第143話 卵は、孵る前から盗まれる
白骨書記は、思ったより有能だった。
いや、かなり有能だった。
白磁の骨。
黒い指先。
背負った骨板の帳簿。
そして、こちらが命じる前に勝手に記録を取る几帳面さ。
白い部屋の床には、すでに白骨書記が書いた項目が並んでいる。
⸻
現在保有ソウル:29,470
新規配備:
白骨書記:一体
湿骨兵:十体
霧喰い大蛾卵群:孵化待機
要監視:
ゴブリン群
マネ
赤錆噛みの餌場
霧喰い大蛾卵群
闇市由来の迷子札流通
最重要注意:
ゴブリンに卵を食わせないこと
⸻
「最後の項目、太く書くな」
余は白骨書記を見た。
白骨書記は、かたかた、と顎を鳴らした。
そして骨筆で、さらに太く書いた。
⸻
最重要注意:
ゴブリンに卵を食わせないこと
⸻
「だから太くするなと言っている!」
《記録内容は適切です》
「管理音声まで認めるな!」
霧喰い大蛾の卵は、浅層奥の霧溜まりに置いてある。
灰白の霧を吸い、白磁花粉を少しずつ取り込み、影縫い大蜘蛛の糸で包まれた卵群だ。
卵は全部で十二個。
ひとつひとつが、人間の頭ほどある。
表面は灰色で、白い粉を吹いている。
中では、まだ孵っていない蛾が、時折ゆっくり羽を動かす。
この卵が孵れば、浅層の霧運用は一段変わる。
光を食う。
霧を濃くする。
冒険者の服に追跡粉を付ける。
白磁花粉罠と混ぜれば、視界だけでなく方向感覚も狂わせられる。
だから、大事だ。
非常に大事だ。
そして、当然ながら、うちのゴブリンどもはそれを食おうとした。
「なぜ卵を見ると食おうとする」
《食物に見えるためです》
「霧喰い大蛾だぞ。将来の戦力だぞ」
《ゴブリンには理解困難です》
「理解しろ!」
霧溜まりの前では、湿骨兵が三体立っている。
湿った骨。
泥を纏った肋骨。
白磁片の盾。
彼らはゴブリンが近づくたびに、無言で首根っこを掴んで引き戻す。
一匹のゴブリンが、じたばた暴れた。
「ギ! ギギ!」
湿骨兵は無言で持ち上げた。
そのまま、卵から遠い場所に置いた。
ゴブリンは少し考え、また卵へ向かった。
湿骨兵が再び掴んだ。
「……同じことを何度もするな」
《ゴブリンですので》
「ゴブリンで片付けるな」
フィルエが森灰観測室から笑っている。
「楽しそう」
「楽しくない。管理が大変なのだ」
「でも、迷宮っぽい」
「ゴブリンが卵を食おうとするのがか?」
「うん。強い迷宮でも、そういうところは変わらないんだなって」
「変われ!」
余が叫んだ、その時だった。
白骨書記が骨筆を止めた。
顎を、かた、と鳴らす。
そして、床へ新しい文字を書く。
⸻
外縁部に小型反応。
数:三名
通常冒険者ではない。
熱反応低。
足音軽。
目的推定:採取ではなく窃取。
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「窃取?」
《盗みです》
「それくらい分かる!」
白い部屋の壁面に、外縁の映像が映る。
三つの影。
小さい。
子供ではないが、体格は軽い。
革鎧ではなく、ぴったりした黒布。
足には柔らかい靴。
腰には小さな鉤。
背中には丸い筒。
正規冒険者ではない。
墓銭拾いとも少し違う。
「また闇市か」
《外部情報照合》
《対象推定:卵狩り》
「卵狩り?」
《魔物卵、幼体、巣材を盗む専門の闇市系採取者です》
「……」
余は霧喰い大蛾の卵を見た。
そして、外の三人を見た。
「まさか」
《霧喰い大蛾卵を狙っている可能性があります》
「なぜ卵の情報が出た!」
《補充日生還者による目撃情報に、霧の中に大きな蛾の卵があった、という噂が含まれています》
「生還者め!」
《生還者は噂を育てます》
「余の卵まで育てるな!」
フィルエの声が低くなった。
「ロード。あれは止めて」
「ああ。卵は渡さん」
「霧喰い大蛾、孵る前に盗られると危ない。外で育てられたら、迷宮の霧を真似される」
「最悪だな」
宝箱は盗ませた。
墓銭札を仕込んだ。
闇市を覗くために。
だが、卵は違う。
卵は戦力だ。
迷宮の未来の一部だ。
渡す理由がない。
「今回は逃がさん」
《全員討伐方針ですか》
「一人だけ生かす。卵を盗もうとした者がどうなるか、闇市へ知らせる」
《見せしめですね》
「そうだ」
白骨書記が、すぐに帳簿へ書いた。
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卵狩り対処方針:
二名処分。
一名返却。
卵窃取への警告として利用。
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「返却と書くな。人間を荷物のように」
《適切な表現です》
「否定しづらいのが嫌だな」
◇
三人の卵狩りは、入口を避けた。
正面から入らない。
白い箱にも、灰白採取物にも目をくれない。
浅層入口の牙跡も、泥滑りも、ゴブリンの声も、全部無視した。
彼らは、横の斜面を使った。
森の根を伝い、霧の薄い場所から、浅層奥の霧溜まりへ直接近づこうとしている。
人間が通る道ではない。
だが、小柄で身軽な卵狩りには通れる。
「そこは道ではないぞ」
《外壁側の自然隙間です》
「塞げ」
《完全封鎖には時間がかかります》
「なら、通してから閉じる」
《承知しました》
三人は無言だった。
互いに声を出さない。
手振りだけ。
一人目は、黒い筒を持つ女。
二人目は、細長い針を持つ男。
三人目は、背中に卵袋らしき柔らかい包みを背負う少年めいた者。
フィルエが言った。
「真ん中の男、卵を眠らせる針を持ってる」
「見えるのか」
「針の先に眠り胞子。薄灯茸穴のものとは違う。外の闇市製」
「うちの卵に刺させるな」
「うん」
三人は霧溜まりへ近づく。
そこには、湿骨兵がいる。
だが、卵狩りは湿骨兵と正面から戦わない。
黒筒の女が筒を開けた。
中から、淡い緑の煙が出る。
湿骨兵の骨にまとわりつく。
湿骨兵の動きが鈍る。
「何だ」
《骨湿りを一時的に乾かす粉です》
「湿骨兵対策まで持っているのか」
《死体運搬系魔物への闇市対策品と思われます》
「腹立たしいな!」
湿骨兵が一歩遅れる。
その隙に、針の男が卵へ近づく。
霧喰い大蛾の卵が、灰色に脈打つ。
まだ孵らない。
まだ戦えない。
針が近づく。
「影縫い大蜘蛛」
《糸、展開》
天井から糸が落ちる。
だが、卵狩りの女がすぐに粉を投げた。
糸が白く濁り、重くなって床に落ちる。
「影糸対策もあるのか」
《はい》
「闇市は本当に嫌なものを売る」
針の男が卵へ手を伸ばす。
その瞬間、霧溜まりの床がわずかに揺れた。
湿骨兵ではない。
ゴブリンでもない。
白骨書記だ。
いつの間にか、霧溜まりの端へ来ていた。
白骨書記は、骨板の帳簿を開く。
そこに、かりかりと文字を書く。
⸻
卵接触禁止。
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その文字が、白い光になって床へ走った。
針の男の足元に、白骨の文字が浮かぶ。
男は反射的に足を止めた。
止まっただけだ。
だが、その一拍で十分だった。
湿骨兵の一体が動き、針の男の腕を掴んだ。
「っ!」
男は声を出さない。
自分の腕を捨てようとした。
短剣で肘を切ろうとする。
ためらいがない。
だが、湿骨兵は腕ではなく、針を持つ指を砕いた。
骨が折れる音。
針が落ちる。
「よし」
《卵眠らせ針、無力化》
「その男は殺せ」
《湿骨兵、処理》
湿骨兵が、男を霧溜まりの床へ押し倒す。
戻り水が薄く流れ、男の足を絡める。
影縫い大蜘蛛の残った糸が首へ巻く。
男は最後まで声を出さなかった。
静かに死んだ。
《卵狩り一名、死亡》
《獲得ソウル:380》
低い。
だが、構わない。
目的はソウルではない。
卵の防衛だ。
黒筒の女が男を見捨てた。
当然のように。
卵袋を背負った少年めいた者に合図する。
そいつが一気に卵へ走った。
速い。
狙いは、一番外側の卵。
抱えて逃げるつもりだ。
「霧喰い大蛾の卵、孵化までどれくらい」
《通常孵化まで、推定二日》
「待てない」
《強制孵化は可能ですが、未成熟個体になります》
「一体だけでいい。孵せ」
《対象卵、一個を強制孵化》
霧溜まりの一番奥の卵が、大きく脈打った。
灰色の殻に、亀裂が入る。
卵狩りが足を止める。
殻が割れた。
中から、湿った羽が出る。
まだ小さい。
本来の霧喰い大蛾より未熟だ。
だが、十分だった。
灰色の大蛾が、初めて羽を広げる。
その羽が、霧を吸った。
周囲の霧が一瞬薄くなり、次の瞬間、羽から濃い灰霧が吐き出される。
卵狩りの視界が消えた。
「来た」
フィルエが言った。
「霧喰い大蛾、初動成功」
大蛾が羽ばたく。
音は小さい。
だが、粉が舞う。
追跡粉。
白灰の細かな粉が、卵袋の少年の服に付く。
黒筒の女にも付く。
逃げても追える。
「片方は殺せ。片方は帰す」
《どちらを帰しますか》
「黒筒の女だ。道具持ちを帰す。対策が破られた話を持ち帰らせる」
《卵袋役は?》
「殺す」
少年めいた卵狩りは、霧の中で卵へ手を伸ばした。
その手が、空を掴む。
霧喰い大蛾の羽ばたきで、卵の位置を見誤っている。
足元には、戻り水。
背後には、湿骨兵。
上には、白骨書記が書いた文字。
⸻
窃盗失敗。
⸻
「文字で煽るな、白骨書記」
《白骨書記、戦闘記録中》
「まあよい」
湿骨兵が卵袋役の背中を槍で突いた。
深くはない。
だが、動きが止まる。
そこへ霧喰い大蛾が羽を閉じるように覆いかぶさった。
食うのではない。
霧で包む。
卵狩りの呼吸が乱れる。
方向感覚が消える。
自分がどちらを向いているのか分からなくなる。
そのまま、湿骨兵が首を折った。
《卵狩り一名、死亡》
《獲得ソウル:420》
残る黒筒の女は、もう逃げていた。
速い。
仲間二人を見捨て、卵も諦め、道具の一部も捨てている。
だが、服には追跡粉が付いている。
霧喰い大蛾の粉。
今のところ、本人は気づいていない。
「追うな」
《追跡粉付着中》
「逃がせ」
《承知しました》
黒筒の女は、外へ転がるように逃げた。
入口も通らない。
来た時と同じ横道を、命からがら抜ける。
その背に、白灰の粉が薄く光っていた。
◇
霧溜まりは静かになった。
湿骨兵が死体を引きずる。
白骨書記がすぐに帳簿を書く。
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卵狩り侵入記録:
侵入者:三名
死亡者:二名
逃亡者:一名
獲得ソウル:800
損耗:
湿骨兵一体、乾燥粉により軽度損傷
影糸一部劣化
霧喰い大蛾卵一個、強制孵化により未成熟化
取得物:
卵眠らせ針
骨湿り乾燥粉
卵袋
闇市製の霧除け布片
現在保有ソウル:30,270
⸻
「ソウルは少ないが、得たものは大きいな」
《はい》
「霧喰い大蛾は」
灰色の大蛾は、霧溜まりの壁に止まっていた。
羽はまだ湿っている。
体も小さい。
だが、確かに生きている。
羽をゆっくり動かすたび、周囲の霧が濃くなったり薄くなったりする。
《未成熟個体。戦闘力は低いですが、霧操作と追跡粉付与は可能》
「名は?」
《個体名を設定しますか》
少し考えた。
初めて孵った霧喰い大蛾。
未成熟だが、卵狩りを退けた。
霧を食い、霧を吐く。
「ハイハネ」
《霧喰い大蛾個体名:ハイハネ、登録》
ハイハネは、聞こえたのか分からないが、羽を一度だけ震わせた。
フィルエが言った。
「かわいい」
「かわいいか?」
「うん」
「蛾だぞ」
「迷宮の子っぽい」
そう言われると、少し悪くない気がした。
「白骨書記」
白骨書記がこちらを見る。
「霧喰い大蛾卵群の警備を強化。湿骨兵は常時三体。ゴブリン侵入禁止。卵狩り対策を追加。乾燥粉を浴びた湿骨兵の修復手順も記録しろ」
白骨書記は、かりかりと書いた。
⸻
霧喰い大蛾卵群:最重要育成資源
警備:湿骨兵三体、影糸二重、白骨書記巡回
禁止:ゴブリン、墓銭拾い、卵狩り、好奇心の強い魔物
⸻
「最後は誰のことだ」
《複数候補があります》
「言わなくてよい」
霧溜まりの外で、マネがハイハネの羽音を真似していた。
「ふぁさ、ふぁさ」
「お前は卵に近づくな」
「お前は卵に近づくな」
「本当に近づくな!」
◇
逃がした黒筒の女は、闇市へ戻るだろう。
卵は盗めなかった。
仲間二人は死んだ。
霧喰い大蛾は、孵った。
湿骨兵は動いた。
白骨書記は戦闘に介入した。
それらを伝える。
闇市は、次にもっと厄介な道具を持ってくるかもしれない。
だが、それでいい。
こちらも得た。
卵眠らせ針。
乾燥粉。
霧除け布。
闇市製の卵袋。
これらを解析すれば、次は対策できる。
「管理音声」
《はい》
「逃亡者の追跡粉は」
《継続中》
「どこへ向かっている」
《闇市とは別経路。小規模な卵取引場の可能性》
「卵専門の市場か」
《推定》
「……人間社会はどれだけ汚い市場を持っているのだ」
《多数と思われます》
「全部見つける必要があるな」
フィルエが静かに言った。
「ロード。これ、面白くなってきたね」
「面白いというより、面倒だ」
「でも、迷宮の外にいろんな餌場がある」
「餌場」
「うん。闇市。卵市場。死体市場。宝市場。全部、人間の欲でできてる」
余は黙った。
確かに。
霧灰白庭迷宮は、これまで侵入してくる人間を喰ってきた。
だが、宝を置いたことで、迷宮の外にも線が伸びた。
闇市。
墓銭拾い。
卵狩り。
黒市主。
サナギ。
残響核。
迷子札。
追跡粉。
それらが、外の餌場を見せ始めている。
「つまり、余の迷宮は、外にも罠を伸ばせる」
《限定的には可能です》
「よし」
余は笑った。
これは新しい。
ただ待つのではない。
ただ入ってきた者を殺すのでもない。
宝を持たせ、札を貼り、粉を付け、逃がす。
そして、外の欲の巣を見つける。
「ハイハネ」
霧喰い大蛾が羽を動かした。
「お前の粉は使える」
ハイハネは、ふぁさ、と羽を鳴らした。
マネがすぐ真似た。
「ふぁさ」
「お前は黙れ」
「お前は黙れ」
白骨書記が、帳簿に新しい項目を書いた。
⸻
新規外部目標:
卵取引場
闇市中層倉庫
黒市値踏場
黒市主の本拠
骸門系残響核
⸻
余はその一覧を見下ろした。
Aランク迷宮になった。
冒険者を喰った。
宝を置いた。
闇市を見た。
そして今、外の市場がいくつも見え始めている。
ワクワクしていないと言えば嘘になる。
だが、それ以上に、腹が空く。
「次は、卵市場を見る」
余は言った。
「余の卵に手を出そうとした連中だ。値札を付ける前に、こちらが値踏みしてやる」
霧溜まりで、ハイハネが羽を広げた。
灰白の粉が、外へ逃げた女の背中で、かすかに光っている。
その光の先に、新しい人間の欲がある。
余は、白い部屋の中央で笑った。
「さあ、案内しろ。卵泥棒」
霧灰白庭迷宮の目が、また一つ、外へ伸びた。




