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第157話 灰白庭へ流せ

 魔物の軍勢を、迷宮へ流す。


 言葉にすれば、それだけだった。


 だが、その言葉の中には、あまりにも多くのものが詰まっていた。


 王都を救うために、別の怪物へ黒い波を押し付ける。


 人間の手で、人間を喰った迷宮へ、魔物を送り込む。


 その先で何が起きるかは分からない。


 迷宮が潰れるかもしれない。


 魔物が迷宮を踏み越え、結局王都へ戻るかもしれない。


 迷宮が魔物を喰い、今よりさらに危険な存在になるかもしれない。


 だが、軍務卿ぐんむきょうオルドは、もう選んでいた。


「今、王都が死ぬよりはましだ」


 その声は、軍議室の石壁に低く響いた。


 誰も反論しなかった。


 反論できなかった。


 第一防衛線は崩れた。


 蒼穹のそうきゅうのくさびは敗れた。


 魔神ゴブリン・ガルザヴェインは健在。


 魔物の軍勢は、まだ十数万以上。


 王都までの距離は、もう余裕とは呼べない。


 正しい策を探している時間はなかった。


 今あるのは、ましな悪手を選ぶ時間だけだ。


    ◇


 地図の上に、灰色の印があった。


 人間側では、呼び名がまだ揺れている。


 灰白庭。


 白箱迷宮。


 銀刻帰らず。


 白庭化した旧迷靄洞。


 ギルドの古い資料では、旧迷靄洞と記されていた場所。


 その後、白磁庭園の反応が消失し、旧迷靄洞側へ白磁属性が流れた。


 Aランクパーティ《銀刻の五人》が戻らず、さらに《暁秤あかつきばかり》も帰らなかった。


 宝箱が出る。


 白銀磁片はくぎんじへんが出る。


 灰霧封じの小瓶が出る。


 だが、深く潜った者は帰らない。


 人間たちは、そこを恐れながらも欲しがっていた。


 そして今、王都連合軍はそこへ魔物の軍勢を流そうとしている。


「進路は、ここだ」


 ギルド本部長エルナンドが、地図上に線を引いた。


 王都東方から南東へ。


 第二防衛線の手前で軍勢を歪め、ローヴェ南森の縁をかすめ、古い狩猟道へ押し込む。


 その先には、灰白庭のある森が広がっている。


「そんな簡単に曲がるものか」


 騎士団総長ヴァルデンが言った。


 彼の鎧には、まだ第一防衛線の血が乾ききらずに残っていた。


「二十万近い魔物の流れだぞ。川ではない。だが川より厄介だ」


「だから、川として扱います」


 エルナンドは答えた。


「止めるのではなく、流れを変える」


 魔術師団長リヴァルトが、腕を組んだ。


「方法は三つだな」


「はい」


 エルナンドは、地図の上に赤い小石を置いた。


「一つ目。火の壁です。王都側の進路に油壺と火術陣を展開し、魔物の主流を南へ押します」


 次に、青い小石を置く。


「二つ目。音です。銅鑼どら、戦太鼓、魔術で増幅した獣避け鐘を王都側で鳴らし、ガルザヴェインの鐘に対抗します。完全には制御できないでしょうが、少なくとも嫌がらせにはなる」


 最後に、黒い小石を置いた。


「三つ目。血餌ちえです」


 その言葉に、軍議室が重くなった。


 軍務卿オルドが眉をひそめる。


「血餌とは」


「魔物が強く反応する血と魔力の混合餌です。通常は禁じ手ですが、今回は使うしかありません」


 神殿代表の老司祭が、厳しい声で言った。


「人血か」


「いいえ」


 エルナンドは即座に否定した。


「家畜血と魔物血、魔力石の粉を混ぜます。人血は使いません」


「ならばよい、とは言えん」


「承知しています」


「それでも使うのだな」


「はい」


 軍務卿オルドが目を閉じた。


 火で押し、音で嫌がらせ、血餌で誘う。


 言葉にすれば作戦だ。


 だが実態は、巨大な恐怖を別の方向へ追い立てるための、必死の悪あがきだった。


「ガルザヴェイン本人はどうする」


 ヴァルデンが問う。


「あれが王都を見続ける限り、軍勢の中心は王都へ向かう」


 その場にいる者たちの視線が、ユードへ向いた。


 片腕を失ったSランクの弓手は、地図の端に立っていた。


 顔色は悪い。


 肩口の包帯には血が滲んでいる。


 それでも、彼は立っている。


「俺が引く」


 ユードは静かに言った。


 ラティカが天幕の入口から叫んだ。


「馬鹿言わないで!」


 彼女は治療を受けている途中だった。


 焼けた腕を吊り、杖を支えにしている。


 それでも、ユードの言葉を聞いて出てきた。


「片腕で? あいつを? 正気?」


「片腕でも弓は引ける」


「逃げ切れない!」


「逃げ切る必要はない。曲がるまで引ければいい」


「それを死ぬって言うのよ!」


 ユードは、少しだけラティカを見た。


「死ぬ気はない」


「その顔で言われても信用できない」


 その時、寝台からかすれた声がした。


「ユード」


 イグナスだった。


 腹部を厚く巻かれ、まだ起き上がれない。


 それでも、意識は戻っていた。


「無茶はするな」


 ユードは小さく笑った。


「お前に言われると重いな」


「俺たちは負けた」


 イグナスは、苦しそうに息をした。


「だが、終わっていない」


「ああ」


「なら、使えるものは全部使え。俺の剣も、ラティカの火も、ドルガの盾も、セネリアの祈りも。お前一人で引くな」


 ユードは黙った。


 しばらくして、頷く。


「分かった」


 軍務卿オルドが問う。


「具体的には?」


 ユードは、地図の上に指を置いた。


「ガルザヴェインは、俺を覚えています。眼を狙ったからです。もう一度、あいつの視界へ入れば反応する可能性が高い」


「それだけで南へ動くか」


「足りません」


 ユードは、ラティカを見た。


「雷炎の匂いを使う」


 ラティカが顔をしかめる。


「私の火を餌にする気?」


「あいつは蒼穹の楔を覚えている。イグナスの剣、俺の矢、ラティカの雷炎。特に雷炎は傷口に入れた。反応する」


「私、まともに撃てないわよ」


「撃たなくていい。残り火でいい」


 ラティカは舌打ちした。


「最悪」


「そうだ」


「でも、やるしかないんでしょ」


「ああ」


 セネリアが、奥から弱い声で言った。


「祈祷布も使って」


 彼女はまだ起き上がれない。


 だが、祈祷布を一枚、ラティカへ渡した。


白祈はくきの匂いも、あの魔物は覚えてる。私を狙ったから」


 ドルガは寝台の上で笑った。


 笑うたびに胸が痛むのか、顔をしかめる。


「俺の盾の欠片も持ってけ。あいつ、俺を殴った感触も覚えてるだろ」


 ユードは、仲間たちを見た。


 蒼穹の楔は負けた。


 だが、まだ戦っていた。


 自分たちの身体で戦えないなら、痕跡を武器にする。


 傷も、血も、焦げた布も、砕けた盾も。


 すべてを餌にする。


「分かった」


 ユードは言った。


「全部使う」


    ◇


 作戦は、夜のうちに動き始めた。


 第二防衛線の後方では、火術師たちが油壺を並べている。


 魔術師団は、王都側へ火の壁を作るための術式を刻む。


 神殿兵は、血餌に死霊系の魔物が寄りすぎないよう、薄い浄化布を混ぜる。


 傭兵たちは、嫌な顔をしながら魔物血の樽を運ぶ。


 騎馬隊は、側面を突くための進路を確認していた。


「こんなもん、軍の作戦じゃねえ」


 傭兵の一人が樽を運びながら言った。


「猟師の罠だ」


 隣の男が答える。


「相手が獣ならな」


「獣じゃないのか?」


「Sランクのゴブリンだとよ」


「ゴブリンがSランクとか、世も末だな」


「末にしないために運んでるんだろ」


 彼らは笑った。


 笑いは乾いていた。


 だが、何も言わないよりはましだった。


 別の場所では、火壺を作る職人たちが急造の爆炎壺を詰めていた。


 普段なら絶対に許可されない量の火薬と油が詰め込まれている。


 失敗すれば、味方の陣地ごと燃える。


 だが、使うしかない。


 人間たちは、これ以上ないほど危険な道具を、これ以上ないほど急いで作っていた。


    ◇


 第二防衛線の端で、兵士エランは座り込んでいた。


 腕の噛み傷は包帯で巻かれている。


 先輩兵ラウドは治療所へ運ばれた。


 生きているかは、まだ分からない。


 エランは、手元の短槍を見ていた。


 柄に乾いた血がこびりついている。


 自分のものか、魔物のものか、分からない。


 そこへ、担架を運んでいたDランク冒険者の青年が座り込んだ。


 彼も泥だらけだった。


「生きてたな」


 青年が言った。


 エランは顔を上げる。


「あなたも」


「前に出たかったのに、ずっと人を運んでた」


「助かりました。ラウドさんを」


「助かったかは分からない」


「それでも」


 青年は、少し黙った。


 それから、遠くの戦場を見た。


「Sランク、負けたって本当か」


 エランは答えられなかった。


 見ていない。


 だが、噂はもう回っていた。


「負けたんじゃない」


 エランは、自分でも苦しい言い方だと思いながら言った。


「戻っただけだ」


 青年は笑わなかった。


「じゃあ、俺たちも戻れるかな」


 エランは、東の暗闇を見た。


 そこから、銅鐘の音が聞こえる。


 ごん。


 遠いのに、近いような音。


「戻ります」


「根拠は?」


「後ろに王都があるから」


 青年は、少しだけ笑った。


「それ、誰かの受け売り?」


「はい」


「いい言葉だな」


 そして、二人はしばらく黙っていた。


 戦う者も、運ぶ者も、逃げられない者も。


 みんな同じ夜の中にいた。


    ◇


 夜更け、ユードは作戦用の馬の前に立っていた。


 馬ではない。


 軍用の脚竜きゃくりゅうだ。


 馬より速く、魔物の血の匂いにも怯えにくい。


 だが、ガルザヴェインから逃げ切れるかは分からない。


 鞍には、ラティカの雷炎を染み込ませた布。


 セネリアの白祈布。


 ドルガの盾の破片。


 イグナスの剣についた青い魔力の残滓。


 それらが小袋に分けて括りつけられている。


 ユード自身も、右腕だけで弓を扱えるよう、影弦かげづるの補助具を取りつけていた。


 ギルド本部長エルナンドが近づく。


「本当に行くのか」


「行かなきゃ、軍勢は曲がらない」


「君はもう十分戦った」


「十分じゃなかった。だから負けた」


 エルナンドは、何も言えなかった。


 ユードは淡々と矢を確認する。


 残った矢は少ない。


 だが、必要なのは殺すための矢ではない。


 怒らせるための矢だ。


「もし失敗したら」


 エルナンドが言った。


「王都外壁で受けるしかない」


「違う」


 ユードは首を横に振った。


「失敗したら、王都は終わる」


 その言葉は冷たかった。


 だが、事実だった。


 エルナンドは、静かに言った。


「灰白庭へ流した後のことは、まだ誰も考えたくない」


「考える時間ができる」


「迷宮が強くなるぞ」


「王都がなくなるよりはましだ」


「君もそう言うか」


「正気の策で勝てるなら、俺たちは勝っていた」


 ユードは脚竜に跨った。


 片腕で手綱を握る。


 不安定だ。


 だが、目は死んでいない。


「ギルド本部長」


「何だ」


「灰白庭に、正式な名前はあるのか」


 エルナンドは少しだけ黙った。


「人間側では確定していない。旧迷靄洞が白庭化した変異迷宮、というのが内部の硬い呼び方だ。現場では灰白庭、白箱迷宮、銀刻帰らず。好き勝手に呼ばれている」


「迷宮は、名前を気にすると思うか」


「分からない」


「もし気にするなら、怒るだろうな」


「なぜ」


「勝手に十数万の魔物を押し付けるんだ。名前以前に怒る」


 エルナンドは、苦い顔で笑った。


「確かにな」


 ユードは脚竜の首を叩く。


「行く」


「生きて戻れ」


「できるだけ」


 その言葉を残して、ユードは夜の中へ走り出した。


    ◇


 翌朝。


 第二防衛線は、まだ薄暗いうちから動き始めた。


 火の壁を作る部隊。


 音を鳴らす部隊。


 血餌を撒く部隊。


 側面を押す騎馬隊。


 撤退路を確保する神殿兵。


 そして、ユードを支援する少数の遊撃隊。


 誰も、これを勝利の作戦とは呼ばなかった。


 これは、押し流す作戦だ。


 王都から、別の地獄へ。


 地図の上では、黒い波が南東へ曲がる予定になっている。


 現実の魔物の軍勢が、その通りに動く保証はない。


 だが、もう他に道はない。


 軍務卿オルドは、指揮所から全軍へ命じた。


「これより進路誘導を開始する」


 騎士たちが息を呑む。


 冒険者たちが武器を握る。


 傭兵が悪態をつく。


 魔術師が最後の術式を確認する。


 神殿兵が祈りを唱える。


 そして、遠くで銅鐘が鳴った。


 ごん。


 ガルザヴェインの軍勢が動き出す。


 それに合わせるように、連合軍の太鼓も鳴った。


 人間たちは、もう止めるのではなく、曲げるために戦う。


 王都を背に。


 灰白庭を目指して。


「火を放て!」


 最初の油壺が割られた。


 朝の平原に、赤い壁が走る。


 その先で、黒い波が揺れた。


 王都連合軍の、最も危うい作戦が始まった。

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