第159話 王都は、霧に魔物を押し付ける
黒い波は、白い霧へ入っていった。
最初は、ただのゴブリンだった。
金色に濁った目をした、進化しかけのゴブリン。
そいつが一歩、灰白の霧へ踏み込んだ。
次に狼型魔物。
その後ろにオーク。
さらに後ろから、泥を引きずる魔物、死体獣、虫型、飛行種、棍棒を振り上げるゴブリンの群れ。
魔物たちは、押し合い、踏み合い、呻きながら、霧の中へ流れ込んでいった。
遠くから見ている人間たちには、それが奇妙に静かに見えた。
あれほど地響きを立てていた軍勢が、白い霧へ触れた途端、音を吸われたように鈍くなる。
悲鳴も、咆哮も、足音も、少しずつ霧に飲まれていく。
灰白庭。
白箱迷宮。
銀刻帰らず。
白庭化した旧迷靄洞。
人間たちが好き勝手に呼んでいた変異迷宮が、今、王都へ向かっていた黒い波を呑み込もうとしていた。
誰も歓声を上げなかった。
王都は救われた。
少なくとも、今すぐには。
だが、そのために何をしたのかを、そこにいた者たちは理解していた。
自分たちは、魔物の軍勢を倒したのではない。
別の怪物の腹へ押し込んだだけだ。
◇
軍務卿オルド・ヴァイゼンは、馬上で白い霧を見ていた。
鎧も外していない。
顔には疲労が濃い。
何度も命令を叫び、何度も報告を受け、何度も最悪の判断をした男の顔だった。
「本流は?」
彼が問うと、伝令が震える声で答えた。
「灰白庭方面へ流入継続中! 推定、すでに三万以上が霧内へ!」
「ガルザヴェインは」
「霧の入口付近で確認後、内部へ進入しました!」
オルドは目を閉じた。
魔神ゴブリン・ガルザヴェイン。
Sランクの未成熟体。
二十万の魔物の軍勢を率いていた最上位ゴブリン。
そいつが、灰白庭へ入った。
その事実が、安堵なのか、新たな絶望なのか、まだ誰にも分からない。
「残敵は」
「王都方面へ逸れた魔物が各地に散っています。騎士団と冒険者部隊が掃討中。ただし数は……」
「多いか」
「はい」
オルドは頷いた。
「本流でなくても、魔物は魔物だ。村や街道へ行かせるな。第二防衛線を縮小し、残敵処理へ回せ」
「はっ!」
伝令が走る。
オルドは再び白い霧を見た。
「……我々は、何をした」
誰に向けた言葉でもなかった。
だが、隣にいたギルド本部長エルナンド・ロウが答えた。
「王都を、今日だけ生かしました」
「今日だけ、か」
「明日のことは、明日の怪物が決めます」
「灰白庭が勝てば、迷宮は強くなる」
「はい」
「灰白庭が負ければ、魔物は戻る」
「はい」
「どちらも悪夢だな」
「ですが、王都が今滅びるよりはましです」
エルナンドの声は、冷たいほど静かだった。
オルドは苦笑した。
「お前は、こういう判断に慣れているのか」
「慣れません」
「そうは見えない」
「慣れたように見せないと、下が壊れます」
オルドは、少しだけ彼を見た。
その横顔にも、疲労はあった。
この男もまた、多くの冒険者の名を地図から消してきた人間なのだろう。
生き残るために。
誰かを前へ出すために。
誰かを帰らせるために。
「観測班を出せ」
オルドが言った。
「ただし、近づきすぎるな」
エルナンドは頷く。
「ギルド側からも出します。灰白庭の入口から十分距離を取る。魔力盤、遠見鏡、飛行偵察は低高度を避ける」
「鷹騎兵は?」
「ガルザヴェインに一度落とされています。無理に出せば死ぬだけです」
「では、地上観測か」
「はい。森縁まで」
「それ以上は?」
「行かせません」
エルナンドは、白い霧を見た。
「灰白庭は、入る者を選ぶ場所です。こちらが選んだつもりで踏み込めば、帰れない」
◇
第二防衛線の野営地では、兵士たちが崩れるように座り込んでいた。
勝ったわけではない。
だが、目の前の黒い波が王都から逸れたことで、体から力が抜けた。
都市警備兵エランも、地面に座っていた。
腕の傷は痛む。
喉は乾いている。
槍を握っていた指は、開こうとしてもすぐには開かない。
隣では、Dランク冒険者の青年が仰向けに倒れている。
担架を運び続け、血餌の樽を運び、最後は走れなくなって転がった男だ。
「……終わったのか」
青年が呟いた。
エランは、白い霧の方を見た。
「分かりません」
「でも、こっちには来てない」
「今は」
「嫌な言い方するなよ」
「すみません」
青年は少し笑った。
笑って、すぐ顔をしかめる。
肋骨を痛めているらしい。
「俺、今日何匹殺したと思う?」
「魔物をですか」
「いや、殺してない。たぶん一匹も。人を運んで、血の樽を運んで、逃げて、転んで、また運んだだけだ」
「それでも、戦ったと思います」
「本当に?」
「はい」
エランは、自分の腕を見る。
包帯の下で、傷が熱を持っている。
「ラウドさんも、あなたに運ばれたから助かるかもしれない」
「助かるかな」
「助かってほしいです」
二人はしばらく黙った。
遠くで、まだ戦闘音が聞こえる。
王都方面へ逸れた魔物を、騎士団や冒険者が掃討しているのだ。
だが、あの二十万の本流に比べれば、音は小さい。
それがまた、恐ろしかった。
あれほどの黒い波が、今は霧の中にいる。
見えない。
見えないことが、かえって怖い。
「なあ」
青年が言った。
「灰白庭って、そんなにやばいのか」
エランは答えられなかった。
彼は王都警備兵だ。
冒険者ではない。
迷宮のことには詳しくない。
ただ、噂だけは聞いている。
白い箱がある迷宮。
宝が出る迷宮。
銀刻というAランクパーティが戻らなかった迷宮。
暁秤という別のAランクパーティも帰らなかった迷宮。
そして、最近は黒市絡みの者たちも消えたと噂されている場所。
「人間が入って帰らない場所だとは聞いています」
「じゃあ、魔物は?」
「……分かりません」
青年は、白い霧の方へ顔を向けた。
「喰ってくれるといいな」
その声は、祈りに近かった。
◇
医療天幕では、蒼穹の楔の治療が続いていた。
イグナスは意識を取り戻していたが、起き上がれない。
腹部の骨が砕け、内臓にも損傷がある。
セネリアの祈りと神官たちの術で命は繋いでいるが、戦える状態ではない。
ドルガは両足と胸部を固定されている。
巨槍盾は砕け、修復不能と判断された。
ラティカは焼けた腕を包帯で吊り、魔力枯渇で熱を出していた。
セネリアは意識を戻したが、祈祷の使いすぎで声が出ない。
ユードは左腕を失い、さらに脚にも黒い魔力傷を負っていた。
そのユードが、寝台の上で目を開けた。
「曲がったか」
かすれた声だった。
ラティカが、隣の寝台から睨む。
「まず自分が生きてるか確認しなさいよ」
「生きてる」
「ぎりぎりね」
「曲がったか」
ラティカは、しばらく黙った。
そして、ため息をついた。
「曲がったわよ。あんたが馬鹿みたいに走ったおかげでね」
「本流は」
「灰白庭へ向かった」
ユードは目を閉じた。
ほっとしたようにも、さらに疲れたようにも見えた。
イグナスが、隣の寝台から声を出す。
「……ガルザヴェインは」
「入った」
ラティカが答えた。
「白い霧へ。見ていた兵がそう言ってた」
ドルガが、低く笑おうとして咳き込んだ。
「迷宮と魔神ゴブリンか。どっちが勝つんだろうな」
誰もすぐには答えなかった。
セネリアが、声を出せないまま祈祷布に指で文字を書く。
⸻
どちらが勝っても、怖い
⸻
その通りだった。
灰白庭が負ければ、魔物の軍勢が戻る。
灰白庭が勝てば、その迷宮は十万を超える魔物を喰ったことになる。
どちらも怖い。
だが、今の王都にとっては、前者の方がすぐ死ぬ恐怖だった。
イグナスは、目を閉じて言った。
「……俺たちは、届かなかった」
ラティカは何も言わなかった。
ユードも。
ドルガも。
セネリアも。
蒼穹の楔は、Sランクになったばかりだった。
強かった。
間違いなく強かった。
だが、未成熟の魔神には届かなかった。
その事実は、誰よりも彼ら自身に重かった。
「次があれば」
イグナスは言った。
「届かせる」
ラティカが、少しだけ笑った。
「次までに、生きて歩けるようになってから言って」
「……そうだな」
◇
観測班は、夕闇が深くなる前に出発した。
ギルドの観測員が三名。
魔術師団の魔力盤技師が二名。
騎士団護衛が十名。
そして、Bランク冒険者の斥候が二名。
彼らに命じられたのは、灰白庭へ近づきすぎないこと。
魔物の流入状況を確認すること。
ガルザヴェインの反応を追うこと。
そして、迷宮側の変化を観測すること。
観測班長は、出発前にエルナンドから念を押された。
「森へ入るな」
「はい」
「霧へ触れるな」
「はい」
「宝を見ても拾うな」
「当然です」
「当然ではない。人間は拾う」
観測班長は苦笑しかけたが、エルナンドの顔が真剣だったため、笑えなかった。
「了解しました。拾いません」
「戻ることを最優先にしろ。情報を持ち帰れない観測班に価値はない」
「はい」
観測班は、ローヴェ南森へ向かった。
遠くからでも、白い霧は見える。
その周囲へ、黒い魔物の群れが押し寄せている。
だが、不思議なことに、霧の中へ入った魔物の姿はすぐに見えなくなる。
普通の森なら、木々が揺れる。
枝が折れる。
飛行種が上に逃げる。
だが、灰白庭の霧は違った。
魔物を呑む。
音を鈍らせる。
姿を消す。
「……静かすぎる」
Bランク斥候が呟いた。
魔力盤技師が盤面を見る。
針が激しく揺れていた。
「内部魔力反応、急上昇。魔物反応が多すぎて、個別識別不能」
「ガルザヴェインは」
「分からない。Sランク反応が一つ、霧内へ入ったのは確認した。だが、その後、白灰系魔力に重なって追えない」
「迷宮が隠しているのか」
「分からない。だが……」
技師は、喉を鳴らした。
「反応が、消えていく」
「死んでいる?」
「一部は。いや、かなりの数が」
斥候は、霧を見た。
黒い波が、まだ流れ込んでいる。
だが、霧の奥から戻ってくる魔物はほとんどいない。
叫び声はある。
だが、遠い。
途中で切れる。
何かが中で起きている。
迷宮が、喰っている。
観測班長は、背筋に冷たいものを感じた。
「記録しろ」
技師が頷く。
「魔物軍勢、灰白庭へ流入。内部で魔力反応消失多数。迷宮側の活動、極めて活発」
その時、白い霧の奥で、低い音が鳴った。
ごぉん。
銅鐘ではない。
もっと湿った、もっと低い音。
迷宮の奥から響いたような音。
観測班全員が、同時に動きを止めた。
斥候が言った。
「下がるぞ」
「でも、まだ」
「今の音は、こっちを見た音だ」
誰も反論しなかった。
観測班は、慎重に後退した。
そして、その場を離れる直前、彼らは見た。
霧の表面が、ほんの一瞬だけ形を変えた。
白い霧の中に、巨大な口のような影が浮かんだのだ。
すぐに消えた。
見間違いかもしれない。
だが、観測班の誰も、見間違いだとは思えなかった。
◇
夜。
王都の城壁から、南東の空が見えた。
白い霧そのものは見えない。
だが、その方角の空だけが、不自然に灰色に濁っている。
市民たちは、まだ避難所にいた。
誰も家へ戻ってよいとは言われていない。
東門周辺は封鎖されたまま。
負傷兵が次々と運び込まれ、神殿はいっぱいになっている。
勝利の報はない。
ただ、「本流は王都から逸れた」という報せだけが広がった。
人々は喜びかけた。
だが、すぐに言葉を失った。
逸れた先が、灰白庭だと知ったからだ。
誰もがその名を詳しく知っているわけではない。
だが、噂は知っている。
白い箱の迷宮。
宝が出るが、人が帰らない迷宮。
Aランクが戻らなかった迷宮。
その迷宮へ、十万を超える魔物が流れた。
「それで、大丈夫なの?」
避難所の片隅で、子供が母親に聞いた。
母親は答えられなかった。
近くにいた老人が、代わりに言った。
「今夜はな」
「明日は?」
老人は、目を閉じた。
「明日は、明日考える」
それ以上の答えを、誰も持っていなかった。
◇
軍務卿オルドは、王城の高台で南東を見ていた。
隣にはエルナンド。
遠くで、まだ火の明かりが見える。
第一防衛線の残り火。
第二防衛線の松明。
そして、もっと遠くにある灰色の空。
「観測班の第一報は」
オルドが問う。
エルナンドが答える。
「魔物の大部分が灰白庭へ流入。内部で多数の魔力反応消失。ガルザヴェインの追跡は不明瞭。迷宮側の活動は極めて活発」
「喰っているのか」
「おそらく」
「十万を超える魔物を?」
「可能かどうかは分かりません。ですが、少なくとも呑み込んではいます」
オルドは、深く息を吐いた。
「我々は、王都を救うために、あの迷宮へ供物を送った」
「そうとも言えます」
「供物か」
オルドは自嘲するように笑った。
「私は軍務卿だ。神官ではないのだがな」
「今日の作戦は、軍でも祈りでも狩りでもありました」
「そして、罪でもある」
エルナンドは否定しなかった。
「はい」
オルドは、南東の灰色の空を見続けた。
「記録にはどう書く」
「王都防衛のため、魔物軍勢を白庭化した旧迷靄洞方面へ誘導、と」
「随分と綺麗な言い方だな」
「公式記録ですので」
「真実は?」
エルナンドは静かに答えた。
「王都は、灰白庭に魔物を押し付けた」
オルドは頷いた。
「忘れるな」
「はい」
「いつか、あの迷宮がこの日の代金を取りに来るかもしれん」
その言葉に、エルナンドは返事をしなかった。
ただ、南東の空を見ていた。
灰色に濁った夜。
その下で、いま何が起きているのか。
人間には分からない。
王都は、今日だけ生き延びた。
だが、そのために、別の腹の中で何かが始まった。
白い霧の奥で。
灰白庭の中で。
十万を超える魔物と、未成熟の魔神ゴブリンが、迷宮へ呑み込まれていた。




