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第166話 魔神は、寝床より戦場を欲しがる

 十万の軍勢は、消えた。


 正確には、すべてが一瞬で消えたわけではない。


 浅層の霧の中には、まだ迷っている魔物がいる。


 戻り水の底には、まだ沈みきっていない死体がある。


 白磁偽財殿はくじぎざいでんの崩れた柱の下では、黒いオークが何体か息をしている。


 骸門残響隔離層がいもんざんきょうかくりそうの外周には、閉じ込められた魔物の叫びがまだ残っている。


 だが、本流は死んだ。


 軍勢としての形は、完全に壊れた。


 王都へ向かっていた黒い波は、霧灰白庭迷宮むかいはくていめいきゅうの腹で砕かれ、沈められ、縫われ、焼かれ、喰われた。


 そして、その中心にいた未成熟の魔神は。


 余の契約存在になった。


《契約存在:魔神ゴブリン・ガルザヴェイン》


《状態:重傷》


《魔神性:高》


《興奮:高》


《戦闘意思:極高》


《休息意思:低》


「……休め」


「イヤ」


 ガルザヴェインは、白扉の前で膝をついたまま答えた。


 不完全だった言葉が、契約を通したせいか、少しだけはっきりしている。


 それでもまだ、幼い。


 荒い。


 魔物の喉で人間の言葉を削っているような声だった。


「お前、胸も足も腕も裂けているだろうが」


「タタカエル」


「戦うな」


「ツギ、ツヨイ、ドコ」


「今はいない!」


「イル」


 ガルザヴェインの金色の目が、迷宮の奥へ向く。


 余は嫌な予感がした。


「管理音声」


《はい》


「ガルザヴェインの視線先」


《夜棺白庭方面です》


「見るな!」


 余は即座に叫んだ。


 ガルザヴェインが、少しだけ首を傾げる。


「ツヨイ、イル」


「いるが、見るな。起こすな。近づくな。挑むな」


「ナゼ」


「お前が死ぬか、迷宮が壊れるからだ」


「ツヨイ」


「そういう問題ではない!」


 夜棺白庭やかんはくていの奥では、古血のヴァンパイア、ヴェルグレイヴが眠っている。


 あれは戦力ではない。


 災厄だ。


 最終防衛機構だ。


 少なくとも、今のガルザヴェインと会わせてはいけない。


 強いものと戦いたい未成熟の魔神ゴブリン。


 眠りを邪魔されればどうなるか分からない古血のヴァンパイア。


 想像するだけで、コアが痛い。


「管理音声。夜棺白庭への全経路を封鎖」


《承知しました》


「フィルエ、ガルザヴェインの感知をずらせ」


「やってる」


 森灰観測室しんかいかんそくしつから、フィルエの声が返る。


 疲れている。


 だが、まだ意識は鋭い。


 森灰の流れが、ガルザヴェインの感覚から夜棺白庭の方向を薄く隠していく。


 ガルザヴェインは不満そうに唸った。


「キエタ」


「消したのだ」


「ロード、カクス」


「隠す。絶対に隠す」


「ツマラナイ」


「つまらなくていい!」


 こいつは危険だ。


 ものすごく危険だ。


 だが、契約は成立している。


 コア不可侵。


 ロード不可侵。


 配下の無断支配禁止。


 迷宮内ゴブリンへの強制進化禁止。


 強敵来訪時、余の許可により出撃。


 迷宮存亡時の防衛義務。


 契約線は、ガルザヴェインの胸で金色に濁って光っている。


 暴れてはいる。


 だが、切れていない。


 ならば、扱える。


 扱わねばならない。


    ◇


《報告》


「何だ」


《残敵処理、継続中》


 白い部屋の壁面に、迷宮全体の戦後図が映る。


 浅層では、灰霧追導蛾はいむついどうがハイハネが、疲れた羽で霧を動かしていた。


 霧の中に残った狼型魔物やゴブリンを、湿骨軍列しつこつぐんれつの待つ泥へ流している。


 中層では、泥塞大門将でいそくだいもんしょうグズが崩れた門を修復しながら、まだ暴れている黒オークを押し潰している。


 白磁偽財殿はひどい状態だ。


 白い天井は割れ、正式宝箱は大量に壊れ、折剣濁白騎士せっけんだくはくきしはほぼ動けない。


 だが、宝物庫中枢補助核が辛うじて機能を保っている。


 骸門残響隔離層の外周では、黒い檻の残りがまだ魔物を閉じ込めていた。


 そこへ軍帰路喰らいの落武者が入り、逃げ道ごと刃で喰っている。


 影軍縫いカゲヌイは、影針をほぼ使い果たしているが、まだ壁の影から残敵を縫っていた。


 白骨書記は、戦争台帳を高速で更新している。


 骨筆が摩耗して、何本も折れていた。


「白骨書記、無理をするな」


 白骨書記は、かた、と顎を鳴らし、床に書いた。



戦争記録は鮮度が重要。



「もっともらしいことを書くな」


《正しいです》


「管理音声まで同意するな」


 白骨書記は、さらに一行足す。



ゴブリン食害記録、戦後再開予定。



「それは今いらん!」


 しかし、いずれ必要になる。


 なぜなら、今、迷宮内にはゴブリンが増えすぎている。


 霧灰白庭迷宮のゴブリン。


 ガルザヴェインの軍勢から生き残ったゴブリン。


 死んだゴブリンから作られる素材。


 さらに、ガルザヴェインの魔神性に触れて変質しかけた個体。


 放っておけば、絶対に何か食う。


 卵か。


 宝箱か。


 札か。


 悪ければ、残響核隔離室の壁でも齧りかねない。


「……やはりゴブリン管理区画が必要だな」


《推奨します》


「だが、その前に残敵だ」


《残敵処理による追加獲得ソウルを表示します》



残敵処理:


浅層霧中残敵:

死亡推定:二千八百体

獲得ソウル:398,000


中層泥門残敵:

死亡推定:千九百体

獲得ソウル:512,000


白磁偽財殿下敷き残敵:

死亡推定:千二百体

獲得ソウル:356,000


骸門外周檻残敵:

死亡推定:八百体

獲得ソウル:344,000


その他迷走個体:

死亡推定:千六百体

獲得ソウル:288,000


追加獲得ソウル合計:1,898,000


現在保有ソウル:17,123,530



 17,123,530。


 余は、その数字をしばらく見た。


 見たが、もう感覚が鈍っている。


 大きすぎる。


 だが、使い道は山ほどある。


 修復。


 隔離。


 強化。


 ガルザヴェイン用の区画。


 ゴブリン管理。


 骸門残響の封鎖。


 白磁偽財殿の再建。


 湿骨軍列の整備。


 ハイハネと霧喰い大蛾群の育成。


 グズの修復。


 カゲヌイの影針補充。


 軍帰路喰らいの調整。


 折剣濁白騎士の大修復。


 フィルエの命脈補助。


 そして、外部監視。


 やることが多すぎる。


「ロードとは忙しいものだな」


《はい》


「最初からこうだったか?」


《最初は生存に必死でした》


「今も必死だ」


《規模が変わりました》


「それはそうだ」


 余はガルザヴェインを見る。


 未成熟の魔神は、まだ白扉の前で膝をついている。


 だが、目は死んでいない。


 むしろ、戦い足りなそうだ。


「まず、お前の区画を作る」


「クカク」


「住む場所だ」


「タタカウ、バショ?」


「寝る場所だ」


「イラナイ」


「いる!」


「タタカウ」


「まず寝ろ!」


 フィルエが少し笑った。


「ヴェルグレイヴとは逆だね」


「本当にな」


 ヴェルグレイヴは寝床を欲しがった。


 戦いたがらない。


 いや、本気で戦えばとんでもないのだが、普段は寝ている。


 対して、ガルザヴェインは寝床より戦場を欲しがる。


 これを同じ迷宮に抱えるのか。


 余は何をしているのだろう。


 いや、強くなるためには必要だ。


 必要だが、頭が痛い。


「管理音声。ガルザヴェイン用区画を設計」


《条件を指定してください》


「コアからは近すぎず、遠すぎず。夜棺白庭からは最大限遠ざけろ。ゴブリン系統の育成が可能。ただし強制進化は許可制。戦闘訓練場を併設。外部へ魔神性が漏れないよう遮断。グズの泥門と連携できる位置。フィルエの観測が届く範囲」


《大規模区画になります》


「ソウルはある」


《推定消費:850,000》


「高いな」


《魔神性遮断、訓練場、ゴブリン管理機能を含みます》


「許可」


《現在保有ソウル:16,273,530》


 白い部屋の壁面に、新しい区画が形成されていく。


 中層より奥。


 だが、コア区画からは少し離れた場所。


 泥塞大門将グズの門列から枝分かれするように、広い空間が生まれる。


 床は白磁ではなく、硬い灰泥。


 壁には黒い魔神性を吸収する白灰の紋。


 天井は高く、ゴブリンや大型魔物が動ける。


 周囲には小さな訓練穴。


 中央には、戦闘用の円形広場。


 そこからは、グズの泥門へ繋がる道と、浅層のゴブリン管理域へ繋がる細い通路が分かれている。


《新規区画名を設定してください》


 余は少し考えた。


 魔神ゴブリンのための区画。


 寝床ではない。


 戦場でもない。


 強さを育てる場所。


 ただ暴れるのではなく、役割を与える場所。


魔神練兵窟まじんれんぺいくつ


《魔神練兵窟、登録》


 ガルザヴェインの目が、少しだけ光った。


「レンペイ」


「そうだ。戦うために鍛える場所だ」


「タタカウ、マエ」


「そうだ。戦う前に鍛える」


「イイ」


 初めて素直に頷いた。


 なるほど。


 寝ろと言うより、鍛えろと言った方が聞くのか。


 扱い方が少し分かった。


「だが、今日は休め」


「レンペイ」


「今日は休め!」


「レンペイ、スコシ」


「……少しだけだぞ」


 フィルエが呆れた声で言った。


「甘い」


「仕方ないだろう。暴れられるよりは、指定区画で少し動かした方がましだ」


「うん。たぶんそう」


 ガルザヴェインは、重傷のまま立ち上がろうとした。


 その瞬間、傷口から黒い血が落ちる。


 床がじゅう、と鳴る。


《警告。魔神血による床面侵食》


「ほら見ろ! まず治療だ!」


「チリョウ」


「傷を塞ぐことだ」


「イラナイ」


「いる!」


 余は即座に治療機能を動かす。


 戻り水と白磁粉だけでは危険だ。


 魔神性と反発する。


 なら、ガルザヴェイン用に調整する必要がある。


「管理音声。魔神血対応の回復槽を作れるか」


《可能ですが、通常戻り水では汚染が発生します》


「白灰で濾過しろ。森灰を少し混ぜる。泥も使え。グズの泥核から少量」


《ソウル消費:120,000》


「許可」


《現在保有ソウル:16,153,530》


 魔神練兵窟の隅に、黒灰色の回復槽ができる。


 水ではない。


 泥と戻り水と森灰が混じった、重い液。


 そこへガルザヴェインを入れる。


「入れ」


「ドロ」


「回復槽だ」


「ドロ」


「泥だが回復槽だ!」


 ガルザヴェインは少しだけ匂いを嗅いだ。


 グズの泥の気配が混ざっているのに気づいたらしい。


「グズ」


「あいつの泥も入っている」


「ツヨイ、ドロ」


「そうだ。強い泥だ」


 ガルザヴェインは納得したように、回復槽へ足を入れた。


 ずぶり、と沈む。


 胸まで浸かる。


 黒い血が泥に溶け、白灰の紋がそれを中和していく。


 傷口がゆっくり塞がり始めた。


《魔神ゴブリン・ガルザヴェイン、回復開始》


《完全回復には時間が必要》


《魔神性漏出、抑制中》


 ようやく少し安心できる。


 少しだけだが。


    ◇


 戦後処理は終わらない。


 十万の魔物を喰った迷宮は、強くなった。


 だが、同時に壊れた。


 白い部屋の床に、損耗一覧が表示される。



大規模損耗:


浅層霧構造:中度損傷

戻り水湿地外縁:過負荷

中層喉部:構造変形後、要補強

白磁偽財殿:損傷率83%

骸門残響隔離層外周:大破

宝物庫中枢補助核:過負荷

折剣濁白騎士:重度損傷

泥塞大門将グズ:中度損傷

湿骨軍列:一部崩壊

影軍縫いカゲヌイ:影針大量損耗

灰霧追導蛾ハイハネ:疲労

軍帰路喰らいの落武者:刃鳴り不安定

フィルエ:命脈反動、小から中

残響核隔離室:安定

夜棺白庭:秘匿維持



「修復費は」


《初期修復のみで2,400,000》


「高い」


《完全修復と強化を含めると6,800,000以上》


「……払えるのが怖いな」


《はい》


「まず初期修復。完全修復は区画ごとに判断する」


《初期修復に2,400,000を消費します》


《現在保有ソウル:13,753,530》


 迷宮が低く鳴った。


 壊れた床が、ゆっくりと閉じる。


 浅層の霧が整えられる。


 戻り水の流れが洗浄される。


 白磁偽財殿の崩れた天井が仮支柱で支えられる。


 骸門外周の黒い檻は、一部を切り離して再隔離される。


 折剣濁白騎士は、白磁修復室へ運ばれる。


 グズには泥核補修。


 湿骨軍列は、壊れた骨を整理しながら再編。


 カゲヌイには影針の再生成。


 ハイハネは育成温室で羽を畳む。


 軍帰路喰らいの落武者は、刃を床に刺して沈黙する。


 全員が疲れていた。


 迷宮そのものも疲れていた。


 だが、生きている。


 勝った。


 喰った。


 そして、得た。


「白骨書記」


 白骨書記が、骨筆を構える。


「大戦果をまとめろ」


 白骨書記は、長い骨板を一枚出した。


 そして、かりかりと書き始める。



スタンピード迎撃記録:


侵入推定:十万規模

主敵:魔神ゴブリン・ガルザヴェイン

結果:軍勢壊滅

主敵:契約成立


総獲得ソウル:

初動:882,800

中層戦:1,945,000

泥門戦:1,315,000

白磁偽財殿戦:3,399,000

骸門外周戦:3,529,000

コア前防衛戦:4,173,000

残敵処理:1,898,000


総獲得ソウル:17,141,800


主な消費:

湿骨兵生成:3,000

戦場維持:45,000

ガルザヴェイン用区画:850,000

魔神回復槽:120,000

初期修復:2,400,000


現在保有ソウル:13,753,530


戦闘中進化:

一、ハイハネ → 灰霧追導蛾

二、湿骨兵群 → 湿骨軍列

三、泥塞門将グズ → 泥塞大門将グズ

四、カゲヌイ → 影軍縫いカゲヌイ

五、帰路喰らいの落武者 → 軍帰路喰らいの落武者


新規契約存在:

魔神ゴブリン・ガルザヴェイン



 白骨書記は、最後にもう一行を書いた。



注意:

ゴブリン管理、最優先。



「まだ言うか」


《重要です》


「否定はしない」


 今、迷宮には新しい問題が生まれている。


 ガルザヴェイン。


 魔神練兵窟。


 ゴブリン育成。


 十万の魔物の素材。


 膨大なソウル。


 王都側の観測。


 人間どもは、必ず知ろうとする。


 自分たちが流した軍勢がどうなったのか。


 灰白庭が壊れたのか。


 魔物が出てくるのか。


 ガルザヴェインが死んだのか。


 人間側は知らないだろう。


 魔神ゴブリンが、死なず、迷宮の契約存在になったことを。


「管理音声」


《はい》


「外部観測は」


《遠距離観測反応あり》


「人間どもか」


《はい。灰白庭外縁から距離を取った観測班と思われます》


「こちらの内部は見えているか」


《不明。ただし、魔物反応の大量消失と、迷宮魔力の急上昇は観測されている可能性があります》


「隠せるか」


《完全には不可能です》


「なら、どう見せる」


《提案:スタンピードによる外縁魔力乱れ、魔物同士の衝突、迷宮内部崩落、白灰反応過負荷として偽装》


「ガルザヴェインは」


《魔神反応は深部に沈めます。契約反応は秘匿》


「魔神練兵窟も隠せ」


《承知しました》


 余は外の方角を見た。


 人間ども。


 王都。


 討伐軍。


 冒険者。


 彼らは、今日生き残った。


 余に魔物を押し付けたからだ。


 だが、その代償は大きい。


 霧灰白庭迷宮は、ソウルを得た。


 進化を得た。


 そして、魔神ゴブリンを得た。


「人間ども」


 余は、静かに言った。


「お前たちは王都を守るため、余の腹へ災厄を流した」


 魔神練兵窟では、ガルザヴェインが回復槽の中で目を閉じている。


 眠っているわけではない。


 たぶん、次の強敵を夢見ている。


「その災厄は、余のものになった」


 余は笑った。


「次に来る時は、それを忘れるな」


    ◇


 遠く、外縁の森の外。


 観測班は、白い霧を見ていた。


 魔物の咆哮は、もうほとんど聞こえない。


 十万の軍勢が入ったはずの森は、静かだった。


 静かすぎた。


 観測班長が、魔力盤技師へ聞く。


「反応は」


 技師の手が震えていた。


「魔物反応……大半が消失」


「大半?」


「はい。追えません。白灰系魔力が膨れ上がっている。迷宮全体が、戦闘後のように……いや、食後のように」


「食後?」


 技師は、自分で言ってから青ざめた。


 だが、他に表現が見つからない。


 白い霧は、ゆっくりと揺れている。


 満腹の獣が、静かに呼吸しているように。


 観測班長は言った。


「ガルザヴェインは」


「反応不明。死亡したか、深部へ沈んだか、あるいは……」


「あるいは?」


 技師は答えられなかった。


 答えたくなかった。


 観測班長は、白い霧から目を離せなかった。


 王都は救われた。


 だが、灰白庭は静かだ。


 あれほどの軍勢を呑んだのに、壊れていない。


 むしろ、霧が濃くなっている。


 彼は、震える声で言った。


「記録しろ」


「はい」


「灰白庭、十万規模の魔物軍勢を受け入れ後、なお活動反応あり。魔物反応、大規模消失。迷宮魔力、異常上昇」


 魔力盤技師が、震える手で書く。


 最後に、観測班長は少し迷い、こう付け加えた。


「接近、非推奨」


 白い霧の奥で、何かが笑った気がした。


 もちろん、見間違いかもしれない。


 だが、その場にいた誰も、それを確かめようとはしなかった。

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