表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

159/233

第156話 敗走は、王都へ届く前に始まる

 蒼穹のそうきゅうのくさびが退いた。


 その事実は、号令よりも早く戦場を走った。


 誰かが伝令を飛ばしたわけではない。


 旗が折れたわけでもない。


 太鼓が撤退を告げたわけでもない。


 ただ、見えてしまったのだ。


 青い剣を持つはずのイグナスが、血まみれで引きずられていく姿が。


 巨槍盾きょそうじゅんのドルガが、砕けた盾ごと担がれている姿が。


 白祈女はくきじょセネリアが、意識を失ったまま運ばれていく姿が。


 雷炎術師ラティカの炎が、消えかけの灯のように揺れている姿が。


 影弓のユードの左腕が、肩から失われている姿が。


 Sランクが負けた。


 誰かが、そう言ったわけではない。


 だが、全員がそう理解した。


「違う」


 槍兵の一人が呟いた。


「一度下がっただけだ」


 隣の兵も、震える声で頷いた。


「ああ。立て直すんだ。Sランクだぞ。あの人たちが負けるわけが――」


 その言葉は、途中で途切れた。


 遠くで銅鐘が鳴ったからだ。


 ごん。


 リムナ村から奪われた鐘。


 魔神ゴブリン・ガルザヴェインが鳴らす、魔物の進軍鐘。


 その音が戦場を叩いた瞬間、黒い波が再び動いた。


 ゴブリンが前へ出る。


 オークが槍列へ突っ込む。


 狼型魔物が、倒れた兵の足に食らいつく。


 飛行種が弩砲陣地へ落ちる。


 死体獣が燃えながら這う。


 Sランクが敗れたことを、人間よりも早く魔物の軍勢が理解したようだった。


    ◇


 第一防衛線は、もう線ではなくなりかけていた。


 土塁は踏み崩されている。


 杭柵くいさくは折れ、いくつかは魔物の死体ごと押し倒されている。


 弩砲どほうは半数近くが壊れ、残ったものも射角を取れずに呻いていた。


 魔術師団の火球陣は何度も撃たれ、地面に刻まれた術式線は泥と血でかすれている。


 神殿兵の浄化布は、死体獣の腐汁で黒く汚れていた。


 それでも、人間たちは立っていた。


 騎士団の槍が、魔物の胸を貫く。


 冒険者の剣が、ゴブリンの首を落とす。


 傭兵が、罵声を吐きながらオークの膝を斬る。


 魔術師が、最後の魔力石を砕いて雷撃を放つ。


 神官が、喉を枯らしながら負傷者へ祈りを重ねる。


 だが、足りない。


 倒しても、後ろから来る。


 焼いても、踏み越えて来る。


 槍で刺しても、その魔物の死体ごと次の魔物が押してくる。


「中央、押されている!」


「後列、前へ!」


「弩砲、まだ撃てるか!」


「二号、沈黙! 三号、弦が切れました!」


「魔術師団、右翼へ火を回せ!」


「魔力石が足りません!」


「足りなくても撃て!」


 命令が飛び交う。


 だが、命令は現実を越えられない。


 兵は疲れていた。


 冒険者は傷ついていた。


 傭兵は何度も逃げるか迷い、そのたびに目の前の魔物を斬っていた。


 神殿兵は、死者へ祈る暇もなく次の負傷者へ布を巻いていた。


 騎士団総長ヴァルデンは、馬上で剣を振り上げる。


「下がるな! まだ下がる時ではない!」


 だが、その声にも限界があった。


 戦線のあちこちで、ひびが広がっている。


 人間の線は、布のようだった。


 裂けたところを縫う。


 また裂ける。


 また縫う。


 それを繰り返しているうちに、布そのものが薄くなっていく。


    ◇


 都市警備兵のエランは、もう自分が何度目の槍を握っているのか分からなかった。


 最初の槍は折れた。


 二本目はオークの腹に刺さったまま抜けなくなった。


 三本目は狼型魔物に噛み砕かれた。


 今持っている短槍は、誰かの落としたものだ。


 手は滑る。


 血で。


 泥で。


 汗で。


 そして、震えで。


「エラン!」


 先輩兵ラウドの声がした。


 エランは反射的にしゃがむ。


 頭上を、オークの棍棒が唸って通り過ぎた。


 ラウドが横から踏み込み、剣でオークの膝裏を斬る。


 オークが崩れる。


「喉!」


 エランは短槍を突き込んだ。


 手応えがあった。


 オークの喉から血が噴く。


 倒れる。


 エランは息を吐きかけた。


 その瞬間、死体の影からゴブリンが飛び出した。


 小さい。


 だが、目が金色に濁っている。


 普通のゴブリンではない。


 進化しかけている。


「っ!」


 エランは槍を戻せない。


 ゴブリンの錆びた短剣が、彼の腹へ向かう。


 ラウドが割り込んだ。


 短剣が、ラウドの脇腹に刺さる。


「ラウドさん!」


「叫ぶな、刺せ!」


 エランは叫びながら、ゴブリンの顔へ拳を叩きつけた。


 ゴブリンがよろける。


 ラウドが剣を振り下ろし、その頭を割った。


 二人とも、その場に膝をつく。


 ラウドの脇腹から血が流れている。


「担架!」


 エランが叫ぶ。


 後方から、Dランク冒険者の青年が走ってきた。


 前線に出たいと暴れていた青年だ。


 今は担架を背負い、顔を涙と泥でぐしゃぐしゃにしている。


「乗せて!」


 ラウドは笑おうとした。


「俺はまだ――」


「乗れ!」


 エランが怒鳴った。


 ラウドは少し驚いた顔をした。


 それから、苦笑する。


「……偉くなったな」


「黙って乗ってください!」


 担架に乗せられる直前、ラウドはエランの胸を掴んだ。


「前だけ見るな」


「……はい」


「後ろを忘れるな」


「はい」


 担架がラウドを運んでいく。


 エランは振り返らなかった。


 振り返れば、自分も後ろへ行きたくなる。


 だから、前を見る。


 そして、思い出す。


 後ろに王都があることを。


    ◇


 右翼では、飛行種の群れが弩砲陣地へ降り注いでいた。


 弩砲は強い。


 だが、近づかれると脆い。


 飛行種はそれを知っているかのように、弩兵や操作兵へ狙いを絞っていた。


「上だ!」


「撃ち落とせ!」


「四号機、狙えない!」


「弦を切られた!」


 一体の飛行魔物が、弩砲の台座へ爪を立てる。


 木が裂け、車輪が外れる。


 操作兵が悲鳴を上げる。


 別の飛行種が、その首へ噛みついた。


 血が噴く。


 その場へ、Bランク冒険者の一団が飛び込む。


 女剣士が跳び、飛行種の翼を斬り落とした。


 槍使いが、落ちた魔物を地面へ縫い止める。


 魔術師が、火の網を広げる。


「修理しろ!」


 女剣士が叫んだ。


「無理だ、部品が!」


「隣の壊れたやつから取れ!」


「時間が!」


「稼いでるだろ!」


 女剣士は笑っていない。


 額から血を流しながら、飛行種をもう一体斬る。


 魔術師の火が空を焼く。


 それでも、飛行種は減らない。


 ひとつ落とせば、次が来る。


 空まで黒い波に変わっているようだった。


    ◇


 左翼では、傭兵部隊が崩れかけていた。


 彼らは強い。


 個人個人は、そこらの兵よりずっと戦える。


 だが、魔物の波は、個人の強さだけで支えられるものではなかった。


 オークの集団が正面から来る。


 傭兵がそれを受ける。


 その隙間を、進化しかけのゴブリンが抜ける。


 足を刺す。


 背中へ回る。


 倒れた者の喉を切る。


 傭兵たちは怒鳴り、蹴り、斬る。


 だが、列が乱れる。


「寄れ! 寄れって言ってるだろ!」


「こいつら、下を抜けてくる!」


「盾を下げろ!」


「下げたらオークを受けられねえ!」


 そこへ、神殿兵の白い旗が入った。


 死体魔物対策に配置されていたはずの神殿兵が、左翼の穴を塞ぐために前へ出たのだ。


 先頭の神殿騎士が白い槌を掲げる。


聖打陣せいだじん!」


 白い光が地面を走る。


 死体獣が焼ける。


 ゴブリンが目を押さえる。


 オークの足が一瞬止まる。


「今だ!」


 傭兵隊長が叫ぶ。


「神殿の連中が前に出てるぞ! 金で雇われた俺らが先に逃げるな!」


「うるせえ!」


「誰が逃げるか!」


「倍額払えよ!」


 傭兵たちは怒鳴り返しながら、踏みとどまった。


 誇りではない。


 信仰でもない。


 金と意地と、隣の人間に逃げたと思われたくないという安い感情。


 それでも、戦場では十分だった。


    ◇


 中央の後方へ、蒼穹の楔が運び込まれた時、医療陣地は一瞬静まった。


 それほどの衝撃だった。


 イグナスの青い剣は折れていた。


 腹部の鎧は砕け、血が止まらない。


 ドルガは両足と胸部を重く損傷し、巨槍盾は原形を留めていない。


 セネリアは意識を失い、唇からまだ血が流れている。


 ラティカの杖は焦げ、彼女の腕は黒い魔力に焼かれていた。


 ユードは左腕を失い、片手でイグナスの襟を握ったまま倒れ込んだ。


「治療を!」


 神官たちが駆け寄る。


 セネリアへ。


 イグナスへ。


 ドルガへ。


 誰を優先するか、一瞬で判断しなければならない。


 ラティカが怒鳴った。


「セネリアを先に!」


「あなたも」


「私は後!」


 ユードは地面に座り込み、右手だけで止血布を結び直していた。


 ギルド本部長エルナンドが駆け寄る。


「ユード」


「第二案を」


 ユードは、顔を上げずに言った。


「今すぐです」


「……そこまでか」


「勝てません」


 その言葉に、周囲の神官たちの手が一瞬止まった。


 ユードは、血の気のない顔で続ける。


「傷は負わせた。首も裂いた。胸も焼いた。肩も膝も削った。でも倒れない。しかも戦いながら覚える。鐘で軍勢を動かし始めた。次はもっと上手くやる」


 エルナンドの顔が硬くなる。


「イグナスは」


「意識が戻れば同じことを言う」


 ユードは東を見た。


 戦場の黒煙の向こうで、まだ銅鐘が鳴っている。


「このまま正面で受ければ、連合軍が溶けます」


    ◇


 夕暮れが近づく頃、騎士団総長ヴァルデンは決断した。


「第一線を放棄する」


 副官が息を呑む。


「まだ持っています!」


「持っているうちに下がる」


「ですが」


「崩れてからでは退けん!」


 ヴァルデンは馬上で剣を掲げた。


「撤退信号! 第二防衛線へ後退! 前列は交代しながら下がれ! 負傷者を置くな、だが死者は置け!」


 死者は置け。


 その命令が、兵たちの胸を刺した。


 だが、それが現実だった。


 死体を運ぶ余裕はない。


 生きている者を運ぶだけで精一杯だ。


 太鼓が鳴る。


 撤退の太鼓。


 それを聞いた瞬間、兵士たちの中に別の恐怖が走った。


 下がる。


 つまり、ここは持たなかった。


 第一防衛線は破られた。


 誰もそう口にはしない。


 だが、太鼓がそう告げている。


「走るな!」


「背中を見せるな!」


「盾を構えたまま下がれ!」


「負傷者を中央へ!」


「魔術師、煙幕!」


「弩砲を捨てるな! 引けるものだけ引け!」


 撤退は、突撃より難しい。


 前を向いたまま下がる。


 仲間を担ぎながら下がる。


 魔物を斬りながら下がる。


 死体を踏まないように、でも死体を拾わずに下がる。


 それは、人間の心を削る行為だった。


「兄さんが!」


 若い兵が叫び、死体の方へ戻ろうとした。


 隣の騎士が、その襟を掴む。


「死んでいる!」


「でも!」


「戻れば、お前も死ぬ!」


「離せ!」


 騎士は若い兵を殴った。


 殴って、引きずった。


 泣きながら。


 その死体を置いていくことが、騎士自身にも痛かったからだ。


 冒険者たちは、死んだ仲間の認識票だけを引きちぎる。


 傭兵は、死んだ仲間の財布を抜く。


 神殿兵は祈る時間もなく、死者の目だけを閉じる。


 黒い波は、それらすべてを踏み潰すように迫っていた。


    ◇


 撤退する連合軍の背に、魔物が食らいつく。


 だが、追撃は雑ではなかった。


 ガルザヴェインの鐘が鳴るたびに、魔物の動きが変わる。


 ごん。


 ゴブリンの群れが左右へ広がる。


 ごん。


 オークが中央を押す。


 ごん。


 飛行種が負傷者搬送路を狙う。


 それはまだ荒い。


 指揮と呼ぶには未熟だ。


 だが、明らかに学んでいた。


 最初はただの黒い波だった魔物の軍勢が、少しずつ形を持ち始めている。


 ユードの言葉は正しかった。


 ガルザヴェインは、戦いながら軍勢を覚えている。


 第二防衛線へ下がる頃、連合軍はその事実に気づき始めていた。


 そして、気づいた時には遅い。


 第一防衛線はもう戻らない。


    ◇


 夜。


 第二防衛線の野営地は、敗北の匂いで満ちていた。


 血。


 泥。


 焼けた革。


 祈祷薬。


 死体を焼く煙。


 焦げた魔物の肉。


 負傷者のうめき。


 誰かの泣き声。


 遠くで鳴る銅鐘。


 ごん。


 ごん。


 あの音が聞こえるたび、野営地の人々は肩を震わせた。


 魔物はまだ遠くにいる。


 だが、音は届く。


 まるで、ガルザヴェインが「まだ終わっていない」と告げているようだった。


 本営では、軍務卿オルドが地図を見つめていた。


 顔は憔悴している。


 だが、まだ崩れてはいない。


 彼の前には、報告が積まれている。


 第一防衛線、放棄。


 死傷者、多数。


 弩砲損耗、大。


 魔力石、残量不足。


 蒼穹の楔、戦闘継続困難。


 魔物残数、推定十数万以上。


 ガルザヴェイン、健在。


 どれも悪い。


 どれも、最悪に近い。


 そこへ、ギルド本部長エルナンドが入ってきた。


 その後ろに、ユードがいた。


 片腕を失い、顔色は青白い。


 それでも、彼は自分の足で立っている。


「座れ」


 軍務卿が言った。


 ユードは首を振る。


「時間がありません」


「傷は」


「腕一本です」


「腕一本、と言える怪我ではない」


「でも、頭は残っています」


 ユードは地図へ近づいた。


 右手だけで、東方地図を押さえる。


「第二線は持ちません」


 軍務卿は、すぐには反論しなかった。


 反論できなかった。


「ガルザヴェインは、戦いながら軍勢の動かし方を覚えています。次は第一線より上手く来る。こちらは消耗している。蒼穹の楔も、もう前へ出せない」


「では、王都外壁で受けるか」


「外壁まで来た時点で、終わりです」


 ユードは言い切った。


「二十万から削ったとはいえ、まだ十数万以上いる。外壁へ張りつかれれば、王都は呼吸できなくなる。飛行種、死体獣、虫型、ゴブリンの進化個体。中へ入られる」


 軍務卿は、地図を睨む。


「では、どうする」


 ユードの指が、地図の南東へ動いた。


 王都から少し離れた森。


 白い霧が出る場所。


 地図上には、いくつかの名前が並んでいる。


 灰白庭。


 白箱迷宮。


 銀刻帰らず。


 ギルド内部の仮称として、小さくこう書かれている。


 白庭化した旧迷靄洞。


 正式な分類名は、人間側ではまだ安定していない。


 だが、その危険だけは知られていた。


「流すしかありません」


 ユードが言った。


 軍務卿は、彼の指先を見た。


「そこへ?」


「はい」


「迷宮へ、魔物の軍勢を押し込むというのか」


「正面から受ければ、王都が死にます。なら、別の腹へ押し込む」


 部屋の空気が重くなる。


 騎士団総長ヴァルデンが、低く言った。


「あそこはAランク相当の変異迷宮だ。銀刻も暁秤も帰らなかった。黒市主絡みの噂もある」


「だからです」


 ユードは疲れた目で答えた。


「低い迷宮なら、魔物の群れに踏み潰される。でも灰白庭なら、喰えるかもしれない」


「喰ったらどうなる」


 軍務卿が問う。


「迷宮が強くなります」


 エルナンドが静かに答えた。


「それは間違いないでしょう」


「なら、我々は王都を救うために、別の怪物を育てるのか」


「そうです」


 あまりにも酷い答えだった。


 だが、誰も笑わなかった。


 笑えなかった。


 ユードは言った。


「今、選べるのは二つです」


 彼の指が、王都を指す。


「王都で受けて、今死ぬか」


 次に、灰白庭を指す。


「灰白庭へ流して、後で別の怪物に怯えるか」


 本営の外で、負傷者がうめいている。


 遠くで、銅鐘が鳴る。


 ごん。


 軍務卿は、ゆっくり目を閉じた。


 そして、開いた。


「後で怯える方を選ぶ」


 その言葉は、王国軍務卿としての言葉ではなく、一人の疲れた人間の声に聞こえた。


「王都を、今は生かす」


 エルナンドが頷いた。


「では、進路誘導案を組みます」


 ヴァルデンが言う。


「できるのか」


 ユードは、片腕で地図を押さえたまま答えた。


「やるしかありません」


 その夜、人間たちは決めた。


 魔物の軍勢を、灰白庭へ流す。


 王都を救うために。


 別の恐怖へ、黒い波を押し付けるために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
いよいよ主人公の出番ですね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ