第162話 泥の大門は、魔神を止める
泥塞大門将グズと、魔神ゴブリン・ガルザヴェインが向かい合った。
中層の喉。
そこは、もはや通路ではなかった。
泥の門が幾重にも立ち、戻り水が床下を流れ、白磁片を含んだ灰色の泥が壁まで濡らしている。
その奥で、グズが立っていた。
巨大な泥の体。
門柱のような腕。
背に浮かぶ門扉。
手には、泥と白磁片でできた大門槌。
迷宮の入口を守っていた小さなゴブリンは、もういない。
そこにいるのは、軍勢を塞ぐ泥の大門だった。
その正面に、ガルザヴェインが立つ。
未成熟の魔神。
灰緑の肌。
金色の目。
腰に吊るした銅鐘。
背から流れる黒い魔力。
周囲には、彼に引き上げられたゴブリンたちがいる。
金眼の上位ゴブリン。
黒い筋の走るオーク。
巨大な狼型魔物。
甲殻の割れた大虫。
数は減った。
だが、弱いものから死んだせいで、残った群れは濃くなっていた。
「ゴブリン」
ガルザヴェインが言った。
まだ不器用な言葉。
だが、その声には、明確な興味があった。
「ツヨイ、ゴブリン」
グズが低く唸る。
「グ……ズ……」
会話ではない。
だが、互いに通じていた。
同族。
しかし、まったく違う道を通ったもの。
ガルザヴェインは、外の魔物を従え、力で群れを引き上げる魔神の卵。
グズは、迷宮に拾われ、泥を与えられ、門を守り、何度も死線を越えて進化した配下。
どちらもゴブリンだった。
だが、どちらも、もう普通のゴブリンではなかった。
「グズ」
余は白い部屋から命じた。
「止めろ。勝たなくていい。殺さなくていい。だが、今は止めろ」
「グズ!」
グズが大門槌を構える。
ガルザヴェインが笑った。
そして、銅鐘を鳴らした。
ごん。
周囲の強化ゴブリンたちが、一斉に前へ出る。
まるで、魔神の前座だ。
金眼のゴブリンが泥門へ飛びかかる。
黒いオークが棍棒を振り下ろす。
巨大狼が横へ回り込む。
大虫が天井から門を越えようとする。
「周囲から削りに来たか」
《ガルザヴェインはグズ本体との正面衝突前に、周辺門の構造を確認している可能性があります》
「学ぶな!」
余は叫び、すぐに指示を飛ばす。
「グズ、小門を閉じろ。カゲヌイ、横へ回る狼の影を縫え。湿骨軍列、門の足元を支えろ。ハイハネ、天井の虫どもを落とせ!」
迷宮が動いた。
グズの周囲に、十数枚の小型泥門がせり上がる。
横へ回り込んだ巨大狼の影に、影軍縫い(かげいくさぬい)カゲヌイの針が落ちる。
湿骨軍列が泥の下から骨槍を突き出し、門の基礎を補強する。
灰霧追導蛾ハイハネが霧を上へ流し、天井の大虫の羽と脚に追跡粉をまとわせる。
大虫が滑った。
落ちる。
その下で、湿骨軍列の骨槍が待っている。
突き刺さる。
暴れる。
さらに後続の虫が落ちて重なる。
《強化虫型魔物群、落下処理》
《獲得ソウル:214,000》
数字が入る。
だが、もう驚く暇はない。
ガルザヴェインが、初めて自分で動いた。
一歩。
その一歩で、泥が跳ねた。
二歩。
戻り水が押し返された。
三歩。
グズの泥門の正面へ、魔神ゴブリンが立つ。
「グズ!」
泥塞大門将グズが大門槌を振り下ろす。
ガルザヴェインは、避けなかった。
片腕を上げる。
泥と白磁片でできた巨大な槌を、素手で受けた。
衝撃。
中層の喉が揺れる。
白磁壁にひびが走り、灰霧が波打つ。
ガルザヴェインの足が泥へ沈む。
だが、彼は倒れない。
むしろ、笑った。
「オモイ」
ガルザヴェインの腕に黒い魔力が走る。
そのまま、大門槌を握る。
握り潰そうとする。
グズが唸る。
「グ、ズ、ズ……!」
泥が大門槌へ流れ込み、砕かれた部分をすぐに修復する。
力比べ。
泥の門将と、未成熟の魔神。
ガルザヴェインが一歩押す。
グズが押し返す。
門槌と腕の間で、泥と黒い魔力が弾ける。
《泥塞大門将グズ、負荷上昇》
《ガルザヴェイン、筋力および魔力圧、想定以上》
「耐えろ!」
余は叫んだ。
「ここは余の迷宮だ! 泥で負けるな!」
グズの背の門扉が開く。
そこから、さらに泥が流れ込む。
白磁庭園を喰った白。
戻り水の湿り。
灰霧の重さ。
それらが混ざった泥が、グズの腕を太くする。
大門槌が、さらに重くなる。
ガルザヴェインの腕がわずかに下がった。
初めて、押された。
金色の目が細くなる。
「イイ」
ガルザヴェインは笑った。
「モット」
次の瞬間、ガルザヴェインは額で大門槌にぶつかった。
鈍い音。
泥が弾ける。
同時に、左拳がグズの胴へ突き刺さる。
泥が爆ぜた。
グズの体が大きく揺れる。
《泥塞大門将グズ、胴部損傷》
「グズ!」
だが、グズは崩れない。
泥は壊れるためにある。
壊れて、また固まるためにある。
グズの胴の穴に戻り水が流れ込み、白磁片が骨のように並び、泥がそれを包む。
再生。
遅いが、止まらない。
「グ……ズ……!」
グズの大門槌が横へ払われる。
ガルザヴェインの脇腹へ直撃。
魔神ゴブリンの体が、初めて横へ滑った。
周囲の強化ゴブリンたちがざわめく。
いや、怯えた。
自分たちの中心が、押されたからだ。
その揺らぎを、迷宮は逃さない。
「今だ。周囲のゴブリンを殺せ」
《各部隊、実行》
湿骨軍列が槍を並べる。
影軍縫いカゲヌイが、強化ゴブリン群の影をまとめて縫う。
ハイハネが灰霧を流し、目と鼻を塞ぐ。
軍帰路喰らいの落武者が、逃げようとした群れの退路を斬る。
強化ゴブリンたちは、通常のゴブリンより強い。
速い。
爪も牙も鋭い。
だが、群れとしての経験は浅い。
急激に引き上げられた力に、まだ体も判断も追いついていない。
そこを罠で崩す。
骨槍が刺さる。
影が縫われる。
泥へ落ちる。
霧で互いを見失う。
そして死ぬ。
《強化ゴブリン群、大量死亡》
《死亡推定:4,800体》
《獲得ソウル:432,000》
「よし」
余は短く言った。
ガルザヴェインが振り返る。
自分の周囲のゴブリンが死んでいく。
その光景を見て、怒ったのか。
悲しんだのか。
違う。
彼は、学んでいた。
「ムレ……ヨワイ」
そう言った。
群れは弱い。
迷宮の中では、ただ強くしただけの群れでは足りない。
それを、今、理解した。
ガルザヴェインが銅鐘を握る。
ごん。
強化ゴブリンたちの動きが変わった。
密集しなくなる。
小さな群れに分かれる。
影軍縫いの影を避け、泥門へまとまって突っ込むのをやめる。
湿骨軍列へ正面から行かず、壁と天井を使い始める。
「また対応した」
フィルエの声が重い。
「早い」
「なら、さらに変える」
余は宝物庫中枢補助核へ意識を向けた。
「正式宝箱を壊していいと言ったな」
《はい》
「なら、爆ぜる箱を並べろ。報酬品ではなく、軍勢用だ」
《宝物庫戦闘転用を実行》
中層の喉の奥に、白い箱がいくつも浮かび上がる。
正式宝箱。
ただし、中身は宝ではない。
灰霧。
白磁片。
戻り水圧。
そして、偽価値反応。
魔物に価値など分からない。
だが、ガルザヴェインの周囲にいる一部の上位個体は、強い魔力反応に引かれる。
箱が光る。
強化ゴブリンや上位オークが、それに一瞬だけ目を向ける。
そこへ箱が開いた。
爆ぜる。
白磁片が散る。
戻り水が吹き上がる。
灰霧が喉へ詰め込まれる。
小型の群れがまとめて吹き飛び、泥へ落ちる。
《宝箱爆裂罠、発動》
《獲得ソウル:268,000》
《正式宝箱群、損耗》
「構わん。後で作り直す」
今は宝より命だ。
いや、命よりソウルだ。
余の命はコアにある。
迷宮が生き残れば、宝箱などまた置ける。
◇
ガルザヴェインは、ついに泥門へ両手をかけた。
グズが押す。
ガルザヴェインが押す。
力が拮抗する。
いや、少しずつ、ガルザヴェインが押している。
グズは迷宮の泥を背負っている。
だが、ガルザヴェインは魔神性を膨らませながら成長している。
戦えば戦うほど、力が増している。
危険だ。
このまま正面で押し合えば、グズが折れる。
「グズ、下がるな。だが、正面だけで受けるな」
《指示内容を具体化してください》
「門を開けろ」
《開けるのですか》
「少しだけだ」
フィルエがすぐに理解した。
「挟むんだね」
「ああ」
グズの泥門が、わずかに開いた。
ガルザヴェインの力が前へ流れる。
魔神ゴブリンの体が、半歩、門の内側へ入った。
その瞬間、左右の小型泥門が一斉に閉じる。
足元から戻り水。
背後から湿骨軍列。
上からハイハネの灰霧。
横からカゲヌイの影針。
正面からグズの大門槌。
閉じ込める。
押し潰す。
ガルザヴェインが初めて、完全に罠の中へ入った。
《魔神ゴブリン、泥門挟撃範囲内》
「潰せ!」
グズが咆える。
「グズアアアアア!」
大門槌が振り下ろされる。
戻り水が足を絡める。
湿骨軍列が骨槍を突き出す。
影軍縫いが影を縫う。
灰霧追導蛾ハイハネが視界を潰す。
魔神ゴブリンが、泥門の中で押し潰される。
普通なら、死ぬ。
どれほど強い魔物でも、この瞬間だけは死に近づく。
だが、ガルザヴェインは、笑った。
「コレ」
泥の中で、金色の目が光る。
「タノシイ」
黒い魔力が、爆発した。
泥門が弾ける。
骨槍が砕ける。
影針が裂ける。
灰霧が吹き飛ぶ。
グズの大門槌が半分消し飛んだ。
《泥塞大門将グズ、中度損傷》
《湿骨軍列、損耗》
《カゲヌイ、影針損耗》
《ハイハネ、霧層乱れ》
「化け物め」
余は笑った。
怖い。
強い。
理不尽だ。
だが、楽しいと言った。
ガルザヴェインは、今の罠を楽しいと言った。
その言葉の意味を、余は理解し始めていた。
こいつは、死を恐れていない。
群れを失うことも恐れていない。
強いものとぶつかることを求めている。
ならば、まだ殺さない。
まだ奥へ来させる。
「グズ、退け」
「グズ……!」
「十分だ。お前は止めた。削った。門としての役目は果たした」
グズは、少しだけ不満そうに泥を鳴らした。
だが、下がった。
泥門が崩れる。
その奥に、さらに深い道が開く。
白磁偽財殿へ続く道。
折剣濁白騎士が待つ場所。
宝物庫の守護者が、剣を構える場所。
ガルザヴェインは、門の奥を見た。
金色の目が、また細くなる。
「ツギ」
彼は、そう言った。
余は白い部屋で答えた。
「そうだ。次だ」
中層の喉に、戦果が表示される。
⸻
中層泥門戦追加戦果:
強化ゴブリン群処理:432,000
宝箱爆裂罠:268,000
泥門挟撃周辺圧死:391,000
上位オーク・黒狼処理:224,000
追加獲得ソウル合計:1,315,000
現在保有ソウル:4,124,530
損耗:
泥塞大門将グズ、中度損傷
湿骨軍列、一部損耗
影軍縫いカゲヌイ、影針損耗
灰霧追導蛾ハイハネ、霧層乱れ
正式宝箱群、多数破損
⸻
4,124,530。
数字は膨れ上がっている。
だが、戦いはまだ続いている。
十万の軍勢は大きく削れた。
それでも、ガルザヴェインと、その周囲の精鋭はまだ残っている。
そして今、魔神ゴブリンはさらに奥へ進む。
白磁偽財殿へ。
折剣濁白騎士のもとへ。
「来い、ガルザヴェイン」
余は静かに言った。
「余の迷宮には、まだ強いものがいる」
白磁偽財殿の奥で、折剣濁白騎士が剣を鳴らした。
灰白の霧の中、魔神ゴブリンが笑った。




