第169話 王都は、助かったことを喜べない
王都は、生き残った。
その報せが避難所に届いた時、人々は最初、言葉の意味を理解できなかった。
王都が生き残った。
魔物の本流は王都から逸れた。
灰白庭方面へ流れた。
今すぐ外壁が破られることはない。
それは、喜ぶべき知らせだった。
泣いていた子供が顔を上げる。
祈っていた老人が、震える手を下ろす。
疲れ切った兵士が、壁にもたれて息を吐く。
神殿の床に座り込んでいた避難民たちの間に、ゆっくりと安堵が広がっていく。
「助かったの?」
「魔物は?」
「王都には来ないの?」
「本当に?」
誰も、はっきりとは答えられなかった。
ただ、伝令が繰り返す。
「本流は逸れた! 王都方面の残敵は掃討中! 避難命令は継続! 外へ出るな!」
助かった。
だが、まだ家へは帰れない。
助かった。
だが、戦いは終わっていない。
助かった。
だが、何を代償に助かったのか、誰も知らない。
避難所の隅で、パン屋の娘ミーナは弟を抱えていた。
弟は眠っている。
泣き疲れ、祈り疲れ、最後には母親の膝で力尽きたように眠った。
ミーナは、伝令の言葉を何度も頭の中で繰り返す。
王都には来ない。
魔物は逸れた。
灰白庭へ向かった。
その言葉に、彼女は安堵した。
だが、その直後、胸の奥に別のものが残った。
灰白庭。
白い箱があるという迷宮。
宝が出るが、人が帰らないという場所。
銀刻という有名な冒険者たちが戻らなかった場所。
そこへ、あの黒い地平線が流れた。
では、その迷宮の近くにいた人たちはどうなったのか。
もし魔物がまた出てきたらどうなるのか。
灰白庭が、それを全部呑み込んだのなら。
それは、何なのか。
「お姉ちゃん」
弟が寝ぼけた声で言った。
「パン、焼ける?」
ミーナは、弟の髪を撫でた。
「……うん。焼けるよ」
今度の言葉は、前より少しだけ本当だった。
でも、完全な本当ではなかった。
窯は無事か。
父は帰ってくるのか。
東区の店へ戻れるのか。
何も分からない。
王都は生き残った。
だが、人々の生活が戻ったわけではなかった。
◇
王城の軍議室では、誰も喜んでいなかった。
机の上には、血と泥で汚れた報告書が積まれている。
第一防衛線、放棄。
第二防衛線、縮小維持。
残敵掃討中。
死傷者、多数。
行方不明者、多数。
蒼穹の楔、戦闘不能。
魔物本流、灰白庭方面へ流入。
魔神ゴブリン・ガルザヴェイン、追跡不能。
軍務卿オルド・ヴァイゼンは、報告書を一枚ずつ読んでいた。
目は赤い。
眠っていない。
鎧も脱いでいない。
それでも、読むのをやめられなかった。
読まなければ、死者がただの数になる。
数にしなければ、次の命令が出せない。
軍務卿という役目は、そういうものだった。
「観測班からの第二報は」
オルドが問う。
ギルド本部長エルナンド・ロウが、別の報告書を差し出した。
「こちらです」
オルドは受け取り、目を通す。
⸻
灰白庭外縁観測 第二報
魔物軍勢の本流、内部流入を確認。
流入後、魔物反応が急速に減少。
白灰系魔力、戦闘前より大幅増大。
内部から断続的に泥属性、白磁属性、灰霧属性、骨系魔力反応を確認。
Sランク反応、追跡不能。
灰白庭外縁の霧濃度、上昇。
接近、極めて危険。
⸻
オルドは読み終えた後、報告書を机へ置いた。
「喰っているな」
「そう見るべきでしょう」
エルナンドが答える。
「十万規模の魔物を、か」
「すべてではないにせよ、相当数を処理しているようです」
「処理」
オルドは苦い顔でその言葉を繰り返した。
「便利な言葉だ。喰った、と書かずに済む」
エルナンドは否定しなかった。
魔術師団長リヴァルトが、魔力盤の写しを机に置く。
「問題は、迷宮魔力の上昇幅です。通常の戦闘後反応ではありません。迷宮そのものが、急激に膨張したような値が出ています」
「膨張?」
「比喩です。物理的に大きくなったかは未確認。ただし、内部魔力容量が増えている」
「魔物を喰ったからか」
「おそらく」
神殿代表の老司祭が、重い声で言った。
「我々は、災厄を生贄に捧げたのかもしれませんな」
軍議室が静まる。
オルドは、老司祭を見た。
「神殿は、そう記録するのか」
「公式にはしません」
「では何と」
「王都防衛のため、魔物群の進路を灰白庭方面へ逸らした。そう書かれるでしょう」
「実際には?」
老司祭は目を伏せた。
「我々は、恐ろしいものを、別の恐ろしいものへ押し込んだ」
誰も反論しなかった。
反論できなかった。
◇
騎士団総長ヴァルデンは、地図の上に駒を置いた。
王都。
第二防衛線。
残敵掃討区域。
灰白庭。
そして、灰白庭の周囲に、観測用の青い駒。
「監視線を三重にする」
ヴァルデンが言った。
「一線目は遠距離観測。二線目は避難誘導準備。三線目は王都側残敵防衛」
オルドが問う。
「灰白庭へ直接近づく部隊は」
「出しません」
「調査隊は?」
「今は出せません。出せば死ぬ」
ヴァルデンは断言した。
「第一防衛線で兵は疲弊しています。冒険者も損耗した。蒼穹の楔も戦えない。今、灰白庭へ入れる者はいない」
エルナンドも頷く。
「ギルドとしても、当面は侵入禁止を勧告します」
「勧告で済むのか」
「正式な封鎖には王国命令が必要です」
「出す」
オルドは即答した。
「灰白庭方面への無許可接近を禁ずる。宝目当ての冒険者が勝手に入るのを止めろ」
エルナンドは、わずかに顔をしかめた。
「止まらない者は出ます」
「なぜだ」
「宝が出るからです」
「この状況で?」
「この状況だからです」
エルナンドの声には、苦い確信があった。
「十万規模の魔物が灰白庭へ流れた。迷宮がそれを呑んだ。なら、こう考える者が必ず出ます。魔物の素材がある。Sランク魔物の残滓がある。灰白庭は新しい宝を生んだ、と」
オルドは、目を閉じた。
「馬鹿どもが」
「はい」
「死ぬぞ」
「はい」
「それでも行くのか」
「冒険者ですので」
その言葉は、軽蔑ではなかった。
諦めに近かった。
軍務卿は深く息を吐く。
「封鎖命令を出す。違反者は拘束。ギルドも協力しろ」
「協力します。ただし、闇市系は別です」
「また黒市か」
「黒市主は消えたと見ていますが、闇市そのものは残っています。魔物素材、迷宮産素材、Sランク残滓。彼らが動かない理由はありません」
ヴァルデンが低く唸る。
「王都はまだ血を拭いてもいないのに、もう盗人の心配か」
「むしろ今が動きやすい」
エルナンドは言った。
「混乱、死体、素材、封鎖前の抜け道。闇市にとっては好機です」
軍議室の空気がさらに重くなる。
王都は魔物から逃れた。
だが、次は人間の欲を相手にしなければならない。
◇
医療天幕では、蒼穹の楔が静かに横たわっていた。
イグナスは、眠っている。
腹部の傷は塞がり始めているが、当面は剣を振れない。
ドルガは両足を固定され、胸に厚い祈祷布を巻かれている。
セネリアは声が戻らず、手元の布に短い言葉だけを書いて意思を伝えている。
ラティカは魔力枯渇と火傷で熱を出していた。
ユードは、片腕を失った側の肩を押さえながら、起き上がっていた。
「寝ていろ」
ラティカが、かすれた声で言った。
「君もな」
「私は寝てる」
「目が開いている」
「うるさい」
ユードは、医療天幕の外を見た。
遠くで、まだ負傷者が運ばれている。
担架の音。
祈り。
水を求める声。
泣く声。
王都は助かった。
だが、戦場はまだ終わっていない。
イグナスが、ゆっくり目を開けた。
「……報告は」
ユードが答える。
「本流は灰白庭へ入った」
「ガルザヴェインは」
「追跡不能」
イグナスは目を閉じる。
「死んだと思うか」
「分からない」
「お前はどう思う」
ユードは、少し黙った。
「死んでいればいいと思う」
「答えになっていない」
「なら、答える。分からない。ただ、あの迷宮が普通に喰っただけで終わるとは思えない」
ラティカが弱く笑った。
「嫌なこと言うね」
「事実だ」
セネリアが、布に文字を書く。
⸻
灰白庭は、怖い?
⸻
ユードは、その文字を見た。
「怖い」
即答だった。
「ガルザヴェインとは別の怖さだ。あいつは正面から強かった。灰白庭は、見えない。中で何が起きたのか分からない。十万が入って、静かになった。それが怖い」
ドルガが寝台の上で、低く笑った。
「化け物に化け物をぶつけたら、片方が静かに太ったってわけか」
「笑えない」
ラティカが言った。
「笑ってないさ」
ドルガの声は疲れていた。
イグナスは、天幕の天井を見た。
「俺たちは、ガルザヴェインに届かなかった」
「届いた」
ユードが言った。
「首を裂いた。胸を焼いた。足を止めた。だが、倒せなかった」
「それを届かなかったと言う」
イグナスの声には、悔しさがあった。
Sランクになったばかり。
英雄に近いと言われた。
王都中が期待した。
だが、勝てなかった。
その現実は、傷より深く残る。
セネリアが布に書く。
⸻
生きている
⸻
イグナスは、その文字を見た。
セネリアは、さらに書く。
⸻
次がある
⸻
ラティカが、熱に浮かされたように笑った。
「そうね。まず歩けるようになってから、次を考えましょ」
ユードは、自分の失った左腕を見る。
もうない。
だが、影弓は片腕でも引ける。
ガルザヴェインを誘導した時、それを証明した。
「次までに、俺たちも変わらなければな」
イグナスは頷いた。
「灰白庭を監視する必要がある」
「今は寝てから言え」
ラティカが言った。
今度は、イグナスも反論しなかった。
◇
王都の外郭広場では、死者の名が読み上げられていた。
すべてではない。
まだ身元確認が終わっていない者が多い。
第一防衛線に残された死体もある。
魔物に喰われた者もいる。
だが、分かる名から読まれていく。
騎士。
警備兵。
冒険者。
傭兵。
神殿兵。
荷運び。
弩砲整備兵。
担架を運んで戻らなかったDランク。
血餌の樽を運んで踏み潰された兵。
音響陣で銅鑼を叩き続け、飛行種に殺された老人。
その名が一つずつ、広場に落ちる。
家族が泣く。
仲間が拳を握る。
誰も知らない名前には、神官が代わりに祈る。
エランは、その広場の端に立っていた。
腕には包帯。
足元には、支給された短槍。
ラウドは生きていた。
だが、まだ意識が戻らない。
エランは、読み上げられる名を聞いていた。
何人かは知っている。
何人かは知らない。
知らない名の方が多い。
だが、今日からその名は、王都を守った者の名になる。
隣に、担架を運んでいたDランク冒険者の青年が立っていた。
彼も黙って聞いている。
「ラウドさん、名前呼ばれなくてよかったな」
青年が小さく言った。
「はい」
「生きてるって、すごいな」
「はい」
二人は、それ以上話さなかった。
広場の向こうで、神官が次の名を読み上げる。
そのたびに、誰かが崩れ落ちる。
王都は助かった。
だが、助かったという言葉は、死んだ者の家族には残酷だった。
◇
夜になって、王都には二つの噂が広がり始めた。
一つは、蒼穹の楔の噂。
Sランクパーティが魔神ゴブリンと戦い、敗れながらも傷を負わせた。
ユードが片腕で魔神を誘導し、軍勢を灰白庭へ曲げた。
イグナスは倒れてもなお第二案を求めた。
セネリアは声を失うほど祈った。
ドルガは盾を砕かれても仲間を守った。
ラティカの雷炎が魔神の胸を焼いた。
彼らは敗者ではない。
王都を生かした者だ。
そう語る者がいた。
もう一つは、灰白庭の噂。
十万の魔物が入った。
霧が濃くなった。
魔物の声が消えた。
ガルザヴェインの反応が消えた。
迷宮が食った。
いや、封じた。
いや、魔神はまだ奥で生きている。
白い箱には、魔神の血が入る。
灰白庭の宝は、今までの十倍になる。
近づけば死ぬ。
だが、今なら誰も入っていないから、宝を拾えるかもしれない。
恐怖と欲は、同じ速度で広がった。
王都が疲れ果てて眠ろうとする夜に、冒険者の宿ではすでに誰かが囁いていた。
「封鎖される前なら」
「馬鹿、今は無理だ」
「でも、魔神素材だぞ」
「死にたいのか」
「浅いところだけなら」
「銀刻もそう思ったんじゃないか」
その言葉で、会話は一度止まる。
だが、完全には消えない。
欲は、恐怖では死なない。
少し静かになるだけだ。
◇
王城の高台で、オルドとエルナンドは、南東の空を見ていた。
灰色に濁った夜。
そこに何があるのかは見えない。
だが、二人とも同じものを考えていた。
灰白庭。
自分たちが魔物を押し付けた迷宮。
十万を呑み、なお静かな場所。
「封鎖命令は明朝出す」
オルドが言った。
「ギルドも同時に通達します」
「闇市対策は」
「監視を強めます。ただ、完全には防げません」
「だろうな」
オルドは、南東を見たまま言う。
「王都は、あの迷宮に借りを作ったと思うか」
エルナンドは、少し考えた。
「借り、というより」
「より?」
「負債です」
「嫌な言葉だ」
「借りなら、返す相手が分かります。ですが、灰白庭が何を求めるか、我々には分からない」
オルドは苦い顔で笑った。
「確かに」
しばらく沈黙があった。
遠くで、まだ負傷者を運ぶ車輪の音がする。
王都は眠れない。
眠れるはずがない。
「明日から忙しくなるな」
オルドが言った。
「今日も十分忙しかったですが」
「明日は、もっとだ。死者を数え、負傷者を治し、残敵を掃討し、灰白庭を封鎖し、民を落ち着かせ、貴族どもに説明し、王へ報告する」
「そして、魔神ゴブリンがどうなったかを考え続ける」
「そうだ」
オルドは、南東の灰色の空を見た。
「もし、あれが生きていたら?」
エルナンドは答えなかった。
答えを持っていないからだ。
ただ、心の中で思った。
もし魔神ゴブリンが生きているなら。
もし灰白庭が、それをただ殺さず、何らかの形で取り込んだなら。
王都は、今日とは別の恐怖を抱えることになる。
そして、その恐怖は、王都の外壁よりずっと静かに近づいてくる。
◇
その夜、灰白庭方面の観測班は、三度目の報告を送った。
⸻
灰白庭外縁観測 第三報
内部音、ほぼ消失。
魔物反応、残少。
迷宮魔力、異常高止まり。
霧濃度、上昇継続。
Sランク反応、捕捉不可。
外縁に明確な崩壊なし。
結論:
灰白庭は、スタンピードによる破壊を受けてなお、活動を継続中。
接近、厳禁。
⸻
その報告を受けたエルナンドは、しばらく紙を見ていた。
そして、最後の一文に自分の手で追記した。
⸻
未確認事項:
魔神ゴブリン・ガルザヴェインの生死。
⸻
彼は筆を置いた。
その未確認こそが、最も恐ろしかった。
灰白庭の白い霧は、遠くから見れば静かだった。
だが、その静けさは、平穏の静けさではない。
何かが、食べ終えて息を潜めている静けさだった。




