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第153話 魔神ゴブリンは、まだ王ではない

 東方の小村、リムナ村には鐘楼しょうろうがあった。


 小さな鐘楼だ。


 王都の赤鐘あかがねのような立派なものではない。


 木で組んだ台に、古い銅鐘がひとつ吊られているだけ。


 村人を集める時。


 火事が起きた時。


 狼が畑に出た時。


 旅の神官が来た時。


 その鐘は、いつも村の中心で鳴っていた。


 その朝も、鐘は鳴った。


 だが、いつもの音ではなかった。


 祈りでも、祝いでも、集会でもない。


 逃げろ、という音だった。


 鐘を鳴らしていたのは、村長の息子だった。


 まだ十四の少年だ。


 彼は泣きながら、縄を引いていた。


 ごん。


 ごん。


 ごん。


「逃げろ! 東から来る! 魔物だ!」


 村人たちは最初、何のことか分からなかった。


 畑に出ていた男たちが顔を上げる。


 井戸端にいた女たちが振り返る。


 鶏小屋の戸を開けていた老人が、耳に手を当てる。


 それから、地面が震えた。


 最初は、遠い雷のようだった。


 だが、空は晴れている。


 次に、土が揺れた。


 井戸の水面が波打つ。


 馬が暴れ出す。


 犬が吠えようとして、途中で鳴くのをやめ、腹を地面につけた。


 そして、東の森の向こうから、黒いものが見えた。


 森の影ではない。


 煙でもない。


 動いている。


 木々の間を、魔物が押し寄せていた。


「門を閉めろ!」


 誰かが叫んだ。


 だが、リムナ村に門などない。


 低い柵と、畑を囲う石垣があるだけだ。


 ゴブリンの群れなら、それでも多少は役に立つ。


 狼なら火を焚けばよい。


 オークが数体なら、冒険者が来るまで納屋に籠もればよい。


 だが、これは違った。


 森から出てきたのは、群れではなかった。


 波だった。


 ゴブリンが走る。


 その後ろからオークが来る。


 さらに後ろから狼型の魔物。


 泥を纏った獣。


 羽音を立てる虫型。


 腐った死体獣。


 魔物同士が押し合い、噛み合い、踏み潰し合いながら、それでも村へ向かってくる。


 村人たちは逃げた。


 荷物を持つ者。


 子を抱える者。


 老人を置いて走る者。


 置いていけず、共に倒れる者。


 叫び声は、すぐに魔物の足音に潰された。


 鐘楼の少年は、まだ鐘を鳴らしていた。


 ごん。


 ごん。


 ご――


 鐘の音が途中で止まった。


 飛びかかったゴブリンが、少年の足を掴んだのだ。


 少年は縄を握ったまま落ちた。


 その上を、後続の魔物が踏み越えた。


 鐘楼も、村の家も、畑も、井戸も、すべて黒い波に飲まれていく。


 だが、その軍勢の中心にいるものは、村を見ていなかった。


 魔神ゴブリン・ガルザヴェイン。


 彼は、燃える村を見下ろす丘の上に立っていた。


    ◇


 ガルザヴェインは、まだ王ではなかった。


 王冠はない。


 玉座もない。


 旗もない。


 言葉も、まだ不完全だ。


 だが、二十万の魔物が彼へ従っている。


 従うというより、逆らえない。


 ガルザヴェインの体は、通常のゴブリンとは比べものにならないほど大きい。


 オークほどの体躯たいく


 長い腕。


 岩を掴み砕く指。


 灰緑の肌。


 骨のように突き出しかけた二本の未成熟な角。


 背中からは、黒い魔力が煙のように流れている。


 その体は、まだ完成していない。


 筋肉のつき方もいびつだ。


 骨格も成長途中で、ところどころ不自然に膨らんでいる。


 だが、その未完成さこそが、周囲を恐れさせた。


 あれで未成熟。


 あれでSランク。


 ならば、完全に育った時、何になるのか。


 その答えを知る者は、まだいない。


「グ……」


 ガルザヴェインが喉を鳴らす。


 その音だけで、周囲のゴブリンたちが地面に伏せた。


 オークが一歩退く。


 狼型の魔物は尾を腹の下へ巻き込む。


 死体獣ですら、腐った首を低く下げる。


 それは統率ではない。


 恐怖だ。


 ガルザヴェインの内側から漏れる魔神性まじんせいが、魔物の本能を押し潰している。


 逆らえば殺される。


 近づけば変えられる。


 離れようとしても、背中を掴まれる。


 そんな圧がある。


 丘の下では、魔物たちが村の残骸を漁っていた。


 家畜を喰う。


 穀物を踏み荒らす。


 逃げ遅れた村人を引きずり出す。


 ゴブリンが笑い、オークが唸り、狼型魔物が骨を噛み砕く。


 だが、ガルザヴェインは何も喰わなかった。


 血の匂いにも、肉の匂いにも、興味を示さない。


 彼は、もっと遠くを見ていた。


 王都。


 まだ見えないはずの場所。


 だが、彼はそちらを向いていた。


 そこに何があるのか、彼自身にも分かっていない。


 ただ、強いものがあると感じていた。


 多くの命。


 厚い壁。


 強い人間。


 大きな祈り。


 そして、自分を完成させる何か。


 ガルザヴェインは、まだ空腹だった。


 腹が空いているのではない。


 存在そのものが、満たされていない。


 もっと強い敵。


 もっと大きな群れ。


 もっと深い戦い。


 それを求めていた。


「ツヨイ……」


 彼は、まだ不器用な人間の言葉を吐いた。


 周囲の魔物たちが怯える。


 言葉を喋るゴブリン。


 それだけなら、上位種には稀にいる。


 だが、ガルザヴェインの言葉は違った。


 覚えた言葉ではない。


 奪った音でもない。


 自分の内側で、意味を組み始めている。


「モット……ツヨイ……」


 彼は王都の方角を見た。


 まだ見ぬ敵を求めて。


    ◇


 軍勢の中には、ゴブリンが多かった。


 棍棒を持つ小鬼。


 弓を持つ小鬼。


 盾を拾った小鬼。


 呪術の真似事をする小鬼。


 粗末な革鎧をまとった小鬼。


 彼らは、本来なら弱い。


 野犬にも殺される。


 農民のくわでも倒される。


 冒険者にとっては雑魚と呼ばれる存在だ。


 だが、今は違った。


 ガルザヴェインの近くにいるだけで、ゴブリンたちは変わっていく。


 牙が伸びる。


 背が伸びる。


 筋肉が膨らむ。


 目が金色に濁る。


 黒い魔力の筋が、皮膚の下を走る。


 それは祝福ではない。


 暴力的な進化だった。


 一体の老ゴブリンが、ガルザヴェインの足元に這い寄った。


 背は曲がり、片目は潰れ、牙も欠けている。


 戦場なら真っ先に死ぬような個体だ。


 だが、老ゴブリンは震えながらガルザヴェインを見上げた。


「ギ……ギギ……」


 その声には、恐怖と崇拝が混じっていた。


 ガルザヴェインは、老ゴブリンを見下ろす。


 そして、何の感情も見せずに手を伸ばした。


 大きな手が、老ゴブリンの頭へ置かれる。


 次の瞬間、老ゴブリンの背骨が鳴った。


 ばきり。


 ばき、ばきり。


 骨が伸びる。


 筋肉が膨れ上がる。


 欠けた牙が抜け落ち、新しい牙が生える。


 潰れた片目が黒く焼け、金色の光を帯びる。


 老ゴブリンは悲鳴を上げた。


 だが、逃げられない。


 痛みの中で、体が作り替えられていく。


 弱かった小鬼が、上位ゴブリンへ変わる。


 無理やり。


 命を削りながら。


 進化というより、暴発だ。


 やがて、老ゴブリンだったものは膝をついた。


 体は若返ったように太くなり、爪は長く、背には黒い筋が走っている。


 周囲のゴブリンたちが、恐怖で伏せた。


 ガルザヴェインは、その上位ゴブリンを見て、興味を失ったように視線を外した。


 成功か失敗かなど、彼にとってはどうでもよかった。


 近くにいるものは変わる。


 耐えられなければ死ぬ。


 耐えれば使える。


 それだけだ。


 魔神ゴブリン・ガルザヴェイン。


 彼はまだ王ではない。


 だが、ゴブリン種そのものを引き上げる何かを持っていた。


    ◇


 魔物の軍勢の外縁では、人間の偵察が動いていた。


 王都から派遣された二人の冒険者。


 一人はCランク斥候。


 もう一人はBランク弓手。


 彼らは、村の廃墟近くの丘陰に伏せていた。


 息を殺し、泥を体に塗り、魔物の風下を取っている。


 Cランク斥候の男が震える声で言った。


「多すぎる」


 Bランク弓手は、矢を番えず、ただ見ていた。


「数えるな。気が狂う」


「でも報告を」


「見たまま言えばいい。地平線全部だと」


「信じてもらえますか」


「信じるしかない」


 二人は、ガルザヴェインを見た。


 丘の上に立つ灰緑の巨体。


 周囲の魔物が、明らかに彼を避けている。


 魔物の波の中にあって、そこだけ空白がある。


 それだけで分かる。


 あれが中心だ。


 あれが、この地獄の核だ。


「……撃てますか」


 斥候が聞いた。


 弓手は首を横に振る。


「届くが、殺せない」


「目なら」


「あれは、撃たせる距離に立っていない」


「でも」


「撃てば、こっちを見る」


 弓手の声には、確信があった。


 そして、恐怖もあった。


「見られたら死ぬ」


 その時、ガルザヴェインが少しだけ首を動かした。


 二人は凍りついた。


 見られた。


 そう思った。


 距離はある。


 風下も取っている。


 泥も塗っている。


 なのに、ガルザヴェインの金色の目が、こちらへ向いた気がした。


 Cランク斥候は息を止めた。


 Bランク弓手も動かない。


 ガルザヴェインは、しばらくその方向を見ていた。


 それから、ゆっくり口を開いた。


「ミテル」


 斥候の背筋が凍る。


 その言葉が、自分たちへ向けられたものだと分かった。


 次の瞬間、ガルザヴェインの指先に黒い魔力が集まる。


 弓手が叫んだ。


「逃げろ!」


 黒い矢が放たれた。


 音はない。


 だが、空気が裂けた。


 斥候は転がるように避けた。


 弓手は斥候を押し飛ばした。


 黒い矢が、弓手の左肩から胸を貫く。


 肉が弾け、岩が砕け、背後の木々がまとめて折れた。


 弓手は即死だった。


 斥候は叫び声を上げそうになったが、自分の口を押さえた。


 泣きながら、這って逃げる。


 後ろを振り返らない。


 振り返れば、また見られる気がしたからだ。


 ガルザヴェインは追わなかった。


 逃げる者を見逃したのではない。


 逃げさせた。


 伝えさせるために。


「ツヨイノ……コイ」


 ガルザヴェインは、まだ見えない王都へ向かって呟いた。


 強いものを求めている。


 その声に応えるように、魔物の軍勢が動き出した。


    ◇


 夕方、魔物の軍勢は再び進軍を始めた。


 リムナ村だった場所には、ほとんど何も残っていない。


 折れた鐘楼。


 焼けた家。


 ひび割れた井戸。


 踏み荒らされた畑。


 散らばった生活の残骸。


 その中で、銅鐘だけが地面に転がっていた。


 少年が鳴らしていた鐘だ。


 ガルザヴェインは、その横を通り過ぎようとして、足を止めた。


 鐘を見る。


 意味は分からない。


 だが、それが人間を集める音だったことを、どこかで理解していた。


 彼は、鐘を拾った。


 重い銅鐘が、彼の手の中では小さな器のように見える。


 ガルザヴェインはそれを軽く叩いた。


 ごん。


 鈍い音が鳴る。


 周囲のゴブリンたちが一斉に伏せた。


 ガルザヴェインは、その反応を見た。


 そして、もう一度叩く。


 ごん。


 魔物の群れが動きを止める。


 三度目。


 ごん。


 群れが進み始める。


 命令の音。


 号令の音。


 ガルザヴェインは、鐘の意味を覚えた。


 その鐘を、彼は腰に吊るした。


 村の警鐘だったものは、魔物の進軍を告げる鐘になった。


「……ススメ」


 ガルザヴェインが言った。


 魔物の軍勢が、王都へ向かって再び動き出す。


 二十万の黒い波。


 その中心で、未成熟の魔神ゴブリンが、ひとつ言葉を覚えた。


 進め。


 その言葉は、王都にとって最悪の意味を持っていた。

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