていない」


 マルクは地面へ目を落とす。


「下へ流れている」


 魔力盤技師リーゼが、背負っていた小型魔力盤まりょくばんを開いた。


 盤面の硝子に、白い線と黒い点が現れる。


 黒い点は、死体や魔物の残留反応。


 それが、地表に留まらず、床下の流れに乗って移動していた。


「骨系反応が床下を移動しています。水脈……いえ、戻り水に似た流れがあります。死体の魔力と骨片を、どこかへ運んでいる」


 記録士カルムが震える手で書く。



入口付近、死体少量。

死体魔力は地表に留まらず、床下へ流動。

骨系反応、移動中。

迷宮による死体処理機構の可能性。



 オルフェンは白い祈祷布を広げ、霧の中へそっと垂らした。


 布はすぐに灰色に染まる。


 腐敗の黒ではない。


 死霊の紫でもない。


 もっと淡い、骨粉と灰を混ぜたような色だった。


「死者の気配は濃い」


 オルフェンは低く言った。


「だが、たたっていない。迷ってもいない。ここで死んだものは、かなり早く迷宮の一部へ回収されている」


 ガルドスが方盾を前に出す。


「それは、良いことなのか悪いことなのか」


 トーマが即答した。


「俺たちにとっては悪い」


「理由は」


「死体が残らないってことは、迷宮が無駄なく使ってるってことだ。骨も、血も、魔力も。十万の魔物を材料にした迷宮が、今どうなってるか考えたくもない」


 その言葉に、誰も笑わなかった。


    ◇


 十二人は慎重に進んだ。


 先頭はアレクとガルドス。


 その半歩後ろにリンド。


 中央に調査隊四名。


 左側面を暁鴉の弦。


 右側面をエリシアが守る。


 隊列は広げすぎない。


 だが、固まりすぎもしない。


 霧の中では、まとめて罠にかかることが最も危険だ。


 リンドは、白い壁の裂け目に糸を張りながら進む。


「戻り道の目印だ」


 カルムが聞いた。


「迷宮側に消されませんか」


「消されるだろうな」


「では、意味が?」


「消されたら、そこに何かあると分かる」


 カルムは、一瞬だけ目を見開き、それから記録した。



斥候リンド、帰路糸を配置。

糸の残存ではなく、消失そのものを異常検知に利用。



 マルクがそれを見て小さく頷く。


「良い記録だ」


「ありがとうございます」


 カルムの声は少し震えていたが、筆は止まらなかった。


 その時、エリシアが杖を上げた。


「止まって」


 全員が即座に止まる。


 Aランク二組は、誰一人として「なぜ」と聞かない。


 理由を聞く前に止まる。


 それが高位パーティの強さだった。


 エリシアは白い床へ杖の先を近づける。


 床の一部が、ほんのわずかに湿っていた。


「水が浅すぎる」


 ベルグが眉をひそめる。


「浅いならいいんじゃねえのか」


「違うわ。浅く見えるだけ」


 エリシアは杖を軽く振った。


 氷の粒が床へ落ちる。


 次の瞬間、床の湿りが小さく震えた。


 まるで、氷の粒を飲み込もうとしたように。


「戻り水ね。薄い膜で床に広がっている」


 マルクが測定板を見る。


「水属性、死体魔力、白磁属性が混在。踏むと沈むか?」


「少なくとも、足を取られる」


 エリシアが氷結界を薄く広げた。


 床の上に、透明な氷の足場が作られる。


「一人ずつ。走らないで」


 ガルドスが先に渡る。


 重装の体重を受けても、氷は割れない。


 次に調査隊。


 カルムが渡りながら、床下を見た。


 白い霧の下で、何か細いものが動いている。


 骨。


 小さな骨が、戻り水の流れに乗って運ばれている。


 指の骨か。


 ゴブリンの肋骨か。


 小型魔物の脚か。


 それらが、まるで川を流れる小枝のように、床下を滑っていく。


 カルムは顔を青くしながらも記録した。



戻り水膜あり。

地表は浅く見えるが、踏み込み時に沈降反応。

床下に小骨の流動を確認。

死体処理は継続中。



 最後にベルグが渡った。


 彼は肩を回しながら言う。


「今のところ、怖いだけで敵は出ねえな」


 トーマが言った。


「そういうこと言うと出る」


 ベルグが笑いかけた。


 その瞬間、霧の奥で骨が鳴った。


 かた。


 かたかた。


 ベルグは顔をしかめる。


「ほらな」


「俺のせいかよ」


「半分は」


    ◇


 最初に現れたのは、一体の湿った骨兵だった。


 ゴブリンの骨に見える。


 だが、白磁片が関節を繋ぎ、肋骨の隙間に灰色の泥が詰まっている。


 手には、骨と白磁片を組み合わせた短槍。


 目の穴には、淡い戻り水の光。


 ガルドスが盾を構える。


「一体」


 リンドが短く言った。


「違う。後ろにいる」


 霧の奥で、さらに骨が鳴る。


 かた。


 かたかた。


 かたかたかた。


 骨兵が二体、三体、五体と現れる。


 だが、数はまだ少ない。


 十体ほど。


 浅層の様子見だ。


 アレクが剣を抜く。


「鋼旗、前。暁鴉は側面。調査隊は下がりすぎるな」


 ガルドスが盾を前へ押し出し、骨兵の槍を受ける。


 槍は軽い。


 だが、湿っているせいか、盾に当たった瞬間に滑り込むような嫌な動きをした。


「ただの骨じゃないぞ」


 ガルドスが言う。


 ベルグが横から踏み込み、双斧で骨兵を砕いた。


 骨が散る。


 しかし、散った骨の一部が床へ沈み、戻り水に流されていく。


 完全に死んだのかどうか分からない。


 ネイザが矢を放つ。


 骨兵の目の穴にある戻り水の光を射抜いた。


 骨兵が崩れる。


「目じゃない。水だ」


 ネイザが言う。


「中核は戻り水。そこを撃てば崩れる」


 マルクが即座に記録させる。


「カルム、書け。骨兵の中核は戻り水反応。通常破壊では再利用される可能性あり」


「はい!」


 エリシアが氷槍を飛ばす。


 骨兵の足元を凍らせ、動きを止める。


 そこへアレクの白銀剣が走った。


 一閃。


 骨兵三体がまとめて斬られる。


 白磁片ごと、関節を断つ剣筋。


 鮮やかだった。


 サラナが光砂を撒き、霧の濃い場所を照らす。


 トーマが薬瓶を割り、戻り水の動きを鈍らせる粉を散らす。


 浅層に現れた骨兵十体は、短時間で処理された。


 大きな損害はない。


 カルムが、少しだけ息を吐いた。


 だが、リンドは厳しい顔のままだった。


「おかしい」


 アレクが剣についた泥を払う。


「敵が弱すぎるか」


「ああ。様子見だ。こっちの対応を見られた」


 ネイザも同意した。


「弓、氷、光砂、薬、盾、剣。全部見られたな」


 ベルグが舌打ちする。


「じゃあ、今のは罠じゃなくて試験かよ」


 トーマが周囲を見回す。


「俺たちが調べに来たつもりで、向こうもこっちを調べてるってことだ」


 その言葉に、カルムの筆が止まった。


 マルクが静かに言う。


「書け」


「……はい」



浅層骨兵十体と交戦。

戦闘力は低から中。

ただし、迷宮側による試験的接触の可能性。

こちらの戦闘手段を観察された懸念あり。



    ◇


 白い部屋で、余はその記録を見ていた。


「さすがAランク二組だな」


《浅層試験骨兵、全滅》


「対応が早い。中核まで見抜いた」


《ネイザの観察力、エリシアの制御力、リンドの警戒能力が高いです》


「分かっている」


 余は、十二人の隊列を見ていた。


 Aランク二組は強い。


 前の雑な冒険者とは違う。


 罠を疑う。


 一体の魔物にも意味を読む。


 調査隊も恐怖に飲まれず記録を続けている。


 特にマルク。


 あの査定官は、危険だ。


 迷宮の機能を言葉にする。


 言葉にされると、外へ持ち帰られた時に厄介になる。


「今はまだ殺すな」


《理由は》


「もっと記録させる」


《外部流出の危険があります》


「持ち帰らせなければよい。記録させた上で奪う。人間側が何を見て、どう判断するかを知りたい」


 白骨書記が、横で骨筆を走らせる。



人間側調査視点の収集。

有用。



「だろう」


 フィルエが森灰観測室から声を送る。


「ロード、あの斥候、かなりいい」


「リンドか」


「うん。霧の流れじゃなくて、霧が何を隠したいか見てる」


「厄介だな」


「あと、弓の人も。ハイハネの位置をいずれ読む」


「なら、ハイハネは深く見せるな。今は霧だけ動かせ」


《ハイハネ、遠隔霧操作に切り替え》


 余は、調査隊の進路を見た。


 彼らは浅層を少しずつ奥へ進んでいる。


 こちらの異常を見ている。


 死体が少ないこと。


 骨が流れていること。


 戻り水が床に薄く張ること。


 骨兵が試験的に出たこと。


 次は、戦後の痕跡を見せる。


 十万の死体を隠している場所の、表面だけを。


戦屍跡せんしあとを開け」


《浅層戦屍跡、部分開示》


 白い霧の奥で、道がゆっくり開いた。


    ◇


 調査隊の前に現れたのは、広い空間だった。


 浅層にしては広い。


 天井は低いが、左右に広がっている。


 床は白灰色。


 そこに、無数の跡が残っていた。


 足跡。


 爪跡。


 引きずられた跡。


 何かが沈んだ穴。


 砕けた牙。


 黒い羽。


 割れた虫の甲殻。


 折れた角。


 骨片。


 ただし、どれも整理されている。


 自然に散った死体ではない。


 選り分けられた残骸。


 まるで、食べ終えた後の骨を、誰かが種類ごとに分けて置いたようだった。


 カルムは、息を呑んだ。


 マルクの顔から血の気が引く。


 リーゼの魔力盤が、強く震えた。


「反応が多すぎます……」


「種類は」


「ゴブリン系、オーク系、獣系、虫型、飛行種、死体獣……全部です。でも、量が合わない。残骸は少ないのに、魔力の痕跡だけが濃い」


 オルフェンが祈祷布を広げる。


 布は一瞬で灰色に染まり、その端が黒く焦げた。


「ここで大量に死んだ。だが、死体は残されなかった」


 マルクは、低い声で言った。


「選別されている」


「何をですか」


 カルムが聞く。


「使える部分と、使えない部分だ」


 マルクは、床に落ちた黒い羽を拾おうとして、リンドに止められた。


「触るな」


「分かっている」


 マルクは手を引っ込めた。


「記録。浅層に戦後処理跡。魔物軍勢の残骸は少量だが、属性痕跡は極めて濃い。迷宮が死体を素材として選別、回収した可能性大」


 カルムが書く。


 手が震えている。


 だが、書く。


 その時、部屋の奥で銅のような音がした。


 ごん。


 全員が止まった。


 音は一度だけ。


 遠い。


 とても遠い。


 だが、聞こえた。


 銅鐘。


 あの戦場で、多くの兵が聞いた音。


 ガルザヴェインの進軍鐘。


 アレクの顔が強張る。


「今のは」


 ネイザが、ゆっくり弓を上げた。


「聞き間違いではない」


 リーゼの魔力盤が異常な揺れを見せる。


「Sランク反応……いえ、違う、深すぎて測れない……」


 マルクが叫ぶ。


「数値は!」


「取れません! 一瞬だけ、黒い魔力反応が深部で……でもすぐ消えました!」


 オルフェンが祈祷布を握りしめる。


「魔神性です」


 その言葉に、空気が凍った。


「ガルザヴェインが生きているのか」


 ガルドスが低く問う。


 オルフェンは首を横に振った。


「分かりません。残響かもしれない。血かもしれない。封じられているのかもしれない。ただ……完全に消えてはいない」


 カルムは震えながら記録する。



深部より銅鐘に似た音を確認。

Sランク魔物ガルザヴェイン由来の可能性。

反応は一瞬。追跡不能。

魔神性残留あり。生死不明。



 アレクは、霧の奥を見つめた。


 彼は蒼穹の楔ではない。


 ガルザヴェインと直接戦ったわけではない。


 だが、その名の重さは知っている。


 Sランクパーティが勝てなかった魔物。


 その気配が、灰白庭の奥にまだあるかもしれない。


「撤退するか」


 トーマが言った。


 誰もすぐには答えなかった。


 マルクが、記録板を握りしめる。


「まだです」


 リーゼが叫びそうな顔で彼を見る。


「まだ?」


「今の情報だけでは足りない。ガルザヴェイン反応の有無、迷宮機能、ランク再査定。浅層入口だけでは判断できません」


 リンドが低く言った。


「奥へ進めば帰れなくなるかもしれない」


「分かっています」


「本当に分かってるか?」


 マルクは、静かに答えた。


「分かっています。だから、記録士を連れてきた」


 カルムの喉が鳴る。


 アレクはマルクを見た。


「我々はあなたを守るためにいる。だが、無謀に死なせるためではない」


「承知しています」


「なら、次の異常を確認したら撤退判断を取る」


 マルクは一瞬だけ迷った。


 だが、頷く。


「分かりました」


 ネイザが霧の奥を見た。


「次の異常は、向こうから来るだろうな」


 その言葉通りだった。


 戦屍跡の床下で、骨の音がした。


 さっきより多い。


 かた。


 かたかた。


 かたかたかた。


 部屋の左右で、白い霧が割れる。


 湿った骨の槍が、列をなして現れた。


 最初の骨兵十体とは違う。


 今度は、列だ。


 軍列だ。


 湿骨軍列しつこつぐんれつが、本格的に姿を現した。


 アレクが剣を構える。


 ネイザが矢を番える。


 ガルドスが盾を前に出す。


 ベルグが双斧を構える。


 エリシアの杖に氷が走る。


 サラナの光砂が金色に舞う。


 リンドが糸を張り、トーマが薬瓶を握る。


 マルクが叫ぶ。


「カルム、記録!」


「はい!」


 カルムの筆が走る。



湿骨軍列、本格出現。



 その一行を書き終えた瞬間、骨槍の壁が前へ出た。


 白い霧の中で、再査定調査の最初の本格戦闘が始まった。

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