第149話 ソウルは、迷宮の骨を太くする
霧灰白庭迷宮は、勝った。
黒市主は死んだ。
赫槍の灯も死んだ。
骸門牢獄の残響は迷宮の中に残り、黒い値札は灰になった。
だが、白い部屋の壁面に映る迷宮図は、勝利の美しさなど欠片もなかった。
酷い有様だった。
骸門誘導室は、ほぼ崩壊。
白磁偽財殿は壁の半分が黒く汚染。
灰白小宝庫は床が割れ、宝箱の台座も歪んでいる。
中層手前の戻り水路には、黒い檻の残滓が沈んでいた。
霧喰い大蛾ハイハネは疲れて羽を畳み、湿骨兵は三体が完全損壊。
折剣濁白騎士は片膝をついたまま動かず、泥塞門将グズも泥の肩を大きく削られている。
フィルエも、森灰観測室の床に座り込んだままだった。
命脈紋が、まだ薄く光っている。
「……勝ったが」
《はい》
「壊れすぎではないか」
《大規模戦闘でした》
「黒市主とAランクパーティを同時に喰ったのだ。壊れるのは分かる」
《はい》
「分かるが、腹立たしい」
《修復可能です》
「ソウルはあるからな」
白い部屋の床に、数字が浮かぶ。
⸻
現在保有ソウル:170,530
⸻
大きい。
今までとは桁が違う。
暁秤を喰った時も大きいと思った。
だが、黒市主は別だった。
あれは人間一人ではなかった。
複数の残響核を体に縫い込み、死んだ迷宮の器官を着た化け物。
それが迷宮内で崩れた。
そのソウルは、霧灰白庭迷宮の腹へ流れ込んだ。
だから、今ならできる。
今までできなかった改修が。
今まで後回しにしていた強化が。
今まで「足りぬ」と諦めていたものが。
「管理音声」
《はい》
「修復費を出せ」
《表示します》
⸻
緊急修復案:
骸門誘導室の汚染封鎖:20,000
骸門残響隔離層の形成:18,000
白磁偽財殿の修復:8,500
灰白小宝庫の再構築:6,400
宝物庫制御核の補修:7,300
折剣濁白騎士の再安定化:4,800
泥塞門将グズの泥核補強:3,600
帰路喰らいの落武者の影刃補修:3,200
湿骨兵の再生成十体:5,000
フィルエ命脈反動の安定補助:6,000
合計:82,800
⸻
「高い!」
《大規模損傷です》
「分かっているが、高い!」
《現在保有ソウルなら支払い可能です》
「支払えるから腹が立つ」
余は床の数字を睨んだ。
170,530。
そこから82,800を使っても、まだ87,730残る。
以前なら考えられない余裕だ。
だが、余裕がある時こそ、使い方を間違えると死ぬ。
井守も言っていた。
足元を固めろ、と。
「修復は必要だ。全部許可する」
《ソウル82,800を消費します》
《現在保有ソウル:87,730》
迷宮全体が、低く鳴った。
壊れた白磁床が、ゆっくりと閉じていく。
黒く汚染された壁には、灰色の膜が重なった。
骸門誘導室の崩れた空間は、完全に元へ戻すのではなく、厚い隔離層で包まれていく。
骸門牢獄の残響を、迷宮の奥へ沈めるための場所。
白でも黒でもない。
骨のような灰色の壁。
その奥で、黒い門の残骸が、まだ低く鳴っている。
《新規隔離区画を形成》
《名称を設定してください》
「骸門残響隔離層」
《骸門残響隔離層、登録》
白い部屋の壁面に、新しい区画が浮かんだ。
骸門残響隔離層。
そこは、迷宮内にあるが、迷宮と完全には繋げない。
残響核隔離室と同じ思想だ。
だが、規模はずっと大きい。
小鐘泥廟の残響核とは違う。
骸門牢獄は強すぎる。
うっかり繋げれば、霧灰白庭迷宮の内部に黒い牢獄が芽生えかねない。
「ここは開けるな」
《承知しました》
「研究はする。だが、繋げない」
《はい》
「絶対に、夜棺白庭とは近づけるな」
《夜棺白庭との接続を禁止設定》
夜棺白庭の奥で、白磁の棺は静かなままだ。
ヴェルグレイヴは眠っている。
それでいい。
骸門牢獄の残響と古血を近づけるなど、考えただけで嫌な予感しかしない。
「フィルエ」
「うん」
「命脈補助を入れる」
「いらない」
「いる」
「まだ動ける」
「動くなと言っている」
「でも」
「これは命令だ」
フィルエは、少しだけ不満そうに黙った。
命脈補助が森灰観測室へ流れ込む。
戻り水を薄く混ぜた灰色の光。
白磁床の冷たさを抑え、森のマナに近い形へ変換したもの。
フィルエの背の命脈紋が、少し落ち着いた色になる。
「……楽になった」
「最初からそう言え」
「ロードがうるさいから」
「余は心配しているのだ!」
言ってから、少し黙った。
フィルエも黙った。
それから、彼女は小さく笑った。
「うん。知ってる」
「……ならよい」
白骨書記が、すぐに帳簿へ書き込む。
⸻
フィルエ:重要契約者
命脈補助:有効
ロード:心配性
⸻
「最後を消せ」
白骨書記は、消さなかった。
なかなか頑固だ。
だが、有能なので許す。
「次だ」
《追加施設の構築候補を表示します》
白い部屋の床に、新たな候補が並んだ。
⸻
追加候補:
一、宝物庫中枢補助核
効果:宝箱生成、報酬品管理、取得記録処理を高速化
必要ソウル:18,000
二、霧喰い大蛾育成温室
効果:霧喰い大蛾卵群の孵化安定、追跡粉強化
必要ソウル:12,000
三、湿骨兵舎
効果:湿骨兵の待機、修復、宝箱警備性能向上
必要ソウル:9,500
四、偽値札工房
効果:迷子札、墓銭札、偽価値札の生成効率上昇
必要ソウル:11,000
五、残響音響室
効果:残響核の音解析、マネの残響声真似訓練
必要ソウル:10,500
六、泥塞門列
効果:泥塞門将グズが遠隔で小型泥門を複数形成可能
必要ソウル:14,000
七、帰路標識迷路
効果:帰路喰らいの落武者と連動する偽帰路区画
必要ソウル:16,000
八、白骨書記室
効果:白骨書記の記録速度上昇、複数台帳生成、侵入者分類自動化
必要ソウル:6,500
⸻
「全部欲しい」
《合計ソウル:97,500》
「足りないではないか!」
《現在保有ソウル:87,730》
「なぜだ!」
《全部欲しがるためです》
くそ。
大きなソウルを得たと思ったのに、欲しいものを全部並べると足りない。
迷宮運営とは、どこまでも腹が減るものらしい。
「優先順位をつける」
《推奨します》
「まず、宝物庫中枢補助核」
《理由は?》
「今の霧灰白庭迷宮は、宝で人間を呼んでいる。宝物庫が詰まれば全部止まる」
《適切です》
「次に、霧喰い大蛾育成温室」
《理由は?》
「ハイハネの粉は外部追跡にも使える。卵をまた盗まれても困る」
《適切です》
「次に、偽値札工房」
《理由は?》
「黒市主は死んだが、闇市は残る。迷子札と偽値札は今後も使う」
《適切です》
「残響音響室も必要だ」
《マネの訓練用ですね》
「そうだ。黒市主は死んだが、骸門牢獄の残響は残った。今後、音で扱う必要がある」
《適切です》
「白骨書記室も必要だ」
白骨書記が、かた、と顎を鳴らした。
気のせいか、嬉しそうに見える。
「有能だからな」
白骨書記は、帳簿に小さく書いた。
⸻
評価:有能
⸻
「自分で書くな」
残るは、泥塞門列と帰路標識迷路と湿骨兵舎。
どれも欲しい。
だが、今回は全部は無理だ。
「湿骨兵舎は後回し」
《よろしいのですか》
「湿骨兵は今でも使える。重要だが、緊急ではない」
《はい》
「泥塞門列も後回し」
《グズの拡張です》
「欲しい。非常に欲しい。だが、今は宝物庫と外部工作が先だ」
《はい》
「帰路標識迷路も後回し」
《帰路防衛強化です》
「欲しい。だが、帰路喰らいはまだ動ける。今は骸門の隔離と記録が優先だ」
《判断を確認しました》
「購入する」
《購入対象:宝物庫中枢補助核、霧喰い大蛾育成温室、偽値札工房、残響音響室、白骨書記室》
《合計ソウル:58,000》
「許可」
《現在保有ソウル:29,730》
どっと減った。
170,530あったソウルが、修復と追加施設で一気に29,730まで落ちた。
数字を見ると、心臓に悪い。
心臓はないが。
「……減ったな」
《大型改修を行いました》
「分かっている」
《迷宮基盤は大幅に強化されます》
「そうでなければ困る」
迷宮の奥で、五つの新しい施設が生まれた。
◇
まず、宝物庫中枢補助核。
白い部屋から少し離れた宝物庫制御域に、小さな白灰の核が浮かんだ。
コアではない。
ロードの核ではない。
ただ、宝物庫機能を補助するための小核。
正式宝箱の記録。
報酬品の劣化防止。
迷子札や墓銭札の混入。
取得者の分類。
それらを、これまでより速く処理できる。
《宝物庫中枢補助核、稼働開始》
床に表示が走る。
⸻
宝箱生成効率:上昇
報酬品管理精度:上昇
取得記録処理:上昇
鑑定返し補助:可能
偽価値情報の生成:可能
⸻
「よし」
次に、霧喰い大蛾育成温室。
浅層奥の霧溜まりが、別の部屋へ拡張された。
床は柔らかい灰。
天井には白磁花粉を少しずつ落とす管。
壁には戻り水を通さない薄膜。
中心には、霧喰い大蛾の卵群。
その近くに、ハイハネが止まっている。
羽をゆっくり広げ、霧を食べている。
《霧喰い大蛾育成温室、稼働開始》
《卵群の孵化安定率、上昇》
《追跡粉品質、上昇》
ハイハネが羽を震わせた。
ふぁさ。
マネがすぐに真似る。
「ふぁさ」
「お前は霧喰い大蛾ではない」
「お前は霧喰い大蛾ではない」
「分かっているなら言うな」
次に、偽値札工房。
そこは小さな黒い工房だった。
白磁の机。
灰霧のインク。
黒い札を干すための糸。
迷子札、墓銭札、偽価値札を作る場所。
白骨書記が興味深そうに入っていき、すぐに帳簿へ書き込む。
⸻
偽値札工房:管理対象
白骨書記、部分担当可能
⸻
「勝手に担当するな」
《白骨書記は適性があります》
「まあ、あるだろうが」
次に、残響音響室。
ここは、他の部屋と少し違った。
壁には小さな鐘。
床には灰色の反響板。
中央に、小鐘泥廟の残響核と同じ音を再現するための黒い器。
もちろん、本体の残響核は隔離室から動かさない。
音だけを取り出し、ここで反響させる。
マネは、その部屋を見た瞬間、目を輝かせた。
「ゴォン!」
いきなり鳴いた。
部屋が共鳴する。
ごん。
ごぉん。
ごぉぉん。
微妙に違う音が返る。
マネは嬉しそうに跳ねた。
フィルエは嫌そうな顔をした。
「うるさくなりそう」
「必要なうるささだ」
「うん……必要なのは分かる」
《残響音響室、稼働開始》
《マネの残響声真似訓練が可能になりました》
《残響核の音解析が可能になりました》
「マネの新技能はまだか」
《訓練が必要です》
「訓練しろ、マネ」
「訓練しろ、マネ」
「真似るな」
最後に、白骨書記室。
これは一見地味だった。
白磁の棚。
骨板の帳簿。
黒いインク壺。
侵入者ごとの記録棚。
宝箱取得者の分類棚。
死亡者素材の分類表。
ゴブリン食害記録棚。
最後の棚だけ、妙に大きい。
「なぜゴブリン食害記録棚がそんなに大きい」
《必要と判断されました》
「……否定できん」
白骨書記は、その部屋に入ると、明らかに動きが速くなった。
骨筆が二本に増えた。
片方の手で侵入者台帳を書き、もう片方で宝物庫記録を書く。
器用だ。
《白骨書記室、稼働開始》
《記録速度、上昇》
《侵入者分類、自動化開始》
《死亡素材分類、効率上昇》
《ゴブリン食害監視、強化》
「素晴らしい」
白骨書記が、かた、と顎を鳴らした。
そして、帳簿に書いた。
⸻
評価:非常に有能
⸻
「自分で書くなと言っている!」
◇
大改修が終わった頃、白い部屋は少し静かになった。
いや、実際には静かではない。
新しい施設が動き始めた音がする。
宝物庫補助核の低い鼓動。
育成温室の霧音。
偽値札工房で札が乾く音。
残響音響室でマネが練習する音。
白骨書記室で骨筆が走る音。
霧灰白庭迷宮は、確実に変わった。
ただのAランク迷宮ではなくなってきている。
宝を置く迷宮。
帰路を喰う迷宮。
残響核を隔離する迷宮。
闇市へ札を流す迷宮。
死んだ迷宮の音を学ぶ迷宮。
余は、白い部屋の中央で、ゆっくりと息を吐いた。
「管理音声」
《はい》
「今の保有ソウル」
《現在保有ソウル:29,730》
「ずいぶん減った」
《はい》
「だが、迷宮の骨は太くなった」
《はい》
「ならよい」
フィルエが森灰観測室から出てきた。
顔色は少し良くなっている。
命脈補助が効いたのだろう。
「ロード」
「何だ」
「次は、少し内側を見た方がいい」
「内側?」
「骸門残響隔離層。あれ、放っておくと勝手に形を作る」
「もうか」
「うん。黒市主の背だったものだから、閉じ込める癖が強い」
白い部屋の壁面に、骸門残響隔離層が映る。
灰色の壁の奥。
黒い門の残骸。
その周囲に、細い檻の線が生えかけている。
まるで、迷宮の中に小さな牢獄が芽吹こうとしているように。
「……やはり次の問題はこれか」
《骸門牢獄残響の自律形成反応を確認》
「止めるか」
《完全停止には追加ソウルが必要です》
「利用は」
《可能ですが、危険です》
余は少し笑った。
「危険ばかりだな」
《はい》
「だが、黒市主を倒した戦利品だ。捨てるには惜しい」
フィルエが、少しだけ呆れたように言う。
「また危ないものを使おうとしてる」
「使えるなら使う」
「暴れたら?」
「閉じ込める」
「それ、相手も閉じ込めるの得意な残響だよ」
「……面倒だな」
だが、それでこそ面白い。
余は骸門残響隔離層を見た。
黒市主は死んだ。
赫槍の灯も死んだ。
だが、彼らが残したものは、まだ迷宮の中で動いている。
それをどう飼い慣らすか。
それが次の仕事だ。
白骨書記が、すぐに新しい項目を書いた。
⸻
次期重要課題:
一、骸門残響隔離層の管理
二、残響音響室でのマネ訓練
三、霧喰い大蛾育成
四、偽値札工房による闇市追跡
五、ゴブリン食害防止
⸻
「五番目を消せ」
白骨書記は、消さなかった。
むしろ、太くした。
⸻
五、ゴブリン食害防止
⸻
「……まあ、重要ではある」
余は諦めた。
霧灰白庭迷宮は強くなった。
ソウルも使った。
新しい施設も増えた。
だが、やることは減らない。
むしろ増えた。
だからこそ、迷宮は面白い。
「よし」
余は、白い部屋の中央で宣言した。
「しばらくは内側を整える」
《承知しました》
「宝も置く。罠も直す。魔物も育てる。骸門残響も閉じ込める」
《はい》
「そして、外の人間どもには、いつも通り来てもらう」
《はい》
「死にたい者には、相応の場所を用意してやる」
霧灰白庭迷宮の奥で、五つの新しい施設が動き始めた。
宝の音。
骨筆の音。
蛾の羽音。
偽札が乾く音。
そして、遠くで鳴る黒い門の残響。
余は笑った。
「さて」
次は、外ではない。
内側だ。
黒市主から奪った骸門牢獄。
その残響が、余の迷宮の中で何を生やすのか。
確かめねばならない。




