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第154話 第一防衛線は、黒い波に呑まれる

 ローヴェ平原は、王都の東に広がる広い草原だった。


 春には麦が揺れる。


 夏には騎士団の演習場になる。


 秋には旅商人の馬車が列を作り、冬には白い霜が地平線まで降りる。


 そこは本来、開けた土地だった。


 見晴らしがよく、風が抜け、遠くの王都外壁までまっすぐ見える。


 だから、防衛線を敷くならここしかなかった。


 逃げ場も少ない。


 隠れる場所も少ない。


 だが、敵の姿もよく見える。


 問題は、その敵が、見えすぎたことだった。


     ◇


 夜明け前から、連合軍は動いていた。


 土塁どるいが作られた。


 杭柵くいさくが打たれた。


 油壺が並べられた。


 弩砲どほうが車輪付きの台座に固定された。


 魔術師たちは地面に魔法陣を刻み、神殿兵は白い布を杭に結んで簡易の浄化線を作っている。


 騎士団は中央。


 都市警備兵はその後方。


 冒険者は左右の遊撃。


 傭兵は側面。


 魔術師団は後列。


 神殿兵は治療所と死体魔物対策。


 それが、軍議で決められた配置だった。


 だが、実際の戦場は紙の上ほど綺麗ではない。


「杭をもっと深く打て!」


「これ以上は石に当たる!」


「なら石ごと割れ!」


「弩砲の矢束、こっちが足りない!」


「油壺を前に出しすぎるな! 火が回ったら味方も焼けるぞ!」


「負傷者用の担架はどこだ!」


「まだ負傷者はいないだろ!」


「出てから探すのか!」


 怒号が飛び交う。


 馬が暴れる。


 荷車の車輪が泥にはまり、傭兵が悪態をつく。


 低ランク冒険者たちは、自分たちがどこへ行けばいいのか分からず、案内役の騎士に怒鳴られている。


 戦う前から、平原は混乱していた。


 それでも、線はできた。


 王都の前に、人間たちの線が。


 薄く、頼りなく、それでも確かに作られた。


     ◇


 槍兵の列に、若い兵士がいた。


 名はエラン。


 王都南区の靴職人の息子だ。


 徴兵ではない。


 都市警備兵に志願して三年。


 普段の仕事は門の警備と夜回り。


 彼がこれまで相手にした最大の敵は、酔って暴れた荷運び人だった。


 そのエランが、今は槍を持って平原に立っている。


 隣には同じ部隊の先輩兵、ラウドがいる。


 ラウドは四十を越えた男で、腹が出ていて、いつもなら冗談ばかり言う。


 だが、今日は何も言わない。


「ラウドさん」


 エランは小さく声をかけた。


「何だ」


「本当に来るんですか」


「来なきゃ、俺たちはこんな寒い朝に槍を持って立ってない」


「二十万って、本当ですか」


「俺に聞くな」


「怖くないんですか」


 ラウドは少しだけ笑った。


「怖いに決まってるだろ」


 エランは驚いて先輩を見た。


 ラウドは東を見たまま続けた。


「怖くない奴は、馬鹿か、死に慣れた奴か、もう壊れてる奴だ。俺はまだどれでもない」


「じゃあ、どうして立ってるんですか」


「後ろに街がある」


 ラウドは、背後の王都を顎で示した。


「女房がいる。娘がいる。家の犬もいる。俺が逃げたら、あいつらが走ることになる」


「……はい」


「槍を持つ時は、前を見るな」


「え?」


「前だけ見ると怖い。後ろを思い出せ。後ろに何があるかを」


 エランは、槍を握り直した。


 後ろ。


 王都。


 自分の家。


 靴の革の匂い。


 父親の作業台。


 母親の煮込み。


 妹がよく磨いていた小さな靴。


 槍を持つ手の震えは消えなかった。


 でも、少しだけ握りが強くなった。


     ◇


 冒険者たちは、騎士団の列とは違う場所に集められていた。


 AランクやBランクは前線の穴埋め。


 Cランクは側面支援。


 Dランク以下は、矢運び、負傷者搬送、伝令、火壺運び。


 だが、全員が素直に従ったわけではない。


「俺も前へ出る!」


 Dランクの青年が叫んでいた。


 腕に革鎧。


 腰には安い剣。


 顔は青いが、目だけは燃えている。


 案内役のギルド職員が言う。


「Dランクは搬送班だ」


「戦える!」


「お前一人が前で死んでも、戦線は一歩も持たない。だが、お前が担架を運べば、Bランクが一人戻れるかもしれない」


「でも!」


 その時、近くにいた老冒険者が青年の頭を軽く叩いた。


「痛っ!」


「黙って運べ」


「何するんだよ!」


「お前の腕でゴブリン十体斬るより、Aランクを一人運んだ方が価値がある」


「俺は役立たずってことかよ」


「違う」


 老冒険者は東を見た。


「今日の戦場は、死に場所を選ぶ場所じゃない。仕事を選ぶ場所だ」


 青年は黙った。


 やがて、悔しそうに担架を持った。


 老冒険者はそれを見て、小さく頷く。


 そして、自分の剣を抜いた。


 彼は前線へ行く。


 死に場所を選ぶためではない。


 若者に担架を運ばせるために。


     ◇


 魔術師団の後方陣地では、魔術師たちが魔力石を並べていた。


 火球陣。


 雷撃陣。


 土壁陣。


 風刃陣。


 どれも大規模戦闘用だ。


 だが、魔物二十万を相手にするには、どう見ても少ない。


 若い魔術師が、震える声で言った。


「師団長、火力が足りません」


 魔術師団長リヴァルトは、地面に膝をつき、最後の術式線を引いていた。


「足りるわけがない」


「では」


「だから、全部を焼こうと思うな。先頭を崩す。詰まらせる。流れを乱す。騎士団の槍が刺さる隙を作る」


「でも、後ろから後ろから来ます」


「来る」


「それでは」


「だから、前にいる者たちが死ぬ前に、次の一撃を入れる」


 若い魔術師は黙った。


 リヴァルトは、術式線を引き終え、顔を上げる。


「これは勝つための魔法ではない」


「では?」


「一秒を買う魔法だ」


 リヴァルトは東を見た。


「その一秒を、蒼穹の楔へ渡す」


     ◇


 連合軍の中央を、蒼穹の楔が進んだ。


 彼らが通ると、周囲の兵士たちが少しだけ姿勢を正す。


 希望の形。


 そう呼ぶには、彼らは若すぎた。


 それでも、今の戦場において、蒼穹の楔は希望だった。


 イグナスは青い剣を腰に差し、平原の向こうを見ている。


 ラティカは杖を回しながら、魔力の流れを確かめていた。


 ドルガは巨槍盾を肩に担ぎ、わざと大きな足音を立てて歩く。


 周囲の兵がその音を聞いて、少し安心することを知っているからだ。


 セネリアは祈祷布を胸に巻き、仲間たちに防護の祈りをかけている。


 ユードは、すでに東の地平線から目を離していなかった。


「見えるか」


 イグナスが問う。


「まだ黒い線だ」


 ユードが答える。


「中心は」


「見えない。ただ、流れは分かる。軍勢の中央に空白がある。たぶん、そこにいる」


「ガルザヴェインか」


「ああ」


 ラティカが杖先に雷炎を灯す。


「そこまで行けばいいのね」


 ドルガが笑う。


「簡単に言うな」


「簡単に言わないと、やってられないでしょ」


 セネリアは静かに祈った。


「みんな、無理はしないで」


 四人が同時に彼女を見た。


 セネリアは苦笑する。


「ごめん。無理はするよね」


 イグナスが答えた。


「必要な分だけだ」


 ユードが小さく言う。


「それが一番難しい」


     ◇


 やがて、地平線の黒い線が、線ではなくなった。


 個々の魔物の姿が見え始める。


 まずは飛行種。


 低空を飛ぶ黒い影。


 次に、獣型の群れ。


 その背後にゴブリン。


 さらにオーク。


 大きな虫型魔物。


 腐った死体獣。


 地面を這う泥魔物。


 全部が混ざって進んでくる。


 その数は、見る者の感覚を壊した。


 一体、二体、十体、百体。


 そう数えようとするうちはまだいい。


 やがて数えること自体が無意味になる。


 どこまで見ても魔物。


 右を見ても魔物。


 左を見ても魔物。


 奥を見れば、さらに魔物。


 黒い波。


 その表現以外に、誰も言葉を持てなかった。


 最初に嘔吐したのは、若い弩兵だった。


 次に、槍兵の一人が祈り始めた。


 傭兵の何人かが、逃げるかどうかを本気で考えた。


 その時、騎士団総長ヴァルデンが馬上で剣を抜いた。


「連合軍!」


 その声は、魔術で増幅され、平原に響いた。


「前を見るな!」


 兵たちが、困惑した。


 ヴァルデンは続ける。


「前だけ見れば、数に呑まれる! 隣を見ろ! 自分の隊列を見ろ! 後ろの王都を思い出せ!」


 その言葉に、何人かが振り返った。


 遠く、王都の壁が見える。


 そこに、家がある。


 家族がいる。


 食堂がある。


 鍛冶場がある。


 神殿がある。


 井戸がある。


 帰る場所がある。


「我々は、あの黒い波をすべて殺すためにいるのではない!」


 ヴァルデンは叫ぶ。


「一歩止めるためにいる! 次の一歩を遅らせるためにいる! その一歩の積み重ねが、王都を生かす!」


 騎士団が槍を上げた。


 それを見て、都市警備兵も槍を上げる。


 冒険者たちが武器を抜く。


 傭兵が悪態をつきながらも盾を構える。


 神殿兵が祈りを唱える。


 魔術師団が魔力を通す。


「構え!」


 ヴァルデンの号令で、槍列が整う。


 弩砲が狙いをつける。


 魔術陣が光り始める。


 連合軍は、震えていた。


 だが、逃げてはいなかった。


     ◇


 魔物の先頭が、射程に入った。


 弩砲隊長が叫ぶ。


「まだだ!」


 黒い波は近づく。


 地響きが大きくなる。


 地面に置いた小石が跳ねる。


 馬が暴れる。


 兵士の歯が鳴る。


「まだ!」


 ゴブリンの顔が見える。


 オークの牙が見える。


 狼型魔物の涎が見える。


 死体獣の腹から零れる腐肉が見える。


 その距離まで来て、弩砲隊長が手を振り下ろした。


「撃て!」


 弩砲が一斉に唸った。


 巨大な矢が、黒い波へ突き刺さる。


 一射で、ゴブリンが十数体吹き飛ぶ。


 オークの胸に穴が空く。


 狼型魔物が串刺しになる。


 魔物の先頭が、まとめて崩れた。


 歓声が上がりかけた。


 だが、その歓声はすぐに止まる。


 倒れた魔物の上を、後続の魔物が踏んで進んできたからだ。


「第二射!」


 弩砲が再び撃つ。


 魔術師団が続く。


「火球陣、放て!」


 火球が空を走る。


 黒い波の先頭で爆発する。


 魔物が燃える。


 油壺が割られ、火の壁が走る。


 最前列のゴブリンが悲鳴を上げ、焼けながら転がった。


 それでも、後ろのオークがその上を踏む。


 狼型魔物が火を避けて横へ流れる。


 飛行種が上から槍列へ落ちてくる。


「上!」


 弓兵が撃つ。


 魔術師が風刃を放つ。


 いくつもの飛行種が落ちる。


 だが、そのうち一体が槍兵の列へ突っ込み、兵士二人を巻き込んで倒れた。


 悲鳴。


 血。


 混乱。


 だが、後列の兵がすぐに穴を埋める。


「列を崩すな!」


「前へ!」


「槍を出せ!」


 そして、黒い波が槍列へぶつかった。


     ◇


 最初の衝撃で、前列の何人かが吹き飛んだ。


 魔物の勢いは、人間の想像を超えていた。


 槍がゴブリンを貫く。


 そのゴブリンごと、後続の魔物が突っ込んでくる。


 槍が折れる。


 盾が割れる。


 兵士が倒れる。


 倒れた兵士に、別の兵士が足を取られる。


 そこへ狼型魔物が飛び込む。


 冒険者が横から斬りかかり、狼の首を落とす。


 次の瞬間、その冒険者はオークの棍棒で肩を砕かれる。


 Cランクの女槍使いが、叫びながらオークの膝を突いた。


 老冒険者が、その首へ剣を叩き込む。


 オークが倒れる。


 その奥から、さらに三体のオークが来る。


「きりがない!」


 誰かが叫んだ。


 その声は、戦場の音に飲まれた。


 神殿兵が死体獣を浄化する。


 だが、死体獣の腹が裂け、中から小さな虫型魔物が飛び出す。


 魔術師が火を放つ。


 虫が燃える。


 燃えながら、兵の顔に飛びつく。


 いたるところで、人間が死んでいた。


 だが、魔物も死んでいる。


 土塁の前には、すぐに死体の山ができた。


 その死体の山が、次の魔物の踏み台になる。


「死体を燃やせ!」


「無理だ! 近すぎる!」


「下がるな!」


「押せ!」


 連合軍は、踏みとどまっていた。


 崩れてはいない。


 だが、黒い波はまだ始まったばかりだった。


     ◇


 蒼穹の楔は、中央突破の準備をしていた。


 連合軍が魔物の波を受け止めている間に、五人は中心へ向かう道を作る。


 無謀だ。


 だが、それ以外にガルザヴェインへ届く方法はない。


 ドルガが巨槍盾を構える。


「俺が開ける」


 ラティカが杖を握る。


「開いたところを焼く」


 ユードが矢を番える。


「指揮個体になりそうなのは落とす」


 セネリアが白祈陣はくきじんを展開する。


「全員、傷を受けても前へ。ただし、動けなくなったら言って」


 イグナスが剣を抜いた。


 青い刃が伸びる。


「行くぞ」


 五人が動いた。


 ドルガが先頭で突っ込む。


「巨槍盾・破城押はじょうおし!」


 巨槍盾が魔物の群れへ突き刺さり、押し開く。


 ゴブリンが吹き飛び、狼型魔物が弾かれ、オークが盾に押し負ける。


 ラティカが後ろから雷炎を放つ。


雷炎槍らいえんそう!」


 雷と炎が混じった槍が、開いた道をさらに広げる。


 ユードの矢が飛ぶ。


 呪術ゴブリンの額を撃ち抜く。


 飛行種の喉を貫く。


 オーク隊長の目を射抜く。


 セネリアの白い祈りが、五人を包む。


 黒い魔力と血煙の中で、彼らだけが白く浮かぶ。


 そして、イグナスが剣を振った。


蒼剣技そうけんぎ空裂くうれつ!」


 青い斬撃が、前方の魔物をまとめて裂く。


 黒い波の中に、青い楔が打ち込まれた。


 周囲の兵士たちが叫ぶ。


「蒼穹の楔が進んだ!」


「道ができてる!」


「押せ! あの道を守れ!」


 連合軍の士気が、ほんの少しだけ戻った。


 彼らはまだ負けていない。


 Sランクが進んでいる。


 ガルザヴェインへ向かっている。


 その事実が、死にかけた戦線をかろうじて支えた。


     ◇


 だが、魔物の軍勢も黙ってはいなかった。


 中央へ向かって進む蒼穹の楔へ、魔物が集まり始める。


 オークが三体、同時に突っ込む。


 ドルガが二体を盾で止める。


 残り一体をイグナスが斬る。


 虫型魔物の群れが空から落ちる。


 ラティカが雷炎で焼く。


 死体獣が地面を這って近づく。


 セネリアが浄化の祈りで止める。


 飛行種がユードを狙う。


 ユードは一歩も動かず、それを射落とす。


 五人は強かった。


 本当に強かった。


 魔物の黒い波の中で、彼らだけは前へ進んでいた。


 だが、遠い。


 ガルザヴェインはまだ遠い。


 二十万の軍勢の中心。


 黒い波の奥。


 空白のような場所。


 そこに、未成熟の魔神がいる。


 ユードが、戦闘の合間にその空白を見つけた。


「イグナス」


「見えたか」


「中央に空白。動いてる。こっちを見てる」


 イグナスは、剣を握る手に力を込めた。


「向こうも気づいたか」


「たぶん」


 その時、遠くで鐘が鳴った。


 ごん。


 戦場の音の中でも、不思議と聞こえた。


 魔物の軍勢が、わずかに動きを変える。


 進軍の鐘。


 ガルザヴェインが、リムナ村から奪った銅鐘を鳴らした音。


 ユードの表情が変わる。


「あいつ、指揮を覚えてる」


「何?」


「鐘だ。音で軍勢を動かしてる」


 ごん。


 二度目。


 ゴブリンの群れが左右へ割れる。


 オークが中央へ寄る。


 飛行種が上空へ上がる。


 拙い。


 荒い。


 だが、明らかに軍勢が形を変えた。


 ラティカが叫ぶ。


「魔物が動き変えた!」


 ドルガが歯を食いしばる。


「ゴブリンのくせに、戦術かよ!」


 イグナスは、遠くの空白を見た。


 そこに、金色の目がある気がした。


「急ぐ」


 彼は言った。


「これ以上、覚えさせる前に」


     ◇


 第一防衛線は、まだ保っていた。


 だが、ひびは入っていた。


 左翼では、傭兵部隊が一度押し込まれた。


 右翼では、飛行種の群れが弩砲を二基破壊した。


 中央では、騎士団の槍列が何度も崩れかけた。


 死者は増えている。


 負傷者の搬送路はすでに血で滑る。


 神殿兵の治療所は満杯。


 魔術師団の火力陣は、魔力石を想定より早く消費している。


 それでも、戦線はまだある。


 まだ、連合軍は立っている。


 その理由の一つが、蒼穹の楔だった。


 彼らが進んでいる。


 魔神へ届くかもしれない。


 その希望が、兵士たちを前へ立たせている。


 若い兵士エランは、槍を折られていた。


 代わりに、落ちていた短槍を拾っている。


 隣のラウドは肩から血を流していた。


「ラウドさん!」


「まだ立ってる!」


「槍が、もう」


「拾え! 何でもいい!」


 その時、前方でゴブリンが一体飛び込んできた。


 エランは短槍を突き出す。


 手応え。


 ゴブリンが胸を貫かれて止まる。


 エランは震えた。


 初めて、自分の槍で魔物を殺した。


 だが、喜ぶ暇はない。


 その後ろから、さらに三体のゴブリンが来る。


 ラウドが一体を斬る。


 エランがもう一体へ槍を突き出す。


 外れる。


 ゴブリンが彼の腕へ噛みつく。


 痛み。


 悲鳴。


 だが、エランは後ろを思い出した。


 家。


 靴職人の父。


 母。


 妹。


 彼は叫びながら、ゴブリンの顔へ頭突きをした。


 ラウドがそのゴブリンを斬った。


「よくやった!」


 エランは泣きながら頷いた。


 怖い。


 痛い。


 逃げたい。


 それでも、立つ。


 第一防衛線は、そういう者たちの恐怖で支えられていた。


     ◇


 夕刻が近づく頃、連合軍は魔物を大量に削っていた。


 何万という魔物が死んだ。


 平原には死体の山ができ、血の匂いと焦げた肉の匂いが混じっていた。


 だが、黒い波はまだ止まらない。


 むしろ、死体の山を踏み台にして進んでいる。


 そして、蒼穹の楔は、ついに魔物の中心に近づいていた。


 そこは不自然な空白だった。


 周囲に魔物はいる。


 だが、一定距離から先へは近づかない。


 恐れている。


 空白の中心に、ガルザヴェインがいた。


 灰緑の体。


 未成熟な角。


 背から流れる黒い魔力。


 腰に吊るした銅鐘。


 金色の目。


 彼は、蒼穹の楔を見ていた。


 ずっと。


 待っていたように。


 イグナスが剣を構える。


 ラティカが雷炎を高める。


 ドルガが巨槍盾を前へ。


 セネリアが祈りを重ねる。


 ユードが矢を番える。


 ガルザヴェインは、ゆっくり笑った。


 そして、まだ不完全な人間の言葉で言った。


「キタ」


 その一言で、蒼穹の楔の全員が理解した。


 これは、ただの魔物ではない。


 戦いを待っていた。


 強い者が来るのを待っていた。


 未成熟の魔神は、彼らを獲物としてではなく、成長の糧として見ている。


 イグナスは、青い剣を握り直した。


「ここで倒す」


 ガルザヴェインが、腰の銅鐘を鳴らした。


 ごん。


 魔物の軍勢が、周囲で咆哮する。


 そして、蒼穹の楔と魔神ゴブリンの戦いが始まった。

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