第168話 魔神を飼うには、檻より役割が要る
魔神ゴブリン・ガルザヴェインは、強い。
それは分かった。
十分に分かった。
十万の魔物を率い、霧灰白庭迷宮の浅層、中層、宝物庫、骸門残響隔離層を越え、コア前まで辿り着いた。
未成熟で、なおSランク。
契約した今となっては、これ以上ない戦力だ。
だが。
「ロード」
「何だ」
「ゴブリンが、全部止まってる」
「……何?」
フィルエの声に、余は白い部屋の壁面を切り替えた。
浅層。
灰霧回廊。
宝箱保管区。
霧喰い大蛾育成温室の外。
ゴブリンたちが、いた。
いたのだが、動いていなかった。
通常ゴブリンも。
灰かぶりゴブリンも。
アンデッドゴブリンも。
戦後に回収された野良ゴブリン系の生存個体も。
全員、宝箱や白灰匣から妙に距離を取って、地面に伏せていた。
「……何をしている」
《ゴブリン群、待機中》
「なぜだ」
《魔神ゴブリン・ガルザヴェインによる命令が原因と思われます》
「命令?」
思い出した。
ガルザヴェインは言った。
ハコ、クウナ。
それだけで、ゴブリンたちは一斉に地面へ伏せた。
余は嬉しかった。
とても嬉しかった。
長年の悩み、宝箱食害がようやく解決するかもしれないと思った。
だが、今の状況は。
「管理音声」
《はい》
「あいつら、宝箱を食わないどころか、近づかなくなっていないか」
《はい》
「宝箱運搬ゴブリンまでか?」
《はい》
「それでは運搬できんだろうが!」
壁面の一角では、宝箱運搬用に使っていたゴブリンが、白灰匣を前にして震えていた。
運ぶべき箱だ。
食うものではない。
だが、ガルザヴェインの命令が強すぎたせいで、箱そのものへ近づけなくなっている。
「ギ……」
「ギギ……」
「ギィ……」
ゴブリンたちは、箱を見て怯え、ガルザヴェインのいる魔神練兵窟の方角へ額をこすりつけている。
「……効きすぎだ」
《はい》
「極端なのだ、こいつらは!」
フィルエが小さく笑った。
「ロード、嬉しそうだったのに」
「嬉しかった! だが、これは違う!」
白骨書記が、白骨書記室から骨筆を持って現れた。
そして床に書く。
⸻
魔神命令の問題点:
一、ゴブリンへの浸透率が高すぎる。
二、命令内容が単純すぎる。
三、食害禁止が接触禁止として誤解されている。
四、宝箱運搬業務に支障。
五、今後のゴブリン運用体系に再教育が必要。
⸻
「五番目がもっともらしくて腹立たしい」
《適切です》
「分かった。ガルザヴェインを呼べ」
《魔神ゴブリン・ガルザヴェインは回復槽内です》
「意識は」
《覚醒中》
「なら話せる」
魔神練兵窟へ意識を向ける。
ガルザヴェインは、黒灰色の回復槽に胸まで浸かっていた。
傷はかなり塞がってきている。
胸の裂傷も、腕の裂け目も、足首の傷も、泥と戻り水と森灰によってゆっくりと埋まりつつある。
だが、目はぎらぎらしていた。
休んでいるというより、戦う準備をしながら動けないことに苛立っている目だった。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「お前の命令が強すぎる」
「ツヨイ、イイ」
「よくない」
ガルザヴェインは首を傾げた。
「ハコ、クワナイ」
「それはよい」
「ナラ、イイ」
「違う。食わないのはよい。だが、運ぶのはよい。守るのもよい。近づくのもよい。噛むのが駄目だ」
ガルザヴェインは、しばらく黙った。
言葉を整理している。
「ハコ、クウ、ダメ」
「そうだ」
「ハコ、モツ、イイ」
「そうだ」
「ハコ、マモル、イイ」
「そうだ」
「ハコ、ナメル?」
「駄目だ!」
そこを聞くな。
なぜ聞いた。
ゴブリン文化では、箱を舐めることがそんなに重要なのか。
いや、考えたくない。
「ハコ、ナメル、ダメ」
「そうだ」
「ワカッタ」
「では、正確に命令し直せ」
ガルザヴェインは、ゆっくり回復槽から上半身を起こした。
まだ動くなと言いたかったが、今回は必要だ。
彼は魔神練兵窟の床へ手をつく。
胸の契約線が、金色に濁って光った。
「ゴブリン」
その声が、迷宮内の全ゴブリンへ届く。
通常ゴブリンが震える。
灰かぶりゴブリンが伏せる。
アンデッドゴブリンまで動きを止める。
グズの泥の奥にいたゴブリン系残滓すら、わずかに反応した。
ガルザヴェインは言った。
「ハコ、クウナ。ナメルナ。カジルナ」
そこで一度止まる。
余は、固唾を呑んで聞いた。
「ハコ、モテ。ハコ、マモレ。ロード、ユルス、ナラ、サワレ」
浅層のゴブリンたちが、一斉に顔を上げた。
「ギ?」
「ギギ?」
「ギィ!」
宝箱運搬ゴブリンが、恐る恐る白灰匣へ近づく。
手を伸ばす。
触る。
噛まない。
舐めない。
持ち上げる。
《宝箱運搬ゴブリン、業務再開》
「……成功だ」
《はい》
「素晴らしい」
白骨書記が、即座に書いた。
⸻
魔神命令、再定義成功。
宝箱食害抑制と運搬業務の両立を確認。
⸻
「これは本当に素晴らしい」
フィルエが笑った。
「ロード、今日一番嬉しそう」
「事実だ」
十万の魔物を喰った時より、別種の喜びがある。
長く続いた問題が解決したような感覚。
まあ、また別の問題が生まれるのだろうが。
◇
魔神練兵窟には、ゴブリンが集まり始めていた。
余が許可した個体だけだ。
無秩序に集めれば、ガルザヴェインの魔神性で壊れる。
だから、白骨書記の台帳に従って選別した。
通常ゴブリン、二十体。
灰かぶりゴブリン、十体。
影罠補助適性のある小柄な個体、六体。
泥門補助に回せそうな頑丈な個体、八体。
宝箱運搬担当、四体。
スタンピード軍勢から生き残ったが、魔神性の過負荷を受けすぎていない個体、五体。
全部で五十三体。
それが、魔神練兵窟の端に集められた。
全員、震えている。
だが、恐怖だけではない。
ガルザヴェインを見る目には、崇拝がある。
憧れがある。
近づけば死ぬかもしれないと分かりながら、それでも近づきたがる本能がある。
これを放っておくと危険だ。
だから、役割を与える。
「白骨書記。分類を始めろ」
白骨書記は、骨板を五枚並べた。
⸻
一、泥門補助ゴブリン
二、霧走りゴブリン
三、影罠補助ゴブリン
四、宝匣運びゴブリン
五、魔神練兵窟候補生
⸻
「まず、泥門補助」
泥塞大門将グズの泥を少量流す。
ゴブリンたちの足元に、灰色の泥が広がった。
それを怖がらずに踏んだ個体を選ぶ。
一匹。
二匹。
三匹。
数匹が、泥に足を取られて転ぶ。
だが、八体は転ばずに踏ん張った。
足腰が強い。
泥を嫌がらない。
「泥門補助へ」
白骨書記が記録する。
「次、霧走り」
ハイハネの霧を薄く流す。
視界が落ちる。
その中で、迷わず進める個体。
鼻だけでなく、壁の湿りや床の気配を読む個体。
十体中、四体が合格した。
フィルエが言う。
「あの灰かぶり二体、いい」
「なぜ」
「霧の中で足音を変えてる。自分の位置を隠してる」
「採用」
白骨書記が記録する。
「次、影罠補助」
カゲヌイの影針を、痛くない程度に床へ落とす。
それを見えるか。
避けるか。
避けられなくても、踏んだ後にどう動くか。
小柄な六体のうち、三体が適性あり。
一体は影針を見て、針そのものではなく影の根元を指した。
カゲヌイの影が、少しだけ動いた。
《カゲヌイ、対象個体に興味》
「採用だ」
次、宝匣運び。
これは簡単だ。
箱を持てるか。
食わないか。
舐めないか。
途中で落とさないか。
ガルザヴェインの命令後なので、食害は起きなかった。
ただし、一体は白灰匣を持ったまま、なぜか誇らしげにポーズを取った。
「何をしている」
《宝箱保持を功績と認識している可能性》
「まあ、落とさないならよい」
最後に、魔神練兵窟候補生。
これは慎重に選ぶ。
ガルザヴェインの魔神性に近づきすぎても壊れない個体。
だが、崇拝だけで近づく個体は駄目だ。
自分の足で立てる個体。
戦う意思がある個体。
強くなりたい個体。
ただし、すぐ死なない個体。
スタンピード軍勢から生き残った五体が前へ出た。
どれも傷だらけだ。
金色の目は、もう薄くなっている。
ガルザヴェインの魔神性から離れたことで、無理な強化が抜けつつある。
だが、体にはその痕跡が残っている。
強くなりかけ、壊れかけ、生き残った個体。
ガルザヴェインは、その五体を見た。
「ノコッタ」
「そうだ。お前の軍勢から残った」
「ヨワイ?」
「今は弱い」
ガルザヴェインの目が動く。
余は続けた。
「だが、器を与えれば強くなるかもしれん」
「ウツワ」
「ここだ」
余は、魔神練兵窟の床を鳴らした。
「この区画で、役割を持って鍛える。お前がただ魔神性を流し込むのではない。迷宮が受け、泥が支え、霧が慣らし、骨が矯正する」
ガルザヴェインは、五体を見たまま言った。
「ヤル」
「許可制だ」
「ロード、ミル」
「そうだ。余が見る。フィルエも見る。白骨書記も記録する」
白骨書記が、骨筆を構えた。
ガルザヴェインは、少しだけ不満そうにした。
「タクサン、ミル」
「必要だ」
「ワカッタ」
分かっている。
たぶん。
いや、たぶんで進めるしかない。
◇
訓練は、すぐに混乱した。
当たり前だ。
相手はゴブリンだ。
五十三体もいれば、何かしら起きる。
泥門補助ゴブリンの一体が、泥の上で踏ん張る訓練をしていた。
そこへ別のゴブリンが、横からわざと押した。
押されたゴブリンは泥へ顔から落ちる。
周囲のゴブリンが笑う。
次の瞬間、魔神練兵窟全体にガルザヴェインの声が落ちた。
「ワラウナ」
全員が地面に伏せた。
笑ったゴブリンは震え上がる。
ガルザヴェインは続ける。
「タオレタ、タテル。タテル、ツヨイ」
余は、白い部屋で少し驚いた。
「……今のは、悪くないな」
フィルエも頷く。
「うん。ガルザヴェイン、少し覚えてる」
戦場で学んだのだろう。
倒れても、立つ者は強い。
Sランクパーティ《蒼穹の楔》もそうだった。
グズもそうだった。
折剣濁白騎士も、倒れかけながら立った。
ガルザヴェインは、それを見ていた。
見ただけではなく、覚えていた。
次に、霧走りゴブリンの訓練で問題が起きた。
霧の中を走らせると、一体が明らかに近道をした。
壁の隙間を潜り、訓練路を半分飛ばして戻ってきた。
白骨書記が即座に書く。
⸻
不正。
⸻
「いや、待て」
余は止めた。
「迷宮内で近道を見つけるのは、斥候としては有能ではないか?」
フィルエが言う。
「うん。でも、訓練としては不正」
「両方か」
白骨書記が骨筆を走らせる。
⸻
評価:不正だが適性あり。
分類:霧走り斥候候補。
⸻
「その分類でよい」
問題のゴブリンは、自分が褒められたのか叱られたのか分からず、首を傾げていた。
次に、宝匣運びゴブリンが白灰匣を運ぶ。
今回は食わない。
舐めない。
噛まない。
だが、四体のうち一体が、白灰匣を頭の上に乗せて運び始めた。
「なぜ頭に乗せる」
《両手を空けるためと思われます》
「意外と賢いのか?」
そのゴブリンは、両手でバランスを取りながら歩く。
途中で小さな罠溝を飛び越え、箱を落とさなかった。
「採用」
白骨書記が記録する。
⸻
宝匣運び候補:頭上運搬適性あり。
⸻
「そんな適性があるのか」
《今できました》
迷宮運営は、本当に何が役に立つか分からない。
◇
一方、ガルザヴェイン本人の調整は難航した。
回復槽から出たがる。
訓練場へ行きたがる。
グズと再戦したがる。
折剣濁白騎士を探そうとする。
夜棺白庭方面を嗅ごうとする。
全部駄目だ。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「今日は訓練を見ろ。参加するな」
「ナゼ」
「傷が塞がっていない」
「タタカエル」
「戦えるかどうかではない。戦えば治りが遅れる」
「ツヨクナル」
「死んだら終わりだ」
ガルザヴェインは、少しだけ黙った。
「シンダラ、オワリ」
「そうだ」
「ヨワイ、シヌ」
「違う。強くても死ぬ時は死ぬ」
彼は、完全には納得していない顔をしていた。
そこでフィルエが言った。
「ガルザヴェイン」
魔神ゴブリンが、フィルエの声に反応する。
契約者ではない。
だが、迷宮内で強い観測者だと分かっているらしい。
「傷が治れば、もっと強い状態で戦える」
「モット?」
「うん。今戦うと、傷が開いて弱くなる。治してから戦う方が強い」
ガルザヴェインの目が動く。
「チリョウ、ツヨクナル、マエ」
「そう」
「ワカッタ」
余は、少し複雑な気分になった。
「なぜフィルエの説明だと聞く」
「ロード、トメル。フィルエ、ミル」
「どういう意味だ」
フィルエが小さく笑った。
「ロードは止めたいだけに聞こえるんじゃない?」
「余は正しいことを言っている!」
「うん。でも、ガルザヴェインには強くなる話の方が通じる」
なるほど。
また一つ学んだ。
ガルザヴェインへの指示は、禁止ではなく、強くなるための手順として言うべきなのだ。
「面倒な契約存在が増えた」
《はい》
「否定しろ」
《事実です》
◇
その日の終わり、白骨書記が初回訓練記録をまとめた。
⸻
魔神練兵窟、初回運用記録:
対象ゴブリン:五十三体
分類結果:
泥門補助ゴブリン候補:八体
霧走りゴブリン候補:六体
影罠補助ゴブリン候補:三体
宝匣運びゴブリン候補:四体
魔神練兵窟候補生:五体
その他:二十七体
特記事項:
・ガルザヴェイン命令により、宝箱食害は現時点で停止。
・命令文の精密化が必要。
・役割を与えることで、ゴブリンの行動安定が見込まれる。
・魔神性による過剰進化は契約制御下では抑制可能。
・フィルエの説明はガルザヴェインに有効。
・ロードの禁止命令は反発を招く可能性あり。
⸻
「最後の二つ、必要か?」
《必要です》
フィルエが笑っている。
余は少しだけ不満だったが、反論はしなかった。
事実だからだ。
「今後の方針」
白骨書記は、さらに書く。
⸻
今後の方針:
一、魔神練兵窟の運用を段階制にする。
二、ゴブリンには必ず役割を与える。
三、ガルザヴェインによる直接進化は禁止継続。
四、訓練成果が安定した個体のみ魔神性接触を許可。
五、夜棺白庭方面への感知遮断を継続。
六、宝箱食害防止命令を定期更新。
七、魔神進軍鐘の使用はロード許可制。
⸻
「よい」
余は頷いた。
「これで、少しは扱える」
魔神練兵窟の奥で、ガルザヴェインが泥の回復槽に戻っている。
目は開いている。
だが、先ほどよりは落ち着いていた。
周囲では、選別されたゴブリンたちが役割ごとに分けられている。
混沌ではない。
まだ稚拙だが、形がある。
群れではなく、部隊の種。
暴力ではなく、役割の芽。
それは、ガルザヴェインが外で作れなかったものだ。
「どうだ、ガルザヴェイン」
「ロード」
「ここは、ただ強くする場所ではない。強さを使える形にする場所だ」
ガルザヴェインは、少し考えた。
「ウツワ」
「そうだ」
「ヤクワリ」
「そうだ」
「オレ、ソダテル」
「余の許可の範囲でな」
「ワカッタ」
彼は、ほんの少しだけ笑った。
戦闘中の獰猛な笑みとは違う。
新しい玩具を見つけた子供のような笑みだった。
危険だ。
だが、悪くない。
余は白い部屋で、静かに息を吐いた。
十万の魔物を喰った迷宮は、今度は一体の魔神を飼い始めた。
檻では足りない。
鎖でも足りない。
この怪物には、役割が必要だ。
そして、それを与えられるのは、余だけだ。
「よし」
余は言った。
「明日から、本格的に魔神を飼う」
フィルエが言った。
「言い方」
「ほかに何と言う」
「育てる、とか」
「危険すぎる」
「でも、飼うも危ないよ」
「なら、こうだ」
余は、魔神練兵窟を見下ろした。
「魔神を、迷宮の形に馴染ませる」
ガルザヴェインが、泥の中で静かに目を閉じた。
その腰の魔神進軍鐘が、かすかに鳴る。
ごん。
今度の音は、進軍ではなかった。
始まりの音に聞こえた。




