第161話 進化は、死体の山から生える
ソウルが、迷宮へ流れ込んでいた。
小川ではない。
川でもない。
濁流だった。
死んだゴブリン。
落ちた飛行種。
泥へ沈んだオーク。
互いを噛み殺した虫型魔物。
死体山ごと戻り水へ呑まれた獣ども。
その命が、霧灰白庭迷宮の床下へ、次々と落ちてくる。
⸻
初動獲得ソウル合計:882,800
戦闘前保有ソウル:29,730
湿骨兵追加生成消費:3,000
現在保有ソウル:909,530
⸻
「……桁が違う」
余は、白い部屋の中央で呟いた。
数字が現実味を持たない。
黒市主を喰った時も、大きいと思った。
だが、これは違う。
一人の強敵を喰った数字ではない。
軍勢を喰っている数字だ。
命が、個ではなく塊で落ちてくる。
これが、戦争か。
《報告》
《浅層初動防衛により、敵軍勢の約三割以上を削減》
《ただし、残存魔物はなお膨大》
《大型種、上位種、ガルザヴェイン周辺の強化個体が深部へ移行中》
「浮かれる暇はないか」
《はい》
白い部屋の壁面では、黒い波がまだ動いている。
浅層で大量に死んだ。
だが、まだ残っている。
六万を超える魔物が、押し合い、吠え、踏み越え、迷宮の奥へ入り込もうとしていた。
そして、その中心に、魔神ゴブリン・ガルザヴェインがいる。
奴は、浅層で起きた殺戮を見た。
霧を見た。
泥を見た。
死体山が罠になるところを見た。
その上で、笑っていた。
「ツヨイ……」
声が、灰白の霧を震わせる。
「モット……」
ガルザヴェインが銅鐘を鳴らす。
ごん。
金色の目をしたゴブリンたちが、彼の周囲へ集まる。
進化しかけのゴブリン。
オークの上位個体。
黒い狼。
巨大な虫。
飛行種の生き残り。
それらが、迷宮の浅層を踏み越えて、さらに奥へ向かおうとしていた。
「来るか」
余は笑った。
「ならば、次は中層の喉だ」
◇
中層手前には、細い通路がいくつもある。
普段は冒険者を選別するための道だ。
宝へ向かう者。
戻ろうとする者。
欲に迷う者。
恐怖で引く者。
それぞれに違う罠を見せるための通路。
だが、軍勢相手に細い通路など意味がない。
押し潰されるだけだ。
だから、余は構造を変えた。
「中層手前の通路を、喉にする」
《区画強制変形を行います》
「横へ逃がすな。奥へ進もうとすれば狭まり、引こうとすれば戻り水へ落ちる形にしろ」
《ソウル消費:18,000》
「許可」
《現在保有ソウル:891,530》
迷宮が鳴った。
白磁床が横へ滑り、灰霧の壁が厚くなり、戻り水が床下へ集まる。
中層手前の通路が、巨大な喉のように形を変えた。
入り口は広い。
軍勢が入れる。
だが、奥へ進むほど狭くなる。
戻ろうとすれば、足元が沈む。
止まれば、後続に踏まれる。
進めば、詰まる。
戦争用の喉だ。
「湿骨兵を前へ」
《湿骨兵群、展開》
泥の中から、湿骨兵たちが出る。
最初に作った十体。
追加生成した二十体。
さらに戦場死体を使って増やしたもの。
いまや、湿骨兵は一個の部隊になりつつあった。
人間の兵とは違う。
号令はない。
声もない。
だが、戻り水の流れに合わせて動く。
死体を沈める。
足を絡める。
槍を突き出す。
砕けても、泥の中で骨を拾って立ち直る。
中層の喉へ、魔物の第二波が流れ込んだ。
オークが先頭。
その下をゴブリンが走る。
狼型魔物が壁を蹴って進む。
虫型魔物が天井を這う。
そこへ、湿骨兵が槍を並べた。
ざくり。
ざくり。
ざくり。
槍が突き出る。
押し寄せる魔物の腹、喉、脚を貫く。
オークが怒って湿骨兵を叩き壊す。
壊れた湿骨兵の骨を、後続の湿骨兵が拾う。
その骨を自分の腕へ差し込み、また槍を突く。
「……あれは、もう個体ではないな」
《湿骨兵群、部隊的挙動を形成》
「よい。もっと死体を入れろ」
《戦場死体素材、供給》
戻り水が死体を運ぶ。
白磁片が骨を繋ぐ。
泥が関節を固める。
湿骨兵たちは、倒れた仲間と敵の骨を区別しなくなった。
使える骨を使う。
使える腕を拾う。
折れた槍を繋ぐ。
部隊全体が、ひとつの濡れた骨の軍列になっていく。
《中層喉部、魔物大量死亡》
《獲得ソウル:336,000》
《湿骨兵群、進化条件を達成》
「来たか」
《進化を実行しますか》
「当然だ」
《進化実行》
戻り水が白く光った。
湿骨兵たちの骨が、一斉に鳴る。
かた。
かたかた。
かたかたかた。
一体一体が強くなるのではない。
部隊そのものが繋がっていく。
骨から骨へ。
泥から泥へ。
槍から槍へ。
湿骨兵たちは、個別の兵ではなく、軍列になった。
《湿骨兵群は、湿骨軍列へ進化しました》
《効果:戻り水上での集団戦闘性能上昇》
《効果:戦場死体を即時補修素材として利用可能》
《効果:槍列、骨壁、死体運搬を同時実行可能》
「二回目だ」
白骨書記が戦争台帳へ書く。
⸻
戦闘中進化二:
湿骨兵群 → 湿骨軍列
⸻
湿骨軍列が槍を揃えた。
声はない。
だが、骨の音が揃う。
かたん。
その一音で、中層の喉に骨槍の壁が生まれた。
魔物の波が、そこでさらに削られていく。
◇
だが、軍勢は止まらない。
湿骨軍列が押し止めている間に、大型のオークたちが前へ出てきた。
ガルザヴェインの鐘に導かれた、上位オーク。
体表には黒い筋。
目は濁り、痛みを恐れない。
そいつらが、湿骨軍列ごと喉を押し潰そうとしていた。
「グズ」
余は呼んだ。
中層の奥で、泥が低く鳴る。
「グ……ズ……」
泥塞門将グズ。
かつてのゴブリン。
泥を操り、門を塞ぎ、盾役を喰って進化した門将。
そのグズが、いよいよ正面へ出る。
「門を閉じろ」
「グズ!」
中層の喉の奥に、巨大な泥門が立ち上がった。
ただの壁ではない。
門だ。
通ろうとする者を、押し返すための泥の門。
上位オークたちが、そこへ突撃した。
轟音。
泥門が揺れる。
一体、二体ではない。
数百、数千の大型魔物が、後続に押されながら泥門へぶつかる。
グズの泥が削れる。
肩が崩れる。
門槌がひび割れる。
それでも、グズは退かない。
「グ、ズ、ズ……!」
「耐えろ、グズ!」
余は叫んだ。
「そこを抜かれれば、中層が崩れる!」
グズの背に、泥の双盾が浮かぶ。
ガルドの記憶を喰って得た、盾役の踏ん張り。
それが今、軍勢相手に使われている。
だが、相手は多い。
上位オークの棍棒が泥門を叩く。
黒い狼が門の下を掘る。
ゴブリンが泥の隙間へ入り込む。
巨大虫が門の上から越えようとする。
グズは、正面だけでは支えきれない。
「泥を横へ回せ」
《泥塞門将グズ、負荷増大》
「構わん。今は全力だ」
白骨書記が横で骨筆を走らせる。
⸻
泥門負荷、危険域。
しかし、敵密度極大。
押し潰しによる獲得ソウル期待値、高。
⸻
「期待値など書くな!」
だが、その通りだった。
グズが門を押し返すたび、魔物が潰れる。
前列のオークが後続に押され、泥門と死体の間で圧死する。
黒狼が泥に飲まれる。
巨大虫が門の上から落ち、湿骨軍列に刺される。
上位ゴブリンが泥の中へ沈む。
中層の喉は、殺し場になった。
《中層泥門圧殺、多数》
《獲得ソウル:612,000》
ソウルがまた流れ込む。
重い。
熱い。
大量の魔物が、泥門の前で死んでいる。
そして、その死が、グズへも流れていく。
《泥塞門将グズ、進化条件を達成》
「よし!」
《進化を実行しますか》
「やれ!」
《進化実行》
泥門が、黒く重くなった。
グズの体が膨れる。
泥の肩がさらに広がり、背中の泥板が巨大な門扉のように変わる。
腕は門柱。
足は泥の杭。
門槌は、もはや棍棒ではなく、小さな城門を叩き壊す槌だった。
そして、グズの周囲に、小さな泥門がいくつも生まれる。
一枚。
二枚。
五枚。
十枚。
グズ自身が立っていない場所にも、泥の門が生える。
《泥塞門将グズは、泥塞大門将グズへ進化しました》
《効果:大型泥門の耐久上昇》
《効果:遠隔小型泥門の複数形成が可能》
《効果:軍勢規模の進路封鎖に適性獲得》
「三回目」
白骨書記が即座に書く。
⸻
戦闘中進化三:
泥塞門将グズ → 泥塞大門将グズ
⸻
グズが咆えた。
「グ、ズ、アアアアア!」
その声とともに、中層の喉に泥門列が生まれた。
右で門が閉じる。
左で門が上がる。
奥で門が落ちる。
魔物の軍勢が、分断されていく。
大波だったものが、いくつもの小さな流れへ切り分けられる。
切り分けられた魔物は、霧に迷い、骨に刺され、泥に沈む。
「よくやった、グズ」
余は笑った。
「お前はもう、門番ではない。軍勢を塞ぐ大門だ」
◇
ガルザヴェインは、それを見ていた。
中層の奥。
泥塞大門将グズの気配。
ゴブリンだったものが、泥の大門になっている。
ガルザヴェインの金色の目が細くなる。
「ゴブリン……」
彼は、ゆっくりと言葉を作った。
「ツヨイ、ゴブリン」
その声には、怒りではなく興味があった。
同族。
だが、違う道で強くなったもの。
ガルザヴェインは、初めてグズを見て笑った。
だが、まだそこへ直行はしない。
彼は鐘を鳴らした。
ごん。
配下の強化ゴブリンたちが、別の通路へ流れる。
正面はグズが塞いでいる。
ならば、横。
影の薄い道。
骸門残響隔離層の外周へ続く、黒い残響がわずかに漏れる道へ。
「そちらへ行くか」
余は目を細めた。
「カゲヌイ」
《はい》
「群れの影を縫え」
《個体数が多すぎます》
「今までのお前ならな」
余は、カゲヌイの気配を見た。
黒市主戦。
赫槍の灯戦。
虫型魔物の群れ。
影鎖針。
数えきれないほどの影を縫ってきた。
そして今、軍勢の影が迷宮内へ流れている。
これほどの訓練場はない。
「進化しろ、カゲヌイ」
《影縫い罠師カゲヌイ、進化条件に接近》
「なら餌をやる」
余は、灰霧の一部を薄くした。
虫型魔物と強化ゴブリンの群れが、そこへ誘われる。
影が伸びる。
大量の影。
個体の影ではない。
群れそのものの影。
それが中層の壁と床に広がった。
カゲヌイが、その影へ針を落とした。
一針ではない。
百。
千。
影が、軍勢単位で縫われる。
先頭が止まる。
後続がぶつかる。
右へ逃げようとする群れの影が壁へ縫われる。
左へ逃げようとする虫の影が床へ沈む。
個体ではなく、流れを縫う。
《影軍縫い、成立》
《カゲヌイ、進化条件を達成》
「やれ」
《進化実行》
カゲヌイの影が広がった。
小さな罠師だった影が、薄く、長く、軍勢の下へ伸びる。
手に持つ針は、一本ではない。
影の中から、無数の黒い針が生える。
《影縫い罠師カゲヌイは、影軍縫い(かげいくさぬい)カゲヌイへ進化しました》
《効果:群れ単位の影縫いが可能》
《効果:軍勢の進路、密集、散開を短時間制御可能》
《効果:影鎖針の広域展開が可能》
カゲヌイが、言葉もなく針を掲げた。
その瞬間、虫型魔物と強化ゴブリンの群れが、まとめて影に縫われた。
そこへ、湿骨軍列の槍。
ハイハネの霧。
グズの小型泥門。
魔物の流れが詰まり、崩れ、死ぬ。
《影軍縫いによる群れ崩壊》
《獲得ソウル:288,000》
白骨書記が記録する。
⸻
戦闘中進化四:
カゲヌイ → 影軍縫いカゲヌイ
⸻
◇
軍勢の一部が、逃げ始めた。
すべての魔物が、ガルザヴェインの支配下で完全に戦えるわけではない。
霧で狂い、泥に呑まれ、骨に刺され、影に縫われた個体の中には、本能で外へ戻ろうとするものもいた。
浅層へ戻る流れ。
外へ逃げる流れ。
それが、中層手前で小さな逆流になった。
「逃げるか」
《退却行動を確認》
「逃がすと思うか」
《帰路喰らいの落武者、展開可能》
「出せ」
灰霧の奥で、帰路喰らいの落武者が現れた。
灰白の鎧。
欠けた兜。
帰る者の背を見る、眼のない顔。
これまで、彼は個人の帰路を喰ってきた。
冒険者の撤退。
聖鎖。
契約型退路。
だが、今回は軍勢だ。
何千、何万という魔物の「戻りたい」が、ひとつの大きな流れになっている。
「喰えるか」
《未知です》
「喰え」
帰路喰らいの落武者が、刃を上げた。
逃げる魔物たちの足元に、薄い線がある。
外へ向かう線。
浅層へ戻る線。
生き延びようとする線。
それらが束になって、大きな帰路になっている。
落武者の刃が、その束を斬った。
灰白の光が走る。
逃げていた魔物たちが、足を止めた。
方向を失う。
外が分からない。
来た道が消える。
戻ろうとして、同じ場所を回る。
そこへ、泥が沈む。
影が縫う。
湿骨軍列が突く。
魔物たちは、帰れないまま死んでいく。
《軍勢退路の捕食、成立》
《帰路喰らいの落武者、進化条件を達成》
「やれ」
《進化実行》
落武者の鎧が、少し大きくなった。
だが、威圧的に大きくなるのではない。
背後に、無数の細い道の影が垂れる。
折れた標識。
踏み消えた足跡。
切れた縄。
破れた地図。
それらが、鎧の背に垂れ下がる。
刃は長くなり、個人ではなく道そのものを斬る形へ変わった。
《帰路喰らいの落武者は、軍帰路喰らい(いくさきろぐらい)の落武者へ進化しました》
《効果:集団退路、進軍路、撤退方向への干渉が可能》
《効果:迷宮内の軍勢規模の逆流を遮断可能》
《効果:帰鎖喰いの範囲拡大》
「五回目」
白骨書記が、骨筆を走らせる。
⸻
戦闘中進化五:
帰路喰らいの落武者 → 軍帰路喰らいの落武者
⸻
軍帰路喰らいの落武者が、刃を振る。
逃げようとしていた魔物の群れが、まとめて迷った。
戻るはずの道を失い、前へ押され、泥門へ流され、骨槍へ刺さる。
《軍帰路喰らいによる退路遮断》
《獲得ソウル:476,000》
ソウルがまた増える。
戦争は、まだ終わらない。
だが、迷宮は確実に強くなっていく。
◇
白い部屋に、数字が積み上がった。
⸻
中層以降追加戦果:
湿骨軍列戦:336,000
泥塞大門戦:612,000
影軍縫い戦:288,000
軍帰路喰らい戦:476,000
中層迷走・宝物庫前処理:233,000
追加獲得ソウル合計:1,945,000
区画強制変形・戦場維持消費:45,000
現在保有ソウル:2,809,530
⸻
2,809,530。
余は、数字を見て少し黙った。
もう、数字が迷宮の壁を圧迫しているようだった。
これだけのソウルがあれば、何でもできる気がする。
だが、今は戦闘中だ。
使い道を考えるのは後でいい。
まず、喰う。
まず、生き残る。
そして、まだ奥へ来る怪物がいる。
ガルザヴェイン。
彼は、泥塞大門将グズを見て笑った。
影軍縫いカゲヌイの罠を見て、足を止めた。
軍帰路喰らいの落武者の刃を見て、銅鐘を鳴らした。
そして、自分の周囲の魔物をさらに強く引き上げながら、前へ進んでくる。
彼の配下は減っていた。
十万の軍勢は、すでに半分以下へ削られている。
だが、彼の周囲に残った個体は、逆に濃くなっていた。
強化ゴブリン。
黒いオーク。
金眼の狼。
巨大甲虫。
そして、ガルザヴェイン本人。
魔物の軍勢は数を失い、密度を増している。
「ロード」
フィルエが静かに言った。
「あれ、もう浅層の軍勢じゃない」
「精鋭になったな」
「うん。死んだ分、残ったのが強くなってる」
「ならば、次は強いもの同士だ」
余は、迷宮図の奥を見た。
灰白小宝庫。
白磁偽財殿。
骸門残響隔離層の外周。
そして、コアへ近づく防衛区画。
次は、数ではない。
強者の戦いになる。
「グズを下げるな」
《泥塞大門将グズ、負荷継続中》
「持たせろ。ガルザヴェインが来る」
《危険です》
「分かっている」
ガルザヴェインが、泥の門の前に立った。
彼は、門を見上げる。
その奥にいるグズを感じている。
「ゴブリン」
ガルザヴェインは言った。
「ツヨイ、ゴブリン」
泥塞大門将グズが、泥の奥から低く唸る。
「グ……ズ……」
二体のゴブリン。
一体は、迷宮の泥から生まれた門将。
一体は、十万の軍勢を率いる未成熟の魔神。
霧灰白庭迷宮の中層で、二つのゴブリンの強さが向かい合った。
余は白い部屋で、静かに言った。
「さあ、見せてみろ」
誰に向けた言葉かは、もう分からなかった。
グズか。
ガルザヴェインか。
それとも、自分自身か。
「霧灰白庭迷宮は、まだ終わらんぞ」




