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第152話 蒼穹の楔は、英雄に近すぎた

 王都は、眠らなかった。


 夜が来ても、街の明かりは消えなかった。


 城壁の上には松明が並び、兵たちが交代で東を見張っている。


 神殿では祈りが続き、広場では避難民が毛布にくるまりながら身を寄せ合っていた。


 市場通りの店はほとんど閉じていたが、パン屋や水売りだけは夜通し動いている。


 兵へ渡すため。


 避難民へ配るため。


 戦場へ向かう者たちが、最後に口へ入れるものを用意するため。


 王都中が、不安に押し潰されそうになりながら、それでも何かをしていた。


 何もしないで待つことが、一番怖かったからだ。


     ◇


 王城前広場には、蒼穹のそうきゅうのくさびのための仮設天幕が張られていた。


 Sランクパーティ。


 王都にいる、唯一のSランク。


 魔神ゴブリン・ガルザヴェインを討つための切り札。


 そう呼ばれ始めた彼らは、天幕の中で装備を整えていた。


 隊長、蒼剣士そうけんしイグナス・ヴァルト。


 青い魔力刃を操る剣士。


 彼は無言で、自分の剣を布で拭っていた。


 刃は普通の鋼に見える。


 だが、魔力を通せば空の色を帯びる。


 晴天の青。


 夜明けの蒼。


 その剣で、彼は竜種を斬った。


 Aランク魔物の群れを斬った。


 Sランク昇格試験で、王国北部の崩落迷宮から生還した。


 だから、人々は彼を英雄の器だと言った。


 イグナス自身は、その言葉があまり好きではなかった。


 英雄とは、死んだ後に呼ばれる名だと思っていたからだ。


「まだ拭いてるの?」


 雷炎術師らいえんじゅつしラティカ・レイが、杖を肩に担ぎながら言った。


 赤茶色の髪を高く結び、目元には眠れなかった痕がある。


 だが、口調だけはいつも通り軽い。


「その剣、もう十分綺麗でしょ」


「落ち着く」


「剣を拭くと?」


「ああ」


「私は落ち着かない」


「杖を拭けばいい」


「燃える」


 ラティカは、杖の先に小さな雷炎を灯した。


 雷と炎が混じった、不安定で強い魔法。


 彼女は元々、魔術学院の落第生だった。


 雷術は荒すぎる。


 炎術は制御が雑すぎる。


 そう言われ続けていた。


 だが、その二つを無理やり混ぜた時、誰も真似できない術が生まれた。


 雷炎術。


 荒く、速く、破壊力だけなら一級品。


 ラティカは、その力で自分の居場所を奪い取った。


 今も、彼女は笑っている。


 だが、その指先はわずかに震えていた。


 巨槍盾きょそうじゅんドルガ・バレムは、天幕の隅で巨大な盾を立てていた。


 盾というより、槍と盾を一体化させた巨大武装だ。


 正面から突けば槍。


 横に構えれば盾。


 地面に突き立てれば壁。


 ドルガはその武器を軽々と扱う。


 元は採石場の労働者だった。


 魔物に襲われた採石場で、彼は落ちていた鉄板を拾い、子供たちの前に立った。


 それが最初の盾だった。


 以後、彼はずっと前に立っている。


「ラティカ」


 ドルガが言った。


「指が震えてるぞ」


「寒いだけ」


「天幕の中は暖かい」


「じゃあ興奮してる」


「無理するな」


「ドルガに言われたくない。盾、割れてるじゃない」


 ドルガは、自分の巨槍盾の端を見た。


 そこには、前の戦いで入った傷がまだ残っている。


「縁起物だ」


「壊れかけとも言う」


「壊れてないなら、使える」


 その言葉に、ラティカは少しだけ笑った。


 白祈女はくきじょセネリアは、天幕の中央で祈祷布を畳んでいた。


 白い布。


 回復と防護の術式が織り込まれた神殿布。


 彼女の手元には、同じ形に畳まれた布が何枚も積まれている。


 祈りに使う。


 傷口を縛る。


 遺体を包む。


 用途は、戦場で決まる。


 彼女は神殿生まれではない。


 戦場孤児だった。


 焼けた村で、死体の中に座っていたところを神官に拾われた。


 祈りを覚えたのは、誰かを救いたかったからではない。


 最初は、自分が夜眠るためだった。


 だが今は、彼女の祈りに多くの者がすがっている。


 それが、重かった。


 影弓かげゆみのユードは、天幕の入口近くで矢を並べていた。


 彼は一番静かだった。


 細身で、黒髪。


 右目の下に古い傷がある。


 手元には、普通の矢、魔力矢、影矢、貫通矢。


 それぞれ数を確認し、順番を変え、また確認する。


 彼は元々、国境の森で斥候をしていた。


 魔物の群れを見た経験が、この中で一番多い。


 だからこそ、彼だけは民衆の期待を素直に受け取れなかった。


「二十万」


 ユードが呟いた。


 誰もすぐには返事をしなかった。


 ユードは矢を一本つまみ、指先で回す。


「俺たち五人で斬れる数じゃない」


「首を取るんでしょ」


 ラティカが言う。


「それは分かってる。だからこそ怖い」


「何が?」


「首を取れなかった時、二十万全部が残る」


 天幕の中に、沈黙が落ちた。


 外では、兵たちの足音がする。


 荷を運ぶ声。


 馬のいななき。


 誰かの泣き声。


 祈りの声。


 全部が、天幕の布越しに聞こえていた。


 イグナスは剣を鞘に納めた。


「第二案は頼んだ」


「ギルド本部長に?」


「ああ」


「用意してくれると思う?」


 ラティカが聞く。


 イグナスは少しだけ間を置いた。


「してくれる。あの人は、希望だけを見ない」


 ユードが頷いた。


「ならいい」


 ドルガが立ち上がった。


「で、俺たちはどうする」


 イグナスは仲間を見る。


 ラティカ。


 ドルガ。


 セネリア。


 ユード。


 五人。


 Sランクになったばかりの、若いパーティ。


 王都の期待を背負うには若すぎる。


 だが、背負わないと言えるほど弱くもない。


「ガルザヴェインへ届く」


 イグナスは言った。


「軍勢は連合軍に任せる。俺たちは中心を抜く」


「抜けなかったら?」


 ラティカが問う。


「引く」


 イグナスは即答した。


 その言葉に、ドルガが眉を上げる。


「英雄らしくないな」


「英雄になりに行くんじゃない」


 イグナスは、静かに言った。


「王都へ帰るために行く」


 セネリアが、少しだけ顔を上げた。


「それ、いいね」


「何が」


「軽い」


 彼女は祈祷布を一枚、イグナスへ渡した。


「英雄になるって言われるより、生きて帰るって言われる方が、祈りやすい」


 イグナスは、その布を受け取った。


 そして、胸当ての内側へ挟んだ。


     ◇


 天幕の外には、人が集まっていた。


 兵だけではない。


 市民もいた。


 本来なら、王城前広場は避難誘導のために空けられるべきだった。


 だが、人々はどうしても一目見たかった。


 Sランクパーティを。


 王都を救うかもしれない者たちを。


 母親が、子供を抱き上げる。


「見てごらん。あの人たちが魔物をやっつけてくれる」


 子供は、泣き腫らした目で天幕を見る。


「ほんと?」


「ほんと」


 近くの老人が、杖を握りしめながら言った。


「竜を斬った連中だ。魔物の王だって斬れる」


 別の男が呟く。


「ゴブリンなんだろ。Sランクでも、ゴブリンなら」


 その言葉を聞いたユードは、天幕の中で目を細めた。


 声は小さい。


 だが、彼の耳には届いていた。


「ゴブリンなら、か」


 セネリアが彼を見る。


「気になる?」


「気になる」


「どうして?」


「弱いものを、弱いまま見るのは危ない」


 ユードは矢筒を背負う。


「ゴブリンは、弱い。だから増える。だから死を恐れない。だから上に強い個体が立つと、一番厄介な群れになる」


 ラティカが少し肩をすくめた。


「怖いこと言う」


「怖いから言う」


 ドルガが笑う。


「なら、怖がりながら勝とう」


「そうする」


 天幕の外で、兵が声を上げた。


「蒼穹の楔、出陣!」


 広場の人々が、一斉に静かになった。


 天幕の幕が上がる。


 最初に出てきたのは、ドルガだった。


 巨槍盾を背負った大男。


 その姿を見ただけで、前列の兵たちが少しだけ安心した顔をする。


 次に、ラティカ。


 杖の先に小さな雷炎を灯し、軽く手を振る。


 その仕草に、子供が小さく笑った。


 セネリアが出ると、神殿の者たちが頭を下げる。


 ユードは無言で歩く。


 最後に、イグナスが出てきた。


 広場に、低い歓声が広がった。


「蒼剣士だ」


「イグナス様だ」


「頼むぞ!」


「王都を守ってくれ!」


 声が重なる。


 期待。


 祈り。


 恐怖。


 全部が、彼らへ向かって投げられる。


 それは、剣より重いものだった。


 イグナスは一度だけ立ち止まり、広場を見渡した。


 泣いている子供。


 祈る老人。


 震える兵。


 目を逸らす商人。


 拳を握る冒険者。


 全員が、彼らを見ている。


 その視線を受けて、イグナスは剣の柄に手を置いた。


「行く」


 ただ、それだけを言った。


 派手な演説はなかった。


 必ず勝つとも言わなかった。


 英雄になるとも言わなかった。


 だが、その一言で、周囲の者たちは少しだけ息を吸えた。


 彼らは行く。


 逃げずに。


 それだけで、今の王都には十分すぎた。


     ◇


 王都東門へ向かう道は、兵と避難民で埋まっていた。


 蒼穹の楔が通ると、道が自然に開く。


 誰も命じていない。


 だが、人々は彼らへ道を譲った。


 石畳の端で、パン屋の娘ミーナが母親と弟と一緒に立っていた。


 父親はまだ戻っていない。


 東門へパンを運びに行ったままだ。


 ミーナは、弟の手を握りながら、蒼穹の楔を見た。


 彼らは、思っていたより若かった。


 もっと大人で、もっと遠い存在だと思っていた。


 だが、近くで見ると違う。


 ラティカは疲れた顔をしている。


 セネリアの手は祈祷布を握りしめている。


 ユードは一度も笑わない。


 ドルガは大きくて頼もしいが、肩に力が入りすぎている。


 イグナスは真っ直ぐ前を見ていた。


「お姉ちゃん」


 弟が小さく言う。


「あの人たち、勝つ?」


 ミーナは、答えようとした。


 勝つよ。


 大丈夫。


 そう言いたかった。


 だが、言葉が出なかった。


 すると、イグナスが彼らの前を通り過ぎる直前、ふと視線を向けた。


 ミーナと目が合う。


 一瞬だけ。


 イグナスは、軽く頷いた。


 それだけだった。


 だが、ミーナは弟の手を強く握って言った。


「勝つよ」


「ほんと?」


「うん」


 今度は、自分でも信じたいと思った。


     ◇


 東門の外では、連合軍が整列し始めていた。


 騎士団の槍列。


 都市警備兵の盾列。


 冒険者の遊撃隊。


 傭兵部隊。


 魔術師団の火力陣。


 神殿兵の治療陣。


 諸侯軍の先発部隊。


 ばらばらの勢力が、一つの戦場へ向かうために並んでいる。


 それを連合軍と呼ぶには、まだ頼りない。


 命令系統は複雑。


 装備も統一されていない。


 士気もばらついている。


 だが、それでも数はある。


 数だけはある。


 軍務卿オルドは、それを城壁上から見ていた。


 隣にはギルド本部長エルナンド。


「これで足りますか」


 オルドが問う。


 エルナンドはしばらく答えなかった。


 その沈黙に、オルドは苦笑した。


「正直だな」


「嘘を言っても、魔物は減りません」


「では、何を信じる」


 エルナンドは、東門の外へ歩いていく蒼穹の楔を見た。


「数を信じるしかありません」


「数か」


「兵の数。矢の数。魔法陣の数。防衛線の数。そして、彼らがガルザヴェインへ届くまでの時間」


 オルドは、地平線を見た。


 黒い帯は、前日より近い。


「数を信じる、か」


「ええ」


 エルナンドの声は、静かだった。


「ただし、数だけでは勝てません」


 オルドは、答えなかった。


 分かっていた。


 この戦いは、二つのものに懸かっている。


 連合軍が、二十万の魔物をどれだけ止められるか。


 そして、蒼穹の楔が、魔神ゴブリン・ガルザヴェインへ届けるか。


     ◇


 蒼穹の楔は、東門を抜けた。


 門の外の空気は、王都の中より冷たかった。


 そして、遠くに黒い地平線が見える。


 ラティカが、小さく息を吸った。


「見えるね」


 ドルガが巨槍盾を地面へ突き立てる。


「あれ全部、魔物か」


 ユードが答える。


「見える範囲ではな」


「嫌な言い方」


「事実だ」


 セネリアは、胸の前で祈祷布を握る。


「祈りが、あっちからも聞こえる」


 イグナスが振り返る。


「魔物から?」


「違う。逃げ遅れた人たちの」


 誰も何も言わなかった。


 遠くの村。


 街道沿いの家々。


 まだ全員が逃げられたわけではない。


 この黒い波の前に、人間の足はあまりにも遅い。


「急ごう」


 イグナスは言った。


 五人は、連合軍の中央へ向かって歩き出した。


 彼らの背後で、東門がゆっくり閉じ始める。


 巨大な木と鉄の門。


 王都を守る最後の入口。


 それが閉まる音を聞きながら、ラティカが笑った。


「閉じ込められた気分」


 ドルガが言う。


「逆だろ。俺たちは外に出た」


「どっちにしても、戻らないと意味ない」


 セネリアが静かに言った。


「戻るよ」


 イグナスが頷く。


「ああ。戻る」


 その言葉は、仲間に向けたものだった。


 だが、彼自身にも向けていた。


 英雄になるためではない。


 王都の期待に潰されないためでもない。


 ただ、仲間と共に生きて戻るために。


 蒼穹の楔は、黒い地平線へ向かって進んだ。


 その先に、未成熟の魔神ゴブリンがいる。


 魔神ゴブリン・ガルザヴェイン。


 王都は、彼らが勝つことを祈った。


 そして彼ら自身は、勝つことよりもまず、届くことを考えていた。

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