第160話 十万の魔物は、迷宮の腹を叩く
白い霧の外で、地面が鳴っていた。
最初は遠い雷のようだった。
次に、地響きになった。
それから、霧灰白庭迷宮の外縁そのものが震え始めた。
白い部屋の壁面には、外部反応が次々と浮かんでいる。
赤ではない。
黒だった。
魔物の反応が多すぎて、表示が黒く潰れている。
《外縁部に大規模魔物群》
《通常侵入規模を超過》
《外部接触範囲、拡大中》
《浅層入口、外壁側自然隙間、上部霧層、戻り水外縁、同時接触》
「……管理音声」
《はい》
「数は」
《推定不能》
「推定しろ!」
《外縁接触反応、十万規模》
白い部屋が、静かになった。
十万。
冒険者の群れではない。
討伐隊でもない。
Aランクパーティでもない。
黒市主のような単独の怪物でもない。
十万の魔物。
それが今、霧灰白庭迷宮の腹を叩いている。
ゴブリン。
オーク。
狼型魔物。
虫型魔物。
飛行種。
死体獣。
泥を引きずる魔物。
角を持つ獣。
それらが押し合い、潰し合い、踏み越え合いながら、白い霧へ流れ込んでいる。
そして、その中心にいた。
金色の目。
未成熟な角。
灰緑の体。
腰に吊るした銅鐘。
魔神ゴブリン・ガルザヴェイン。
Sランク魔物。
まだ育ちきっていない、最上位ゴブリン。
「人間どもめ」
余は、低く言った。
《魔物軍勢は、人為的に誘導された可能性があります》
「可能性ではない。これは押し付けられたのだ」
外縁の反応には、火の残り香が混じっていた。
血餌の匂い。
人間の鐘。
王都側から流された圧。
明らかに自然な侵入ではない。
王都の連中は、自分たちで受けきれない魔物の軍勢を、余の迷宮へ流した。
腹立たしい。
非常に腹立たしい。
だが、同時に。
余の腹の奥が、熱くなった。
十万の魔物。
それは災害だ。
だが、ここは迷宮だ。
迷宮で死んだものは、余のものになる。
人間だろうが、魔物だろうが、侵入し、倒れ、命を落とせば、ソウルは余の腹へ流れ込む。
十万の軍勢。
十万の脅威。
そして、十万の餌。
「管理音声」
《はい》
「出し惜しみはなしだ」
《戦闘方針を確認します》
「全力で戦う。浅層も中層も、宝物庫も、泥も、霧も、骨も、糸も、蛾も、全部使う。宝箱が壊れても構わん。採取物が潰れても構わん。区画が傷ついても構わん。今は、十万を喰う」
《夜棺白庭は》
余は、一瞬だけ黙った。
夜棺白庭。
古血のヴァンパイア、ヴェルグレイヴが眠る場所。
最終防衛機構。
最悪の切り札。
だが、まだだ。
「起こすな」
《承知しました》
「だが、夜棺白庭の周囲に魔物を一匹たりとも近づけるな。あそこを刺激すれば、余が起こす前に勝手に起きるかもしれん」
《夜棺白庭、隔離強化》
「フィルエ!」
「見てる」
森灰観測室から、フィルエの声が返った。
眠そうな声ではない。
戦う声だ。
「外の流れが変。魔物たちは自分で選んで入ってるんじゃない。押し込まれてる」
「人間に流された」
「うん。でも中心のあれは違う。あれは、自分でこっちを見てる」
「ガルザヴェインか」
「金色。ゴブリン。でも、ゴブリンじゃないみたい。まだ育ちきってないのに、すごく強い」
「Sランク魔物だ」
「それだけじゃない」
フィルエの声が、少し低くなる。
「あれ、周りのゴブリンを変えてる。近くにいるだけで、ゴブリンが上へ引っ張られてる」
「最上位ゴブリン、か」
余は、壁面の奥に映る金色の目を見た。
まだ外縁だ。
まだ浅層に深く入ってはいない。
だが、あれはこちらを見ている。
白い霧の奥を。
迷宮の腹を。
余を。
「強い奴と戦いたい顔をしているな」
《顔からの推定ですか》
「気配で分かる」
あれは、王ではない。
まだ完成した魔神でもない。
飢えた怪物だ。
強いものを探している。
戦いを求めている。
そして今、余の迷宮に入ってきた。
「よい」
余は言った。
「ならば、まず教えてやる」
《何を》
「ここは、ただの森ではない」
白い部屋の床に、迷宮全体の図が広がった。
浅層。
灰霧回廊。
戻り水湿地。
灰白小宝庫。
白磁偽財殿。
骸門残響隔離層。
霧喰い大蛾育成温室。
残響音響室。
宝物庫中枢補助核。
夜棺白庭。
すべてが、今、戦場になる。
「白骨書記」
白骨書記が、白骨書記室から顔を出した。
骨筆を二本持っている。
「侵入者台帳を戦争用に切り替えろ。個体ごとの記録は不要だ。種別、数、死亡地点、獲得ソウルを優先」
白骨書記は、かた、と顎を鳴らし、床へ書いた。
⸻
戦争台帳へ移行。
個別記録を簡略化。
大量死亡処理を優先。
⸻
「ゴブリン食害記録は後だ」
白骨書記は、一瞬止まった。
そして、非常に不満そうに、ゴブリン食害記録棚へ伸ばしていた骨筆を引っ込めた。
「その反応は何だ」
《白骨書記は記録優先度変更に不満があるようです》
「今は戦争だ!」
◇
最初に動いたのは、霧だった。
灰白の霧が外縁へ広がる。
普段なら、冒険者の視界を奪い、足音を狂わせ、恐怖を育てる霧。
だが、相手は一人二人ではない。
数十でもない。
十万だ。
怖がらせる霧では足りない。
群れを壊す霧に変える。
「霧濃度、最大」
《浅層全域、灰霧濃度上昇》
「白磁花粉を混ぜろ。ただし即死毒ではなく、目と鼻を潰せ。匂いも、視界も、最初に壊す」
《実行》
霧が変わった。
白いだけではない。
灰が混じる。
白磁花粉が混じる。
戻り水の湿りが混じる。
最初に入ったゴブリン群が、霧の中で咳き込んだ。
「ギ、ギギッ!」
「ギャ!」
「ギ、ギイイ!」
目を押さえる。
鼻を掻く。
方向を失う。
後続のゴブリンが、それを踏み潰して進む。
狼型魔物は匂いを頼りに走ろうとして壁に頭を打ちつける。
オークが苛立って棍棒を振り回し、味方のゴブリンをまとめて潰す。
虫型魔物が互いの殻に噛みつく。
浅層入口で、魔物同士の衝突が始まった。
押し込まれる。
止まれない。
見えない。
嗅げない。
だから、ぶつかる。
倒れる。
踏まれる。
潰れる。
《浅層初期混乱、発生》
《魔物同士の衝突死、圧死、霧中迷走死を確認》
《死亡推定:一万二千四百体》
《獲得ソウル:148,800》
白い部屋へ、いきなり大きな数字が流れ込んだ。
148,800。
今までなら、一戦の大戦果と呼べる数字だ。
だが、これはまだ最初の混乱だけだ。
「入ったな」
《はい》
「これが戦争か」
《はい》
「悪くない」
余は笑った。
魔物が死ぬ。
大量に死ぬ。
ソウルが流れ込む。
迷宮の床下が、熱を帯びたように震えている。
だが、笑ってばかりはいられない。
十万の軍勢は、まだ押し寄せている。
◇
上部霧層へ、飛行種が殺到した。
地上の魔物が詰まれば、空から入ろうとする。
当然だ。
飛行種は、白い霧の上を越えようとした。
だが、そこにハイハネがいた。
霧喰い大蛾の未成熟個体として生まれ、補充日と卵狩りの戦いを越えた、灰霧の蛾。
今はまだ、完全な成体ではない。
それでも、外部追跡で役に立ち、卵市場を見つけた。
その羽は、もう霧灰白庭迷宮の目の一つだった。
「ハイハネ、上層霧へ」
育成温室の奥で、ハイハネが羽を震わせた。
ふぁさ。
灰白の霧が、上へ流れる。
飛行種たちの翼に、白灰の粉が付く。
ただの粉ではない。
霧を重くする粉。
光を鈍らせる粉。
方向をずらす粉。
飛行種の羽ばたきが乱れた。
一体が別の飛行種へぶつかる。
二体が絡み合って落ちる。
落ちた先には、影縫い大蜘蛛の糸。
さらに後続が巻き込まれる。
空の流れが崩れた。
それでも、数が多い。
飛行種は次から次へ入ってくる。
「ハイハネだけでは足りん」
《霧喰い大蛾卵群、孵化率上昇中》
「強制孵化は」
《可能。ただし未成熟個体になります》
「十万相手に成熟を待てるか。孵せ」
《霧喰い大蛾卵群、六個を強制孵化》
育成温室で、卵が割れた。
一つ。
二つ。
三つ。
まだ湿った羽を持つ霧喰い大蛾たちが、次々と這い出す。
弱い。
戦闘力は低い。
だが、霧を食える。
粉を撒ける。
空を乱せる。
ハイハネが羽を震わせる。
ふぁさ。
ふぁさ。
ふぁさ。
未成熟の大蛾たちが、それに合わせて羽を動かす。
上部霧層が、灰白の粉で満ちた。
飛行種が落ちる。
糸に絡む。
湿骨兵の槍に貫かれる。
戻り水へ沈む。
《飛行種落下、影糸捕縛、湿骨兵処理を確認》
《死亡推定:三千百体》
《獲得ソウル:93,000》
白骨書記が骨筆を走らせる。
⸻
第一空層戦果:
飛行種落下・影糸捕縛
獲得ソウル:93,000
霧喰い大蛾群、有効
⸻
その直後、管理音声が告げた。
《霧喰い大蛾ハイハネ、進化条件を達成》
「もうか」
《大量飛行種へ追跡粉を付与。霧喰い大蛾群を統率。進化可能です》
「やれ」
《進化を実行します》
育成温室から、灰白の光が広がった。
ハイハネの羽が大きくなる。
未成熟だった体が急激に伸びる。
羽の縁に白磁粉のような模様が走り、胴体には灰霧の筋が入る。
霧を食うだけではない。
霧を導く。
群れを導く。
粉を導く。
ハイハネは、ただの蛾ではなく、霧層の指揮個体へ変わっていく。
《霧喰い大蛾ハイハネは、灰霧追導蛾ハイハネへ進化しました》
ハイハネが羽を広げた。
ふぁさ。
その一音で、上部霧層の流れが変わる。
落ちる飛行種の位置が、こちらの望む場所へ寄っていく。
影糸へ。
湿骨兵の槍列へ。
戻り水の深い場所へ。
「第一進化だ」
《記録します》
白骨書記が即座に書いた。
⸻
戦闘中進化一:
ハイハネ
霧喰い大蛾 → 灰霧追導蛾
⸻
「その調子で、全部記録しろ」
白骨書記は、かた、と顎を鳴らした。
◇
地上では、泥が動いた。
泥塞門将グズは、中層手前に置いている。
だが、その泥核は浅層へも流せる。
普段なら、消耗を避けるために小規模にしか使わない。
だが、今は出し惜しみなしだ。
「グズ、外縁泥を全部起こせ」
「グ……ズ……!」
迷宮の奥から、低い声が返った。
浅層の床が湿る。
戻り水が泥を練る。
白磁片を含んだ灰色の泥が、通路の下から湧き始めた。
ゴブリンが沈む。
狼型魔物が足を取られる。
オークが膝まで沈み、怒って棍棒を振り回す。
だが、泥は棍棒で殴っても消えない。
沈む。
絡む。
重くする。
泥魔物の一部は耐えたが、白磁粉を含んだ泥に触れた瞬間、体表が固まり、動きが鈍る。
そこへ湿骨兵が入った。
湿った骨。
泥を纏った肋骨。
白磁片の盾。
戻り水の上で戦う兵たち。
最初は十体。
修復して十体。
戦場生成で増やしたものを合わせ、すでに十五体。
彼らが、泥の中から槍を突き出す。
沈んだ魔物の喉を突く。
腹を突く。
目を突く。
倒れた魔物を、泥の奥へ押し込む。
魔物が死ぬ。
また死ぬ。
さらに後続がその上を踏もうとして、同じ泥へ沈む。
《戻り水湿地外縁、魔物死亡多数》
《死亡推定:四千六百体》
《獲得ソウル:184,000》
ソウルが、さらに流れ込む。
184,000。
白い部屋の床下が、強く震えた。
数字が膨れ上がっていく。
だが、湿地側にも問題が出る。
《警告》
《死体堆積により、戻り水湿地外縁の処理能力が低下》
《湿骨兵の移動経路、一部塞がれています》
「死体を沈めろ」
《戻り水処理、過負荷》
「なら湿骨兵に運ばせろ」
《湿骨兵、数不足》
「今作れ!」
《戦場死体を素材に湿骨兵を追加生成可能》
「使え。ソウルも使ってよい」
《ソウル消費:3,000》
《湿骨兵二十体、戦場生成》
泥の中で、骨が立った。
ゴブリンの骨。
オークの骨。
獣の骨。
虫の殻。
そこへ戻り水と白磁片が絡む。
不揃いだ。
生前の種もばらばら。
だが、迷宮の兵になるには十分だった。
二十体の湿骨兵が、泥の中から立ち上がる。
合計三十五体。
まだ足りない。
十万にはまるで足りない。
だが、流れを作るには足りる。
湿骨兵は、死体を運ぶ。
死体を沈める。
通路を塞ぐ山を崩す。
落ちた飛行種を槍で固定する。
狼型魔物の足を絡め取る。
浅層の泥は、ただの罠ではなくなっていた。
戦場そのものになり始めていた。
《湿骨兵群、戦闘記録蓄積》
《進化条件、進行中》
「まだか」
《もう少し必要です》
「ならもっと働け。今日は死体に困らん」
◇
外壁側から、虫型魔物の群れが侵入を始めた。
小型の甲虫。
鎌を持つ蟲。
白い霧を嫌がらず、むしろ霧を切り裂くように進んでくる。
影縫い大蜘蛛が糸を張る。
だが、虫型魔物の一部はその糸を噛み切った。
「影糸が切られている」
《虫型魔物により影糸損傷》
「カゲヌイ」
《待機中》
「群れ全部を止めるな。先頭だけでいい。影を縫って詰まらせろ」
《実行》
カゲヌイが影に沈んだ。
次の瞬間、壁を登る虫型魔物の先頭群、その影に黒い針が刺さる。
一体が止まる。
その背に、後続がぶつかる。
さらに後続が積み重なる。
虫の列が崩れた。
壁から落ちる。
落ちた先に、ハイハネが導いた霧が流れる。
灰白の粉を吸った虫型魔物が、方向を失う。
互いを敵と誤認し、噛み始める。
甲虫が鎌虫を切り、鎌虫が小型虫を裂き、裂かれた虫の体液でさらに虫が狂う。
《虫型魔物同士討ち、大規模発生》
《死亡推定:八千九百体》
《獲得ソウル:178,000》
「同士討ちでも入るか」
《迷宮内での死亡として処理されています》
「素晴らしい」
敵同士で殺し合い、それでもソウルは余に入る。
実に迷宮向きだ。
だが、戦場はすぐに次の問題を吐き出す。
ガルザヴェインが、銅鐘を鳴らした。
ごん。
魔物の動きが変わった。
灰霧の濃い道を避ける。
泥が深い場所を避ける。
死体が積み重なった場所を踏み台として使う。
落ちた飛行種の死骸を、狼型魔物が橋にする。
「対応してきた」
フィルエの声が鋭い。
「ロード。あれ、迷宮の流れを見てるわけじゃない。でも、どこで多く死んだかを見て、安全な線を作ろうとしてる」
「仲間の死を地図にしているのか」
「うん」
「ゴブリンのくせに、嫌なことをする」
だが、ガルザヴェインの判断は正しい。
死体が山になれば、そこは踏み台になる。
魔物は死体を気にしない。
むしろ、利用する。
ならば、その死体を罠にする。
「安全そうな死体山を作れ」
《戻り水死体罠を形成します》
「いかにも踏み台にしやすくしろ。そこへ誘え」
浅層の一角に、死体の山ができる。
ゴブリン。
狼型。
飛行種。
虫型。
オーク。
いかにも固そうで、踏み越えられそうな山。
ガルザヴェインの鐘に従った魔物たちが、そこへ向かう。
死体を踏む。
その下に、戻り水。
白磁粉を混ぜた泥。
影糸。
踏み込んだ瞬間、死体山が崩れた。
踏み台ではない。
蓋だった。
戻り水が一気に口を開ける。
オークが沈む。
狼型魔物が流される。
進化しかけのゴブリンが、数百単位で呑まれる。
虫型魔物が泥の中で固まり、後続を巻き込む。
そこへ、湿骨兵が槍で押し込む。
ハイハネが霧を流し、逃げ道を隠す。
カゲヌイが影を縫う。
魔物の群れは、死体の踏み台ごと、泥の腹へ落ちた。
《戻り水死体罠、成功》
《死亡推定:六千二百体》
《獲得ソウル:279,000》
白い部屋に、莫大なソウルが流れ込んだ。
279,000。
重い。
厚い。
黒い。
だが、力だ。
迷宮の床下が、歓喜するように震える。
いや、震えたのは余かもしれない。
「……管理音声」
《はい》
「現在保有ソウル」
《計算中》
白骨書記が、骨筆を走らせる。
戦争台帳の数字が積み上がる。
⸻
初動戦果:
浅層混乱圧死
死亡推定:一万二千四百体
獲得ソウル:148,800
飛行種落下・影糸捕縛
死亡推定:三千百体
獲得ソウル:93,000
戻り水湿地外縁
死亡推定:四千六百体
獲得ソウル:184,000
虫型魔物同士討ち
死亡推定:八千九百体
獲得ソウル:178,000
戻り水死体罠
死亡推定:六千二百体
獲得ソウル:279,000
初動死亡推定合計:三万五千二百体
初動獲得ソウル合計:882,800
戦闘前保有ソウル:29,730
湿骨兵追加生成消費:3,000
現在保有ソウル:909,530
⸻
909,530。
桁が変わった。
黒市主を喰った時も大きいと思った。
だが、これは違う。
十万の軍勢を相手にした戦争収支。
ただの討伐ではない。
迷宮の腹へ、大量の命が雪崩れ込んでいる。
「……これはもう、迷宮運営ではないな」
《戦争です》
「ああ」
余は笑った。
「戦争だ」
だが、喜びだけでは終わらない。
三万五千以上を初動で削った。
それでもまだ、六万以上が残っている。
そして中心には、魔神ゴブリン・ガルザヴェイン。
彼は、浅層の奥からこちらを見ていた。
多くの魔物が死ぬのを見た。
霧が殺すのを見た。
泥が呑むのを見た。
死体山が罠になるのを見た。
そして、笑った。
「……イル」
声が、霧を震わせる。
「ツヨイ……イル」
ガルザヴェインが、銅鐘を鳴らした。
ごん。
彼の周囲のゴブリンたちが、一斉に震える。
進化しかけている。
目が金色に濁り、爪が伸び、筋肉が膨れる。
ガルザヴェインは、仲間を失っても怯えない。
むしろ、戦場を見て育っている。
「ロード」
フィルエの声が、静かに届く。
「あれ、奥へ来るよ」
「分かっている」
「止める?」
「いや」
余は迷宮図を見た。
浅層で軍勢を削る。
中層でさらに削る。
宝物庫で強化個体を潰す。
泥塞門将グズをぶつける。
折剣濁白騎士をぶつける。
帰路喰らいの落武者をぶつける。
それでも、あいつは来るだろう。
強い奴と戦うために。
ならば、誘う。
「ガルザヴェイン用の道を作る」
《危険です》
「知っている」
《魔神ゴブリンを深部へ誘導することになります》
「知っている」
《最悪の場合、コア付近まで到達します》
「そこまで来させる」
《……確認します。意図的ですか》
「意図的だ」
白い部屋に、わずかな沈黙が落ちた。
管理音声すら、一瞬止まった気がした。
《理由を》
「あれは、ただ殺すには惜しい」
余は、金色の目を見た。
「最上位ゴブリン。十万を率いた未成熟の魔神。強い者を求めている。ならば、ただ罠で潰すより、余の迷宮の強さを見せる」
「ロード」
フィルエが言った。
「説得する気?」
「ああ」
「危ないよ」
「危ない」
「コア近くまで来るかもしれない」
「来るだろうな」
「それでも?」
「それでもだ」
余は、白い部屋の中央で言った。
「あのゴブリンは、王になりたいのではない。強さを求めている。なら、霧灰白庭迷宮の強さを見せる。配下を見せ、罠を見せ、死を見せ、ソウルの流れを見せる」
《契約を視野に入れていますか》
「そうだ」
魔神ゴブリン・ガルザヴェイン。
最終的には、仲間にする。
ただし、今はまだ敵だ。
敵として迎え、敵として削り、敵として奥へ来させる。
そして、コアの前で選ばせる。
戦い続けて死ぬか。
この迷宮の中で、さらに強くなるか。
「まずは、試す」
余は迷宮図に印を置いた。
泥塞門将グズの気配。
折剣濁白騎士の剣気。
帰路喰らいの落武者の刃音。
骸門残響隔離層の黒い門の微反応。
そして、最後にコア近くの白い圧。
夜棺白庭は隠す。
ヴェルグレイヴは起こさない。
だが、強いものの気配を点々と置く。
一本道ではない。
戦いの匂いで誘導する。
「フィルエ」
「うん」
「道ではなく、戦いの気配を置け」
「分かった」
森灰観測網が動く。
浅層の奥から中層へ、目に見えない線が作られていく。
ガルザヴェインは、そこを嗅ぐだろう。
読むだろう。
来るだろう。
金色の目が、霧の奥へ向いた。
そして、彼は歩き出した。
進化しかけのゴブリン群を従えて。
オークの上位個体を従えて。
黒い狼を従えて。
巨大な虫型を従えて。
浅層で三万以上を失いながら、それでも奥へ。
奥へ。
「来い」
余は、白い部屋で告げた。
「十万の軍勢も、未成熟の魔神も、全部まとめて相手をしてやる」
白骨書記が、戦争台帳の最後に新しい一行を書き加えた。
⸻
魔神ゴブリン・ガルザヴェイン、深部誘導開始。
⸻
余は、それを見て静かに笑った。
ここからが、本番だ。




