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第170話 封鎖線は、再査定のために開く

 灰白庭は、封鎖された。


 その通達が王都冒険者ギルド本部の赤掲示板に貼り出されたのは、スタンピード本流が白い霧へ流れ込んだ翌朝だった。


 王都はまだ、血の匂いを拭い切れていない。


 東門の石畳には、負傷兵を運んだ車輪の跡が残っている。


 神殿には、治療を待つ者たちの列が続いている。


 広場では、死者の名が読み上げられている。


 そんな中で、冒険者ギルドの掲示板だけは、別の熱を帯びていた。


 赤い紙。


 王国印とギルド印が並んだ、共同通達。



《王国・ギルド共同通達》


対象:灰白庭、白箱迷宮、銀刻帰らず、白庭化した旧迷靄洞、その他同一地点を指す通称すべて。


内容:


先日の大規模スタンピード流入後、当該迷宮の内部魔力値、構造、魔物反応、報酬生成機能に重大な変化が生じた可能性あり。


正式なダンジョンランク再査定が完了するまで、一般冒険者、素材商、未許可探索者の侵入を禁止する。


違反者はギルド資格停止、および王国法に基づく拘束対象とする。


許可対象:


王国認定調査隊

ギルド査定官

指定護衛戦力

王国騎士団監督官



 掲示板の前で、冒険者たちは押し黙った。


 最初に出た声は、怒りではなく戸惑いだった。


「……封鎖?」


「灰白庭を?」


「今さらかよ」


「今さらじゃねえだろ。十万規模の魔物が入ったんだぞ」


「でも、だからこそだろ」


「何がだ」


「魔物素材だよ。オークも、黒狼も、虫型も、飛行種も、山ほど入った。魔神ゴブリンの血や爪だって残ってるかもしれねえ」


 その言葉に、周囲の目が変わった。


 恐怖で縮んでいた瞳の奥に、欲が灯る。


 魔神ゴブリン・ガルザヴェイン。


 Sランク魔物。


 未成熟とはいえ、蒼穹の楔を退けた化け物。


 その素材が、もし迷宮内に残っているなら。


 爪の欠片一つ。


 血の染みた泥一瓶。


 黒い魔力を帯びた骨片。


 それだけで、一生遊んで暮らせる値が付くかもしれない。


「封鎖前に入れたやつが勝ちだろ」


「馬鹿言え。もう封鎖されてる」


「抜け道くらいある」


「行ったら死ぬぞ」


「浅いところだけなら――」


 その言葉を、近くにいた老冒険者が鼻で笑って遮った。


「銀刻も、暁秤も、きっとそう思ったんだろうよ」


 場が静まった。


 銀刻の五人。


 暁秤。


 どちらもAランクパーティ。


 どちらも、あの白い霧から戻らなかった。


 そして今、灰白庭は十万規模の魔物を呑んだ後でも、壊れていない。


 いや、むしろ外部観測では、魔力値が跳ね上がっているという。


「じゃあ、封鎖ってのは……」


 若い冒険者が呟く。


「危ないから誰も入るな、ってことか?」


 別の冒険者が、通達を指差した。


「違う。再査定だ」


「再査定?」


「ダンジョンランクを測り直すんだよ。灰白庭が、まだAランク相当で済むのかどうか」


 誰かが喉を鳴らした。


 Aランクではないかもしれない。


 その可能性が、掲示板の前にいる全員の背を冷たくした。


 だが同時に、別の感情も生まれる。


 Aランクを超える迷宮。


 十万の魔物を呑んだ迷宮。


 もしそこに宝があるなら。


 もし、そこから何かを持ち帰れたなら。


 恐怖と欲は、同じ場所で育つ。


 ギルド職員が、掲示板の前へ進み出た。


「通達は以上です。灰白庭方面への無許可接近は禁止されます。封鎖線には王国騎士団とギルド監視員が配置されます。違反者は拘束対象です」


「調査隊は入るのか!」


 誰かが叫んだ。


 職員は一瞬だけ目を伏せた。


「王国とギルドの合同再査定調査隊が入ります。護衛として、Aランクパーティ二組が指定されています」


 ざわめきが起きる。


「Aランク二組?」


「二組も?」


「そこまで必要なのか」


「逆だろ」


 老冒険者が低く言った。


「二組で足りるか、分からないってことだ」


    ◇


 王城地下の軍議室には、まだ戦場の空気が残っていた。


 机の上には、灰白庭周辺の地図が広げられている。


 王都。


 ローヴェ平原。


 第二防衛線。


 南東の森。


 そして、白い霧の印。


 人間側では、そこに正式な名はまだない。


 灰白庭。


 白箱迷宮。


 銀刻帰らず。


 白庭化した旧迷靄洞。


 資料によって呼び名が違う。


 だが、今はどの呼び名でも同じ場所を指していた。


 軍務卿オルド・ヴァイゼンは、地図を見下ろしていた。


 疲れは隠せない。


 目の下には濃い影があり、声にもわずかな掠れがある。


 だが、彼は座っていなかった。


 座れば、眠ってしまう気がしたからだ。


「目的を再確認する」


 オルドは言った。


「今回の任務は、灰白庭の攻略ではない。素材回収でもない。宝探しでもない。王国とギルドによる正式な再査定だ」


 ギルド本部長エルナンド・ロウが頷いた。


「外縁観測だけでは、すでに限界があります。内部へ入らなければ、現在の危険度は測れません」


 魔術師団長リヴァルトが、数枚の魔力盤写しを机に置く。


「魔力値は、スタンピード前と比べて明らかに上昇しています。灰霧、白磁、泥、骨系の反応が複雑に絡んでいる。加えて、Sランク魔物ガルザヴェインの反応が、内部流入後に追跡不能となりました」


 神殿代表の老司祭が、重い声で言う。


「追跡不能とは、死んだという意味ではないのですな」


「断定できません」


 リヴァルトは答える。


「死んだ可能性。迷宮に喰われた可能性。深部に沈んだ可能性。封じられた可能性。いずれもあります」


「最悪は?」


 オルドが問う。


 誰もすぐには答えなかった。


 やがてエルナンドが静かに言った。


「迷宮が、何らかの形でガルザヴェインを利用可能にした場合です」


 軍議室の空気が、さらに重くなる。


 オルドは目を閉じた。


「それを確かめるために、調査隊を入れる」


「はい」


「そして、ダンジョンランクを再査定する」


「はい」


 オルドは、地図上の白い霧の印を見た。


「Aランクのままか」


 エルナンドは答えない。


「それとも、Sランク相当か」


 その言葉が出た瞬間、部屋の中にいた者たちの視線が一度だけ動いた。


 Sランク迷宮。


 それは、王国にとって意味が重い。


 Aランク迷宮は危険だ。


 高位冒険者を要求し、多くの死者を出す。


 だが、まだ探索対象として扱える。


 宝を求める者が入り、調査隊が入り、ギルドが管理しようとする。


 しかしSランク迷宮は違う。


 国が動く。


 聖教会が動く。


 場合によっては、勇者やそれに準ずる者の名まで出てくる。


 オルドは言った。


「正確な情報が必要だ。だが、情報を取りに行く者を死なせれば意味がない」


「だから、Aランクパーティ二組を護衛に付けます」


 エルナンドが答える。


「それでも安全とは言えません」


「分かっている」


 オルドは、軍議室の扉へ視線を向けた。


「呼べ」


    ◇


 扉が開き、二組のAランクパーティが入ってきた。


 一組目は、鋼旗の四剣こうきのしけん


 正面戦闘に強い、王国騎士団との共闘経験もあるAランクパーティ。


 先頭に立つのは、隊長アレク・ヴァイス。


 白銀の長剣を腰に下げた剣士だ。


 騎士家の出ではない。


 平民出身の冒険者。


 それでも、立ち姿は騎士に近い。


 背筋は伸び、目は冷静で、周囲を見る時に必ず仲間の位置を確認している。


 盾役のガルドス・レイムは、巨大な方盾と戦槌を背負っていた。


 鎧の上からでも分かる厚い体。


 だが、動きは鈍くない。


 仲間の前へ出るために鍛えた体だ。


 魔術師エリシア・ノートは、氷色の杖を持っている。


 表情は静かで、周囲の魔力の流れを目だけで追っていた。


 斥候リンド・カーレンは、細身の男だった。


 短剣と細い糸罠を腰に下げ、部屋へ入った瞬間から出口と床の継ぎ目を見ている。


 二組目は、暁鴉のあかつきがらすのつる


 調査、追跡、魔物群戦に強いAランクパーティ。


 隊長ネイザは、黒い弓を背負った寡黙な弓手。


 鋭い目で、誰よりも先に地図を見た。


 前衛ベルグは、双斧を背負った大柄な男だ。


 荒い雰囲気だが、歩く時に仲間の射線を塞がない。


 光砂術師サラナは、細い金色の砂筒を腰にいくつも下げている。


 視界確保と幻惑を得意とする術師だ。


 薬師兼呪具師トーマは、瓶と呪具を大量に下げた男だった。


 手袋を外さず、椅子にも座らない。


 毒と薬を扱う者らしい慎重さがある。


 アレクが最初に口を開いた。


「任務内容は、灰白庭の再査定調査。攻略ではなく、調査隊の護衛。生還と情報持ち帰りが最優先。そう聞いています」


「その通りだ」


 オルドが答える。


 ネイザが低く言う。


「撤退判断は現場で?」


 エルナンドが頷いた。


「任せます。危険が想定を超えた場合、即時撤退してください」


 ベルグが片眉を上げる。


「Aランク二組つけて、最初から撤退の話かよ」


「そういう場所です」


 エルナンドの声は、硬かった。


 軽口を返す者はいなかった。


 灰白庭は、Aランク二組でも軽視していい場所ではない。


 それは、この部屋にいる全員が理解していた。


 査定官マルク・ゼノが、静かに前へ出た。


 痩せた男だ。


 眼鏡の奥の目は冷静で、指には魔力測定用の銀輪がはめられている。


「確認項目は六つです」


 彼は、淡々と読み上げる。


「外縁構造の変化。浅層魔物反応。スタンピード由来の残留素材。報酬構造の変化。ガルザヴェイン反応の有無。ダンジョンランク再査定」


 魔力盤技師リーゼ・アルムは、まだ若い女だった。


 だが、三枚の魔力盤を扱える技師は王都でも少ない。


 彼女は少し青い顔で言った。


「私は魔力値と属性変化を見ます。ただし、内部反応が外縁値を超える場合、盤が割れる可能性があります」


 浄化鑑定官オルフェンは、神殿の白布を持つ壮年の男だ。


「私は死体魔力、腐敗魔力、魔神性、呪いの混入を見ます。十万の魔物が死んだ場所なら、普通は正気でいられません」


 記録士カルムは、他の三人より明らかに若かった。


 防水紙と墨管を胸に差し、硬い顔で立っている。


「私は、すべてを記録します」


 その声は少し震えていた。


 だが、逃げる声ではなかった。


 アレクは、調査隊四人を見た。


「我々が守ります」


 その言葉に、カルムの表情が少しだけ和らいだ。


 しかし、リンドは小さく言った。


「守れる範囲でな」


 アレクはリンドを見た。


 リンドは肩をすくめる。


「悪いが、今回ばかりは綺麗事を言う場所じゃない。俺たちが死ぬと思ったら、調査隊を捨ててでも戻る判断が要る」


 ガルドスが低く言った。


「簡単に捨てると言うな」


「言葉の話じゃない。判断の話だ」


 エリシアが静かに割って入る。


「その判断をするためにも、情報が要る。だから調査隊を守る。守れないと判断したら撤退する。それでいい」


 ネイザが頷いた。


「暁鴉も同じだ」


 ベルグは不満そうに鼻を鳴らしたが、反論はしなかった。


 オルドは全員を見回す。


「これは王都を生かした後始末だ。だが、同時に次の危機を測るための任務でもある」


 彼は、地図の白い霧へ視線を落とした。


「灰白庭がAランクのままなら、管理方法を考える。Sランク相当なら、王国の対応を変える。君たちの報告が必要だ」


 マルクが答えた。


「必ず持ち帰ります」


 エルナンドは、少しだけ目を伏せた。


 その言葉を、彼は何度も聞いてきた。


 そして、その言葉を残して帰らなかった者も多い。


    ◇


 出発前、Aランク二組は別室で最終確認を行った。


 鋼旗の四剣と暁鴉の弦は、過去に何度か共同任務を経験している。


 仲が良いわけではない。


 だが、互いの実力は知っていた。


「正面は鋼旗」


 ネイザが地図を見ながら言った。


「霧の視界確保と側面警戒は暁鴉」


 アレクが頷く。


「ガルドスが調査隊の前を守る。エリシアは戻り水や泥への対処を優先。リンドは罠線と帰路の確認」


 リンドが細い糸を指で弾く。


「帰路が怪しいんだよな、この迷宮」


「帰路喰らいの噂か」


 トーマが言う。


「帰れなくなる。出口がずれる。戻ろうとしたら同じ場所に出る。いろいろ聞く」


「噂だろ」


 ベルグが言った。


 リンドは首を横に振る。


「帰れなかったやつの噂は聞けない。聞ける噂は、帰ったやつが拾った端っこだけだ」


 サラナが光砂の筒を確認しながら言った。


「嫌なこと言うね」


「嫌な場所だからな」


 ネイザは、静かに矢を並べていた。


「魔神ゴブリンの反応が残っていたら?」


 部屋が少し静かになる。


 アレクが答える。


「戦わない。確認だけして撤退する」


 ベルグが眉をひそめる。


「Sランク魔物の残り香を見つけて逃げるのか」


「そうだ」


「Aランク二組だぞ」


「蒼穹の楔はSランクだ」


 アレクの声は静かだった。


「その蒼穹の楔が勝てなかった相手だ。傷ついていたとしても、戦う理由がない」


 ベルグは口を閉じた。


 それは、反論できない事実だった。


 ガルドスが大きな方盾を床に置く。


「俺は調査隊を守る。お前らは、守れるように動け」


 リンドが苦笑する。


「盾役はいつもそれだな」


「それしかできん」


「それができるからAランクなんだよ」


 エリシアが小さく言った。


 ガルドスは少しだけ照れたように鼻を鳴らした。


 アレクは、白銀の剣を確認する。


 仲間たちを見た。


 誰も逃げる顔はしていない。


 恐れてはいる。


 だが、足は止まっていない。


「行こう」


 彼は言った。


「測って、帰る」


    ◇


 封鎖線の前には、すでに人だかりができていた。


 王国騎士団が槍を並べ、ギルド職員が封鎖札を掲げている。


 だが、その外側には冒険者や素材商が集まっていた。


 彼らは調査隊を見た。


 Aランク二組を見た。


 そして、白い霧を見た。


「あれが再査定隊か」


「Aランク二組だぞ」


「なら戻るだろ」


「銀刻もAランクだった」


「二組いる」


「暁秤もいた」


「でも今回は調査隊だ。攻略じゃない」


「迷宮が、そんな区別するかよ」


 そんな声が、低く飛び交う。


 その中に、パン屋の娘ミーナもいた。


 本来なら避難所にいるべきだった。


 だが、父親が東門へパンを運んだまま負傷者搬送に巻き込まれ、今は神殿で手当てを受けている。


 母親の代わりに水を運んだ帰り、彼女は封鎖線の近くまで来てしまった。


 白い霧が見える。


 遠いのに、目を離せない。


 あそこへ、魔物の黒い地平線が流れた。


 王都が助かった。


 でも、助かったという言葉の先に、あの霧がある。


 ミーナは、調査隊の中に若い記録士を見つけた。


 カルム。


 彼の顔は青い。


 だが、胸に記録道具をしっかり抱えている。


 ミーナは、思わず祈った。


 名前も知らない相手に。


 戻ってきて、と。


    ◇


 封鎖線の内側で、査定官マルクが最後の確認を行った。


「記録士カルム」


「はい」


「見たものを省くな。恐怖で手が止まるのは構わない。だが、見たことをなかったことにするな」


「はい」


「リーゼ」


「はい」


「盤が割れそうなら、割れる前に数値を叫べ」


「叫ぶんですか」


「書く時間がない場合は叫べ。カルムが拾う」


「分かりました」


「オルフェン」


「死体魔力と魔神性の混合を最優先で見ます。浄化できるかどうかではなく、どれほど危険かを」


「それでいい」


 アレクが前に出る。


「調査隊は中央。鋼旗が前と右。暁鴉が左と後方。霧の中で互いの声がずれた場合、事前符号だけを信じる。名前を呼ばれても即応しない」


 リンドが付け加える。


「声真似の噂がある。仲間の声を聞いても、一拍置け」


 ベルグが顔をしかめる。


「嫌な迷宮だな」


 トーマが笑わずに言う。


「嫌じゃない迷宮にAランク二組は出ない」


 ネイザは、白い霧を見たまま言った。


「行くぞ」


 封鎖線が開かれる。


 槍を持つ騎士たちが道を作る。


 ギルド職員が封鎖札を下げる。


 十二人は、白い霧へ向かって歩き出した。


 最初にアレク。


 その隣にガルドス。


 背後に調査隊。


 左にネイザたち。


 右にエリシアとリンド。


 霧が近づく。


 ひんやりとした湿気が、肌に触れる。


 ただの霧ではない。


 見ているような霧。


 待っているような霧。


 カルムが喉を鳴らした。


 マルクが言う。


「記録開始」


 カルムは震える手で、防水紙に最初の一行を書いた。



灰白庭再査定調査、開始。



 そして、十二人は白い霧の中へ入った。


 封鎖線の外で、それを見送る人々は誰も声を出さなかった。


 霧は、彼らを静かに呑み込んだ。

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