第150話 連合軍は、数を信じる
王城地下の軍議室には、窓がない。
外の空が赤く染まっていても、街が泣いていても、赤鐘がまだ遠くで鳴っていても、そこに入れば見えるものは石壁と地図だけだ。
だからこそ、そこは軍議室として使われていた。
恐怖を見ないために。
外の叫びを聞かないために。
数字と駒だけを見て、命令を出すために。
だが、その日だけは違った。
窓がなくても、恐怖は入ってきた。
地下の空気そのものが重かった。
円卓の上には、東方一帯の地図が広げられている。
王都。
東方監視塔。
ローヴェ平原。
周辺の村々。
街道。
森。
川。
そして、地図の東端から王都へ向かって、黒い石がいくつも置かれていた。
魔物の軍勢を示す石だ。
その数が多すぎて、地図の東側は黒く塗り潰されたようになっている。
軍務卿オルド・ヴァイゼンは、机に両手をついていた。
寝間着から軍服には着替えている。
だが、髪は乱れたままだ。
それを直す時間もなかった。
「もう一度、確認する」
彼の声は低かった。
「魔物の推定数は」
魔術師団長リヴァルトが、書類を見ながら答える。
「最低で十八万。最大で二十四万。現時点で、もっとも現実的な推定は二十万前後です」
「二十万」
その言葉が、円卓の上に落ちた。
誰もすぐには口を開かなかった。
二十万。
数字としては、ただの言葉だ。
だが、そこに魔物という意味が乗ると、現実感がなくなる。
人間の兵二十万でさえ、王国全土から集めなければならない大軍だ。
それが魔物。
統制も補給も倫理もない、黒い波。
それが王都へ向かっている。
西方貴族の一人が、青い顔で言った。
「誤報ではないのか」
騎士団総長ヴァルデンが、静かにその男を見た。
「偵察は三系統から出ています」
「だが、二十万など」
「東方監視塔、鷹騎兵、逃げ延びた村人の証言。加えて、魔術師団の遠見水晶にも同様の反応があります」
「遠見水晶は、魔力の多い対象を過大に映すことがある」
貴族は必死だった。
間違いであってほしい。
過大報告であってほしい。
誰もが心のどこかではそう願っている。
だが、ギルド本部長エルナンド・ロウが、落ち着いた声で言った。
「仮に二割少なく見積もっても、十六万です」
部屋が静まる。
「十六万ならば、問題は消えますか」
誰も答えなかった。
十六万でも、王都を滅ぼすには十分だった。
エルナンドは続けた。
「重要なのは、総数だけではありません。あれは単なる魔物の流入ではない。中心があります」
彼は黒い石の中でも、ひときわ大きな石を中央に置いた。
「魔神ゴブリン・ガルザヴェイン」
その名を口にした瞬間、神殿代表の老司祭が眉をひそめた。
「魔神という名を、軽々しく使うべきではない」
「鑑定札に出た名称です」
「魔神とは、信仰対象にも、災厄にも使われる言葉だ。ゴブリンに付く名ではない」
「だから問題なのです」
エルナンドは、砕けた鑑定札を円卓の中央へ置いた。
焦げた文字。
⸻
魔神ゴブリン・ガルザヴェイン
分類:最上位ゴブリン
危険度:S
備考:未成熟
⸻
老司祭は、それを見て黙った。
騎士団総長ヴァルデンが問う。
「未成熟とは、どう見る」
魔術師団長リヴァルトが答える。
「成長途中。能力が安定していない。あるいは、進化の途中という意味です」
「ならば、完成前に討てばよい」
西方貴族が言った。
今度は少しだけ希望を含んだ声だった。
「未成熟なら、弱点があるのだろう」
エルナンドは、その言葉にすぐ頷かなかった。
「未成熟だから弱い、とは限りません」
「どういう意味だ」
「成長途中の魔物は、飢えています。完成体より判断が荒い代わりに、吸収や進化の速度が異常に高いことがある」
魔術師団長も頷く。
「特にゴブリン系統なら危険です。最上位個体が群れの中にいる場合、周囲の下位個体が強制的に引き上げられる可能性があります」
「強制進化か」
「はい」
円卓にいた者たちの何人かが、顔を歪めた。
ゴブリンは弱い。
だが、多い。
その多いゴブリンが、魔神ゴブリンの影響で強くなるとしたら。
それは、ただの二十万ではなくなる。
時間が経てば経つほど、軍勢そのものが強くなる。
軍務卿オルドは、拳を握った。
「つまり、時間をかけるほど悪化する」
「はい」
「王都籠城は」
騎士団総長ヴァルデンが即答した。
「最終手段です」
「理由は」
「外壁は持ちます。ですが、二十万の魔物が外郭へ張りつけば、補給が切れます。死体獣や虫型が混じっているなら、疫病も起きる。飛行種が多ければ内側へ入られる。なにより、魔神ゴブリンが外壁まで到達した場合、壁そのものを破る可能性がある」
軍務卿は目を閉じた。
「なら、平原で止めるしかない」
「はい」
円卓に、青い石が置かれていく。
第一防衛線。
第二防衛線。
王都外壁。
数は多い。
騎士団。
都市警備兵。
神殿兵。
魔術師団。
冒険者。
傭兵。
近隣諸侯の兵。
すべてを合わせれば、まとまった戦力にはなる。
だが、地図上の青い石は、黒い石の前ではあまりにも小さかった。
◇
王城の外では、招集が始まっていた。
騎士団の詰所では、若い騎士たちが鎧を着込んでいる。
手が震える者もいた。
ベルトがうまく締められず、隣の騎士が黙って手伝う。
「お前、震えてるぞ」
「お前もだ」
「……そうか」
「ああ」
二人はそれ以上言わなかった。
恐怖を笑い飛ばすほど、まだ年を取っていない。
だが、逃げるほど子供でもない。
彼らには家がある。
家族がいる。
守るべき門がある。
だから、震えながら鎧を着る。
訓練場では、槍兵が並ばされていた。
教官が怒鳴る。
「槍先を揃えろ!」
兵たちの槍先は、揃っていない。
当然だ。
相手は演習用の木人ではない。
二十万の魔物だ。
教官は、怒鳴りながらも兵たちの顔を見ていた。
青い。
若い。
怖がっている。
それでも、槍を持っている。
「よく聞け!」
教官は叫んだ。
「お前たちは魔物を殺すために並ぶんじゃない! 後ろの者を生かすために並ぶんだ!」
兵たちの目が少しだけ上がる。
「自分一人で二十万を止めようとするな! 隣を信じろ! 前へ出すぎるな! 下がりすぎるな! 槍先を揃えろ!」
もう一度、槍が上がる。
今度は少しだけ揃った。
◇
冒険者ギルドでは、別の混乱が起きていた。
掲示板に赤い紙が貼られている。
⸻
王都非常招集
対象:全登録冒険者
危険種別:大規模魔物暴走
推定規模:二十万
指揮個体:魔神ゴブリン・ガルザヴェイン
危険度:S
備考:未成熟
全ランク、指定地点へ集合。
戦闘不能者は避難誘導へ。
無断逃亡者は登録資格剥奪。
⸻
「ふざけるな」
Dランク冒険者の男が、赤い紙を見て呟いた。
「二十万だぞ。俺たちが行って何になる」
隣にいたCランクの女が、槍を肩に担ぎながら言った。
「肉壁」
「笑えない」
「笑ってない」
ギルドの受付では、登録札の確認が行われている。
AランクやBランクは、前線部隊へ。
Cランクは支援戦闘と側面防衛へ。
Dランク以下は避難誘導、荷運び、負傷者搬送、弩砲の矢運びへ回される。
それでも、希望者は前線へ出られる。
何人かは名乗り出た。
無謀だと分かっていても。
「俺の村が東にある」
「弟が騎士団にいる」
「逃げても、どうせ王都が落ちたら終わりだ」
「なら、一匹でも殺す」
受付嬢の手は震えていた。
だが、彼女は一人ずつ札を確認する。
「名前」
「ダレン・コル」
「ランク」
「C」
「配置は第三槍列支援。次」
「名前」
「ミーシャ・レイ」
「D」
「負傷者搬送。次」
「前線に」
「Dランクは搬送」
「でも、兄が」
「搬送」
受付嬢は、涙をこらえながら言った。
「生きている人を運んでください。それも戦いです」
ミーシャは唇を噛んだ。
そして、札を受け取った。
「……はい」
◇
傭兵組合では、もっと現実的な会話が行われていた。
「報酬は」
「王国緊急支払い。生存者には倍額。死亡時は家族へ半額」
「安いな」
「死ぬ可能性を考えればな」
「逃げたら」
「組合除名。王都に戻れなくなる」
「戻る王都が残ればな」
傭兵たちは乾いた笑いを漏らした。
だが、多くは契約書に印を押した。
金のため。
生き残った後のため。
あるいは、今逃げても食えないから。
騎士のような忠義ではない。
冒険者のような名声でもない。
ただ、生きるための選択として、彼らは戦場へ行く。
その姿もまた、連合軍の一部だった。
◇
神殿では、白い布が大量に並べられていた。
包帯。
祈祷布。
遺体を包む布。
若い見習い神官が、それを見て震えた。
「こんなに必要なのですか」
老神官は答えなかった。
ただ、さらに布を持ってこさせた。
「聖水は」
「井戸三つ分を浄化中です」
「足りない」
「これ以上は」
「薄めろ」
「効力が落ちます」
「ないよりましだ」
神殿兵たちは、鎧の上に白い祈り紐を結んでいる。
死体獣や腐肉系魔物への対策だ。
だが、彼らの中にも恐怖はある。
祈りとは、恐怖が消えた者の行為ではない。
恐怖を抱えたまま立つための行為だ。
老司祭は、祭壇の前で静かに祈った。
「どうか、王都を」
少し間を置いて、言い直した。
「どうか、一人でも多くを」
全員を救えるとは、もう言えなかった。
◇
軍議室では、各勢力の兵力が集計されていた。
騎士団、約八千。
都市警備兵、約一万二千。
魔術師団、戦闘可能な者が約九百。
神殿兵、約三千。
冒険者、現時点で戦闘参加可能が約六千。
傭兵、約五千。
諸侯軍、到着見込みを含めて約一万。
総数としては、数万に届く。
だが、実戦でまともにぶつけられるのは、そのうち一部だけだ。
軍務卿オルドは、地図を見ながら言った。
「連合軍としてまとめる」
騎士団総長ヴァルデンが頷く。
「指揮系統は」
「第一防衛線は騎士団。冒険者は遊撃。魔術師団は後方火力。神殿兵は死体魔物対策と負傷者回収。傭兵は側面維持。諸侯軍は到着次第、第二線へ」
「理想的には聞こえるな」
エルナンドが言った。
軍務卿は苦い顔をした。
「現実では、半分もその通りに動くまい」
「ええ」
「だが、やるしかない」
そこへ、一人の伝令が入ってきた。
「ギルド本部より、Sランクパーティ到着の報告!」
円卓にいた者たちの顔が上がる。
エルナンドが、初めて少しだけ息を吐いた。
「来たか」
「蒼穹の楔、五名。王城前広場に到着しました」
部屋の空気が少しだけ変わった。
Sランク。
その言葉には、まだ力がある。
どれほど恐ろしい魔物が迫っていても、人間側にはSランクがいる。
そう思えるだけで、絶望の底にわずかな足場ができる。
軍務卿は言った。
「通せ」
◇
王城前広場に、五人の冒険者が立っていた。
蒼剣士イグナス・ヴァルト。
雷炎術師ラティカ・レイ。
巨槍盾ドルガ・バレム。
白祈女セネリア。
影弓のユード。
彼らは若かった。
Sランクの名を持つには、まだ若い。
だが、周囲の兵たちは彼らを見て、少しだけ表情を明るくした。
「あれが蒼穹の楔か」
「竜を討ったっていう」
「Sランクだ」
「なら、魔神ゴブリンも」
希望が囁きになって広がる。
イグナスは、それを聞いていた。
青い剣を腰に差し、静かに立っている。
表情は崩さない。
だが、隣のユードは小さく言った。
「期待が重いな」
ラティカが肩をすくめる。
「Sランクになったんだから、仕方ないでしょ」
ドルガが巨槍盾を地面に立てる。
「期待されるうちが華だ」
セネリアは、広場の周囲に集まる市民を見ていた。
子供。
老人。
祈る者。
泣いている者。
彼女は、白い祈祷布を握りしめる。
「……勝たないと」
イグナスは、短く答えた。
「勝つ」
その言葉は強かった。
周囲の兵たちにも聞こえた。
誰かが拳を握る。
誰かが涙を拭う。
誰かが小さく「頼む」と呟く。
だが、ユードだけは東の空を見ていた。
黒い地平線は、少しずつ近づいている。
「勝つだけじゃ足りない」
彼は小さく言った。
ラティカが聞き返す。
「何?」
「早く勝たないと、軍勢に飲まれる」
イグナスは頷いた。
「分かっている」
軍務卿が彼らの前に現れた。
騎士団総長、ギルド本部長、魔術師団長も一緒だ。
王城前広場のざわめきが静まる。
軍務卿は、イグナスを見た。
「蒼穹の楔。王都は、貴殿らに魔神ゴブリン・ガルザヴェインの討伐を依頼する」
イグナスは膝をつかなかった。
冒険者だからだ。
ただ、まっすぐに答えた。
「受けます」
広場に、小さな歓声が上がった。
だが、その歓声の中で、イグナスは続けた。
「ただし、第二案を用意してください」
軍務卿の表情が固まる。
「第二案?」
「我々が失敗した場合です」
歓声が止まった。
周囲の兵たちも、市民たちも、その言葉を聞いてしまった。
Sランクが、失敗を口にした。
ラティカが横目でイグナスを見る。
だが止めない。
ユードも、セネリアも、ドルガも、黙っている。
軍務卿は、低く言った。
「自信がないのか」
「敵を軽く見ないだけです」
イグナスは答えた。
「ガルザヴェインは未成熟でSランク。二十万の軍勢の中心です。勝算はあります。ですが、勝利が保証される相手ではありません」
ギルド本部長エルナンドは、静かに頷いた。
だが、軍務卿は苦い顔をした。
周囲に市民がいる。
兵がいる。
希望を必要としている者たちの前で、敗北の話をされるのは痛い。
だが、イグナスの言葉は正しかった。
正しすぎた。
「分かった」
軍務卿は言った。
「第二案は、軍議で検討する」
イグナスは頷く。
「お願いします」
そして、彼は東を見た。
黒い地平線。
そこにいるであろう、未成熟の魔神。
「我々は、首を狙います」
その声は、広場の端まで届いた。
「軍勢ごと止めることはできない。中心を断ちます」
ドルガが巨槍盾を担ぐ。
ラティカの杖先に小さな雷炎が走る。
セネリアの祈祷布が風に揺れる。
ユードは無言で弓を確かめる。
広場の人々は、彼らを見た。
不安は消えていない。
恐怖も消えていない。
だが、少なくとも今、王都には立ち向かう者がいた。
それだけで、人々は少しだけ息を吸えた。
◇
夜。
王都の灯りは、いつもより多かった。
眠れない者が多かったからだ。
鎧の音。
荷車の音。
泣き声。
祈り。
怒鳴り声。
遠くで響く軍馬の嘶き。
そして、まだ時折鳴らされる赤鐘。
王都は眠れないまま、夜を越えようとしていた。
東の地平線は暗闇に沈んでいる。
もう黒い波は見えない。
だが、見えない方が恐ろしい。
どれほど近づいたのか分からないからだ。
パン屋の地下で、ミーナは弟を抱いたまま座っていた。
父親はまだ戻らない。
母親は祈るのをやめ、ただ耳を澄ましている。
弟が、小さく聞いた。
「お姉ちゃん、明日、パン焼ける?」
ミーナは答えようとして、喉が詰まった。
いつもの朝なら、もちろん焼ける。
窯に火を入れて、粉をこねて、父が文句を言い、母が笑い、弟が端の焦げた部分を欲しがる。
そんな朝が来るはずだった。
だが、明日もそうなるとは言えなかった。
それでも、ミーナは弟を抱きしめて言った。
「焼けるよ」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、黒麦パンがいい」
「分かった」
嘘かもしれない。
でも、言わなければならなかった。
王都のあちこちで、同じような嘘が囁かれていた。
明日は大丈夫。
騎士様が守ってくれる。
冒険者が倒してくれる。
Sランクがいる。
王都は落ちない。
そう言い聞かせながら、人々は眠れない夜を過ごした。
そして東の闇の向こうで、二十万の魔物が王都へ近づいていた。
その中心で、未成熟の魔神ゴブリン・ガルザヴェインが、ゆっくりと歩いていた。




