第149話 王都は、黒い地平線を見る
その朝、王都はいつも通りに目を覚ました。
東の空は薄く白み、外壁の上にはまだ夜の冷たさが残っている。
パン屋の煙突からは、最初の煙が細く上がっていた。
石畳の通りでは、牛乳売りの少年が眠そうに荷車を押している。
市場区では、魚屋が木箱を並べ、野菜売りの女が霜のついた葉をはたいていた。
鍛冶屋の炉に火が入り、教会の鐘が朝の祈りを知らせる。
王都は、大きな生き物のように、ゆっくりと一日を始めようとしていた。
誰も、東の地平線を見ていなかった。
少なくとも、最初は。
◇
東方監視塔の老兵ボルドは、夜明け前からずっと東を見ていた。
この仕事を四十年続けている。
雨の日も、雪の日も、戦争の前も、何も起きない退屈な朝も。
見張りとは、何もないことを確認し続ける仕事だ。
若い兵は、すぐに飽きる。
だが、老兵は知っている。
何もない地平線ほど、よく見ておかねばならない。
何かが現れた時、それは必ず、最初は小さな違和感として来るからだ。
「……ん」
ボルドは、望遠鏡を目に当てた。
東の地平線が、黒く揺れていた。
雲ではない。
霧でもない。
砂煙なら、もっと薄い。
森火事なら、上へ伸びる。
だが、それは地面に張りついていた。
地平線そのものが、低く、黒く、蠢いている。
「おい、ラド」
老兵が声をかけると、隣であくびをしていた若い兵が肩を跳ねさせた。
「はい? 狼ですか?」
「覗け」
若い兵ラドは、面倒そうに望遠鏡を受け取った。
そして、覗いた。
数秒後、彼の顔から血の気が引いた。
「……何ですか、あれ」
「魔物だ」
「群れ、ですか」
「群れじゃない」
老兵ボルドは、地平線を見つめたまま言った。
「地平線だ」
ラドは言葉を失った。
望遠鏡の中では、黒い波が進んでいた。
ゴブリン。
狼型の魔物。
オーク。
角持ちの獣。
体の腐った死体獣。
巨大な虫。
空を低く飛ぶ翼持ち。
泥を引きずるような魔物。
あらゆる魔物が混ざり、押し合い、踏み合い、潰れた仲間の上を進んでいる。
そして、そのすべてが同じ方向へ向かっていた。
王都へ。
ラドの手が震えた。
「鐘を……警鐘を鳴らします!」
「待て」
老兵は、ラドの腕を掴んだ。
「なぜですか!」
「普通の警鐘じゃ足りん」
監視塔には、三種類の鐘がある。
小鐘は、野盗や小規模な魔物群。
大鐘は、城門の閉鎖や騎士団の出動。
そして、赤鐘。
王都そのものに、滅びが近づいた時だけ鳴らす鐘。
老兵ボルドは、赤鐘の縄を握った。
ラドは震える声で言った。
「本当に……赤鐘を?」
「見ただろう」
老兵は、強く縄を引いた。
赤鐘が鳴った。
一度。
王都の朝に、重い音が落ちる。
もう一度。
市場区で、魚屋の手が止まった。
さらに一度。
祈りの途中だった神官が、顔を上げた。
赤鐘は、普通の鐘とは音が違う。
低く、長く、腹の底を叩く。
聞いた者の背筋に、理由の分からない寒気を走らせる。
王都の人々は、最初、何の音か分からなかった。
だが、年寄りたちは知っていた。
赤鐘だ。
王都に、最大級の危機が迫っている。
◇
市場区では、騒ぎが最初に広がった。
「何の鐘だい?」
野菜売りの女が、隣の肉屋に聞いた。
肉屋は答えなかった。
包丁を握ったまま、東の空を見ている。
パン屋の店主が、焼き上がったばかりのパンを床に落とした。
まだ湯気の立つパンが石床に転がる。
子供がそれを拾おうとしたが、母親に腕を引かれた。
「お母さん?」
「こっちへ来なさい」
「でも、パンが」
「いいから!」
母親の声が、少し裏返っていた。
通りの端では、馬がいなないた。
荷車を引いていた馬が、何かを感じたように後ろ足で石畳を蹴る。
それに驚いた牛乳売りの少年が転び、壺が割れた。
白い牛乳が、石畳に広がる。
誰も叱らなかった。
皆、鐘の音を聞いていた。
「赤鐘だ」
老人が呟いた。
その声を聞いた者たちが、ざわめく。
「赤鐘?」
「戦争か?」
「魔物か?」
「東門だ! 東から何か来るんだ!」
誰かが走り出した。
一人が走ると、周囲も走り出す。
まだ何も見えていない。
まだ魔物の姿は王都の外壁からしか見えない。
それでも、人の恐怖は走る。
店を閉める者。
荷を放り出す者。
子供を抱えて家へ戻る者。
神殿へ駆け込む者。
騎士団詰所へ向かう者。
市場の喧騒は、一瞬で別のものに変わった。
売り声ではなく、叫び声へ。
交渉ではなく、混乱へ。
朝の王都は、目を覚ましたばかりの身体を、いきなり氷水へ突き落とされたように震わせた。
◇
王都東門の上では、騎士たちが集まっていた。
最初の報告を受けた東門守備隊長が、望遠鏡を覗く。
顔が硬くなる。
次に副官が覗く。
副官は、息を呑んだ。
「数は」
「分かりません」
「分からないとは何だ」
「見える範囲、全部です」
その言葉に、周囲の騎士たちが沈黙した。
東の平原に、黒い波がある。
それはゆっくりと動いているようで、実際には速い。
村を飲み込み、街道を埋め、森の端を削るように進んでいる。
逃げ遅れた農民らしき人影が、平原を走っているのも見えた。
だが、黒い波はすぐに追いつく。
人影は消えた。
騎士の一人が小さく祈った。
別の騎士が、思わず目を逸らした。
「鷹騎兵を出せ」
守備隊長が命じた。
「上空から規模を確認しろ。王城へ急報。ギルド本部にもだ」
「はっ!」
「市民には避難命令。東区から西区へ。東門周辺は封鎖する」
「東門を閉じますか」
「まだだ。外の村人が戻ってくる」
「ですが」
「閉じるのは最後だ!」
守備隊長は叫んだ。
だが、その声にも迷いがあった。
門を開ければ、逃げてくる者を入れられる。
だが、閉じるのが遅れれば、魔物も近づく。
人を救うために門を開けておくのか。
王都を守るために閉じるのか。
その判断が、もう目の前に迫っていた。
◇
王城では、軍務卿オルド・ヴァイゼンが寝間着のまま廊下を走っていた。
老いた男だが、足取りは速い。
赤鐘の音を聞いた瞬間、彼は事態の重さを理解していた。
「報告は!」
軍務卿が怒鳴ると、若い伝令が膝をついた。
「東方監視塔より、魔物群接近!」
「規模!」
「不明!」
「不明で報告するな!」
「数え切れません!」
軍務卿の顔が歪んだ。
数え切れない。
それは、軍務の人間が最も嫌う言葉だ。
数が分からなければ、配置が決められない。
配置が決まらなければ、守れない。
守れなければ、死ぬ。
「鷹騎兵は」
「出ています!」
「戻ったらすぐ通せ。ギルド本部長を呼べ。騎士団総長もだ。魔術師団長、神殿代表、傭兵組合長、全員呼べ!」
「はっ!」
伝令が走る。
軍務卿は廊下の窓から東を見た。
王城からでは、まだ黒い波は見えない。
だが、赤鐘は鳴っている。
そして、王都全体がざわめいている。
彼は拳を握った。
「また、何かが来るのか」
王都は長い歴史の中で、何度も危機を迎えてきた。
戦争。
飢饉。
疫病。
竜災。
迷宮暴走。
だが、赤鐘が鳴ることは滅多にない。
その滅多にない鐘が、今、朝の空に響いている。
◇
鷹騎兵が戻ったのは、赤鐘が鳴ってから半刻後だった。
正確には、戻ったというより、落ちてきた。
東の空から一羽の巨大鷹がよろめくように飛び、王城中庭へ突っ込んだ。
騎乗していた鷹騎兵は、片腕を失っていた。
鷹も片目を潰され、胸に黒い槍のような魔力傷を受けている。
中庭の兵たちが駆け寄る。
鷹騎兵は、血を吐きながら叫んだ。
「二十万!」
その場にいた者たちが凍りついた。
軍務卿が膝をつき、鷹騎兵の肩を掴む。
「もう一度言え」
「魔物群……最低でも、二十万……!」
中庭がざわめく。
二十万。
王都守備兵力の何倍か。
近隣から集められる騎士や冒険者を足しても、まともに正面から受けきれる数ではない。
「種類は」
「混成です。ゴブリン、オーク、狼型、死体獣、虫型、飛行種……統制は荒いが、流れがある」
「指揮個体は」
軍務卿が問う。
鷹騎兵は、そこで一度息を詰まらせた。
恐怖が、怪我よりも強く彼の顔に出ていた。
「ゴブリンです」
周囲の誰かが、小さく息を漏らした。
ゴブリン。
弱小魔物。
村人でも数人で倒せることがある、最下級に近い魔物。
だが、鷹騎兵は首を振った。
「違う……普通のゴブリンじゃない」
彼は、砕けた鑑定札を血まみれの手で差し出した。
札の半分は焼け落ち、残りにも亀裂が入っている。
軍務卿がそれを受け取る。
文字が残っていた。
⸻
魔神ゴブリン・ガルザヴェイン
分類:最上位ゴブリン
危険度:S
備考:未成熟
⸻
軍務卿は、しばらく動かなかった。
最上位ゴブリン。
Sランク。
未成熟。
そして、名の頭に刻まれた言葉。
魔神。
「……魔神ゴブリン」
誰かが呟いた。
その言葉が、中庭に広がる。
魔神。
ゴブリン。
その二つの言葉は、普通なら並ばない。
並んではならない。
だが、鑑定札は確かにそう示していた。
鷹騎兵は震える声で続けた。
「あいつは、こちらを見ました」
「見た?」
「鷹の上から見ていたのに……地上から、こちらを見たんです」
彼は失った腕の付け根を押さえた。
「指を向けられた。次の瞬間、腕が飛んだ。鷹も落ちかけた。あいつは……追ってこなかった」
「なぜだ」
「伝えさせたんです」
鷹騎兵の声は、泣いているようだった。
「自分が来ると。王都へ向かっていると。強い者を出せと」
◇
その日の昼前、王都全域に避難命令が出された。
東区の住民は西区へ。
外壁近くの住民は内郭へ。
商人は店を閉じ、荷物を捨ててでも移動せよ。
教会は負傷者受け入れ準備。
井戸水の確保。
食料倉庫の封鎖。
外門の段階閉鎖。
若者の多くは、何が起きているのかまだ完全には分かっていなかった。
だが、年寄りたちは分かっていた。
これは、街が逃げる時の動きだ。
石壁に囲まれた王都でさえ、逃げる準備をしている。
東区の小さな裁縫屋では、老婆が針箱だけを抱えて立ち尽くしていた。
孫娘が泣きながら言う。
「おばあちゃん、早く」
「布が」
「布なんていいから!」
「注文が残ってるんだよ」
「生きてたらまた縫える!」
孫娘が老婆の手を引く。
老婆は、最後に店の中を見た。
布。
糸。
木の椅子。
三十年使った裁ち台。
全部置いていく。
それが、戦争でも火事でもなく、まだ見えない黒い波のせいだということが、どうしても信じられなかった。
別の通りでは、父親が幼い息子を肩に担ぎ、妻の手を引いていた。
「お父さん、魔物が来るの?」
「来ない」
父親は即答した。
「騎士様が止めてくれる」
「ほんと?」
「ああ」
その声は強かった。
だが、妻には分かった。
夫の手が震えている。
彼は嘘をついている。
子供を泣かせないために。
自分自身が崩れないために。
神殿前では、人々が押し寄せていた。
「祈ってください!」
「子供だけでも中へ!」
「東の村に家族がいるんです!」
「助けは出ますか!」
神官たちは必死に人を落ち着かせようとしている。
だが、祈りの声より、泣き声の方が大きい。
鐘は鳴り続けている。
赤鐘の低い音が、王都全体を不安で包み込んでいた。
◇
夕方、王城の高塔から、ようやく黒い地平線が見えた。
肉眼でも分かる距離に、魔物の軍勢が近づいていた。
遠い。
まだ遠い。
だが、確かに見える。
地平線の一部が、黒く盛り上がっている。
動いている。
王都の人々は、西区へ避難しながら、何度も振り返った。
誰かが泣いた。
誰かが祈った。
誰かが怒鳴った。
誰かが黙って家族を抱きしめた。
そして、多くの者が同じことを考えた。
本当に止められるのか。
二十万の魔物を。
Sランクの魔神ゴブリンを。
王都へ向かう黒い地平線を。
その夜、王都の灯りはいつもより多く点いた。
眠れない者が多かったからだ。
子供たちは泣き疲れて眠った。
大人たちは眠れず、窓の外を見ていた。
騎士たちは鎧を磨き、冒険者たちは武器を点検し、神官たちは祈り続けた。
そして王城の軍議室では、まだ誰も席を立てなかった。
地図の上には、黒い石が置かれている。
魔物の軍勢。
その中心に、さらに小さな黒い石。
魔神ゴブリン・ガルザヴェイン。
王都は、その日初めて知った。
地平線とは、空と大地の境目ではない。
ときにそれは、滅びが近づいてくる線なのだと。




