第155話 Sランクは、魔神に届かない
銅鐘が鳴った。
ごん。
その一音で、周囲の魔物が退いた。
ゴブリンが伏せる。
オークが呻きながら後ずさる。
狼型魔物が腹を地面につける。
飛行種が空中で旋回し、距離を取る。
魔神ゴブリン・ガルザヴェインの周囲に、円形の空白が生まれた。
まるで、そこだけが戦場ではなく、処刑場になったようだった。
蒼穹の楔は、その空白の端に立っていた。
五人。
蒼剣士イグナス。
雷炎術師ラティカ。
巨槍盾ドルガ。
白祈女セネリア。
影弓のユード。
彼らは、ここへ届いた。
二十万の黒い波を裂き、血を浴び、魔物を斬り捨て、連合軍が命を投げて作った一瞬の道を使って、ついに魔神ゴブリンの前まで届いた。
届いたのだ。
それだけでも、本来なら奇跡だった。
だが、戦いはここからだった。
「セネリア」
イグナスが短く呼ぶ。
「分かってる」
セネリアは祈祷布を広げた。
白い布が風もないのに浮かび、五人の足元へ円を描く。
「白祈陣・五重護」
白い光が重なった。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
五枚。
薄い祈りの膜が、五人の体へ宿る。
物理防御。
魔力防御。
毒避け。
恐怖耐性。
そして、即死回避。
セネリアが使える中でも、最上級に近い防護祈祷だった。
それを見て、ガルザヴェインが少し首を傾ける。
「シロイ」
ぎこちない人間の言葉。
声には、理解と好奇心が混じっていた。
セネリアの背筋が冷えた。
魔物が言葉を喋ること自体は、珍しくない。
上位魔物ならある。
だが、ガルザヴェインの言葉は違った。
聞いて覚えた言葉ではない。
今、この場で意味を掴んでいるような言い方だった。
「観察してる」
ユードが低く言った。
「こいつ、こっちを見て覚えてる」
「なら、長引かせない」
イグナスが剣を抜く。
青い魔力が刀身を覆い、刃が実際の長さよりも一回り大きく伸びた。
「初撃で削る」
「私が焼く」
ラティカが杖を構える。
杖先に雷炎が集まる。
青白い雷。
赤い炎。
二つが絡み合い、唸る。
ドルガは巨槍盾を前へ出した。
「俺が受ける。イグナス、首まで行け」
「任せる」
「任せられた」
ドルガが笑った。
だが、その笑みは硬い。
ガルザヴェインの圧が、正面から皮膚を叩いている。
強い。
ただ立っているだけで分かる。
これは、今まで戦ったSランク魔物とは違う。
竜のような完成された強さではない。
巨大魔獣のような圧倒的な質量でもない。
もっと不安定で、もっと危険なもの。
膨れ上がる途中の災害。
完成していないからこそ、どこへ伸びるか分からない力。
未成熟の魔神。
その言葉の意味が、五人の肌に突き刺さっていた。
「行くぞ」
イグナスが踏み込んだ。
同時に、ドルガも動く。
「巨槍盾・破城押し!」
巨槍盾が地面を削りながら前へ出る。
盾というより、壁が突進したような圧。
ガルザヴェインは、それを見て笑った。
避けない。
受ける気だ。
「馬鹿力勝負なら、こっちも得意だ!」
ドルガが叫ぶ。
巨槍盾とガルザヴェインの拳がぶつかった。
爆音。
空気が潰れた。
周囲のゴブリンが衝撃で吹き飛ぶ。
ドルガの足が地面へ沈む。
巨槍盾の表面に亀裂が走った。
「ぐ、うううう!」
ドルガは止めた。
ガルザヴェインの拳を、真正面から止めた。
それを見た連合軍の兵たちが、遠くで歓声を上げる。
「止めた!」
「ドルガが止めたぞ!」
「行ける!」
だが、ドルガ本人は分かっていた。
止めたのではない。
一撃目を受けただけだ。
ガルザヴェインの金色の目が、ドルガの盾を見る。
「カタイ」
次の瞬間、二撃目が来た。
拳ではない。
膝。
下から突き上げるような一撃。
巨槍盾の下端が跳ね上がる。
ドルガの体が浮いた。
「ドルガ!」
イグナスが横から入る。
「蒼剣技・双空断!」
二筋の青い斬撃が、ガルザヴェインの腕へ走る。
一本目が皮膚を裂く。
二本目が筋肉まで届く。
黒に近い血が飛んだ。
ガルザヴェインが初めて傷を負う。
だが、彼は腕を引かない。
むしろ、傷口を見た。
自分の血を見た。
そして、笑った。
「イタイ」
イグナスの背中に冷たい汗が流れた。
痛みを知った。
そういう笑みだった。
その隙を、ラティカは逃さない。
「雷炎術・天穿!」
空から雷炎の大槍が落ちた。
青白い稲妻と赤い炎が絡み、ガルザヴェインの肩へ突き刺さる。
爆発。
黒い煙。
地面が裂け、周囲の魔物が吹き飛んだ。
普通のSランク魔物なら、これだけで片膝をつく。
だが、煙の奥から、ガルザヴェインは歩いて出てきた。
肩は焼けている。
肉は抉れている。
骨が見えかけている。
それでも、歩いてくる。
「燃えないの!?」
ラティカが叫ぶ。
「燃えてる」
ユードが矢を番えながら言った。
「でも、止まってない」
ユードの影が弓の弦へ絡む。
彼は、ガルザヴェインの右目を狙った。
前に偵察の鷹騎兵を撃ち落とした魔力。
それを放つ前に、目を潰す。
「影弓技・目縫い」
矢が消える。
いや、影に潜った。
次の瞬間、ガルザヴェインの右目の前へ現れる。
命中するはずだった。
だが、ガルザヴェインはほんのわずかに首を傾けた。
矢は眼球を外れ、頬を深く裂いた。
血が流れる。
ガルザヴェインは、頬に刺さった矢を指で抜いた。
「ハヤイ」
彼はユードを見た。
「メ」
そして、抜いた矢に黒い魔力を流し込む。
「返す気か!」
ユードは叫ぶ前に飛び退いた。
ガルザヴェインが矢を投げた。
矢ではない。
黒い槍だった。
空気を裂き、ユードへ向かう。
ユードは影で体をずらした。
だが、完全には避けられない。
黒い矢が、左腕を肩から吹き飛ばした。
「ユード!」
セネリアの白い祈りが即座に走る。
「白祈術・命縫い!」
ユードの肩口を白い布が縛る。
血が止まる。
痛みは消えない。
だが、意識は繋がる。
ユードは地面に膝をつきながら、残った右手で弓を拾った。
「まだ撃てる」
「下がって!」
セネリアが叫ぶ。
「下がる場所がない」
ユードは歯を食いしばった。
その顔を、ガルザヴェインが見ていた。
負傷しても戦う。
仲間が叫ぶ。
祈りが傷を縫う。
ガルザヴェインは、それを見ていた。
学んでいた。
「ナカマ」
その言葉に、イグナスの胸がざわつく。
ガルザヴェインの視線が、ユードからセネリアへ移った。
傷を治す者。
守る者。
なら、先に潰す。
ガルザヴェインが地面を蹴った。
速い。
一直線にセネリアへ向かう。
ドルガが割り込む。
「行かせるか!」
巨槍盾を横に構え、ガルザヴェインの突進を受ける。
衝撃で盾がさらに割れる。
ドルガの両足が土を抉る。
セネリアはその後ろで結界を張る。
「白祈結界!」
白い壁が、ドルガの背後に重なる。
ガルザヴェインの拳が盾を打つ。
一撃。
二撃。
三撃。
盾と結界が同時に軋む。
ドルガの口から血が出た。
セネリアの鼻からも血が落ちる。
「止める……!」
ドルガが叫ぶ。
「止めるんだよ、俺は!」
彼は押し返した。
ほんの少し。
ガルザヴェインの体が半歩下がる。
その瞬間、イグナスが青い剣を振り上げる。
「蒼剣技・天牙!」
上から下へ、青い斬撃。
ガルザヴェインの胸を裂いた。
深い。
血が噴き出す。
ラティカがそこへ雷炎を叩き込む。
「雷炎術・爆牙!」
胸の傷口で雷炎が爆ぜた。
ガルザヴェインの体が揺れる。
初めて、明確に後退した。
連合軍側から歓声が上がる。
「効いてる!」
「押してるぞ!」
「Sランクだ!」
だが、蒼穹の楔の五人は喜ばなかった。
ガルザヴェインの目が、変わっていた。
痛み。
怒り。
そして、学習。
「ムネ」
ガルザヴェインは、自分の胸の傷を見た。
「キル」
次の瞬間、彼の黒い魔力が胸の傷口へ集まった。
傷を塞ぐのではない。
傷口の周りの筋肉が、硬く変質する。
斬られた部分が、次は斬られにくくなるように。
「……こいつ」
イグナスの声が低くなる。
「戦いながら、変わっている」
ラティカが歯を食いしばる。
「そんなの反則でしょ」
ユードが片腕で弓を構えながら言った。
「未成熟だからだ」
「どういう意味?」
「完成してない。だから、攻撃を受けた形に合わせて育つ」
セネリアの顔が青ざめる。
「長引くほど、こちらの攻撃が通らなくなる」
ガルザヴェインは、腰の銅鐘を鳴らした。
ごん。
周囲のゴブリンが震える。
そして、変化が始まった。
ゴブリンたちの体が膨らむ。
棍棒持ちが上位種へ近づく。
弓持ちの目が金色に染まる。
呪術ゴブリンの体から黒い煙が上がる。
ガルザヴェインの魔神性が、周囲のゴブリンを引き上げている。
「まずい!」
ユードが叫ぶ。
「周囲のゴブリンが強制進化してる!」
「止められる?」
ラティカが聞く。
「ガルザヴェインを止めるしかない!」
イグナスは決断した。
ここで長引かせれば、軍勢全体が変わる。
そうなれば、連合軍は持たない。
「全力で首を取る」
誰も反対しなかった。
反対できる状況ではなかった。
ドルガが巨槍盾を構える。
盾は割れている。
それでも前へ出る。
「最後の押しだ」
ラティカが杖を両手で握る。
雷炎が杖全体を覆う。
「私も残り全部使う」
セネリアが白祈陣をさらに重ねる。
唇から血が落ちる。
「全員、十秒だけ守る」
ユードは片腕で弓を構えた。
影が弦を引く。
「右目、もう一度狙う」
イグナスは青い剣を最大まで伸ばした。
刃が震える。
彼の全魔力が、剣へ流れ込む。
「行く」
ドルガが突撃する。
「巨槍盾・城割り!」
割れた巨槍盾が、ガルザヴェインの正面を打つ。
ガルザヴェインが拳を振る。
盾と拳が衝突。
ドルガの盾がさらに砕ける。
だが、彼は止めた。
ほんの二秒。
そこへ、ラティカが雷炎を放つ。
「雷炎術・天穿連槍!」
雷炎の槍が三本、連続で落ちる。
肩。
胸。
右膝。
ガルザヴェインの動きが止まる。
ユードの矢が飛ぶ。
「影弓技・目縫い、二射目!」
片腕で放った矢。
影が軌道を支える。
今度こそ、右目へ。
だが、ガルザヴェインは黒い魔力で目の前を覆った。
矢は黒い膜を貫いたが、眼球へは届かない。
それでも、膜は裂けた。
視界が一瞬塞がる。
「今!」
セネリアが叫んだ。
イグナスが踏み込む。
「蒼剣奥義――」
青い光が、剣に集まる。
空が裂けるような音がした。
「天裂青牙!」
剣が振り下ろされた。
青い斬撃が、ガルザヴェインの首へ走る。
届いた。
首筋を深く裂いた。
骨の手前まで。
普通なら、終わっていた。
竜でも倒れる一撃。
Sランク魔物でも致命傷になり得る一撃。
だが、ガルザヴェインは倒れなかった。
血を噴きながら、彼は笑った。
そして、青い魔力刃を素手で掴んだ。
イグナスの目が見開かれる。
「な――」
ガルザヴェインの指が、青い刃を握り潰す。
魔力が砕ける。
剣の本体に亀裂が入る。
「タリナイ」
ガルザヴェインが言った。
拳が、イグナスの腹へ入った。
音が消えた。
次の瞬間、イグナスの体が吹き飛んだ。
空を飛び、地面を跳ね、血を撒き散らしながら転がる。
「イグナス!」
セネリアが叫ぶ。
ドルガが受けようとしたが、間に合わない。
イグナスは地面に叩きつけられ、動かなくなった。
青い剣は、折れていた。
歓声は消えた。
戦場のあちこちで、誰かが叫ぶ。
「蒼剣士が!」
「イグナスが倒れた!」
「嘘だろ……」
連合軍の士気が、一瞬で揺らぐ。
その揺らぎを、魔物は逃さない。
ゴブリンの進化がさらに進む。
オークが咆哮する。
狼型魔物が槍列へ飛びかかる。
黒い波が押し返してくる。
ドルガが吠えた。
「まだだ! まだ終わってねえ!」
彼はガルザヴェインへ突っ込む。
盾は壊れている。
それでも、巨槍盾の槍部分を突き出す。
ガルザヴェインは、片手でそれを掴んだ。
力比べ。
ドルガの足が地面へ沈む。
彼は全身の筋肉を震わせながら押す。
ガルザヴェインは、笑った。
そして、巨槍盾を横へ捻った。
ドルガの腕が嫌な方向へ曲がる。
骨が砕けた。
「ぐあああ!」
ガルザヴェインの蹴りが、ドルガの膝を砕いた。
巨体が倒れる。
ドルガはそれでも、片腕でガルザヴェインの足を掴んだ。
「ラティカ!」
「分かってる!」
ラティカが最後の雷炎を集める。
だが、ガルザヴェインが銅鐘を鳴らした。
ごん。
周囲の進化しかけたゴブリンたちが、ラティカへ殺到する。
彼女は魔法をガルザヴェインではなく、ゴブリンへ撃たざるを得なかった。
「どけええええ!」
雷炎が爆ぜる。
ゴブリンたちが燃える。
だが、その間にガルザヴェインはドルガの胸を踏みつけた。
鎧が凹む。
肋骨が砕ける。
ドルガの口から血が溢れた。
セネリアが走る。
「白祈術・命縫い!」
祈りがドルガへ向かう。
ガルザヴェインが、セネリアを見た。
また学んだ。
傷を繋ぐ者。
なら、先に折る。
黒い魔力が、彼の指先へ集まる。
ユードが叫ぶ。
「セネリア、伏せろ!」
矢を撃つ。
片腕で。
影で弦を引き、ガルザヴェインの手首を狙う。
命中。
黒い魔力の矢がずれた。
だが、完全には逸れない。
セネリアの白祈結界が一瞬で割れ、彼女の体が吹き飛んだ。
地面に転がり、意識を失う。
だが、生きている。
ユードは走った。
片腕で、倒れたイグナスの襟を掴む。
ラティカがセネリアへ駆け寄る。
ドルガは動けない。
それでも、彼はガルザヴェインの足首を掴んでいた。
「行け……!」
声になっていない。
だが、仲間には分かった。
引け。
ここはもう無理だ。
ユードはイグナスを引きずる。
ラティカはセネリアを抱える。
ドルガを置いていけない。
ラティカが振り返る。
「ドルガ!」
ドルガは、片手で自分の胸を叩いた。
来るな。
行け。
その意図が分かった。
だが、ラティカは泣きそうな顔で叫んだ。
「ふざけるな!」
その時、連合軍側から騎士団の突撃隊が入った。
ドルガを回収するためではない。
蒼穹の楔を撤退させるための、捨て身の隊だ。
騎士たちが槍を構えて、ガルザヴェインとの間へ入る。
次々と吹き飛ばされる。
死ぬ。
それでも、数秒を作る。
その数秒で、ラティカはドルガへ雷炎の煙幕を放った。
ユードが影矢を撃ち、ドルガの体を引くための影縄を作る。
イグナス、セネリア、ドルガ。
全員を引きずる。
全員、重い。
全員、死にかけている。
それでも、蒼穹の楔は引いた。
敗北だった。
誰が見ても、敗北だった。
ガルザヴェインは追わなかった。
首から血を流し、胸を焼かれ、肩を抉られ、膝を砕かれかけている。
だが、立っている。
そして、学んでいる。
彼は倒れた騎士の死体を見た。
逃げる蒼穹の楔を見た。
その後ろにある王都の方向を見た。
そして、ゆっくり銅鐘を鳴らした。
ごん。
魔物の軍勢が、再び動き始める。
連合軍の中に、絶望が広がった。
Sランクが、負けた。
その事実は、二十万の魔物よりも速く、戦場を駆け抜けた。




